姫路城に残る秀吉・官兵衛、活躍の軌跡。<姫路城を歩こう・後編> -「軍師官兵衛」ゆかりの城⑤-

2014-03-09 23:42:48 | まち歩き
姫路城 ひめじじょう  (兵庫県姫路市)


 
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さて、姫路城のシンボルと言えば、やはり五層の大天守ですね。



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五層の大天守は、渡櫓で三層の小天守と結ばれています。
小天守は、3つあります。
向かって右から、西小天守、乾小天守 ・・・・



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そして、左端の東小天守です。
大小4つの天守が並び立つ姿から、この形式を「連立式天守」(れんりつしきてんしゅ)と呼びます。

これらは全て、江戸時代初期に姫路城主となった池田輝政によって建てられたものです。
しかし、秀吉時代の姫路城天守とは、決して無縁では無いのです。



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天守台の石垣です。
石垣の上部は、13間×10間の広さがあり、大天守一階を載せています。

昭和の大修理の時、この石垣の中には、もうひとつの天守台が存在することが明らかになりました。
秀吉時代の天守台です。
石垣上部の広さは8間半×7間と推定されています。

池田輝政は、秀吉の天守台を包み込むように新たな石垣を築き、さらに大規模な天守台としていたのです。
秀吉が築いた天守台は、まさに「縁の下の力持ち」として、現存する国宝天守を支えているのです。



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さて、天守台の石垣をぐるりとめぐってみましょう。
写真は、東小天守と乾小天守を結ぶ、「ロの渡櫓」の石垣です。

この石垣の中に、ひとつだけ金網で保護された石があります。


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この石を「姥が石」(うばがいし)と言います。
実体は、石臼(いしうす)です。
石臼が石垣に組み込まれた背景として、こんな伝承があります。

・・・ 秀吉が姫路城の大改修に着手した頃。
姫路の城下町に、焼いた餅を売って暮らしている貧しいお婆さんがいました。
そんなある日のこと。
お婆さんは、秀吉が石垣用の石集めに苦労していると耳にしました。
心優しいお婆さんは、使っていた石臼を寄付しました。
その評判はたちまち広がり、播磨中からたくさんの石が集まって、立派な石垣が完成しました・・・。

なかなか面白い伝承です。
ただし、この部分の石垣は技法的に見て、秀吉ではなく池田輝政によって築かれたものです。
それはともかくとして、伝承が「石垣造りの姫路城は、秀吉の大改修によって誕生した」とする点は、史実の通りで興味深いです。



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「姥が石」の近くに、もうひとつ興味深い遺構があります。
この土壁むき出しの土塀は、「油壁」(あぶらかべ)と呼ばれています。
秀吉の時代か、あるいはそれ以前の塀とも言われています。

この塀は、木材で仮設の枠を作った中で粘土を突き固め、少しづつ築き上げたものです。
この技法は、古代以来のもので版築(はんちく)といいます。
10~20センチメートルほど盛った粘土を、10分の1程度に圧縮するまで突き固めます。
まさにコンクリートなみの頑丈さです。

姫路城から程近い、播磨国分寺の遺跡でも版築の遺構が検出されています。
この地に伝承された古い技法で構築したのでしょうか。

もしかすると、黒田官兵衛もその日常で、見慣れていた土塀なのかも知れません。



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