志波城を歩く。  ~ 古代ニッポンの全国統治の過程が見える大規模城柵 ~

2014-07-27 18:00:29 | まち歩き
志波城  しわじょう    (岩手県盛岡市)



志波城は、平安時代初期の延暦22年(803)、朝廷が坂上田村麻呂に命じて築かせた城柵(じょうさく)です。

城柵とは、古代の律令国家が、いまだ支配下に組み込まれていなかった本州東北部(現在の新潟県と、東北地方6県)を統治するために設置した行政府(役所)です。
外周を築地塀や材木塀で囲んで国家の威信を示すとともに、蝦夷(えみし)と呼ばれていた元からの住民たちの攻撃に備える構造となっていました。
これらの行政府は、当時の文献に「○○城」あるいは「○○柵」の名称で記されているので、歴史学上では城柵と言っています。



 *****


B63


志波城は、城柵の中で最も北に位置し、和我(わが)・稗縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の三郡を統治していました。
(これは現代の岩手県の和賀郡、稗貫郡、紫波郡に相当し、佐賀県や香川県よりも広い地域です)

また、同時に2000名の兵士が駐屯する基地でもありました。

築地塀で囲まれた外郭は、一辺840メートル四方。
さらに、その外側を一辺930メートル四方の外大溝が囲っていました。
城柵として、最大級の規模を誇るものです。


しかし、築造後しばしば洪水に遭ったことから、弘仁3年(812)、南へ約10キロメートルの地点に徳丹城(とくたんじょう)を築き、行政機能を移転しました。




 *****


B43

志波城は、長らくその所在が分からなくなっていました。
昭和52年(1977)から昭和54年(1979)にかけて、盛岡市教育委員会が「太田方八丁遺跡」の発掘調査を行った結果、城柵の中心建物である正殿や西脇殿、西門、南門などの跡を検出。
そこが志波城の跡であることが明らかになりました。

昭和59年(1984)9月、国史跡に指定。

平成9年(1997)、南門や築地塀など、外郭南側の遺構群が復元されるとともに、「志波城古代公園」として一般開放が開始されました。


 *****


それでは、志波城を歩いてみましょう。



B52

外大溝に架かる橋から見た外郭南門(がいかく みなみもん)です。
外郭南門は、志波城の正門にあたります。

柱間が5つあり、中央に扉を開く「五間一戸」(ごけんいっこ)の壮大な門です。
城柵の門では最大級の規模です。




 *****


B111

外郭を廻る築地塀は、高さ4.5メートルです。

築地塀に沿って、約60メートルごとに櫓が上げられています。
これらの櫓は、平時には見張り台として、有事には矢を射掛ける防御施設として機能するものです。




 *****


B21

築地塀の旧状を、生け垣で表示した部分。

ずっと向こうに、復元された築地塀と外郭南門が見えます。
一辺が840メートルという、かつての壮大な規模をうかがうことが出来る面白い工夫です。




 *****


B112

それでは、外郭南門から中へ入ってみましょう。




 *****


B86

外郭南門の正面に立つと、奥に政庁南門(せいちょう みなみもん)が見えます。




 *****


B114

発掘調査の結果、これら二つの門の間には、幅18メートル、長さ230メートルの道があったことが分かりました。
南大路と名づけられ、再現されています。



 *****


B123

政庁南門は、8本の柱から成る「八脚門(やつあしもん)です。




 *****


B233

政庁の南東側には、官衙(かんが = 役所)の建物が一棟、復元されています。


 *****

政庁跡に入ってみましょう。

政庁は、中央北寄りに正殿(せいでん)を南向きに建て、東西に東脇殿、西脇殿を向かい合わせて配置していました。
これは、都の大極殿・朝堂院を簡略にしたものです。

まさに政庁は、天皇の権威を帯びつつ政務・儀式を行う神聖な空間でした



それでは、政庁跡の南東隅に建って、西から北、そして東へと全貌を見渡してみましょう。



B146

左側が、政庁南門です。


 *****


B148

左奥に見える門は、西門です。
広場の中央からやや右手(北寄り)に正殿の跡があります。

遠くに望む岩手山の景観は、当時と変わらないでしょう。


 *****


B152

東門です。


 *****


B176

東門から見た西門です。
ともに、4本の柱から成る四脚門です。








最新の画像もっと見る

コメントを投稿