伊賀上野城  <もうすぐ桜だより2014 ②>

2014-04-01 23:28:21 | まち歩き
桜前線、順調に北上中です。
東京では、開花から4日で満開になったとか・・・。

ところで、春は人事異動の季節でもありますね。
今回は、それにもチョッピリ話をからめて、このコーナーの第2回目を行ってみましょう。


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伊賀上野城  いがうえのじょう  (三重県伊賀市)



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伊賀上野城は、天正13年(1585)に筒井定次(つつい さだつぐ)が築いたお城です。

筒井氏は、もとは奈良の興福寺に仕えた国人領主でした。
戦国時代末期、畿内に進出してきた織田信長に従い、大和一国を支配する大名に成長します。
信長の死後は豊臣秀吉に従いました。

大坂城を拠点とした秀吉は、大和国を大坂の東の備えとして重視します。
そこで、筒井氏を大和国から伊賀国に移し、大和国は新たに異父弟の秀長に与えました。
こうした「玉突き人事」の結果、誕生したのが伊賀上野城でした。
伊賀上野城には、大坂城の東の最前線を守るという役割が与えられました。

秀吉の死後、今度は徳川家康に政権が移り、再び大名の配置替え・・・つまり、人事異動が行われます。
そんな中、慶長13年(1608)に筒井定次は、失政を理由に領地を没収されてしまいました。
家康の本音は、単に筒井氏の存在が目障りだったのでしょう。
そして、代わりに伊賀国を与えられたのは、家康の信任が厚い藤堂高虎(とうどう たかとら)でした。

高虎は、慶長16年(1611)より伊賀上野城の大改修に着手しました。
改修というよりも、新規の築城というにふさわしい大規模な普請でした。
その目的は、大坂城攻撃の拠点の一つとするため。
伊賀上野城の役割は、まるで正反対のものとなったのでした。

高虎は伊賀上野城の本丸を西側へ拡張し、高さ28メートルの高石垣を築きました。
また、筒井氏時代の三層天守に代わるシンボルとして、新たに五層天守の建造を始めました。

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これが本丸西側の高石垣です。
大坂城本丸東側の石垣(高さ30メートル)に次いで、日本で二番目の高さを誇る石垣です。


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しかし、伊賀上野城の工事は遅々として進みませんでした。

まずは、財政的な問題です。
高虎の領地は、伊賀国(10万石)の他に、隣接する伊勢国内でも10万石を与えられていました。
あと、四国は伊予今治に2万石の飛び地があり、当時は合計22万石を領する大名でした。
その中で、本拠地は伊勢国の安濃津(あのつ / 現在の三重県津市の中心街一帯)と定め、津城を築城中でした。
つまり、津城と伊賀上野城の二つの城の工事を同時進行中で、さすがに財力的に無理があったようです。

また、とても忙しかった・・・。
高虎の名は、築城術の大家として鳴り響いていたので、家康からあちこちのお城の工事の責任者を任されます。
江戸城、名古屋城、伏見城、二条城、丹波亀山城、篠山城・・・
もちろん、家来たちをごっそり引き連れて家康の命じた築城現場に向かうので、その都度伊賀上野城の工事は、
中断を余儀なくされたことでしょう。

さらには、運も悪かった・・・。
苦労の末に、ようやく形になりつつあった伊賀上野城のシンボル・五層天守が、台風で倒壊してしまいます。

そうこうしているうちに、大坂冬の陣が勃発し、高虎も大坂に出陣。
翌年の夏の陣で豊臣氏は滅亡。
豊臣氏が滅亡したので、これ以上の軍備は必要なしということで、伊賀上野城の工事は打ち切られました。

すなわち、伊賀上野城は未完成の名城なのです。


 ・・・それにしても、人もお城も、ざまざまな運命に振り回されるものですね。




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桜の伊賀上野城を訪ねて


  <撮影:平成20年(2008)4月6日>


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伊賀上野城に建つ模擬天守です。
昭和10年(1935)、地元出身の代議士が、町のシンボルとして資財を投じて建てました。

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五層天守が建てられるはずだった天守台の上に、三層の模擬天守が建っています。
敷地が余るので、天守台の周囲に土塀をめぐらせています。 


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ここに来たら、ぜひ日本で二番目に高い石垣の上から、内堀を見下ろしてみましょう。
(柵が無いので、高所恐怖症の方にはオススメしません・・・)


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天守は模擬ですが、最上階から見るのどかな伊賀盆地の眺望は、なかなか魅力的です。




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