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丹波市春日町「つわものどもが夢の跡~黒井城と直正~」特別展と「郷土資料館」

2020-01-14 11:14:59 | お出かけ・兵庫県 丹波市

おはようございます

 

    いいお天気ですが下り坂です、、

 

昨日もお出かけ日和の快晴暖かいいいお天気でした~

そこで、日曜日の朝刊に載っていた ポスター丹波市「春日歴史民俗資料館」へ

丹波市役所に駐車して

すぐ右手に

「郷土資料館」

左に

残念ながら撮影禁止!でしたが・・・

『「丹波の赤鬼」と恐れられた直正は、天正3(1575)年から始まった明智光秀の丹波攻めで一度は光秀を敗走させたが、

戦のさなかに病に倒れ、同6(1578)年に死去。翌年、黒井城は落城した。』

約80点が展示されて、直正が使っていたと伝えられる槍や書状、黒井城下の絵図、織田信長・光秀の肖像画に光秀の書状など

書状は現代文に訳されて展示されていたので、解りやすくて戦国時代のやりとりの様子が理解できました。

 

黒井城の歴史

 黒井城の歴史は、赤松貞範(則村の二男)が建武2年(1335)丹波国氷上郡春日部荘を与えられ、山頂に簡素な城を築いたことから始まるといわれる。赤松氏の後は早くから対立関係にあった荻野氏が城主となり、荻野正元・荻野秋清らが在城したが、天文23年(1554)一族の荻野直正が秋清を倒して入城し、悪右衛門と称した。
 直正は、赤井一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか天田郡・何鹿郡を制して丹後・但馬にも勢力を拡大した。今日にも見る黒井城の遺構の大半は、この時期に改修・構築したものであろう。城主荻野直正は、元亀元年(1570)織田信長より丹波奥三郡の安堵をうけたにもかかわらず、天正初年以降、逆にこの黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じた。
 天正6年(1578)直正は病死し、その子直義の後見として直正の弟幸家が一族を指揮したが、天正7年(1579)8月9日ついに落城、光秀の丹波攻略は完了した。
 氷上郡一帯の統治のため、黒井城に入ったのが光秀の重臣斎藤内蔵助利三で、利三は下館を陣屋とし、領内の治安と復興に力を注いだが、この陣屋で利三の末娘として生まれたのが、お福・後の春日局と伝承されている。
(丹波市HPより)

 

その後、へ・・・

「郷土資料館」では、先人たちの生活用具、農具など・・・

初めて見る農具があって、感心したり納得したり・・・見て回った後がちょうど昼食タイム

取り合えず、おなかを満たしてから

「黒井城跡」へ行くことに!(頂上が本丸!)

 

登っていく自信がないけれど、せめて登山口まで!と!行ってきました~

そのことは、またのちほどに・・・