今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

「ゆれくる」では地震があった?

2020年07月30日 | 防災・安全

今朝のんびりとテレビを見ていたら、緊急地震速報が発令された(震源は房総沖だが、愛知にも発令)。

急いで情報が一番早いと定評のスマホアプリの「ゆれくる」を開いた。→地震速報はどこが早いか

するとすでに、関東一円に震度分布が出ていて、震源に近い房総半島の先では震度5強。

東京でも千代田区が震度5弱で、その周囲は震度4になっている。

震度5弱だと、物的被害が発生し始める。

ちなみに東日本大震災を起こした東北地方太平洋沖地震の時の東京は震度5強で死者3名。

かたずを呑んだ。

だが、生番組のモーニングショー(港区六本木)では、揺れはまだ来ないと言い続け、静穏な江ノ島海岸を中継している。

ゆれくるの分布では、すでに関東で地震が起きたはずなのに。

急いで、東京宅に電話をかけた。

しばらくして出た母によると、まったく揺れていないという。
私を同じ番組を観ていることが、聞こえてくる音声でわかる。

ふたたび「ゆれくる」を開いたら、先ほどの画面は消えていて、関東からはるか離れた鳥島近海でM5.8の地震を示していた。
もちろん、本州での揺れは表示されていない。

さっきのあの関東一円の地震分布はなんだったんだろう(情報源は気象庁)。

それにしても今回の「ゆれくる」は反応が早すぎる。

これでわかったことは、震度分布って、実際に揺れた値ではなく、その前に作成されていたこと。


18きっぷで帰名:2020夏

2020年07月28日 | 

勤務先の大学はまだ夏休みでないが、月末の火曜は会議がないので、「青春18きっぷ」でゆっくり帰名する。

例年なら世間は夏休みなので、熱海行きの快速アクティのグリーン車は満席で、名古屋までの鈍行の車内は”18きっぱー”たちで混んでいるのだが、今年は違う。

まず快速アクティのグリーン車はガラガラ。
普通車もガラガラなので、あえてグリーン車に乗る価値もない。

いつもなら上野駅で弁当を買って、グリーン車の二階席で弁当を食べるのだが、今回は、ホームで駅蕎麦を食べ(立ち食いのスペースにアクリル板で仕切り)、普通車のボックス席を一人で陣取る。

終点の熱海では、三両編成の JR東海の鈍行に、例年ならどっと乗り換え客が殺到するののだが、今回は数人だけ。

終点の静岡まで乗らず、その手前の興津で始発の豊橋行きに乗り換えるのが18きっぱーなのだが、そうしたのは私以外に3名ほど。

車内は、地元の人でそれなりに席は埋るが(高校生も多い)、彼らは終点までは乗り通さない。

豊橋でまた快速に乗り換え、名古屋市内の金山で中央線に乗り換えて、千種で 降りるが、このあたりは仕事帰りの通勤客で車内はぎっしり。

コロナの影響で減ったのは18きっぱーなどの観光客だけだった。

乗り換えはあるものの6時間座りっぱなしで、読書が進んだ。
そう18きっぷの旅は、読書にいい。
冷房に長くあたるので、長袖が必要。


4連休最終日に出歩く

2020年07月26日 | 東京周辺

梅雨末期の雨と重なった4連休。
本当なら東京オリンピックの開会とも重なっていたはず…。

 実はその前半の2日間は、勤務先の大学は授業日。
ただし遠隔のオンデマンド授業で、出勤する必要はないため、GoToから除外された東京宅ですごした。

もちろん東京発の旅行には行けないし、行く気にもなれない。
第一、オンデマンド授業は教材作りにかなりの時間を要し、また配信後も学生からの問合せなどのために待機を要する。

といっても、4日間も在宅し続けるのも辛いので、
最終日の本日、不安定な天気の合間を縫って、肥えた体のカロリー消費のために、自宅からの格好のの散歩コース「谷中七福神」ルートを往復した。

観光客で混む谷中銀座(名物のメンチカツを買う)、そして閑散とした谷中霊園を抜け(五重の塔跡の公園で休憩)、東京芸大脇を通って、金ぴかの東照宮に立ち寄って、折り返し点の不忍池の弁財天(ここは正しくも仏教寺院)で、御姿を買う(500円)。

歩いていてまず気づくのは、先日の浅草もそうだったが、施設側の人はもちろんのこと、通行人もほぼ100%マスク姿であること。
3月頃よりもマスク着用率が高い。
もちろん、あの頃はマスクが供給難だったため、したくてもできない人がいて、いまはたっぷり供給できているという違いもあるが、今は第二波襲来中ということもあり、普通の都民は決して油断していないことがわかる。
つまり、日常生活圏内では、感染の危険はなく、感染が起きているのは、特別の飲食・3密空間といえる(そこで感染した人が、自分の生活空間でひろめることになる)。

帰りは不忍池に沿って進み、「ホテル水月鴎外荘」の前を通る。
森鴎外の旧宅を含むこの老舗温泉旅館には、以前から泊ってみたいと思っていたが、その機会を得ないまま、今年6月に閉館となった。
コロナ禍による、経済の落ち込みの深刻度がここに表現されている。

GoToに東京は除外されているから、今夏の東京は厳しくなるなぁ。
かといって、不特定多数の人が飲食する空間は、感染の危険が高いので(東京に来て地元にコロナを持ち帰る人って概してこのパターン)、どうしても行きづらい。
もっとも、私が今年になって3度も泊った中津川の定宿のように、きっちり感染対策をしている宿も多いはず。

そういう先をきちんと見極め、行く側も油断しなければ、もっと出歩いていいと思う。
そう思いながら、2時間の往復散歩を終えた。
その間私は、歩いている間はマスクを顎にずらし、寺院内など人と接する空間では口と鼻を覆った。


開眼夢というものを見た

2020年07月25日 | 心理学

 ここ連日、読書中に、覚醒していながら、夢を見て、その夢が非現実でヘンなので、
読書している意識で、今のはなんだったのか、と思うことを体験している。

その内容は読書とは無関係で、知らない人物が登場して、音声を伴っている。
覚醒して開眼しているので、読書中の居眠りとも違うし、意識コントロールできない内容なので能動的イメージ化(空想)とも違う。

読書中に眠りに陥って夢を見ることは珍しくない。
ただ、それ自体が意識(システム2)の質的変性現象なので、
少なくとも目覚めた後は、睡眠に陥って夢を見ていたと判明する。
なので、これとは違う。

今回の覚醒中の夢体験は、今までにはなかった。
これはいわば、覚醒時の幻覚体験なので、いよいよ脳に異常がきたかと心配したが、
「白昼夢」(Day Dream)っていう単語があるくらいメジャーなのだから、
自分がたまたま経験しなかっただけで、世間的には珍しいことではないのかもしれない。

ただ国語辞典での「白昼夢」は、能動的表象も含まれていて、この項目の執筆者自身が体験してそうにない記述なので、心理現象の説明とはなっていない(国語辞典はそれで仕方ない)。
また、この名称だと、論理的に昼寝や午睡中の夢も含まれてしまう。
言い換えれば、この文学的名称しかないということは、心理学ではまともに扱われてこなかった証拠だ。

ならば、まずは心理学的名称が必要だ。
覚醒夢、これだと覚醒の定義が問題になる。
開眼夢、こちらの方が行動的説明ですっきりしているので、これにしよう
(文学的余韻に欠けるが、それをそぎ落としたいのだから仕方ない)。

さてこの開眼夢は、まさに開眼しているので、開眼中の視野(私の場合は本の書面)と夢の映像が二重写しになる。
これが読書中に眠った夢と異なり、それと明確に区別できるポイントでもある。

たとえば、この記事を読んでいる読者は、今”モナリザ”の絵を思い浮かべてほしい。
すると、この画面(視覚像)とモナリザのイメージ(表象)が二重写しになっているはず。
映像体験的にはこれに近い。
ただ、開眼夢の鮮明度は、イメージ表象(想像)よりも鮮明で視覚像に近い。

異なるのは、夢の一種なので自我にとっては現実の世界体験と同じく、受動的で制御不能な点だ。
一方、睡眠中(レム睡眠)の夢と異なるのは、ストーリー展開がなく、動画にして数シーンで終ってしまうこと(入眠時の浅いノンレム睡眠の夢だから)。
すなわち、この開眼夢自体が短時間の気まぐれな現象といえる。

今まで、私にとって、「夢見」は、睡眠を前提にしていた。
ところが覚醒中でも夢見が可能なことを経験してしまうと、夢見という現象の捉え直しが必要となる。
夢見は睡眠だけでなく、覚醒とも両立可能だから。
すなわち夢見は、覚醒・睡眠に付属しない、それらと並立できる第3の意識状態ということになろうか。
ちなみに、夢見は無意識現象ではなく、覚醒時とは異なる意識現象(システム2)とするのが私の立場。

さらにこの開眼夢と能動的表象との中間といえる現象として、小説を読んでいて、そのシーンが表象像として書面の文字よりも前面に出てきて、まるで映画を観ているようなリアリティに満ちた体験をすることがある。
文字を視覚処理しているはずなのに、意識はそれを飛ばして(文字の視覚像が消えて)、文字に基づいて変換された表象像の方がありありと体験している。
考えてみれば、これも不思議な現象だ。

こう考えると、能動的表象から睡眠中の夢に至る、脳内イメージ化現象は、
意識制御の度合いに幅広いバリエーションがありそうだ。

なぜなら、視覚経験の現場は、目ではなく、脳だから、
目(網膜)に映っていないものを見ることができるのだ。
しかもそれが現実と見まがうくらいリアリティをもって体験することがある。

これを極端に推し進めていくと、覚醒して体験していることも、もしかしたら開眼夢であって、夢と同じ脳内再生の表象かもしれない。
と、話が”唯識”っぽくなっていくが、
私は決して荘子の”胡蝶の夢”方向に先走ることはしない。
実際には、夢とリアルな世界体験の区別はできているから。
※:夢の中で蝶になっていたというこの話はいかにも作り話。なぜなら夢の世界側はファンタジックであっても、夢見の主体は覚醒時と連続した自我(システム2)であって、自己同一性は保たれているから。私も空を飛ぶ夢は見るが、あくまでこの自分のままで空を飛ぶ。ちなみに『荘子』自体、作り話に満ちている。


物語を超えて

2020年07月22日 | 心理学

心理現象はできるだけ、自分の多重過程モデルで論じたい。

前回の半沢直樹の記事、すなわち人は物語を求めている、というのは日常的なシステム1・システム2による社会心理現象。

人間の心の可能性を追求する多重過程モデルに立つと、そういう通俗レベルで満足したくはない。

空の雲が何かの形に見えたり、左右対称のインクの染みで作られたロールシャッハテストの図版がいろいろなものの形態に見えたりするのが人間で、不確かな形態を完全な形態に補う(意味を付加する)知覚作用は、生存的に意味がある(薮に隠れた猛獣をきちん見分ける)。

ただ、過剰な意味づけは、主観の投影であり、対象の真の認識から遠のいてしまう。

この世には、過剰な意味付けで成立している妄想体系が、さも神秘思想の顔をして、人々をその意味地獄に招こうとしている(時間と財産が吸い取られる)。
物語を求める人ほど、その欲求ゆえに、この陥穽にはまりやすい。

これらは、システム2の言語体系(論理的辻褄合わせ)で作り上げられたものにすぎないことは、一段上に立てば見えてくる。

現代芸術が、人々に求めているのは、既存のパターン化された意味づけの慣習から、対象を解き放つことにある(だから、あえてワケのわからぬようにしてある)。

キュービズム絵画や無調性音楽のように、ゲシュタルト崩壊をあえて経験させることで、対象との先入観のない出合い直しの機会が与えられる。

強迫的な意味づけ習慣からの脱却、それによる意味付与以前の純粋経験への立ち戻り。

無意味をおそれないこと。

ロールシャッハの図版が何かおどろおどろしいものの姿ではなく、「ただの込み入ったインクの染み」に見えること。

この段階が、システム3(現象学、マインドフルネス)である。

娯楽としての物語は、感動を経験できるからそれでいい。
だが、あらゆることに物語性(意味)を貼り付けないこと。

通俗レベルの意味の解体によって、今まで無視されてきた新しい意味が開示される(付与するのではない)。
そこから再出発することがシステム3だ。

そして人知を超えた新しい意味世界の扉が開かれる。
それがシステム4(トランスパーソナル)だ。

先走ってしまった。

まずは、日常で作動している直感のシステム1や思考のシステム2から、それらを停止するシステム3の作動を可能にするといい。
半沢直樹を観ていない時に、とりあえずは10分でもいいから、瞑想すること(作動し続けているシステム1とシステム2を停止すること)をお勧めする。


”半沢直樹”を観る意味

2020年07月20日 | 作品・作家評

7年も待たせた、半沢直樹の第3クルーがやっと昨日(7/19)放映された。

私はとっくの昔に出向後の原作『ロスジェネの逆襲』を読んでいて、原作があるのだからドラマ化も間近だと思っていたら、こんなに月日がかかった(第2のクルー最終回→家族で観た半沢直樹)。

7年のブランクは大きすぎ、TBSもビジネスチャンスを棒に振ったかと思ったが、ブランクを忘れさせてくれた(視聴率22%〕。

我々はなぜ「半沢直樹」を観るのか。

水戸黄門的勧善懲悪のカタルシスも確かにあろうが、それだけではない。

むしろ彼に振りかかる尋常でないストレスが問題。
普通の人間なら、くじけてしまうストレスを、周囲の力を借りて見事に振り払う。
このドラマを見ていると、今、自分が抱えている仕事のストレスなんて、たいしたことないと思えてくる。
そういう活力、元気を与えてくれるのがありがたいのだ。
日曜の晩の放映というのも価値があり、元気に月曜を迎えられる。

そもそも、われわれ人間は、物語を求めている、
物語性の前には、フィクションか事実かという違いは問題でなくなる。
だから、フィクションに完璧なリアリティは求めていない(重箱の隅をつつく批判は無意味)。

仮に事実であっても、(アカの)”他人の事実”は、所詮自分にとっては、”お話し”の1つであって,フィクション(物語)との違いにほとんど意味はなくなる。

言い換えれば、他人の事実は、”物語”としての価値によって評価される。
物語性のない”事実”なんて、つまらない日常と同じで、屁みたいなもの。

単なる事実よりも、事実性の背後にある真実(本質)にこそ反応するためだ。

実際、物語性のあるフィクションの方が、どれだけ感動するか。
感動こそが、自分の心を深く彫琢し、自分を変えていく、すなわち実質的な意味がある。
だからこれからも、物語が廃(スタ)ることはない。


浅草寺ご本尊の御姿

2020年07月19日 | 東京周辺

梅雨の合間の貴重な晴天(雲量的には曇り)の今日。
家(東京宅)にいるのがもったいないので、都バスで浅草に行った。

六区前でバスを降りると、すぐに浅草演芸場の通りに達する。
インバウンド頃並みではないが、それなりに人出があり、浴衣姿(若い女性)の観光客が目につく〔京都と同じくレンタルなんだろうな)。

通り沿いは、外にテーブルを出した居酒屋が並び、昼間からジョッキ片手に楽しい飲み会風景。
仲間と居酒屋で飲み食いしながら談笑するって、ホントに楽しいよな(自分には最近なくなった)。
飲食なのでさすがにマスクは外しているが、屋外なので、感染予防的には、問題はないか。

以前よりは格段に人がまばらな仲見世に出て、浅草寺の本堂に向う(右写真)。
写真にあるように、通りを歩く老若男女、皆マスクをしている。

以前は、本堂周囲に屋台村ができていたが、いまはそれがないこともあって、こちらも人がまばら。

本堂には、参拝の列ができていて(横に拡がればいいのに)、先頭の若い人が、堂々と神社式の拝礼をしている。
最近つとに目にするようになったので、この問題については、1つ前の記事にして、ネット検索できるようにした→1コ前の記事

さて、私は、朱印収集にはまったく興味ないが、仏像好きということもあり、御姿はほしい。
自宅から都バス一本で行ける浅草寺には幾度も来ているが、御姿をゲットしていなかった。
今日の目的はこれ。

ところが、本堂下の販売所にも、本堂中の販売所にも、見本の列に御姿がない。
あえて、販売所の人に尋ねてみた。
すると、奥から、御姿の大(200円)と小(100円)をもってきた。
大はA4の高さなのに200円、て安すぎ(1000円してもおかしくない)。
迷わず大を買った(右画像)。

なぜ御姿が見本として掲示されていないのか。
本尊が秘仏だから、御姿もおおっぴらにしたくないのか。
でも、口頭で求めれば、こうして普通に販売してくれる。
こういうこともあることを知った。
なので、こういうことに関心ある人用に情報提供のつもりでこの記事を書いた。

ついでに、隣の浅草神社に行き、そちらでも恵比寿様の御姿を求めた(500円、これが相場)。

浅草には観光客が多いが、浅草寺と仲見世だけでなく、花屋敷や演芸場・劇場、さらには隅田川の遊覧船などを含めると、一日つぶせる観光地だといえる。
飲食の店も豊富にあるし。


お寺での参拝の仕方:二拝二拍手一拝でない

2020年07月19日 | 作法

おことわり:この記事はわがブログの読者向けではなく、ネット検索用にアップするものです。

最近、参拝者の多いお寺(仏教寺院)に参拝に行くと、

二拝二拍手一拝の神社式拝礼を、自信たっぷりと、ご本尊の前でやる人(しかもいい歳した人)が少なからずいて(場違いの拍手の音が響き渡り)、とっても悲しくなる。
日本文化の断絶に直面した思いがして。

こういう人の家には、仏壇はなく、親族の法事に参加する(社会的学習の)機会を得なかったようだ。

でも、初詣や祭礼で神社には行くのだろうな。

神社に行くと、拝殿の前に上の参拝の仕方が書いてある。
そして、お寺には書いてない。

上野の清水観音堂(寛永寺)には、神社式の柏手(かしわで)を打つ人の多さに見かねて、
ここでは手を打たないことと、仏式のやり方が日本語で(日本人向けに)書いてある。

仏式の拝礼は、とても簡単。
ただ心を込めて合掌するだけ。
回数を数える動作がない分、雑念なしに心を込めることができる(逆に言えば、神式の拝礼って異なる動作をそれぞれ頭で回数を数えるので身体運動的)
さらに読経(念仏・題目)や礼文(らいもん)、本尊の真言(マントラ)を唱えたらなおよし。
そして一礼。
その後、(余裕があったら)焼香するのが正しい。

そもそも、神社での拝礼も、神仏習合だった江戸時代は、合掌だったようで、→神仏習合での来拝の仕方
現代の神式の作法は、明治の神仏分離以降にでき上がった。

仏前で神式の拝礼をあえてする人は、信念で神式を貫いてるわけではなかろう。
そういう信念の人が、寺に参拝することはないはずだから。

やはり、仏式拝礼そのものを知らないためだ。
おそらく、キリスト教会ではやらないと思う(いや、そのうち「同じ”神様”だから」と解釈してやってしまうかも)
ということは、神社のように、お寺がそれを教示するしかない。
すでに”常識”ではなくなっているのだ。


三浦半島の異臭で気になること

2020年07月18日 | 防災・安全

先月に続き、7月17日に三浦半島で異臭騒ぎが起きた。
これが自然現象だったら怖い。
地殻変動が起きているようだから。

私が今一番恐れているのは、コロナウイルスでも、梅雨末期の大雨でもなく、
南海トラフの巨大地震だ。
政府(中央防災会議)の予想で、死者32万人にも達する史上最大の大災害の恐れがあるから。
そしてその危険は、着実に迫っている。

三浦半島には活断層もあるが、先端部の三崎・城ケ島側は相模トラフ(関東大地震の震源)に近い。
相模トラフは、フィリピン海プレートの先端部で、ここだけが本州に深く入り込んでいる。
入り込んでいるその真上に伊豆半島(元は火山島だった)と富士山がある。

さらにその沈み込みの先に、活動が活発化しつつある浅間山(火山警戒レベル2)があり、
また群発地震が続いている上高地付近がある(震源域近くに焼岳・アカンダナ山の活火山がある)。
またその西側の白山も活動の徴候がみられるという。
上高地の南の先には、一応活火山である乗鞍岳をはさんで、数年前に噴火災害を起こし、今でも水蒸気の煙を上げている木曽御嶽がある。

フィリピン海プレートの東縁は、隣接する太平洋プレートが下に潜り込んでいるところで、そのラインから平行に西に離れた所に火山フロントがあり、それらが富士山から伊豆諸島、小笠原諸島に続く火山帯を形成している。
その小笠原諸島に、今最も火山活動が盛んな小笠原の西之島(新島が本島を呑み込んで拡大中)がある。
ついでに、活火山である富士山は、宝永地震(南海トラフ連動地震)のあとに中腹から噴火して(宝永火口)、江戸にまで火山灰を降らせた(これが富士山の前回の噴火だ)。

フィリピン海プレートの西縁は、いわずと知れた南海トラフ
この南海トラフは、フィリピン海プレート自体が、ユーラシアプレートに沈み込んでいる所で、その先の火山フロント(ユーラシアプレート側)にあるのが、今年になって活発化している阿蘇山(レベル2)、霧島山(レベル2)そして先日大きな火山活動をした桜島(レベル3)から、口之永良部島(レベル3)、諏訪之瀬島(レベル2)へと続いている。

つまり、フィリピン海プレートの周囲の火山が一斉に活発化しているさなかに、同じ周辺部である三浦半島の異臭騒ぎが起きたのだ。

なので、東京宅(文京区)で常時観測しているラドン濃度(地中から放出されれるラドンガスの濃度。実際の計測値には地上放射線量も反映される)を気にすることにしよう。
なにしろ、兵庫県南部地震の直前、現地でのラドン濃度が急上昇したというから。
もっとも東京宅で相模湾のラドン濃度を捕捉できるわけではないが、異臭域が横須賀などの三浦半島の東側すなわち東京湾側なら、感知できる可能性はある。
ちなみに、記事を書いている現在は、16Bq/m3で平常値※

※:ラドン濃度の平常値(≒地上放射線量)は地域(地層)で異なり、設置している屋内環境(内壁の材質)も影響する。名古屋宅の平常値はずっと高く、いつも40Bq/m3を超えている。
福島原発事故直後は東京でも名古屋並みに高くなった
また日内変動があり、天気(晴雨)によっても変るので、定常的な変動傾向を把握している必要がある。


油断の戒め

2020年07月17日 | 新型コロナウイルス

新型コロナウイルスの感染の再拡大が進行している(無症状者が多いようだが)。

一言でいえば、油断の結果だ。

東京宅では、近所のスポーツジムや保育園での感染が見つかり、そのジムに行き来していた5歳の我が姪も、危うく”濃厚接触者”になるところだった。
このような身近での感染騒ぎは春にはなかったので、むしろ今の方が危機感を覚える。

東京宅の老母は、春以来外出を控えているため、持病の膝痛が悪化しているが、悪天候が続いていることもあって、外への歩行訓練もままならない。

勤務先の大学では、教員の希望に応じて一部対面授業が再開となった(ただし通学を強制しない)。
自分の担当授業も少人数のゼミなら、対面にしょうかとも思ったが、学生の通学と学生同士の授業外の接触を制御できないこともあり、遠隔を続けることにした。
愛知でも再び感染者が出たので、今では、それでよかったと思っている。

国や自治体の対策は、混迷しているが、防疫と経済とのバランスの難しさゆえ、試行錯誤的になるのは仕方ない(野党は「一貫性の無さ」を批判しているが、流動的な事態においては一貫性を貫くことに固執すべきでない)。

むしろ、個人個人が、油断することなく、3密を避け、マスクをして手洗いを励行し、特に大人数での飲食(マスクを外して近距離で会話する)をしないことを続けるしかない。

それを実行できる個人や家族レベルの旅行なら、してもかまわないと思う(自分も実行)。

私も東京と愛知を毎週往復している。
新幹線車内も在来線も駅構内も、みんなマスクをしているし、車内でしゃべる人もいない。

こうやって自分なりに、感染防止と消費活動の両立を図っていくつもりだ。


閉眼片足立ちが困難な理由

2020年07月12日 | 健康

脚部の簡単な筋トレとして片足立ち(片足ずつ5分)をやっていて、その記事(片足立ちで鍛えられるのは)は今でも毎日一定のアクセスがある。

両足でなら数時間立ちっぱなしでも平気なのに、片足だと5分で筋肉が疲労する。
しかも、殿筋から足底筋まで疲労するから、強度的にも部位の広さ的にもトレーニング効果が期待できる。

ただ、その記事でも記したことだが、閉眼すると、とたんにふらついて、片足立ちを維持するのが難しくなる(追記:練習すれば、次第に長く維持できるようになる)。
筋肉の問題ではなく、身体バランス(重心の揺れ)の問題だ。

開眼では安定して立てるのに、閉眼でもたなくなるのはなぜか。

閉眼という身体状態が問題なのか。
それを確認するため、開眼したまま両手で両目を覆ってみた。
すると、バランスがくずれる。

片目をあけておくと(もう片目は閉眼)、まったく問題なくバランスは保たれる。

つまり、閉眼という身体状態の問題ではなく、視覚刺激の不在によるといえる。

さらに試しに、部屋を真っ暗にして、開眼で片足立ちをしてみた。
するとやはりバランスが不安定になる(危険なのですぐやめた)。

以上でわかったことは、大脳皮質後頭部の視覚野から、意識とは無関係の小脳の運動バランス中枢へ信号がいき、
その視覚刺激をたよりに小脳は身体のバランスを維持しているということだ

※この、そして以下の推論は、私の主観によるもので、科学的証拠に基づくものではない。ここの記事は学術論文ではなく、私のブログだから。

すなわち、意識の中枢とは遠い所にある小脳(ただし神経細胞の密度は大脳以上)は、大脳の視覚という意識現象の一部を、手がかりにしているわけだ。
だから視覚刺激が安定して供給されている限り、姿勢バランスに苦慮どころか、留意する必要すらない。

細かく言うと、視覚情報で、3次元空間の準拠枠、とりわけ鉛直方向の軸が固定されることによって、姿勢の重心を固定する運動調整が可能となるようだ。

実際、片足立ちで閉眼すると、足裏にかかる重心が、あたかもなにかを探し回るかのようにランダムな方向にブレ出し、しかもそのブレの大きさもまたランダムになる。
重心のブレが一定限度以下なら、意思の力(随意筋による重心の調整)で抵抗できるのだが、突然大きなブレがやってきて、抵抗できずに重心が足底からはずれる(すなわち片足立ちが不可能になる)※。
このランダム性こそ、重心維持の手がかりを失った小脳が、その準拠を探索している現象に思える(ランダムが一番効率的?)。

この探索は生理的には意味があると思うが、姿勢維持が困難になるほどブレることは、実際問題として危険を招く。

※:試しに閉眼両足立ちをやってみた。両足の左右を着けて立っていると、やはり重心はブレ始め、完全に片足側にくることがある(逆の片足立ちだったら倒れている)。両足立ちなら5分でも閉眼で立っていられた。これは基底面の横幅が2倍になった効果によるものだ。

ここで思い出すのは、以前長野県飯田市にある元善光寺(→リンク)に、長野市の善光寺と同じく、内陣直下の空間を巡る「お戒壇めぐり」があり、その時は他の客がいなくて、たった一人で入った時のこと。
本尊の真下に達して真の暗黒状態(上下四方すべてが暗闇)になった時、ただならぬ恐怖感におそわれた。

その恐怖感は、足下と手先が見えないことによって、とんでもない危険な空間に落ち込んでしまうということへの恐れだった(ちょっとおおげさな物言いだが、段差につまずいたり、壁にぶつかったり、頭をぶつけたりという危険がまたったく分からなくなっているという恐怖)。

問題はここだ。
実際にこのような視覚的な手がかり・足がかりのない空間になると、小脳の重心維持機能も固定されなくなって、ランダムに揺動することになるわけで、そうなると実際に身体バランスをくずして、暗黒の中で、転倒したり、思わぬ方向に歩き出してしまうおそれがある。

もっと簡単に言い換えると、視覚刺激がなんらかの事情で減少すると、それに応じて重心維持が困難になり、転倒の可能性が増える。

この問題の根本は、小脳の重心維持能が長年の習慣(条件づけ)によって視覚に頼りすぎたことではないだろうか。
年配者ほど閉眼片足立ちの持続時間が短いというが(年代差だけだと、筋力の衰えの説明で終ってしまう)、ここでは開眼−閉眼の持続時間差が問題になる。
この差にも年代差があるなら、視覚への依存度の違い、あるいは非視覚的空間把握能の衰えといえるかもしれない(アクセルとブレーキの踏み違いにも関連?)。

非視覚的空間把握、とりわけ身体バランスに関係するのは、内耳の耳石だ。
耳鳴りを患っている私は、内耳の損傷によって、閉眼での重心バランスが悪いのかもしれない。
小脳内部でいうと、前庭小脳(内耳→身体の平衡)から脊髄小脳(四肢の姿勢保持)に至るルートだ。

幸い、小脳も学習機能があるという(神経細胞が密なのだから当然)。
学習を可能にする脳神経細胞の可塑性は、歳をとっても0にはならない(記憶が可能なように)。

私が求めたいのは、視覚刺激に頼らなくても重心を維持できる、いわば小脳の(文字通りの)自立。
いわゆる、サーカスなどの綱渡りのプロは、目隠しをして見事にまったくブレない重心維持が達成できている。
あれこそ、トレーニングの賜物だろう。
そのトレーニングを片足立ちでやってみたい。
もしかしたら内耳のトレーニングにもなるかもしれない。

それが実生活でどう役に立つかはわからないが、
たとえば、両側が絶壁になっている信州・戸隠山の「蟻の戸渡り」(→リンク)を、目隠しはしないまでも、濃霧の薄暮の中でも平気で渡れるようにはなれそうだ(日中に開眼で渡ったことはある)。

閉眼片足立ちでシステム0を鍛える
閉眼片足立ちが困難な理由2:より学術的説明
閉眼片足立ちが困難な人へ:両足直線立ちの勧め


中津川駅前に車で

2020年07月06日 | 

岐阜県の中津川は、木曽川に沿った東濃の最奥、信州の木曽谷の入口に位置した、今でも升形が残る中山道の宿場町。
そして中山道より更に古い東山道(トウサンドウ)という古代からの道が、天照大神の胞衣(エナ)を埋めたという恵那(エナ)山の北の神坂(ミサカ)峠を通り、伊那谷の飯田に向っている。
また北西の裏木曽街道を抜けると下呂そして高山に達することで交通の要路を形成している。

ここの神坂峠の麓、天照大神の産湯の湯舟があったという湯舟沢にある、温泉ホテルが気に入って定宿にしていることで、中津川という所自体も気に入って、別宅が欲しいくらいの気持ちになった。

なにしろ、あの『徒然草』の吉田兼好(鎌倉時代)も、湯舟沢の風情を気に入って一時、庵を構えたという(ホテルの川を挟んだ向い側にその碑がある)。

実際、湯舟沢の奥の霧ヶ原という高台に別荘分譲地があって、そこの林間にログハウスを建てたら…と夢想したが、やはり一番快適で楽なのは、温泉ホテルで総檜の風呂に入り、上品な会席を食べることだとわかったので、現状で満足している(別荘は毎週末通わないと無駄になるし)。

名古屋宅からいつも自家用車で往復していることもあり、市内の車で行ける名所(奇岩が多い)や日帰り温泉(放射能泉が多い)はすべて巡った。

残ったのはJR中央線の中津川駅前である。
駅前はそれなりに繁華街だから駐車場が見当たらないためだ。
でもそう判断したのは自分の怠慢だとわかった。

駅正面の路上の市営駐車場は30分無料、そして少し奥にある建物の市営立体駐車場はなんと2時間無料だということを、定宿にいる今日知った。

なんだ、そこに止めれば2時間も市内を徒歩で巡れるじゃないか。

さっそく雨の中、駅前の立体駐車場に車を止め、傘を差して駅前に向った。
今回の定宿はあえて素泊りにしており、朝食抜きなので、昼前の開店直後の外食をしたい。
今まで駅前は車では行けないと諦めていた店を探す。

目指したのは、地元中津川のソウルフードだという「五十番」という店の焼そば(Rettyというサイト情報による)。
B級グルメだが、もともと焼そばは好物なので、ここを店めぐりの最初の店とした。
看板が見当たらず店を通り過ぎてしまったが、郵便局の隣と思えばすぐわかる。

大雨の日の始業直後なので、客は一人だった。
メニューを一瞥して、予定通り「焼そば」(500円)をオーダー。
普通盛りでいいですか?と確認してくるが、ここの大盛り(700円)はすごい量らしいので、普通盛りで通す。

数分後出されたそれは、一言でいえば、極太塩やきそば。
麺の太さが、今までにない。
ソース焼そばでないので麺が白い。
でも塩味はちゃんとついている。

卓上にいろいろ調味料があり、ラー油や唐辛子をふんだんにかけるのがおいしいらしいが、辛党でない私は、半分ほど食べてから酢をかける。

地元民が日常食として愛するソウルフードに対しては、一見のよそ者が、食通ぶってハイレベルの基準で論評するものではない。
もともと世にアピールするための”名物”ではなく、庶民的な家庭料理の延長なのだから。
ただ敬意を表すればいい。

駅前には食通もうならせる本格的な蕎麦屋もあるが、これは次回にしよう。

さらに駅前にある元デパードらしいビルには、地元の物産が一堂に集まって販売されている。
この地は栗きんとん系が一番有名だが、その他に漬物やパン、さらには木工品(木曽系)や陶器(美濃系)などがある。
丁度木製の小皿が欲しかったので、それを買った。

今日は大雨が予想されるから、ここまでにして宿に帰るが、次回は駅前の駐車場に車を止めて、昼食も摂りながらじっくり市内を散策したい。

こういうのんびりした気分でいたら、
夕方、中津川市に土砂災害警戒情報洪水警報が発令された。
宿の前の湯舟沢川は黄土色の濁流となっている。
宿一帯は土石流警戒区域に指定されている
そして湯舟沢川が合流する木曽川(中津川市落合)では氾濫危険水位を上回っている。
雨量こそ多くないが、切れ目のない雨が続いて、明日の帰途が心配だ。

→翌朝は、たいした雨もなく、無事帰宅できた。
その翌日は、市内一帯に避難勧告が出たようだが、被害は発生してない。


自宅の災害危険度の事前確認:気象災害編

2020年07月04日 | 防災・安全

今年も梅雨末期の大雨被害が出る時期になった。
例年、九州を中心とする西日本で、死者が出ている。

気象災害は、地震と違って、雨量などの予測と実況ができ、警報も発令できる。
すなわち、対処可能なはずなのだ。

それでも毎年人的被害が出るということは、避難のタイミングや方法などにまだ問題があるのだろう(洪水・土砂災害による物的被害は防げない)。

数年前に、分りにくかった警報基準が5段階に整理され、分りやすくなった。

その最高位のレベル5は「大雨特別警報」で、避難指示基準(レベル4)を超えた状態で、「下手に避難をすると危険」という、ある意味手遅れのレベルだ。
だからひたすらテレビでは「命を守る行動」を訴えるだけとなる。
そうなる前に住民はなんとかする必要がある。

そうなる前のレベル4の避難指示は、自治体の長が発令するので、範囲は行政区画単位となるため、さらに細かい地域差、いや、個々の家屋によって実際の危険度が異る点は考慮されない。

それが各家の避難判断を難しくしている。
実際、過去に避難勧告・避難指示が出ても、自宅はまったく安全だったという例も多いはず。
※:避難勧告は避難指示と区別がつきにくいため、今回を機に避難指示に一本化された。
なら、次回もそうなのか。
もちろんそんな保証はない。
そして、下手でない避難はどうすればいいのだろう。

災害危険度は個々の家によって異なるので、各家庭で事前にそれを確認することだ。

具体的にどうすればいいか、防災士の視点から、各家によって異る点そして事前に確認すべき事項を列挙する。


●河川からの距離と、家の敷地の相対的高さを確認する。
まず、近くの川が氾濫した時、わが家が被害を被るか
家の敷地の標高が堤防より高いか低いかを等高線付きの地形図で確認
自治体発行のハザードマップでも確認できるが、ハザードマップは特定河川の氾濫に限定されていることに注意

●家の周囲の微地形:台地、傾斜地、窪地、谷地、平地のどれか。
日本の住宅地のほとんどは河川の氾濫によってできた沖積平野(平地)に密集している。
それ以外は、土砂災害の危険がある谷地か傾斜地沿い。
安全なのはその中間の狭い台地だけなので、日本で安全な所に建っている家は少ない(浸水・土砂災害のどちらかあるいは両方の危険がある)。

●家の裏側および避難路に、土砂災害危険箇所(区域)があるか。
水も怖いが、土砂の塊はもっと危険。
家の裏側に土砂災害危険箇所があるなら、増水以上に危険なので、避難を早めにする。
地域の土砂災害危険個所(たいてい人家の近くにある)は国交省のサイト等で確認できるので、事前に確認(下のリンク先参照)。
また、がけ崩れの”前兆現象”などを事前に知っておく(自治体の防災サイト等)。

●避難所までの距離(歩行可能か)とルート上の危険度
歩いていけない距離なら、当然避難判断を早めにするしかない。
避難路は、以下がないことを確認:
土砂災害危険箇所、用水路、橋(川を渡る)、ため池、窪地(車道の場合はアンダーパスも)
これらを通らない避難路(避難先)をあらかじめ選定し、実際に通って安全性をチェックし、ルートを頭に入れること。
避難先は、行政の指定先である必要はなく、親族の家などでもよい(そこの危険度チェックも必要)。

●家族に避難に時間を要する人(高齢者、障害者、乳幼児など)がいるか。
いたら避難指示の前の警報レベル3で避難開始をするべき。
川べりに多い特養ホームの避難はたいへんなので、できたらこの段階で近くの住民が手伝ってほしい(まだ住民は避難しなくてよいレベル)。

●家は、平屋か2階建て以上か
ほとんどの浸水は2階にまでは達しないので、家の2階以上が避難先になりうる(平屋の人は屋根に上がる手段を考えておく)。
もちろん土砂災害の危険がないことが前提。
ただし、川に面しているなら、家ごと流される場合がある(川からの距離が判断規準)。


以上を平常時に確認をして、家ごとの危険度(浸水、土砂災害)と避難先・ルートを確認しておくこと。

これなしに、自主的な避難判断は難しく、そのため避難が遅れて致命的事態になってしまう。
これを読んだ読者は、さっそく着手してほしい(いくつかはネットを使えば机上で可能)。
くれぐれも、防災は、地震だけではないのだ。

そして、大雨時には次の記事を参考に→梅雨末期の大雨で毎年死者が出のはなぜか

→「自宅の災害危険度の事前確認:地震災害編」へ