今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

鶴見川を歩く1:河口〜新横浜

2019年03月31日 | 川歩き

里川歩きは、山歩きとちがって、早起きも装備もいらず、ふらりと出かけられる。
それでいてけっこうな長距離歩行になるので、休日の運動としては充分な効果。

川さえ選べば、ルートは川が決めてくれる(川沿いに歩くだけ)。
あとは、上流からか下流からか、右岸か左岸かを決めればよい。
今までの経験から、河口から始めて、水源をゴールにしたい。
右岸か左岸かはどちらに立ち寄る箇所があるかで決める。

都内の名だたる川はだいたい歩いたので、いよいよ他県に足を延ばそう。
以前、町田あたりで鶴見川を一部歩いたら、川沿いの歩道が整備され、
進行方向(上流側)に丹沢山塊が正面にひろがってとても気分がよかった。
ここはひとつ正式に鶴見川を歩いてみたい。

鶴見川は、その名の通り、横浜市の鶴見を河口とする川で、水源は東京の町田の多摩丘陵の奥。
全長は45kmもあるので、4回ほどに分けて歩くことになろう。


1回目の今日は、河口から新横浜あたりまで。
まず京浜急行の花月園前で降りる。
住宅地なので商店街は日曜が休み。
なので、歩く前の腹ごなしは、コンビニで買うおにぎりしかない。

おにぎり2つを入れた白い袋を持って住宅地を抜け、1mほど高い鶴見川の堤防に上がると、
河辺が白い干潟になっている(写真)。
ここは鶴見川河口の干潟で、白いのは全部貝殻。
河口の先には(写真中央)埋立て地が海に伸びているが、本来の河口はこの干潟で、
鶴見川の道程標もここが河口として出発点になっている。

大都市の河口の例にもれず、周囲は大きな建造物が囲んでいるが、
干潟側は住宅地で、人々の憩いの場になっている。
河口に干潟がある(残っている)川は、今までなかった(神田川、隅田川、荒川、渋谷川など)。
河口だけでも鶴見川は個性を発揮。 

まずは堤防の石段に腰を下ろし、水辺で遊ぶ子供たちを眺めながら、おにぎりを口に入れる。
干潟の上流側には釣り船がずらりと繋留されている。
川崎港と横浜港の間ながら近くに魚河岸もあり、魚が獲れるようだ。

さて、ここから鶴見川の右岸(下流から歩くと左側)を歩く。
鶴見川は、両岸の川べりと堤防上の両方に歩道がずっと続いているので、
ルート選定は楽だし、ずっと川を見ていられる。
1キロごとに道程標があり、ジョギングやサイクリング、犬の散歩の人たちとすれ違う(ずっと歩きそうな人はいない)。

さきほど乗ってきた京急線の鉄橋をぐぐると、左側に「鶴見川水難者慰霊供養塔」がある(写真)。
石塔は昭和5年に建てられたもので、さほど古くない千羽鶴(写真左の縦長ビニール袋)が奉納されていた。
特別な水害でなくとも、鶴見川にはよく水死体が上ったそうだ。 
だからこういう慰霊塔は珍しい。

東海道線などのJRの鉄橋をくぐると、対岸に横浜市の漕艇場がある。
さっきから、川上を漕艇用のボートが行き来していた。

第二京浜の道路を横断し、病院脇の下末吉公園では、テントを持出して花見の宴。
左側の自動車教習所越しに台地が見えてくる。
下末吉台地だ。
南関東の地層として有名な「下末吉層」由来の場所。
末吉橋を過ぎた所で、あえて一旦川から離れて、左奥の高台に向う。
そこには甲(かぶと)塚古墳があり、6世紀の古墳の上には太田道灌由来の兜塚があり、
さらに奥に上ると浅間神社がある。
神社のある稜線をさらに登ると、東芝のグラウンドの向こうに横浜中心部の高層ビル群が望める。

また川に戻り、堤防上の道を進む。
ここまでは、河辺の歩道が川に接していたが、
だんだん川と堤防の間に河川敷の空間がひろがりはじめ、草原や公園になっている。

新幹線の鉄橋をくぐると、河川敷が野球のグラウンドになっていて、
堤防の外側に公衆トイレがある(写真)。
これ幸いと男子トイレのドアをあけると、ドアには施錠用のでっぱりが出たままになっているので、
ドアノブ内を回して出っ張りを引っ込めてドアを閉め、
用を足して(ちゃんと手洗いもできる)ドアのノブを回すと、空回りしてドアが開かない。
トイレに閉じこめられた状態になったので、
あせってノブを回しているうちになんとかドアが開いた。
最初の状態にしてある理由が理解できた。
このトイレを使う時は、以上に注意。


東急東横線の鉄橋をくぐると、また左側に大きな自動車教習所が現れ、
こちらはバスやトラックなどの大型車にも対応している。
ここから先は、道も風景も変化のない単調な歩きとなり、
いいかげん退屈してくる(山道のような微妙な変化がないのが里川歩きの欠点か)。

川が左に大きく曲がり、川幅は幾分狭くなり、河川敷が自然状態になって、今までの下流とは様相がちがってくる。
行く手に新横浜の高層ビルや日産スタジアムの白い屋根が見えてくるが、かなり遠い。

左側が公園や浄水場になってくると、桜並木がずっと新横浜まで続く(写真)。
残念ながら花はまだ二分から三分咲きで、裸の枝の方が目立っている。
数日遅ければ、壮観のフィナーレとなったことだろう。

逆に今日は、退屈な風景の延長でしかなく、さらに左脚の付け根・臀筋が筋肉痛になってきた。
左脚ということは山の下りで痛くなる腸脛靱帯と同じ側。
実は、腰にコウノエベルトを巻いているので、アンバランスになった殿筋が鍛えられているのだ。
腸脛靱帯が痛むのも殿筋の弱まりで骨盤がふらつくためと言われている。
だからこの左臀筋の筋肉痛は、私にとって必要な痛みかもしれない。

道程標は河口から12kmを示す。
3時間はゆうに歩いた(時速4km)。
といっても山だったら3時間程度の歩きは、軽いハイキングで物足りないくらい。
平地の川歩きなのに3時間で辛くなるのはどうも解せない。
はっきり違うのは、歩く楽しさは断じて山(の中)が勝っていること。 

というわけで、身体的にも気分的にも限界にきたが、
次回は新横浜の1つ先の駅の小机から出発したいので(小机城趾立ち寄りのため)、
新横浜側にある、太田道灌が小机城攻略のために陣を敷いた跡地は今回まわっておきたい。

新横浜駅とは正反対の「ワールドカップ大橋」という自動車用の広い道を通って
鶴見川左岸に今回はじめて渡って、亀之甲山陣跡に達した。
実際にはそれを示す標識など見当たらなかったが、
ほぼ同じ場所の浅間神社からは、鶴見川の向こうの小机城趾がよく望めた。 


ここから、駅まで歩くには左臀部の筋肉痛がつらいので、丁度来た路線バスで新横浜まで乗った。
新横浜は今では都会の一角をなし、バスも渋滞に巻きこまれた。

新横浜駅の利用は、ラーメン博物館のオープン時以来で、横浜土産に崎陽軒の”シウマイ”(真空パック)を買う。
JR横浜線はホームも電車も満杯で、横浜市内の従来からの交通機関はキャパシティを越えている感じ。
菊名で東横線に乗り換え、武蔵小杉で鈍行の都営地下鉄に乗り換えると、やっとゆったり坐れた。

次回は、小机からということになるが、小机城趾から先は立ち寄る名所もなく、退屈しそうだ。

さて、5月4日に歩いたのは→鶴見川を歩く2へ 


内気(ないき)の理論☯

2019年03月30日 | パワー・スピリチュアル

体の気、すなわち内気(ないき)とは生命エネルギーであり、内気の枯渇は死を意味する。
あるいは外気が内気化することで生命が発生し、維持される
(外気は、非生物にも共通して作用する、普遍的な宇宙エネルギーである)。
内気についてはすでに古代の陰陽論で詳細に理論化されているため、それを私なりの視点で紹介してみる。

まず生命エネルギーとしての内気は、受精による精気に由来し、それが元気となって個体を維持する。
ただし親由来の精気だけでは元気(個体)を維持しきれないので、
外気を呼吸で清気として、飲食で穀気(営気・衛気)として取り入れる。
吸収された気から清気と穀気が合せて血液という宗気となり、
営気は血液で運ばれる栄養分となり、衛気(えき)はリンパ液や汗などの津(しん)液となり、それぞれ体内を循環する。
宗気と営気(すなわち血液成分)は陰で、衛気は陽であるという。

またこれらの気は血管以外にも通路があり、それを経絡(けいらく)という。
経絡は手足と五臓六腑とを結んでおり、12の経絡は陰経と陽経に分れる。
経絡上にも気の出入口があり、それが手足の指先にありそれを井穴(せいけつ)という
(すなわち鼻と口以外にも外気と交流箇所がある)。
五臓六腑という内臓器官は内気の製造・貯蔵がなされる場である。

面白いことに古代の中国医学には、脳と神経系が位置づけられていない(脳の存在は認められているが)。
その結果、心の働きが五臓(肺・心・脾・肝・腎)に分散され、
心理作用は身体の生理作用としての気の現象とされることになり
(日本語でも心の状態は気の状態で表現される)、心身一元論が成立している。

さすがに現代の中国医学では、脳神経科学との矛盾を避けるため、脳を心の臓の一部とみなしているが、
私にとっては、心理現象を脳の活動に還元する脳神経科学よりは、
身体的な気の作用の一部とする心身一元論の方に惹かれている。

ただ現代医学の心身一元論(システム0)にとって重要な自律神経が含まれないのは容認できないので、
前々稿で私は交感神経を陽、副交感神経を陰に分類しておいた。
あと動脈は陽、静脈は陰に、吸気は陽、呼気は陰に分類できる(陰陽は多層化しうる)。

さて、このように内気が保つ身体に対して、外気が外邪として侵入してくる。
外邪とされるのは六つの外気、すなわち風・寒・暑・湿・燥・熱の六気(ほら気圧が入ってないでしょ)
の異常状態である(今では細菌・ウイルスも含む)。
これらはまずは皮膚などの体表から侵入し、その下の衛気の防衛ラインを突破すると、
体内に浸潤して営気(血液)を傷つけ、更に臓腑に達して、重篤な症状をもたらす。
なので外邪が衛気に接した段階で対処するのが重要だとわかる。

また内側から病理が発する場合は、七情すなわち情動の亢進が原因となる。
まさに心身一元論である。
気の理論に精神論的要素は皆無に等しいが、これは内なる邪心すなわち内邪といっていいのではないか。

いずれにせよ病因側を邪気とすると、まずは健康な内気の正気と邪気との闘争状態となり、正気が負けると発病となる。
言い換えると邪気単独では病気にならない。

発病は体内の陰陽の失調という形をとる。
すなわち陰または陽が強すぎる状態()、あるいは陰または陽が弱すぎる状態()となる。
アンバランスにも実と虚の二様があるわけだ。
実証は、興奮・亢進状態で、虚証は、衰弱状態である。
なので、経過として実証→虚証という変化をとるので、実証の段階での対処が重要となる。
気・血・津液それぞれも異常現象があり、たとえば気が消耗する気虚、気が流れなくなる気滞気鬱)、
気が逆上する気逆などがある。

以上の気の病理的現象を総称して「病気」という。
気は心身一元論における身体状態を指すことから、「病は気から」という言葉を病気=心因性とする解釈は誤りで、気鬱をうつ病と限定して解釈するのも誤り。

主たる治療法として、
臓腑あるいは気血津液の状態の陰陽バランスを煎じ薬によって回復させるのが漢方、
経絡を刺激して内気とその先の臓腑の動きをスムースにするのが鍼灸、
経絡(特に体幹と頭部を縦に循環する督脈と任脈)を活発化して、外気を内気化あるいは内気を外気化するのが気功である
(内気の外気化は気功師側の治療行為)。

今回の内気論については、ほとんど既説(しかも古代の)の解説で終ったが、
これと前稿の気象(外気)の陰陽論☯と組み合わせて、
生気象学の陰陽論☯を構成してみたい。→「気の理論の生気象学」へ続く

主な参考書:『中医基礎理論』中医薬大学全国共通教材 浅野周(訳)たにぐち書店 、他。


気象の陰陽論☯

2019年03月29日 | パワー・スピリチュアル

生気象学は、生体に対する気象の影響を問題にするのだが、
それを気で表現すると、内気に対する外気の影響の問題ということになる。
ここではまず、外気としての象についての陰陽論を再構成してみたい。 

伝統的な外気としては温熱・乾湿があり、前稿でこれらに気圧を加えた。
ここでは前稿の気圧に温熱・乾湿を加えて、大気の陰陽を論じることにする。

そもそも地球の気象(大気現象)の根本要因は太陽放射(これも気)である。
太陽放射が地表と大気を昇温し、その不在で減温する。
またボイル・シャルルの法則により、気体の熱量(温度)は質量(気圧)に転換されるので、
寒気は重たいため下降流となり、高気圧を形成する。
寒も下降も陰であるため、高気圧も陰となる。
暖気は軽いため上昇流となり、低気圧を形成する。
暖も上昇も陽であるため、低気圧も陽となる(ここまでは前稿で言及)。

陽気は激しい動きになり、陰気は落ち着いて静かである。
たとえば熱帯低気圧は、水蒸気の凝結によって発生する熱エネルギーが運動エネルギーに転換されることで
巨大なエネルギーをもった台風となる。
このような熱→運動のエネルギー転換は陽気の特徴である。
であるから陽気(低気圧)はエネルギーが強いため、気象的擾乱として力学的作用(強風・波浪)をわれわれに与える。

その擾乱をもたらす風は、マクロ的には赤道と極地の温度差、
メソ的には低気圧と高気圧の気圧差によって発生する(ミクロ的には地形が影響する)。
風ベクトル(強さと方向をもつ)の元と先、すなわち風上→風下は、質量的には重い→軽いであり、
気象的には寒・高気圧→暖・低気圧となるので、
陰→陽と置き換えられる。
すなわち、大気の風は基本的には陰風なのである。

陰風であるから風は同じ陰の寒を伴いがちで、本来なら単なる風だけの”風邪”も、
実際には寒による寒邪となる(冬に風邪をひきやすい)。
ただし現実には陽風(南風)もある(たとえば低気圧が北に偏ると、南から陽風が吹き込む)。
陽風は寒邪ではなく、熱波を伴えば熱邪となり、また花粉など微粒子を運ぶ邪風になりうる。

空気中の水分も陰陽に分れ、乾燥=陽、湿潤(水)=陰に対応する。
液体としての水は下降するので陰であることは明瞭だが、
古代陰陽論では認識されていなかった水蒸気は熱を出して上昇するから陽である。
さらにになるのは陰であり、になるのは陽であることからも、
やはり水(液体・固体)=陰、水蒸気=陽となる(熱帯低気圧の項と関連)。
すなわち蒸発は陰が陽に変容する現象である(陽が陰に変容するのが凝結で、まさに陰陽は循環する☯)。

空気中の温度と湿度に気圧を加えると理論上は3bitの八卦となるが、力学的理由で8つすべてが実現するわけではない。

①熱湿低(陽陰陽:離)→熱帯、モンスーン、低気圧が発生しやすい。
②熱乾高(陽陽陰:兌)→砂漠、亜熱帯高圧帯
地球の子午線上には、熱帯の上昇域(陽)と亜熱帯の下降域(陰)のハドレー循環という力学的に陰気が陽気に変容する循環☯があるため、
湿と高、乾と低は両立しがたく③熱湿高(陽陰陰:震)・④熱乾低(陽陽陽:乾)は発生しにくい。
日本の夏を支配する太平洋高気圧は、海洋性のためやや③熱湿高(陽陰陰)的であるが、日本本土の夏の気圧は低めなので、①熱帯に近くなる。 

日本付近の温帯では、冬期に寒気が強くなる。
⑤寒湿高(陰陰陰:坤)→冷たいシベリア高気圧(強い陰陰)が日本海で湿気(陰)を受けると、
陰の亢進で陰なりにエネルギーが高くなり大雪(大陰)となる。
⑥寒湿低(陰陰陽:艮)→台風並みに発達する冬の北太平洋低気圧で、
シベリア高気圧と合せて日本の冬型気圧配置を構成する(本土には影響なし)。
等圧線を狭くしてシベリアからの 冷たい北風を日本にもたらす。
⑦寒乾高(陰陽陰:坎)→上の寒気から湿気が抜けると乾燥した北風(からっ風)となり、太平洋側の安定した晴天域をもたらす。
また⑧寒乾低(陰陽陽:巽)はより高緯度の極地低気圧である(極地にも循環がある)。

以上の陰陽3ビットによる八卦は、気象学的には等確率ではなく、因果連鎖が明確なので、占筮(下駄を放る)に頼ることなく、観測データによる科学的予測が可能となる。

読者とっては、低気圧=陽、高気圧=陰、というのが直感と合わないかもしれない。
なぜなら、高気圧下では晴天となり、明るく暖かい陽気を感じ、低気圧下では雨天となり、暗く冷たい陰気を感じるため。
地上の天気は、雲が一番影響する。
雲は大気中の水蒸気が凝結して発生するので乾湿が問題だ。
すなわち、乾=陽、湿=陰が天気(晴れ、曇り、雨)を作り、天気における暖冷は雲の有無による地上日射の結果なので二次的作用だ。
雲自体は陰であるから、天気として、曇り(空<雲)と雨(水)は陰で、晴れ(空>雲)は陽となるのは確か。
問題は、その雲の原因だが、雲を散らすのは高気圧の下降流(陰)で、雲を作るのが低気圧の上昇流(陽)なのだ
(電磁気力のように、陰が陰を遠ざけ、陽が陰を集める)。
また一般には高/低=陽/陰だが、気圧の高低は、天地の高さの差ではなく、地上での圧力の重軽の違いなので、高気圧/低気圧=重い(地)/軽い(天)=陰/陽の対応となる。
陰陽はかように原理的な物理作用(天地の理)であって、人間の主観的な印象ではない。 

また、陰陽と暦も微妙な関係にある。
古代から、陰が極まるのは冬至、陽が極まるのは夏至とされている。
すなわち暦の陰陽は太陽高度(昼夜のバランス)が規準であって、気温ではない。
冬至以降(夏至まで)は陽の期間で、夏至以降(冬至まで)は陰の期間となる。
すると一年で一番寒い1月は陽で(正月は陽の行事)、一年で一番暑い8月は陰に属する(盆は陰の行事)ことになる。
肌感覚にとって最も身近な寒暖の陰陽は、かように影響力が弱いのだ(ここでも、陰陽の原理は人間基準ではない)。

言い換えれば、陽期の前半(1-3月)は残陰が強く、陰期の前半(7-9月)は残陽が強いといえ、
陰陽の循環(交代)は(気圧や乾湿の循環も含まれる)複数の位相差がからみあった漸進的な現象といえる。 
ただし残陽・残陰も前半と後半の境である彼岸(春分・秋分)までであることは経験的にも知られている。

以上のように気象(外気)を陰陽の組み合わせで、古典的記述よりも詳しく表現できた。
この外気の陰陽の状態が生体にどう影響するかが、生気象学的陰陽論の問題となる。


生気象学における陰陽論☯:気圧の陰陽化

2019年03月28日 | パワー・スピリチュアル

陰陽論の再構成の試みとして、まずは既存の陰陽論では言及されていない領域を、
陰陽論で説明可能にしてみたい(いずれ、伝統的陰陽論の限界に達し、それを突破する必要がある)。

私の職場に気象現象で体調をくずす同僚がいて、10分ごとの気象観測をしている私(気象予報士なので)に、
本人の体調と気象実況との関連性について、相談を受けている。
その同僚の症状をみると、吐き気と下痢がいっしょにあったりと、中国医学でいう”津液”の代謝異常といえることから、
陰陽論に基づいている中国医学の解釈が可能な気がしている。

ただし、伝統的陰陽論は、大気(一番身近な外気)の温熱や乾湿を”外邪”としていても、気圧は対象となっていない。
それは古代では気圧という大気現象が皮膚感覚的にも知られていなかったからだが、
気象現象の基礎情報である(地上)天気図が、等圧線という気圧データで構成されているように、
気圧こそが気象現象の大もとであり、大気の挙動を端的に表したものといえる。

そこで私なりに、気圧現象を陰陽で解釈してみたい。

気圧(特定地点における空気柱の重さ)の変化は、大気の鉛直方向の変動である(水平方向の変動は風)。
すなわち気圧変動は大気空間における”(大)”の上昇と下降の運動を意味する。

上昇運動は陽であるから、気の上昇現象である低気圧は陽となる。
下降運動は陰であるから、気の下降現象である高気圧は陰となる。
また実際の低気圧は、気が”激しく”上昇する擾乱(強風、悪天候)なので、である点でも陽である。
それに対し高気圧は、”ゆっくり静か”に下降するので、である点でも陰である。

一方、生気象学では、低気圧が接近すると交感神経が興奮するため、体調不良になりがちだという
※:渡邊章範『その痛みやモヤモヤは「気象病」が原因だった』青春出版社 2015
そもそも人間の自律神経を構成する交感神経と副交感神経は、拮抗的に作用し、前者は生体を的、後者は的状態にもっていくことから、
交感神経は陽副交感神経は陰と対応できる(このように人体の生理作用も陰陽で分類できる。他に呼気と吸気、動脈と静脈など)。

中国医学では、体外の外気が体内の内気に作用するという(「易」も同様のメカニズムによる)。
たとえば、風の邪気が体内に侵入し、内気をかく乱すると、いわゆる”風邪”となる。
気圧は外気の現象であり、自律神経の活動は内気の現象である。 

ということで、低気圧の接近は陽の活発化であり、それに呼応して体内の陽気(交感神経)が亢進されるといえる。
逆に高気圧(陰)が接近すると、それに呼応して体内の陰(副交感神経)が優勢になり、落ち着く。

ただ、気圧だけが大気の鉛直運動ではない。
たとえば、昼と夜、すなわち太陽が天空に在るときと無いときはすでに陽と陰に対応されている(もちろん昼=陽、夜=陰)。
気象的にも、昼は太陽光で地面が熱せられて上昇気流が発生するので陽となり、
夜は地面が冷えるため気流が安定(上が軽く、下が重い)して(上昇気流がなくなり)陰となる。
となると、大気の鉛直運動としての陰陽は、気圧と昼夜の組み合わせの2bit(四象)となる。

それと生気象学での交感神経の作用を組み合わせることができる。
自律神経の活動に日周期があり、昼は交感神経優位(陽)、夜は副交感神経優位(陰)となり、まさに外気と内気の陰陽が対応している。
この定常的対応が基本であるが、これに気圧の変動が加わることによって、陰陽のバランスが崩れることになる。 

外気側の四象を地天の順で左右(縦書きなら下上)に記すと、地上の気圧・天空の順となり、以下の4パターンになる。
陽陽(老陽):低気圧・昼
陽陰(少※陰):低気圧・夜
陰陽(少※陽):高気圧・昼
陰陰(老陰):高気圧・夜
※小とも書くが、老に対しては少が適。

この外気の四象による内気(自律神経)への影響を考えると、
昼間に低気圧が接近する場合(老陽)、陽が重なるため、交感神経が過剰に興奮しやすくなる。
いわゆる自律神経失調症の症状が出やすい。
逆に、高気圧が夜に接近する場合(老陰)は、陰が重なるため、副交感神経が過剰に興奮しやすくなる。
身体的には内臓活動の亢進、心理的にはやる気がでず陰鬱になるおそれがある。
低気圧下での夜(少陰)は、気持ちが落ち着かない部分があるが、それを抑制する作用が働く。
陰陽のバランスがとれて安定しているように見えるが、動くべき時に動かないという悪い意味の安定ともいえる。
というのも低気圧の接近は気象災害をもたらす擾乱であるため、陰が災いして逃げ遅れるおそれがあるためだ。
高気圧下での昼は(少陽)、晴天で気分がいい状態で、陽気になるが落ち着いている。
陰陽のバランスがとれたよい状態といえる。

ただし多くの人は、気圧変化に対する感受性はほとんどないので、このような反応の差異は自覚されにくいだろう。

その一方で、上の同僚のように気圧の変化を感受する人もいる。
この違いは、人側の要因ということになる。 


布団の打ち直しを頼む

2019年03月27日 | 生活

名古屋宅の敷布団がぺったんこになり、布も擦り切れたので、
近所の布団店で”打ち直し”を頼んでみた。

もともとこの布団も、四半世紀前にこの店で買ったもの。

当時は、別に専門店で買うつもりではなく、徒歩圏内にたまたま店があったためで、
化繊の安物でいいと思ったのだが、店の主人に綿でないとダメだと言われた。
化繊だと体の熱を吸収して夏は暑苦しくなるが、綿だと熱を発散してくれるという。
そしてなにより、火災時に化繊は中の人を包んであっという間に丸焼けになるという。

職人肌の主人は、ダメな布団は売りたくないようで、言われるままに綿の布団を買った。
なるほど、言われたことの正しさは夏に実感した。 

頼んでから10日かかって打ち直された布団は、
せんべい布団の面影がまったく消えて厚さが3倍以上に膨らみ(まるでふかふかの掛け布団のよう)、布も新品に張り替えられた。
ほとんど新品! 

(昔のままの)主人によると、布団には前後裏表があるという。
短辺の側面に輪(縫い目がない)のある側が頭で、縫い目のある側が足だという。
その証拠に頭側に綿が厚くなっているという(知らなかった)。

それから、面のあちこちに綴じ紐がついている側が裏側だという。
それは中の綿を固定するためで、こちらを表にすると寝返りなどで紐が切れてしまうという。
これからは前後・裏表どおりに正しく使うことにする。 

主人はまた、客が布団の端を素手で握って持つのを見ると、痛々しくて正視できないという。
中の綿がちぎれるからだ。

また、作業は必ずしも注文順ではなく、赤ちゃんの布団を優先するという。
この世に生まれてきてくれた赤ちゃんに、できるだけ早く赤ちゃん用の柔らかい布団にくるまってほしいからだという(存在論的!)。

かようにこの布団店の主人は、布団への愛情、そして布団を使う人への思いに満ちた、実に”職人気質(かたぎ)”なのだ。
店自体は閑散として、繁盛しているように見えないが、
主人の布団愛を信頼してか、注文が絶えないようで、3月の年度末は特に忙しいという。

打ち直しの代金は1万円台中ほどだったが、支払いの段階で「セール価格だ」と言って数千円引いてくれた。
「何のセールなんですか?」と聞くと、
年を取ると金を使わなくなるからと言い訳をしてくれたが、
いい歳した実年男(私)が学生が住むようなワンルーム暮らしなのを知って、
経済的な困窮者だと思ってくれたようだ。
かように金儲けに執着しないのも”職人気質”ならでは。

客としても、こういう”職人(仕事人)”から、単なる商品以上の心のこもった物を買えると嬉しくなる(当然、その物を大切にしたくなる)。
新興タウンのショッピングモールとちがって、昔ながらの町中にはこういう店があるからいい。


陰陽論☯の再構成へ向けて

2019年03月26日 | パワー・スピリチュアル

究極の存在である”太極”が、陰または陽という排反的性質を帯びて動的に作動しているのがこの世界(人体〜宇宙)である、という陰陽論☯は、
素粒子にかかる4つの力の1つ電磁気力に対応できるくらいの普遍性をもっている。

たとえば、量子論の泰斗N.ボーアは陰陽論が大好きだったという。
この陰陽論は、現代の科学的思考で再構成することによって、
古代的前科学思想から脱却すべきであるし、脱却できる可能性をもっている。

ちなみに陰陽論を補完するために漢代あたりにくっつけられた五行思想は、
ギリシャやインドにも共通する古代の素朴な(肉眼レベルの)”元素論”の1つだが、
近代科学以降の分子論・原子論そして素粒子論の前では元素論としての生命は絶たれているので、
陰陽論の価値を低めないためにも分離し捨て去るべきである。

実際、たまたま5つある物以外については”牽強付会”でしかない五行思想は、
近世的合理思想に達した江戸時代の儒学者たちに忌避され、
また心身二元でなく気(陰陽)一元論を基礎におく現代中国医学においても、
五行的作用は臨床的証拠に合わないとして採用されていない
(五臓論において辛うじて伝統的位置をたもっているが、
実質的な作用、たとえば相生・相克は認められていない)。

科学をはじめとする学問は、理論的あるいは実証的批判によって、
誤った過去に執着することなく理論を改訂していくべきものである。
陰陽論は、過去の教典に無批判に準拠する宗教(信仰)ではなく、
この世(宇宙)の原理を説明するとして、人間の知性・知見とともに進歩すべきものである。

これが私の陰陽論に対するスタンスだ。

このスタンスに立って、陰陽論の再構成を試みていく。
陰陽論(気一元論)こそ、近代心理学が乗り越えられない”心身二元論”を超克できるものと期待している。

陰陽論の原理は次の2つに集約される。
1つは、陰と陽との相互性・相対性である。
陰と陽とは単純な対立関係ではなく、相互作用をし、和合し、互いに転化する
(陰と陽は性質の違いであって、組成はともに太極である)。
陰陽どちらかが勝つのではなく、均衡(調和)が志向される。
すなわち動的平衡作用をもつ。
これは陽の”動”と陰の”静”とが高次で均衡している状態である。

2つは、陰陽の2進法的重層性である。
陰陽論は世界を2分割しておしまいの素朴な2元論ではない。
世界は陰陽のペアで重層的に構成されているとみなす。
逆にいえば、複雑な組成を陰陽のビット(bit)で分解できる。

古典的な説明をすれば、太極がまずは陰陽の二気に分化し(1bit)、
二気にさらに1bit追加して四象(2bit)となり、
さらに1bit追加して八卦(3bit)となる。
すなわち3bit(陰陽3層)で、世界を2の3乗=8(乾兌離震巽坎艮坤)で説明できる。
さらにこの八卦を二重化して、6bit(64通り:乾為天〜坤為地)で世界を動的に説明するのが「易」(変化の書)である。

この原理でいけば、bit数をn個に増やせば、2のn乗の要素で世界を説明できる。
現行のノイマン型コンピュータと同じ原理である。
これが陰陽論の論理構造だ。
この論理構造に上述した陰陽のダイナミズムが加わることで、事物の生成・変容を重層的に説明できる。

「生気象学における陰陽論☯」


空気微粒子の計測開始

2019年03月25日 | 計測

私こと”計測マン”の進歩は留まるところを知らない。

計測マンの計測対象に、今春から、空気微粒子が加わった。
すなわち、PM2.5,PM10,PM1それにホルムアルデヒド(HCHO),
さらにHCHOを含む総揮発性有機化合物(TVOC)である。
PM系は大気中のエアロゾルで、2.5 は硫酸塩、10は花粉が含まれる。

計器は日本製のairmon と中国製のAir Detecotr。

前者は、スマホ連動で、PM2.5とPM10を計測しスマホ画面上で評価してくれる。
データはスマホに蓄積される。
定点観測的な用途だが、防水でないので、屋外に置きっぱなしにはできない。 

後者は、上に挙げた5項目を計測する。
シックハウス症候群の原因物質・ホルムアルデヒドなどが中心で、屋内のあちこちを測るもの。
HCHOもTVOCの値が一定値を越ええるとアラームが鳴る。
屋外だとHCHOもTVOCも値が正しく0になる。
30分で自動的に電源が切れる。

両者が共通するPM2.5とPM10を同じ場所において同時に測ってみると、
微妙に計測値が異なる(桁までは違わない)。
いずれも2,3千円台程の安物なので、 数値にこだわるより、おおざっぱな判断の参考にする程度だ。

一番気になるPM2.5もPM10も、屋外でもともに1桁のμg/m3なので空気は清浄といえる
(25-50μg/m3以上だと問題)。


横浜都筑区の歴史散歩:茅ヶ崎城趾

2019年03月24日 | 城巡り

春分も過ぎ、春めいてきた24日の日曜。
山城巡りとして、神奈川県の茅ヶ崎城趾に行くことにした
(ホントは山に行きたかったが、この歳でも早起きが苦手)。
茅ヶ崎城といっても、所在地は湘南茅ヶ崎でなく横浜市都筑(つづき)区。

私自身、横浜は桜木町や関内(中華街・山下公園)くらいしか知らず、
横浜市の内陸側はどこがどうなっているのか全くわからない。
茅ヶ崎城は、名前は聞き覚えのある「港北ニュータウン」の近くらしい。
その地はおおざっぱにいうと、横浜市の北側で川崎市寄り。
そこへは東横線の日吉(慶応大キャンパスがある)から、横浜市営地下鉄で行けることがわかった。 
日吉へは(渋谷で乗り換えなくても)家の最寄地下鉄駅から直通で行ける(実際には急行に乗り換えて早く着く)。 

横浜市営地下鉄(名古屋市営のと同じく狭めの車両)の「センター北」という駅で降りると、
いかにも新興のニュータウンという感じの賑わいで、駅の隣りに巨大ショッピングモールがある。
その中のフードコートのリンガーハットでチャンポンを食べようと館内に入ると
(ラーメンは選択肢から外しているが、野菜が豊富なチャンポンはOK)、
館内には食料品はもちろん、ユニクロもブックオフもダイソーもあり、子どもの遊び場もあって、
日曜など家族連れで買物ついでに館内だけで一日すごせそう。
ただ古い商店街が好きな私は、消費生活を1つのモールに依存したくはないなぁ。

さて最初に行くのは、モールの南にある横浜市歴史博物館(入館料400円)
史跡巡りをするなら、その前に地元の博物館で基礎知識を得てからの方がいいので、まさに好都合。

展示は広い1フロアに年代順に展開されており、展示物は多くはないが、
すべての説明ボタンを押して丁寧に見てまわる。
この地に博物館ができた理由の1つでもある、道路向いの大塚・歳勝土遺跡(弥生時代の住居跡)のジオラマも、
現地に行く前に見ておいた方がいい。

古代(律令時代)の展示を見ていたら、暇だったボランティア解説のおじさんがやってきて、発掘された都筑郡衙跡の説明を始める。
そう、ここ都筑の地は、吸収元の横浜よりも古く、古代から郡名としてその名があり、さらに弥生時代に100名を越す大きな集落があった。
もちろん、縄文遺跡もあれば、古墳もある。
郡衙があったということは、同じ武蔵国の国衙(東京の府中)への幹線道が通っていたわけだ。
そして中世の城もある。

駅から降り立った第一印象では、この地は歴史をまったく感じさせない建物も道路もすべて新しい人工的な街にしか映らなかったが、
実は数千年の歴史が重なっている地であることがわかった。

ついでに、都筑は武蔵国として、その南の久良(くらき:横浜中枢部)とともに西側で相模の国と境を接している。
武蔵の国がこんな南にまで伸びているのが前から疑問だったが、解説のおじさんによると、本来、武蔵の国は多摩川が南限だったが、
この地は武蔵の行田(埼玉県行田市:武蔵最大のサキタマ古墳群がある)にいた一族の支配地で、
一族間の争いに敗れたため、武蔵を支配していた一族に譲られたのだという。
なるほど。 

さらに横浜の現在の繁華街は近世初期になって新田として埋め立てられた入海の跡だということも知った。
かくも情報量が多かったため、博物館の1フロアだけで2時間も費やした。

さて実物の遺跡巡りとして、道路向い(東側)の高台にある遺跡公園に行く。
弥生時代の住居跡地である大塚遺跡には竪穴式住居が幾棟も復元されている(写真)。

住居外の墓地跡は歳勝土(さいかちど)跡になっている(いずれも国指定史跡)。
あと江戸時代の古民家(長沢家住宅)も公園内の都築民家園に移築されている。
これらを含んだ一帯は公園化されており、家族連れで賑わっている。 

これらを一通り見て、南に進み、交差点の大きなゴリラ像(地元のシンボルという)を見上げて、
向側の丘陵にある茅ヶ崎城趾に達する。

ここは文献史料に乏しく、城主も不明だが、4つの郭(くるわ)がほぼ完全な形で残っていて、
横浜市指定遺跡になっている。
そのうちの中郭には建物跡が発掘されている(住居ではなく倉庫であったよう)。
また関東管領の上杉氏にゆかりのある渦巻文様のかわらけが多数出土されているという。

この後、地下鉄に乗って、3キロほど先の小机城にも足を延ばそうと計画していたのだが、
博物館で思いのほか時間を使ってしまい、夜は、甥と姪の卒業祝いを兼ねた姪の誕生会を予定しているので、
ここらで切り上げて降りた駅の1つ先の「センター南」駅から帰途につくことにした。 

小机城は、鶴見川沿いにあるので、計画している「鶴見川歩き」の折りに立ち寄るとするか。 


3大地図アプリ比較:Appleマップの使い道

2019年03月23日 | パソコン・メディア

スマホやタブレットで使う地図アプリを複数インストールしている。
山歩きに使う地形や標高などが詳細な有料アプリではなく、
無料の汎用アプリの間での使い勝手を比較してみた。

比較したのはこの3つ:Google Maps,Yahoo Map,そしてApple マップ
(以下、Google、Yahoo、Apple)。

私は、これらの汎用地図は街歩きに使うので、その視点でチェックした。
チェックした地域は実際の状況がわかる自宅(実家)周辺。 

まず地図の詳しさ(情報量)と正確さはGoogle※に軍配が上がる。
不正確さで評判となったAppleだが、Yahooにも同じ場所の誤りがあった。

※ ゼンリンと決別した最近のGoogle Mapsに不具合が指摘されているようだが、
今回のチェック地域では不具合といえるものは確認できなかった。 

特にGoogleが優れているのは、名所・文化財の表記で、これは独壇場といってよく
(他の2は無し)、街歩きの必須情報としておおいに使える。

更に、神社境内や公園内の抜け道は、Google○(きちんと表記)、Yahoo△(部分的に表記)、Apple×(表記なし) の評価順。
この表記がないと不必要に大回りしてしまう。 
Googleも100%正確ではないが、実用には支障がない。

寺社ではなく道沿いにある小さな祠や地蔵尊も、Google○、Yahoo△、Apple× の評価順。
これもブラブラ街歩きにとってありがたい。
さらに街中のATMについてもGoogle○、Yahoo○(メニューで表示)、Apple×の評価順。

このままではAppleの立つ瀬がないが、実はApple固有の強みがあった。

街歩き中にどうしても立ち寄りたくなる公衆トイレはApple○、Google△、Yahoo×の評価順となった。
Googleは多機能トイレの表記があるが、見落とし箇所があり、公衆トイレの精度ではAppleに負ける。

また歩き疲れた時に探したいバス停についてもApple○、Yahoo△、Google×の評価順。
つまりAppleの表記が最も正確で、Yahooは新しい(といっても数年前)バス停の表記がなかった。
Googleはバス停表記そのものがない。

以上から、街歩きに使うなら、基本はGoogleがいいが、
公衆トイレとバス停を探す時はApple
を使うことになる。
Yahooは街歩き用としては中途半端だ(カーナビではお世話になっている)。 

徒歩ナビとしてルート選択機能を比べると、Googleはちゃんと抜け道が使われ、しかも第二候補も出るので一番いい。
YahooとAppleは抜け道が使われず第一候補しかでない。
ちなみにGoogleと同じ裏道(≠抜け道)ルートが選定されたのはAppleで、
Yahooはそれよりやや遠回りの大通り沿いのルートだった。
また同じルートでもYahooよりAppleの方が所要時間が多めに出る傾向にある。
歩行中のナビゲーション機能はたいして差がない(私は地図を見ながら歩くので音声案内は不要。というより裏道の細かい右左折にナビが追いつかない)。

街ではなく、郊外の丘陵ハイクなどでの使い勝手を比較すると、
画面を拡大すれば等高線が表示されるのはYahoo。
ただし歩道などは表記されないので、実際には地形専用アプリを使うべき。
Googleは設定を「地形」に変更すれば陰影の立体感は出せるが、
等高線の見やすさはYahooに及ばない。
これらの表示機能がないAppleは、道路と建物施設がないアウトドアでは情報量が0に近く、
地図として使えない(道路沿いの公衆トイレとバス停専用)。 

ちなみに山歩きに使う有料の地形アプリは、精度が国土地理院の地形図レベルなので、
平地での道以外の人工物の情報密度が低く、街歩きでは汎用アプリに劣る。


イチローという平成が終る

2019年03月22日 | 時事

マリナーズのイチローがとうとう引退を表明した。

昨年から引退は秒読み段階に入っていたものの、日本での公式試合まで延期されていたようだ。
そしてこの最後の2試合、打球が内野を越せなくなった打者イチローをファンとしては観るのが辛かった。
ただ、試合の場で”限りを尽くした”のはアスリートとして立派な”最期”だ
(アスリートをサムライになぞえるなら、サムライは戦さで討死するのが理想だから)。

結果はともかく、打席の一球一球を固唾を呑んで観たのは、
イチローの打席だけだ(WBCの決勝戦を思い出す)。 

昨晩は、試合後に会見があるというのに試合が延長で延びてしまい、
帰れない観客とテレビ局はたいへんだったろうが、幸い実家のBSで会見まで観れた。

記者会見での質問は相変わらず凡庸なものだったが、
それに対する答えがイチローならではの非凡(凡庸な質問者の想定外)なものだったので、
答える側が非凡であれば、質問は凡庸でもかまわないかと思った
(質問者が非凡を気取る必要はない)。

結局、イチローの引退を受けて、なるほど、やっぱり平成が終るんだと実感した。
平成3年にプロ入りしたイチローは、平成そのものを生きたスーパースターだった。
将来、”平成”を思い出すには、”現役時代のイチローの頃”を思い出せばいい。 

われわれは彼の活躍をリアルタイムに経験できた。
自己に直接かかわらない無関係の他者の行ないを観るという経験も、
自分の人生を構成する要素となる。

他者(同種他個体)は、自己に外在しているだけの単なる物ではなく、
”他なる自己”すなわち自己の延長としての外在的自己(自己性と他性が混合している存在)だからだ。
逆に言えば、個我は、社会という大きな”自己”の一部といえる。
だから体験を共有できるのだ。


江戸下町=日本橋の寺巡り

2019年03月17日 | 東京周辺

東京ではなく江戸の下町といえば、それはもう日本橋(にほんばし)界隈に限定される。
今でも中央区日本橋一帯は、「日本橋」の後に昔ながらの町名がついて、細かく区切られている。
その一画、日本橋人形町(にんぎょうちょう、以下「日本橋」を略)にある大観音寺は毎月17日が本尊大観音の開帳日。

地下鉄日比谷線の人形町駅から地上に出ると、昔を偲ばせる横丁の一画(写真:道の左側が寺の階下。
右側に芸者さんの置屋があったという)、ビルの片隅の階段の上に大観音寺がある。

寺の前では、地元のキャラ?のぬいぐるみたちが人形町のスタンプラリーを宣伝している。

まずは、腹ごしらえに立ち食い蕎麦の店を探す。
実は、出発前に評判の店を調べてきたのだが、ビジネス街と化しているため、
食べたかった店はいずれも日曜休業だった。
仕方なしに目の前にあったチェーン店の「富士そば」に入る(チェーンだが店ごとにオリジナルメニューがある)。
ただ、食べ終ってよく見たら、大観音寺の道路を挟んだ向い側に地元らしき蕎麦店を見つけたが後の祭り。

さて、大観音寺の小さな本堂では法要が終ったばかりで、出てくる人たちと入れ替わりに本堂に上って、
前立ちの観音立像とその背後の鉄製の大観音の頭部を拝観。 
この大観音、もともと北条政子が鎌倉に建てた新清水寺の本尊だったが、
紆余曲折を経てこの寺に祀られるようになったという。

今日の開帳日を目指してなのか、着物姿のお姉さんたちが団体でお参りに来た(着物を着た外国の観光客ではない)。
おかげで境内が一挙に江戸下町にふさわしい雰囲気になる。 

若い親子連れが参拝に来て、若いお父さんが、小さな子どもに神社式の参拝の仕方を教えている。
実に残念な光景だが、まぁキャップを被った若いお父さんにしては心懸けは殊勝なので、
誤りを正すおせっかいはしないでおいた。 

さて、次は北に進んで、江戸時代の富くじの地であった富塚がある堀留町(ほりどめちょう)の椙森神社に立ち寄って、
広い交差点の小伝馬町(こでんまちょう)に達する。
「こでんまちょう」っていい響きだ。
イナセなお兄さんが、「てやんでぇ」とか言いながら肩で風切って歩いていそう。

ここには大安楽寺という、目の前の牢屋敷跡とセットの寺がある。
狭い境内では屋外の地蔵と、屋内に祀られた八臂の弁財天(写真)が拝めるものの、
それらに接近すると防犯ブザーが鳴るしくみになっているので(しばらくすると止む)、
ブザーをききながらの拝観を強いられる。

隣りには日蓮宗の身延別院があり、油かけ大黒などがある。
これらの寺の向い側が十思(じっし)公園となっていて、
そこは牢屋敷跡(八百屋お七や吉田松陰が入れられた)と時の鐘の跡地でもある。

ここから東に向きを変え、馬喰町(ばくろちょう)を抜けて、
薬研堀(やげんぼり)不動院に行く。

この不動院もビルに囲まれた一画にあって、階段を上った2階に狭い本堂がある。 
紀州の根来寺から来たという本尊の不動像は小さく、その廻りに弘法大師像などがある。
この寺、今では川崎大師の東京別院になっている。
本堂下の屋外には講談発祥の碑と順天堂発祥の碑がある。

かように日本橋界隈は江戸の歴史が詰っている。 
以上の寺巡りの種本は、宮澤やすみ著『東京仏像さんぽ』(明治書院)。

さて、帰路につく。
薬研堀に一番近い駅は、都営地下鉄の「東日本橋」だが、
都営地下鉄は乗り継ぎが割高なので、北に向ってJRの浅草橋に向う。
途中渡る神田川にかかる橋が「浅草橋」だから、その近くにできた駅が「浅草橋」となった(浅草からは遠い)。
神田川は隅田川(大川)に合流する河口近くになっていて、
大川で遊ぶ屋形船がずらりと繋留されている。
これも江戸情緒といえる。

しかしなんで浅草から遠いこの橋が浅草橋なのか。
江戸下町にしてすべての道の起点である「日本橋」側から見ると、
この橋から蔵前を通って浅草へ向う道が始まるということか。 

その浅草橋駅に着いたが、まだ歩き足りないので、ここからさらに北上して御徒町(おかちまち)まで歩いた。
江戸下町である日本橋や神田は「〜町(ちょう)」なのだが、
その外では「〜町(まち)」となる。
前者は都市部の一画を示し、後者は道沿いの密集地を差すのか
(もっと外側の荒川区に「町屋(まちや)」があり、その先から街道の「宿」が始まる)。 

結局、人形町(ちょう)から御徒町(まち)まで歩き、いいウォーキングになった。


富士駅近くの寺に墓参

2019年03月16日 | メモリアル

卒業式も終えたので、春休みとして、18切符で帰京の途につく。
ただし、今回は、静岡県の富士駅で途中下車。

この駅近くの寺に墓参のため。
学生時代の友人がその寺の住職だったのだが、亡くなったのだ。

友人といっても私が名古屋の大学に就職する時に、
祝いの席に来てくれたのが生前会った最後なので、かれこれ四半世紀は会っていなかった。 
一昨年に訃報を間接的に知り、18切符で富士駅を通るたびに寺を見ていたので、
いつか途中下車して墓参に立ち寄ろうと思ってたが、なかなかその一歩が踏み出せなかった。
今回、別の友人の半強制的な誘いによって、やっと墓参が実現した。

その友人と富士駅で落ち合い、献花用の花束を買って、寺に向った。
奥さんに案内されて、まず墓参をした。
歴代住職の墓をまとめた新しい卵塔を造った彼は、自分も入る墓を造ったことになり、
その新しい墓の唯一の墓誌に彼の名が彫ってあった。
寺の内部を案内され、あとは3人で故人を偲ぶ話をした。

その寺は、生前の彼によって、屋根の上にチベット仏教風の搭を作り、
またビルマの涅槃像が講堂に本尊として据えられている。
寺の宗旨は曹洞宗だが、そのたたずまいは町中の禅宗寺院としては、はっきり言って異様だ。
それは、彼の視野が、彼にとっての寺の在り方が、
一宗派や日本の慣習的仏教に限定されない、仏教全域を包含しているためだ。
本来の仏教の在り方を彼なりに追求し、形として実現したことになる
(資金的な苦労もあったろう)。 

型にはまらない行動力は学生の頃からあった。

ただ、彼なりに強いストレスを受けていたようで、永平寺での修行時に大病を患って手術をし、
それが結果的に、最期を早めてしまった。

早すぎる死ではあるが、彼が形として実現した寺を見れば、
彼自身の人生を全うしたといっていい。
実際、彼は病を従容と受け入れ、治療に専念することをよしとしなかったという。
奥さんからすれば、彼は生き急ぎすぎたような印象だという。
彼からすれば、やりたいことを先延ばしせず、”今”を懸命に生きたのだろう。

そういえば、かの日本曹洞宗の開祖・道元も50代で亡くなった。
なしとげられた業(わざ)は、寿命の長さに比例するものではない。 


卒業・修了式に出席

2019年03月15日 | お仕事

勤務先の大学の卒業・修了式(大学院は卒業ではなく「修了」という)に出席。
私は今年度から役付き(研究科長)になったので、それなりの役割がある。
まずは舞台上の最前列、学長・理事長の並びに着席することになった。
もちろん礼服着用。

緞帳が上ると、1階の座席は晴れ着姿の卒業生で満席。
なにしろ我が校は女子大では日本最大規模なのだ。
この壮観を見渡したいが、彼女たちから逆に視線を浴びている側なので、
壇上最前列でキョロキョロするわけにもいかない。 

最初に全員で校歌を歌い(歌詞カードが手元にある)、
次は学長が大学院と各学部の代表に学位記(卒業証書)を渡す。
学長や学生代表が壇上を行き来するたびに我々側にお辞儀するので、
そのたびにこちらも座ったままお辞儀を返す。
そう、私はお辞儀要員。

学長、理事長が”送る言葉”を話し、修了生と卒業生の代表がそれぞれ”お礼の言葉”を述べる。

最後は、また全員で「蛍の光」を歌う(歌詞カードなし)。
歌ってみると確かにこの歌詞は卒業式にふさわしい(だだし、勉強は明るい照明の元で)。 

ホールでの式典は終わりだが、本日の式はまだ後半がある。
この後は、研究科・学部学科ごとに部屋に移動して、そこで個別に学位記を渡す。

私は研究科長として、当該の修了生一人一人に学位記を渡し、
最後に餞(はなむけ)の言葉を述べる。
これは私単独の役目なので、本日は休むわけにはいかないのだ
(一般の教員は出席の義務はない)。
研究科の修了式は人数が少ないのですぐ終わった。 

だがこれで終了でない。
学科の部屋に行って、100人以上いる学科の授与式に1教員として参列し、
授与される学生一人一人に拍手を送る。
そして最後に教員一人づつ餞の言葉を送る。
最後の最後まで、教え子を訓導したがるのが教師の性(さが)だ。

私は何を語ったかというと、
大学院生の修了式では、18年もの学歴の最後なので、
これからは自分が自分の指導教員になるようにと述べ(実はこれ涅槃経の受け売り)、
学科の卒業式では、学生時代に得た友こそが宝であると述べた。

実際、父の葬儀の時、
父の学友の方から、われわれ家族(妻や子)が知らない青年期の父の話を聞いて、
家族以上に人生を長くつきあう学友とは、実に貴重な人たちだと痛感した(家族にとっても)。
本日卒業・修了する学生たちも、その友を得て巣立っていくことを願う。 


震災を忘れたくない理由

2019年03月11日 | 東日本大震災関連

震災8年目の今日、私は明日の仕事のため、
18きっぷで6時間かけて帰名(名古屋に帰ること)の途についた。 
帰宅したら、一昨日岐阜を震源とする地震(名古屋で震度3)があったので、
飾っていた円空彫りの不安定な仏像が倒れていた。 

ここ数年、被災地との接点をまったくもっていない。
仕事が忙しくなり、遠出もままならないし。
これを”風化”というのだろう。
時間の法則だから致し方ない。 
むしろ、被災地の地元では「忘れたい」という人たちもいる。 

それでも、私にとって人生でもっともショックな出来事であったのは確か。
せめて今日3月11日くらいは、勝手ながら、あの日を思い出し、
被害に遭った方々に思いを馳せたい。

東日本大震災を題材にした本はたくさんあるが、
映画(自主映画的なドキュメンタリーではなく、商業ベースに乗った作品)は意外と少ない。
レンタルショップで借りられるのは、 津波被害では『遺体』、原発事故では『太陽の蓋』くらいか(原発事故の被害としては完全なフィクションだが『希望の国』)。
『遺体』は被災地以外の人に観てほしい(被災地の人は辛い過去が再現されてしまう)。 
→関連記事「わすれたい映画」 

東日本の太平洋沖では相変わらず地震が多いが(エネルギーは小さいので内陸への影響はほとんどなし)、
最近は南海トラフ内側(中央構造線の南側)の地震も多くなっているのが不気味だ。

「天災は忘れた頃にやってくる」という寺田寅彦の格言に頼って、
「忘れない」ことで次の天災を防ぎたい。 


高尾山薬王院の火渡り祭に参加

2019年03月10日 | 東京周辺

3月の第二日曜は、高尾山薬王院の火渡り祭の日。
この行事、とても有名で(都民で知らない人はいなかろう)、しかも高尾山にはよく行く身ながら、一度も参加しなかった。
今まで、高尾山は軽いハイキングの対象でしかなく、そして真言宗に対して距離感をもっていたためだが、
最近、高尾山を霊山として再認識し、同時に真言宗がぐっと身近になったため、にわかに参加する気になった次第。
そう、真言宗の儀式は”参加することに意義がある”のだ。

うれしいことに開始が13時と遅めなので、都心部に近い自宅からでもゆっくり起床して行ける。
しかも場所は麓の広場なので高尾山口駅から近い。

今回のように山に登らずに訪れる時くらいは、高尾山口で名物の”とろろ蕎麦”を食べたい。
高尾山口は、深大寺に並ぶほどの名物蕎麦店の密集地なのだ。

その中で甲州街道沿いのオリジナリティある土産物屋を併設している日光屋で”山芋天ぷらそば”を食べた。
そしたら粗品として火渡り祭の刻印のあるキーホルダーをくれた。

開始30分前に広場に達する。
まずは300円出して「火渡証」のお守り札を買う(必須ではないが皆買う)と、足ふき用のウエットティッシュ(高尾山温泉提供)を1袋くれた。
この札は長い紐がついていて、首から下げる。

火渡りの行場はすでに見物客に囲まれている。
火渡りに参加する人の行列は、その奥に2列で延びている。
かように見物と参加は別の配置なので、参加の列に加わる。

 13時となり、法螺貝の合奏が響いて、僧侶たちが入ってきた(ベースは修験道なのだ)。
ただし、行列からは遠いし、見物客たちの人垣でよく見えない。
読経が始まり、不動像の前から濃い煙が勢いよく上がる。
着火したわけだ。
やがて、赤い炎が高く舞い上がる。
不浄を焼き尽くす炎だという。
望遠でその写真を撮ったら、炎に顔があり両腕を上げている姿となって燃えているではないか(右写真)。

ただ、これからが長く、1時間半は続く。
行場では、行者たちがいろいろな事をやっているらしいが、
それがまったく見えないわれわれ行列者たちには退屈な1時間半となり、
立ちっぱなしの私はiPadminiを取り出して電子書籍の読書をする。 

やっと行列が動きだした。
すると見物客たちもぞろぞろと行列の後尾に加わってくる。
最初から行列に加わるより、見物→行列の方がよかったか。
なにしろ、火渡りは次々と進むから。

行列が進み、火渡りの行場の手前で、
皆いっせいに靴を脱いで裸足になり、ズボンの裾を上げる。
地面は小石が散乱しているので、足の裏が痛い(これも修行と思って我慢)。
行場内は撮影禁止なので、デジカメのカバーをかぶせ、帽子を取って鞄にしまう。 

2列だった行列が左右に分れ、それぞれの列が火渡りに向う。
行場内では、山伏姿の人たちが「オンバロダヤソワカ」と水天の真言を合唱している。

その真言の合唱が響く中、まず入口で雪に見まがう白い塩が敷かれた所に立って足の裏を浄め、
合図に従って、一人ずつ左右に炎が残っている整地された通路に向って足を運ぶ。
緊張の瞬間だ。
動揺を鎮めるため、自分も「オンバロダヤソワカ」と真言を連呼する。
真言を唱えながら通路の上をスタスタ進む。
足の裏はちっとも熱くない。

歩いた先にまた塩が敷かれており、それを踏み、目の前の不動像に賽銭を入れて合掌する。
出口に向うと、僧侶がいて、言われるままに左肩を向けると、左肩に金色の五鈷杵を当てられ、行場から出る。
出た所で、ウエットティッシュで足を拭き、靴を履く。 

行場内では撮影禁止だが、外からは撮影できるので、iPadに装着できるサーモグラフィで火渡りの現場を撮影した。
温度分布を見ると(右写真)、通路両脇の炎が見える所(画面で白く飛んでいる所)はさすが、150℃以上で計測不能と出た。

そしてその白い部分に挟まれた通路上(+印)は45.9℃だ。
これなら心頭滅却しなくても大丈夫だったな。