中津城を歩く <宇都宮鎮房、無念の最期>  ~ 軍師官兵衛ゆかりの城 �-2 ~

2014-09-14 19:33:12 | うんちく・小ネタ
中津城  なかつじょう  (大分県中津市)



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中津城の本丸跡です。
奥まった一角に、うっそうと森のように木が茂った場所があります。
ここには、城井神社(きいじんじゃ)、扇城神社(せんじょうじんじゃ)という2つの小さな神社が祀られています。

天正16年(1588)4月、築城工事が進む中津城において、凄惨な暗殺が行われました。
黒田長政謀略を用い、宴会に招いた宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)を殺害したのでした。

これらの神社は、宇都宮鎮房とその家臣たちを供養するために建てられたものです。



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Photo

城井神社には、宇都宮鎮房が祀られています。




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扇城神社には、鎮房とともに討ち果たされた宇都宮氏の家臣たちが祀られています。





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<確執の始まり>


天正15年(1587)7月、黒田官兵衛・長政父子は、豊臣秀吉から与えられた豊前国6郡の新領地に入りました。
石高にすると12万石強あり、播磨国山崎の旧領から一躍3倍の加増です。
しかし、この領地を統治するにあたって、先ず解決しなければならない課題がありました。

元々、豊前国6郡には統一勢力は無く、中小規模の領地を持つ豪族たちが割拠していました。
秀吉が九州へ兵を進めると、ほとんどが戦わずその軍門に降りました。
そして、引き続きそれぞれの領地を治めることを承認されていたのでした。

その上で秀吉は、豊前国6郡を官兵衛に与えたのです。
これは、決して秀吉の方針がブレたわけではありません。
秀吉の天下構想では、平定した地方は秀吉が任命した大名に統治させるというのが大前提でした。
戦国時代以来の中小規模の豪族たちは、大名の家臣に組み込まれることで、武士としての存続が認められました。

つまり、官兵衛が与えられた12万石は、「やった、増収だ!」と手放しで喜べるものではありません。
まず、この地方に割拠する中小規模の豪族たちを黒田家臣団に組み込むこと。
そして、領民の端々にまで秀吉の支配体制を浸透させること。
このノルマを達成して、晴れて12万石の大名になれるという課題付きの報酬でした。
これは諸刃の剣の大変厳しい課題です。

同じ時期、肥後国を与えられた佐々成政は、豪族たちの反抗を抑えるのに失敗しました。
その結果、大規模な一揆が勃発。
成政は、毛利氏にまで援軍を要請して何とか一揆を鎮圧しましたが、責任を問われ領地は没収、切腹させられました。


さて、官兵衛の豊前国6郡ですが、やはり豪族たちの説得に苦心したようです。
その一方で、好意的に家臣になって協力してくれる豪族も居ました。
官兵衛はよほど嬉しかったのか、後に黒田姓を与えて一門として待遇した者もありました。

しかし、ここに一筋縄では行かない人物が登場します。
豊前国の城井谷(きいだに/現・福岡県築上郡築上町)に城を構える宇都宮鎮房です。




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<戦闘、そして和睦>



鎮房の宇都宮氏は、その名の通り下野国(現・栃木県)の豪族の末裔です。
文治3年(1187)、宇都宮信房が源頼朝から豊前国内で地頭職を与えられ、城井谷に居館を構えました。
さらに信房は、豊前国各地に一族・子弟を配置ました。
その一門が、戦国時代まで勢力を保ちます。
そして、秀吉の九州平定を迎えた当主が宇都宮鎮房で、城井谷の奥の大平城(おおひらじょう)を居城にしていました。



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宇都宮鎮房については、実は史料が非常に少なく、後世に書かれた物語をベースに語られることが多いのです。
よく言われるのが、

「鎮房は、秀吉から伊予国の今治に領地替えを命じられたが、それを拒んだ。
その結果、領地を没収されてた。
一時は城井谷を退去するも、再び戻って挙兵した」

という挙兵までの経緯です。

しかし、いかに鎌倉時代以来の名族だからといって、秀吉は九州平定に何の戦功も無い宇都宮氏をいきなり大名に抜擢するでしょうか?
また、秀吉が実際に伊予国へ配置した大名は、加藤嘉明や藤堂高虎など、後に朝鮮出兵で水軍として活躍した武将たちです。
水軍に無縁な山間部の豪族・宇都宮氏を伊予国に領地替えしようと考えていたというのは甚だ不自然です。
私は、「伊予国に領地替え」の話は後世につくられた物語と考えています。

それはともかく、天正15年(1587)10月、宇都宮鎮房は官兵衛に反抗し、大平城で挙兵しました。
鎌倉時代以来の一門たちも共に兵を挙げました。
城井谷は全長17キロメートル、奥の大平城へ至る途中には、多くの出城や砦が構えられていたようです。
ここに攻め込んだ黒田長政は、反撃に遭い敗退、後藤又兵衛も重症を負いました。

しかし黒田勢には、毛利勢の大軍が援軍に加わりました。
城井谷入り口の要衝であった広幡城も落城。

城井谷を徐々に制圧した黒田勢は、大平城の間近に付城(攻撃のための拠点となる城)を築きました。
そして、年末近くになって、宇都宮鎮房はこれ以上の抗戦は不可能と判断、人質を出して官兵衛と和睦しました。


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<だまし討ち>


天正16年(1588)4月、宇都宮鎮房は長政から宴会に招かれ、中津城を訪れました。

宴会というのは偽りで、長政は最初から鎮房を殺害し、禍根を絶つつもりでした。
従えてきた家臣たちの多くが城下の合元寺で待機させされ、鎮房と共に登城した家臣はわずかでした。
そんな状況で襲われた鎮房は、あえなく白刃の下に斃れたのでした。






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現在の合元寺です。
この寺は、珍しいことに赤い壁をしています。

鎮房が殺害された後、ここで待機していた家臣たちも押し寄せた黒田勢に斬殺されました。
その時に飛び散った地が壁を赤く染め、以後、何度塗り直しても血の色が染み出してくるので、壁そのものを赤くしたと伝わっています。


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また、屋内の柱には、その乱闘の際の刀傷が今も残っているそうです。



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