荒木村重の妻・だし のこと

2014-06-08 07:45:17 | うんちく・小ネタ
このところ、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の影響で、有岡城(伊丹城)が一躍注目されているようです。
このブログにも、連日、たくさんのアクセスを頂くようになり、内心驚いています。(有難うございます!)

ちなみに、JR伊丹駅(前回まででお話ししたように、有岡城の本丸跡の中心にあたります)の改札を出て、
北へ200メートルほど歩いたところに阪神運転免許更新センターがあります。
そのため、兵庫県の東南部に住む人は、3年か5年ごとに運転免許の更新で、必ず有岡城本丸跡の地を踏んでいるのです。
その行き帰りには、大規模な土塁や空堀の遺構も視界に入ってきます。
しかし、そこが城跡だと知っていたのは、地元の人を除くと、ある程度の歴史好きの人に限られていたんじゃないでしょうか。
有岡城跡は、少し前まではそうした存在でした。



B95
  <JR伊丹駅前の城址碑>




しかし、歴史を紐解いてみれば、

・荒木村重の栄光と挫折、やがて謀叛へ。 
・村重に帰順を説くも、幽閉される黒田官兵衛。 
・信長軍の攻撃を頑強に阻む有岡城、しかし次第に孤立無援に。
・そして、家族も家臣団も見捨てての村重の逃亡劇。
・残された村重の家族や家臣団の悲劇的な末路。

これほど様々な人間ドラマに満ち溢れた城跡も珍しいかもしれません。



B94
  <史跡公園となった本丸跡北西部には、大勢の見学者が(2014年6月撮影)>




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「だし」、・・・・ちょっと変わった名前?


さて、ここでもう一人、有岡城をめぐる人間ドラマの中で、気になる人物がいます。
荒木村重の妻・だし です。

だし は大変な美人だったそうです。
当時の史料には、その評判の高さが記されています。


「きこえ有る美人なり」 (『信長公記』)

意訳:有名な美人である。

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「一段美人にて、い名は今楊貴妃と名づけ申候」 (『立入左京亮入道隆佐記』)

意訳:一段と美人で、楊貴妃の再来との異名で呼ばれた。

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だし は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、桐谷美玲さんが演じました。
桐谷さんは時代劇は初出演だそうですが、だし という戦国の世を生きた女性の役作りを考えた末に、
「容姿だけでなく、心の持ち方など内面も美しい女性」
「強い責任感を持ち、どんな状況でも自分の考えを発信できる女性」
という結論に至ったそうです。
だし の最期のシーンは特に好演でした。

なお、刑場の露と消えた だし の年齢は、
『信長公記』は21歳、『立入左京亮入道隆佐記』は23歳と記しています。
だし は、京都の街中を引き廻された後、六条河原の刑場で車から下ろされると、着物の帯を締め直し、髪を高々と結い直し、華やかな小袖の襟を後ろへ引いて、少しも取り乱すことなく首を斬られたそうです。 (『信長公記』)


  *****


ところで、この 「だし」 という名前ですが、これは実名ではありません
当時の史料には、 「だし」 について次のように記されています。

「城の大手の だし におき申女房にて候故、名をば だし 殿と申候」 (『立入左京亮入道隆佐記』)

意訳:有岡城の表側の<だし>と呼ばれる場所に住む女房なので、名前を「だし殿」と呼ばれていた。


この時代、高貴な女性は、おそれ多いとして実名をあまり表に出されることはありません。
大名の妻の場合は、敬意を込めて、城内の住んでいる場所にちなんで「○○殿」と呼ばれました。
たとえば、徳川家康の正室は、岡崎城の西の「築山御殿」(おそらく、築山を持つ優雅な庭園があったのでしょう)に住んだので「築山殿」と呼ばれました。
豊臣秀吉の側室となった茶々は、淀城に住んで「淀殿」、後に大坂城二の丸に移り「二の丸殿」と呼ばれました。
また、秀吉の側室の中でも最高の美人と言われた京極龍子は、後に伏見城の「松の丸」に住んで、「松の丸殿」と呼ばれるようになりました。

荒木村重の妻は、「だし殿」として史料に名を残していますが、実名は残念ながら不明です。
先に挙げた『立入左京亮入道隆佐記』の続きの記述に、「ちょぼ」という女性の名が出てきます。
これを「だし殿」の実名だとする解釈もありますが、いかがでしょう。
「ちょぼ」ではあまりに庶民的で、大名の妻の名前では無いように思うのですが・・・。


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「だし殿」が住んだ場所はどこ?


では、有岡城内で「だし殿」が住んだ場所の特定は可能でしょうか?
手がかりは、その名の由来になった<だし>と呼ばれる場所です。

お城の中で<だし>と呼ばれるのは、本丸や大手門などの重要地点の防御を強化するために、外に突き出すように築かれた曲輪のことです。
たとえば、下の写真のような形をしています。

B217
 <参考史料 : 丹波篠山城復元模型>


永禄12年(1569)に織田信長が京都に築いた二条城(将軍・足利義昭の居館)にも、<だし>が築かれていたことが当時の史料に記されています。
お城の防御施設の<だし>は、江戸時代になると、「出丸(でまる)」とか「馬出(うまだし)」という呼び方が一般となり、こんにちに至っています。

それでは、有岡城に、該当しそうな場所が無いか探してみましょう。
これは、江戸時代の寛文9年(1669)に描かれた伊丹郷町の地図です。

Photo


既に城跡となった有岡城が描かれています。
本丸の南側(画面左側)に接続する区画には、「二之丸」という書き込みがあり、さらに「金之間」とも書かれています。

この「二之丸」は、有岡城の本丸南側の防御を強化する形で築かれています。
江戸時代の地図では分かり難いのですが、近年の発掘調査によって本丸から堀を隔てて、外に突き出すように築かれていたことが確認されています。
また、「金之間」という書き込みからは、この地にかつて華麗な御殿が存在したことが想像されます。

この場所は、現在のJR伊丹駅の南西方、現在、荒村寺(こうそんじ)が建っているあたりになります。
(ちなみに、この荒村寺。お寺の名前は、荒木村重にちなみます。)

あくまで仮説ですが、「だし殿」が住んだのは、この辺りではないでしょうか?









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