今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

懐かしい秋川八期会2016

2016年11月27日 | メモリアル


今はなき都立秋川高校の同期会が、いつもの時期・いつもの場所で開催され、数年ぶりに参加した。
といっても、年一回はなんらかのイベントには参加している。

まずは、毎年この会を開いてくれる幹事たちに感謝。

当時の先生も5名参加して、我々との外見の差が縮まっていくのを感じる(我々側が歳とっている)。

全寮制の高校で、生活をともにしてきて、全員が顔見知りであったため、当時のエピソードは腐るほどある。
いまだに初めて聞く話に事欠かない。 

湧き上がる「懐かしさ」に浸っていると、時間的存在者たる”現存在”の根本気分である「懐かしさ・郷愁」に思いをはせる。

過去という時間性に対する気分である「懐かしさ」。
かつては存在し、今は存在していないという、記憶の中の存在に対して抱く気分。
存在と不存在の双方を体験したからこそ、その存在を正しく受けとめることができる。
その時とはまた異なる追体験によって、自分の歴史性(時間によって創られた自分)が確認される。
懐かしさは、忘却していた存在との再会による存在実感の気分なのだ。
しかもその実感は、過去を共有していた他者たちとの共感を伴っている。
他者たちと共に味わえる存在実感なのだ。 

懐かしさに浸るのは、後ろ向きの態度で生産的ではないという懸念がないことはない。
だが、「存在忘却せずに存在を実感して生きる」というハイデガーの格率を生きたい私は、
未来や現在だけでなく、どんどん増えていく過去に対してもきちんと存在を実感したいのだ。
だから、懐かしさを大切にしたい。

そういえば、参加者の中に、私のブログの読者になってくれている同期生がいた。
せっかくならコメントを残してくれるよう頼んだ。

懐かしさに浸って、2次会まで行き、久しぶりに酔った。
翌日は日曜だからよかった。
懐かしさの代償が少々体にきた。


東京の11月の降雪は温暖化のせい?

2016年11月24日 | お天気

気象庁の観測はじまって以来の東京の積雪(降雪も約半世紀ぶり)。

こういう異常事態は、正常な変動の範囲内というには、確率論的に躊躇せざるをえない。

ではその原因は何か。
現象の直接原因は、シベリアの寒気の南下である。

ではその南下の原因は何か。
テレビ局での解説を見比べてみた。

ある局は、偏西風の蛇行によるものとした。
なら偏西風の蛇行の原因は何かとなるが、その説明はなかった。

テレビ朝日(報道ステーション)では、温暖化が原因だという。
温暖化によって北極のバレンツ海の氷が溶けたことにより、極地の低気圧がより高緯度に移動し、そのせいで低気圧の南にあるシベリア高気圧が拡大したというのだ。
実は北半球の冬では北極よりシベリアの方が低温になる。
海と陸地の比熱の違いのため。
そもそもシベリア高気圧は、シベリア大地の低温が原因だ(地上の低温=重い空気=高気圧)。 
シベリアの寒気が強くなることで偏西風を蛇行させたともいえる(偏西風は南北の温度差が原因だから)。
確かに理屈が合っている。

温暖化による寒冷化という逆説的な現象は、北極海の氷が溶けることによる海流変化によって起きると説明されている(それを映画にしたのが「デイ・アフター・トゥマロー」だが、あれではまるで氷河期だ)。 

降雪には寒気だけではなく、湿気が必要で、湿気は暖気の方がたくさんもたらしてくれる(暖気の方が保水力がある)。
強い寒気がそれなりの湿気(暖気)とぶつかるところで降雪(降雨の冷却版)が起きるわけだ。 


妙正寺川を歩く2

2016年11月23日 | 川歩き

勤労感謝の日は、意地でも仕事をしない。
今年は、会議のない週だったので、東京の実家にいる。
ではどこに出かけるか。
東博の特別展と温泉と山城に行ったばかり。 

思いつくのは、やり残した妙正寺川歩きの後半。
本流である神田川もまた最大支流である善福寺川も歩き通したので、なおさらやり残しが気になる。

そもそも神田川流域歩きの嚆矢が、2015年9月の妙正寺川の源流からの歩きだった。
源流の妙正寺池(杉並区)から始めて、野方(中野区)まで歩いて、下流に興味をなくして切り上げたのだ。→「妙正寺川を歩く1」

 川歩きは準備もいらず、早起きせずに実行できるのがいい。
なんと起きたのは9時半だったが問題ない。
西武新宿線に乗り、昼前に野方で降りる。
コンビニで昼食用のおにぎりを買い(ずっと歩くので、たらふく食べることはしない)、
環七の陸橋を渡って、昨年の中断地点から川歩きを再開する。
上流と同じく、両側に歩道があるので楽。
ただ川の両岸はコンクリの護岸で、川床もコンクリ。
なので風情もなく、見て楽しくもない(だから途中でやめたともいえる)。 

水は澄んでおり、鴨の群が遊んでいる。でも魚影は見えない。

川は微妙に湾曲し、人工の護岸も両岸の道もそれに沿って湾曲している(写真)。
強引に直線化しない点は好感がもてる。
川沿いの「平和の森公園」という広い公園に入り、ベンチでおにぎりを平らげる。

住宅街の川歩きルートは、公園が所々に現われるので、トイレと小休止・水分補給(自販機)には事欠かないのがありがたい。

このへんになると川床が自然の石のようになり、少しは風情が出る。
上流からずっとコンクリだった川もこの緑の川床を味わうかのように、流れが停まっている(高低差がないだけ)。 
時たま、川床が急な斜面となり、その時だけ、川はせせらぎの音を立てる。
ずっと無音の流れだったので、川歩きの身としては、いいアクセントになる。

だが、そのせせらぎの真横の家では、一年中、昼夜別なく川音が鳴っているわけだ。
私も時たま川の音の環境CDをかけるが、のべつまくなしに聴いていたいとは思わない。
なにしろ、水量の多い川音って音質的に”雑音”に近いから。
きっと窓を閉め切っているだろうな。  

ここから川は北に向かい、流域の最北端で支流の江古田川が合流してくる。
江古田川はすごく短い支流なので、あえて歩くほどのものではない。

この合流点から江古田公園になり、そこに「江古田古戦場」の石碑がある。
江古田古戦場は、江戸城にいた太田道灌が今の23区北西部を支配していた豊島氏(石神井城を拠点)を破った所。
川歩きの途中で私が大好きな関東戦国前期の史跡に出会えたのもうれしい。 

対岸の北野神社に詣で、下田橋を渡ると、哲学堂公園に入る。
ここは小学校卒業後の春休みに、別の中学に行く友達と来て以来(小学校最後の思い出に、友達とここから文京区の家まで歩いて帰った)。 
小学生の分際で哲学的思索をしたいためではなく、友達の一人がこの近く出身て、公園として遊びに行ったのだ。
川沿いの広場には、最近できた、ハンガリー出身の彫刻家による世界の哲人たちが集う彫刻がある。
釈迦や老子が向かいあい、聖アブラハムがひれ伏す脇を通行人が通り過ぎる(写真)。
妙正寺川の右岸は大きな調節池になっている(2005年に水害が発生した)。

哲学堂を抜けると、北原橋という新しい橋(このあたりも水害があった)から、行く手に新宿の高層ビル群が見える(写真)。
流域で一番の眺めだ。 

上流から続いた中野区を脱け、新宿区(中井)に入る頃になると、両岸ともうす汚れた感じになる。

幾度か川を横切る西武新宿線の線路近くには歩道がなくなることがある。
その場合は、迂回路を取らねばならないが、そういう場合も、途切れた川沿いの道をあえて往復して、川歩きをできるだけ通す。 

下落合(妙正寺川が神田川に合流していた地名)に達するとまた気を取り直したかのように川の周囲がきれいになる。

そして下落合駅の先で、妙正寺川は(本来の神田川と合流する流れが変更されて)暗渠に入る。
普通はここが妙正寺川の終点とされている。

だがそれは違う。
妙正寺川は暗渠になっただけで、まだ終わっていない。
川の終点は本流との合流点か河口のどちらかしかない。
妙正寺川のゴールは(変更された)神田川との合流点だ。
それはこの暗渠の先にあるのだ。
私は、暗渠の上になっている新目白通りをさらに東進する。
山手線のガードをくぐり、向こうに都電が見えてくると、そこは神田川の高田橋。
暗渠だった妙正寺川が再び顔を出して、神田川に合流する地点なのだ。
ここが真のゴールである(写真:手前が暗渠出口、奥が合流後の神田川)。

高田橋と合流後の神田川にかかる高戸橋の周囲を一周して、合流地点を360度から見まわした。 
ここまで正味2時間半。
達成感も得られたし、ウォーキングとしても丁度よい。 


11月の地震

2016年11月22日 | 防災・安全

今月13日に、ニュージーランドで地震があり、死者こそ出なかったものの、
5年前のクライストチャーチの地震被害(2011,2.22)を思い出した。
そして5年前はその翌月に、 M9の東北地方太平洋沖地震が発生したわけだ。
実はその3.11の2日前に三陸沖で M7.3の地震(前震)があって、最大震度5弱だった。

今日の明け方の福島県沖の地震は、 M7.4で最大震度5弱。
とてもいやな予感がする。

と、ここまでは、よくあるネットの書き込みと同じ。
ここで終わらないのがこのブログ。 

偶然の事象にも有意味性(規則性)を見出そうとするのは、人間が生まれつき持っている認知的バイアスによるもの。
本来インクのシミでしなかいものに何か意味のある形が見えてしまい、それが心理テストとして使われる所以だ。
たとえばニュージーランドの地震を日本の地震に結びつけるのは、
過去に1,2回起きただけで”法則”視してしまう「小数の法則」というバイアス 。
行動経済学などのシステム1・2の研究には、日常判断で陥るバイアスの例で満ちている。
これはわれわれの知性が、ことさら確率論的現象を理解するのが不得手であるためであることがわかっている。
すなわち、ランダムをランダムとして理解するのがとっても苦手なのだ。
もっとも、野生の生活世界ではランダムな事象より、有意味な事象の方が多く、
あいまいな状態から有意味性(薮に隠れた餌や天敵)を発見する能力の方が生態学的に価値があった。 

では客観的な統計では11月に特徴はないのか。

私の手元にある過去(西暦679年から)の日本の地震(M7以上あるいは死者のでた地震)では、214件のうち11月は21件。
過去のブログで「大地震に季節性はない」と結論づけたように、格段多いとはいえない。

でもこれも偶然の範囲内かもしれないが、
11月26日は、過去に3回起きている。
たとえば、北伊豆地震(1930年、死者・不明者272名)がそれだ。 
この集計によると、ある日に大地震が起こる期待値は1300年間でおよそ2/3回(214/365)であるから、
特定の日に3回起きているということは期待値の4.5倍である。
ただ、確率論的には特異現象とみなす必要はなく、既存のポアソン分布で説明可能だろう。 

ただ、そうやってあえて安心方向に誘導するのも、「正常性バイアス」という防災には望ましくない態度につながる。
実際、今朝東京で震度3の揺れで目覚めたものの、「大丈夫だろう」(正常の範囲内)と解釈してそのまま寝入った。

そこで防災的見地としては、危ないと思ったら(その判断がバイアスに依っていても)、素直に防災に敏感になりたい。

地震は予測不能であるから、予測していてもいなくても起こるのだ。
ならば予測の閾値を低くして、「明日起きそうだ」という思いを抱きやすいようにしよう。 

今日の地震がより大きな地震の前震である可能性は、過去の例からありうるし、
そして11月26日前後は過去の例から、気をつけるに越したことはない。 


名胡桃城址に行く

2016年11月21日 | 城巡り

ファミリーオに泊った翌朝、たくみの里を後にして、バスで停留所1つ分の湯宿温泉まで下り、狭い温泉街(つげ義春の「ゲンセンカン主人」のモデルになった所)を歩いた。
それなりの雰囲気が残っている。
なるほど温泉にこだわりたければ、こちらに泊ればいいのだ(ただ、「ゲンセンカン」の雰囲気は味わいたくない)。

今日は、帰途に「名胡桃城址」に立ち寄る。

この城は、戦国末期における真田と小田原北条との勢力争いの接点の地で、
すでに天下人に上り詰めた秀吉による裁定で、この城自体は真田領となったのだが、
それに不服な北条方の沼田城代がこの城を攻めたために、秀吉の怒りを買い、
天下統一の小田原攻めのきっかけを与えてしまった、因縁の城だ。

今年の大河「真田丸」のおかげで、来訪者が激増しているらしい。
私は別に真田ファンではないが(家紋は共通)、山城ファンとして、今回の旅のついでにぜひ訪れたいと思っていた。

ただし、国道17号バイパス沿いにあるのに、バスの便がないので、上毛高原か後閑駅から40分ほどの徒歩を強いられる。

私は、地図とにらめっこした結果、帰途のバス(上毛高原も後閑も経由する)で、「月夜野郵便局前」のバス停が最も近いこと(といっても駅よりは少し近い程度)がわかったので、そこで降りて、
ipadに入れてあるMapfanを頼りに(GPS受信機も稼働)、地元の義士・茂左衛門(百姓の身ながら将軍への直訴によって苛政の沼田城主真田氏を改易させ、自らは死罪)を祀る地蔵堂を経て、名胡桃城址に達した。

城址の入口にレストラン跡のような案内所があって、中に売店もあり、多数のパンフ、お茶のサービスなどが受けられる。
道路沿いには六文錢の旗が並んでいて、いかにも地元は真田を顕彰しているようだが、江戸時代の真田の殿様は先にも触れたように、悪政で領民を苦しめた。

案内所入口の立看板に、今日熊が出たので立入り禁止という紙が貼ってある。
本郭と般若郭の間の谷から猟銃を持った人が上ってきたので、様子を尋ねたら、今朝、子グマが目撃されたらしい。
子グマがいるなら、親熊もいるので危険なのだ。
といっても谷の下は集落があり、谷上のこちらも車が絶えず、それを見込んだ店もある。
すなわちあたりは人里だ。

熊の話にもめげず、台地上の整備された城址に足を踏み入れた。
郭の平面や堀切が明瞭で、さらに土塁が復元され、石積みも残っている(写真)。
本郭には徳富蘇峰による碑があり、四阿に熊除けの手で振り回す鈴が置いてあったので、振り回して音をたてた。

縄張り尖端の「ささ郭」からは、眼下の利根川が一望で、この城址は大きな河岸段丘の上にあることがわかる。

ネットで電車の時刻を確認し(1時間に1本程度なので)、ここから利根川向こうの上越線の後閑駅まで歩く。
予定通り40分ほどで駅に着いて、ほとんど待たずに電車に乗れた。 


たくみの里に泊る

2016年11月20日 | 

論文2本目のノルマ達成を慰労しての温泉旅は、帰京後の関東にした。
要するに論文執筆の集中にも、仕上がっての慰労にも、いずれにせよ温泉旅をするのだ。

宿は、関東随一の温泉県・群馬にある「ファミリーオみなかみ」。
場所は、群馬のど真ん中・沼田から新潟に抜ける三国街道沿いの高台(路線バスあり)。
そこは「たくみの里」と称する、旧・須川宿の集落全体を観光地化しようという大胆な試みの地で、
各家がそれぞれ何かに特化した物品販売か技能体験を担当し(元々自給自足だから可能)、
路傍の石仏や集落内の社寺・祠も探訪ルートになっている(写真は桜の木の下にある一之宮地蔵堂)。

いってみれば、どこにでもあった「日本の里山」を少々工夫して観光地化しているわけだ
(もちろん、食堂、みやげ物店、駐車場も完備)。
より楽しめるように蕎麦打ち体験や、巡回の馬車、貸自転車もある。
伝統的「日本」そのものが観光資源というわけだ
(「日本」という亜文明そのものに世界的存在価値が見出されているといえようか…、いや、この問題は中立的視点で論じる必要がある)。

このような既存の観光地ではない里山の一画に宿がある。
なのでこの集落観光は泊りがけでもできる。
私も釣られて、周囲を散策して里山風景を満喫してから、宿に達した。

ここは JR東日本が経営している、いわば半公共の宿。
ということで室内設備・人的サービスはいたって簡素(無駄がない)。
スリッパは館内のみで、ツイン洋室の室内が裸足なのは私の行動様式に合っている。
それと無線LANが館内どこでも使えるのも良い。
このように、費用をたいしてかけなくても、利用者にとっては価値が高いサービスというのがあるのだ。

残念なのは、温泉。
まず自家源泉ではなく、近所(たくみの里)からの運び湯だった。
しかもそこの源泉自体がアルカリ単純泉としても溶存量が少なく、ここではそれをさらに加水しているという。
実際、浴槽の湯を測ると、電気電導率が97μSとやたら低い(成分がとても薄い)。
これは白湯レベルの値なので、洗い場の湯を測るとさらにその半分ほどだった(要するに浴槽の湯は白湯ではない)。
その上、源泉はアルカリ性らしいが、加水の影響か浴槽の湯の pHは6.8と中性なので、結局「ほとんど白湯」(気分だけ温泉)という評価になる。
浴室空間も「中浴場」(≒ルートインの浴室)レベルなので、繁忙期だと大混雑するだろう(客室内にも白湯の浴室がある)。

一方、無料のマッサージ機が2台あるのは嬉しい。
立派なマシンで脚も腕も圧迫してくれる。
湯上がりにこれを利用するので、温泉の低評価から少しは挽回できるかな。

私が選んだ夕食は、赤城牛のしゃぶしゃぶコース。
メイン(肉+野菜、キノコ、シラタキ)以外に刺し身、焼き魚、天ぷらもつく。
山向こうは新潟だからか、なんと「越の寒梅」や「久保田」が升酒で450円。
しゃぶしゃぶもゴマだれと醤油だれの2種類がつくので、肉はゴマ、野菜類は醤油と使い分ける。
最後にご飯を頼んだら椀に盛られた白米だけが出された。
最初から卓に出されていた漬物に手をつけない私を見た給仕の女性は、あえてお茶を出してくれた(漬物をご飯のおかずにする人と、おかずにせずお茶請けにする人に分れる。農民出が前者で、武家出である私は後者)。
漬物は茶請けに食べ、残ったご飯は仕方ないのでしゃぶしゃぶのタレの残りをかけて食べた。
その後にその場で豆を挽くコーヒーも出た。

また自販機の所に製氷機があって、氷もいっぱい手に入る(有料の宿もある)。

というわけで、夕食は量的に満足し、質素だと思ったサービスも無駄なく充実。
湯の泉質さえ目をつぶれば、散策路にも事欠かないし、連泊してのんびりするのにいい所だ。
ただし混む時期は避けた方がいいな。


東博で2つの特別展を観る

2016年11月19日 | 仏教

京国立物館で開催中の2つの特別展、「禅(心をかたちに)」と「平安の秘仏(櫟野寺の大観音とみほとけたち)」を観に行った。

禅と仏像にはもともと関心があり、特に後者は9月に行き損なった近江の観音巡りとしての意味もある。
加えて、ポッドキャストで愛聴している「いとうせいこう×みうらじゅんのザツダン」での宣伝に触発されたこともある。


まずは平成館に足を運んで「」を先に見る。
今回は臨済禅と黄檗禅に限定されている。
もちろん臨済禅は日本の禅文化の中心なので、見所は豊富。
有名な一休宗純や夢窓疎石の肖像画(頂相)の他に
鎌倉建長寺の秘蔵、蘭渓道隆の尊像や奥浜名湖にある方広寺の本尊・宝冠釈迦如来を拝めたのが嬉しかった。
黄檗宗万福寺の自分の胸の中に釈迦の頭部をあるのを開いて見せる像は、
同じ黄檗宗であったわが菩提寺・五百羅漢寺(目黒)にもある。
せっかくの展示なので、各頂相にある讚の漢文を理解したいのだが、
展示の解説は美術的な部分だけで、テキスト部分には触れられていない(いつもそう)。
カタログにも載っていなかったのが残念。

そうはいっても展示だけでも充実して、けっこう満腹感。
ミュージアムショップに足を運んだが、禅画ってインテリアには向かないなぁ。


立ちっ放しだったので、館内の革のソファに腰を沈めて一休みし、
本館1階の「櫟野(らくや)寺」の方に行く。
そうそう、両方の展示とも音声ガイドを利用した(各520円)。
「禅」の方は両耳ヘッドホンで、番号ボタンを押すだけで解説が始まるので使いやすい。
ところが、「櫟野寺」の方は片耳イヤホンで、ボタンを押した後再生ボタンをまた押さねばならない旧式(聴きづらく無駄な操作)。
だが、こちらは、いとうせいこうみうらじゅんがガイドに加わっているのが楽しみ(正規のガイドとは別)。
正直、櫟野寺の仏像は重要文化財ながら美術的価値(美しさ)は少々下がる(一木造りという点はすごく、それが造形を制限している)。
楽しみにしていた2人の掛け合いももっとほしかったかな。 

でも、その寺に足を運んでも拝めない秘仏を自宅近く(東博は自宅から山の手線3駅)で観れる特別展は実にありがたい。
「秘仏」だけだと物足りないので、どうせなら「禅」(11/27まで)と合せて見た方がいい。


一日遅れの祝杯

2016年11月17日 | お仕事

研究者としての存在の証しでありノルマである論文を仕上げたことは、酒好きに言わせれば祝杯に値する。
双方にあてはまる私が、祝杯を一日延期したのは、酒好きの論理が勝ったからである。
つまり私は研究者である以上に酒好きなのだ。

ボジョレー・ヌーボー解禁日の方に祝杯を合わせたのである。 
ワインに限定しない酒好きにとって、ボジョレー・ヌーボー解禁は、堂々たる酒の祝祭日である。
これには”初物”を賞味することに無上の価値をおく江戸っ子気質も関与しているかもしれない。

ワインは、熟成したフルボディの年代物に限るという自称ワイン通は、このライトボディの新酒騒ぎに冷笑しているだろうが、収穫を祝うという人類に共通している祝祭を否定するのなら、こちらの方こそあんたらを冷笑したい。

そう、ボジョレー・ヌーボーは、日本ではほとんど死滅した”秋の収穫祭”(新嘗祭)の復活なのだ。
それに日本が経度の関係で世界で最初に味わえるという”初物”感覚が加わり、 
さらに個人的な論文原稿の仕上げという祝いが盛り込まれる。

これを祝わずに、何を祝えというのだ。

悔しかったら、日本酒の新酒(あらばしり)祭をやってほしい。
やってください。

 


心理的距離の論文提出

2016年11月16日 | 心理学

ノルマとしている年2本目の論文が仕上がった。

編集委員は自分なので仕上がりが即提出。

これで研究者としての自分のノルマは達成。

帰宅後は祝杯といきたいが、あえて明日(木曜)に延期する。

論文のテーマは、ライフワークにしている心理的距離。
近ごろは、今まで否定していた尺度化を志向している。
その尺度の両端(自己とアカの他人)について、尺度上の価を考察した。
すなわち、自己は距離の原点となるわけだが、本当に点なのか。
むしろ自己内に尺度空間が存在するのではないか。
そしてアカの他人という最遠の距離は無限遠なのか有限距離なのか。
すなわち、客観化したい尺度を単に機械的に構成するのではなく、尺度空間にきちんと現象学(一人称)的な根拠を付加したいのだ。
そうすることが真にまっとうな心理学的尺度だと思っている。

自称「計測マン」からみると、心理学的尺度って、計測としてはけっこういい加減だ。

もちろん物理学的計測とは異なる基準でいいのだが、その基準がせいぜい相対的な統計分布でしかない。
対人関係の1変数ではなく、関係性そのもの、自他の存在論的間隙を示す心理的距離を尺度化するのであれば、それ相当の心理学的・現象学的・存在論的根拠がなくてはならない。
それを追求するのが、私の残された研究生活だと思っている。

現象学的探究を進めると、自分が自明視していた、すなわち通俗的観念で分かったつもりになっていた問題が次々と浮かび上がってくる。
先行研究を自明化して、それにデータを積み重ねる通常の”科学的”やり方と違い、おのれの自明視をえぐり出すことで、遡及的に現象の根源に接近する。
そういうアプローチをとって、心理的距離という現象を解明し、その解明にもとづく正確な測定のための尺度を作りたい。
通俗的な観念のままで安直に作られた尺度では、解明の道が塞がれてしまうからだ。

論文は来春に自分のサイトにてPDFでアップする。


「終わらない人、宮崎駿」を観て

2016年11月13日 | 作品・作家評

  NHK大河「真田丸」の後、そのままテレビをつけていたら始まったNHK特集「終わらない人、宮崎駿」に思わず見入ってしまった。

 短編の試作に見せた氏の生命(毛虫)の動きに対するこだわりがすごかった。

論文原稿の締め切りを前にした私自身が、その妥協しない姿勢に叱咤されたようで、思わず襟を正した。

そして、人工知能による CGアニメのプレゼン(身体の一部が欠落した人体の不気味な移動)に対して、身障者の知人の例を挙げての批判が心にしみた(ただし身障者差別だとかいう通俗的正義感によるものではない)。

氏のこだわりの根底にあるのが、そして人工知能技術に完全に欠落しているのが、”存在”という奇跡的な現象に対する敬意だとわかったからだ。
存在に対する敬意が、その表現が、われわれに感動を与えるのだ。
人工知能が使えるとしたら、どうでもいいつなぎの部分だけだろうが、作品の全てに妥協しないアーティストにとってはそういう部分は存在しない。 

宮崎氏の目指すアニメは一瞬一瞬において”存在”が具現されている。
その具現があればこそ、ピクサーのフルCGに負けない感動をもたらしている。 

というわけで、宮崎氏は彼なりに”存在”の探究をしているのだなと、私自身のこだわり(ハイデガーによって開かれた存在論)にかこつけて解釈した。
ちなみに、その存在論は、古東哲明氏の『在ることの不思議』『瞬間を生きる哲学』 に敷延されている。
特に後者の書はアニメ作品に通じる(ただし前者を先に読まないと、軽い内容と思われてしまう)。


トランプ氏勝利の流れ

2016年11月09日 | 時事

極私的な本ブログであっても、この話題を素通りするわけには行きそうもない。

以前のここの記事と関連させると、またしてもナショナリズムの全世界的な流れが強まったということだ。→「グローバリズムからナショナリズムへ
グローバリズム側からすると、愚行・反正義にしか見えないこの選択が、没落を仕掛けられている旧中間層からの反撃なのだ。 

といっても私自身はトランプを支持していたわけではない。
ただ、クリントンが当選したら、がっかりしたと思う。
面白くないとう意味で。

「黒人初」に続いての「女性初」という売りには新鮮さがないし、それよりクリントン一家から二人目はいらないし、なにより民主党のくせにエスタブリッシュメントなんて(投票日前日のハリウッドセレブ総出演も逆効果だったような)…。 

多くの人が指摘しているように、クリントンだから負けたともいえる。
もちろん、共和党の指名を勝ち取ったトランプ自身に票を集める力はあったが、それは共和党支持層というより、クリントンには託せない旧中間層のホンネに依っていよう。

もっともトランプの選挙中の言動は、その層に向けた感情に訴えるリップサービスといえるので、実際大統領になった場合は、やり手経営者としての顔に戻ることを期待する。

ちなみに「史上初」の新鮮さだったらトランプも充分資格がある。
政治経験・軍隊経験のないという点で(これがマスコミや経済界からみての弱みでもあり、一方、クリントン嫌いの有権者から支持された理由でもある)。

それにしても彼の勝利が決った日の日経平均の下がりっぷりには笑える
(その代わり金(gold)が一時的にハネ上ったらしく、金取引業者から、金を買わないかと電話がきた。一時的なトランプショックで上った時って買い時でなく、売り時でしょ)。
そして陰に日なたにクリントン支持だった日米マスコミも、まるでヒトラー政権が誕生したかのような狼狽ぶり。 
まぁ、マスコミはエスタブリッシュメント(持てる者)側だしな。 

中間層が没落すると経済的にも文化的にも国が衰亡するという危機感が、グローバリストにはないのが問題なのだ。
彼らは移民を安く使えばいいという発想なので。

この流れは早晩、日本にも届くことだろう。 
なにしろ、日本の企業も利益を正社員にちっとも還元していないから。


懊悩越え

2016年11月07日 | お仕事

この3日間、昼は図書館(国立国会、都立中央)、夜は自宅で論文執筆に費やし、なんとか論文の体を為すレベルに達し、締切に間に合うメドがついた。

一年で一番苦しい懊悩期間を乗り越えたわけだ。

図書館では、集中しすぎて頭部が前傾しないように、棒状の折畳み書見台を使ってノートパソコンを立てて(MacBookAirは軽いからこれでOK)、画面を目の高さにしている(マウスとキーボードを外付け)。
そうすれば、背もたれによりかかったまま、作業に没頭でき、首の凝りも目の疲れも生じない。

自宅では、書斎空間で買ったばかりのモーツァルト全集のCDを片っ端からかけて、BGMにしている。やはりうるさくない音楽が流れていた方が頭が疲れない。
そういえばモーツァルトは音楽を作るのに懊悩なんてしなかったよな。 

私の論文の書き方は、ワードのアウトライン機能を使って、まずは見出しレベルの構成を作り、その構成部分の任意の文章化しやすい箇所から作っていく。
つまり前→後という線型の流れを無視する。
構成の枠組みができているので、そうやっても骨子がくずれない。

集中しやすい所から手をつけるので、滞ることが少ない。
あちこち跳ぶと、いつのまにか全体が視野に入るので、論旨の流れがかえってスムースになるくらい。
実は論文の構造って、線型というよりむしろ立体的だったりするから。

アウトライン画面だと、段落ごと入れ替えるのも楽だし、なにより見出しや列挙の通し番号が編集のたびに自動修正してくれるのが楽。 

モーツァルトのような天才ではない私は、落とし所の目算がない時点で始め、五里霧中状態で、懊悩呻吟しながら進めていくうちに、いつしかどこかの落とし所へ自然に導かれていくのを期待する。

これを称して「行き当たりばったり方式」という。

実際、自分が考えもしなかった結論が、論理的に私の前にススっと連れ出されてくるのだ。
結論以外の部分も、最初は粗雑で、時には正しくなかった論理も、入力しながら推敲(頭の中ではなく画面上に打って考える)を重ねていくうち、各所で緻密になっていく。
こういう試行錯誤をしながら、それがいつの間にか完成品になっていくのは、つまり「行き当たりばったり方式」でOKなのは、ワードのアウトライン機能のおかげだ。 

私は、論文原稿はもとより、講義ノート(話題の換骨奪胎が楽)も読書ノート(重要な研究書は理解を深めかつ再読しなくて済むようにポイント部分をノートに書き写す)もすべてアウトライン画面で作っている。 
ただしデフォルト仕様ではなく、自分なりのレイアウトを論文用のテンプレートにしていて、仕上がったら印刷レイアウト表示にして、そのまま印刷して提出できるようにしている。
学生にもアウトライン画面の使い方を教えるのだが、残念ながらどうもピンと来ないようだ。 


モーツァルト全集を大人買い

2016年11月05日 | 生活

最近、音楽を聴かなくなった(ヘッドホンで聴くのはもっぱらポッドキャスト)。
昔はジャンルにこだわらず(特定のジャンルが好きなのではなく、音楽そのものが好きなので)休みなく聴いていたのに。
自分にとって新鮮な音楽との出会いがなくなってしまったためなのかな。
ことにiPodを導入してからというもの、CDはとんと買わなくなった(ということは10年以上)。
CDアルバムの中で真に愛聴するのはたいてい1曲くらいなので、ダウンロードした方が効率的だからだ。

そのような私が、なんとモーツァルト全集、CDにして170枚!を大人買いしてしまった。
私が人類で一番好きな作曲家・モーツァルトなら全曲ほしいから。
ただ大人買いといっても値段は14780円。
金額的にはちっともたいしたことないが、たぶんLPレコードだったら十倍はしたろう(収納スペースも)。
日本の製品ではないが国内に在庫があって、Amazonで注文したら、翌日に届いた。
段ボールの大きさに驚いたが、Amazonなので、中身の紙製のCDボックス(モーツァルトの顔入り)は本棚1段の半分程度。
170枚のCDメディアはそれぞれ紙のカバーだけなので横スペースもとらない。
さっそく1枚目をかけてみた。
値段の安さに心配したが、なかなかいい音で満足。
CDに収める都合上、ケッヘル(≒制作)順ではなく、クラシックのジャンルごとなのは致し方ない。
本当ならケッヘル順(K1a、bは5歳時の作品!)からに聴いてみたいもんだ。

モーツァルトの室内楽やソナタは執筆作業中のBGMに向いている(モーツァルト効果とやらも期待できる)。

これに味を占めて、来月は別の作曲家の全集を、自分へのクリスマスプレゼントにする予定。


懊悩呻吟の期間

2016年11月05日 | お仕事

毎年のこの時期が私にとって最も苦しい。
懊悩呻吟の期間である。

研究者のはしくれとして、年2本の論文執筆のノルマを自分に課している(投稿側にとっての論文の数詞は「本」)。
いつも1本目は、 客観的な資料やデータに基づくので、資料収集などの手間はかかかるものの、手順通りに進めていけばいいので苦しさはない。

それに対していつも2本目(今月16日が締切)は、自分が構築している心理モデルの精緻化なので、自分の頭の中での格闘に費やさねばならない。
問題設定だけで結論が見えない段階で執筆を開始し、論旨を構造化し、試行錯誤を繰り返し、それなりの新規な結論に達しなくてはならないのだ。 

平日は勤務(授業と会議とそれらの準備とその他の事務処理と学生指導)に追われるため、ほとんど手が付けられない。
なので週末(土〜月:月は研修日に相当し、出勤しなくていい)に集中して進めるしかない。 

例年ならこの懊悩呻吟を、温泉宿に連泊して食事と温泉だけを気分転換に、昼夜通して(浴衣姿で)実行するのだが、今年は週末がゆったり使えず、帰省する用事もあるので、帰省して、図書館に通っている。

図書館はそれなりに集中できるが、残念ながら宿ほど長持ちしない(ヘッドフォンで音楽を聴けないためか)。

締切直前の来週末は推薦入試の稼働に使われるので、とにかく今回の土〜月の三日間が勝負。