今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

新型コロナウイルス騒動の今

2020年01月31日 | 新型コロナウイルス

私があえて言うことではないが、武漢発祥の新型コロナウイルス感染に対する、日本政府(厚労省)そして WHOの対応については、正体不明のウイルスに対するものとしては、”最悪の事態を想定する”という防災の原則から外れた、後手後手の対応ぶりにイライラしっぱなし。
本気になって”防ぐ”という覚悟がみられない。
こういうのは、先手を打たないと意味がないのだ(それが”防ぐ”ということ)。

不幸中の幸いなことに、このウイルスの毒性や感染力は(今の所は)さほど強くなさそうなのだが、それは結果論であり、そうでなかったら、今ごろ日本国内もたいへんなことになっていたろう(感染しても症状が出ない場合あるのが不気味で、症状を前提とした防疫体制ではダメだということ)。

武漢を閉鎖することで500万の住民を国内外に拡散させた行為を賞讃するWHOにもあきれた。
人命よりもチャイナ・マネーか。

旧正月ならぬ新正月にインフルエンザを患ったばかりの身ながら(しかも過去肺炎を2度患った)、今は学年末の膨大な採点、入試業務、大学院の入試と修論審査が続く、一年で一番ストレスフルな時期なのだが、いずれも絶対に休めないので、自分自身の防疫対策を万全にしなくては。

とはいっても、名古屋宅周辺のドラッグストアやスーパーのマスクの棚は軒並みからっぽ。
幸い、以前からの買い置きがあるし、感染予防としてはマスクよりは手洗いの方が有効なので、手洗いを手術前の外科医のように丁寧にやり、さらに手で顔を触らないようにする。
寝るときは、サージカルテープを口に縦に貼って、就寝中に口を開けないようにする。
上述した時期だが、ストレスに負けないよう、あえて生活に余裕をもたせて、食事・入浴、それに睡眠に充分時間を使う(エアコンは最低気温になる早朝にオンになるようタイマー設定)。

2月4日追記:残念ながら、その後もお役所的な後手対応が続いていて、日本は中国の外ではタイと感染国のトップを競っている。本気にならいと、日本も感染源の1つとされ、日本人の入国が禁止されるのではないか。


25日遅れの元日

2020年01月26日 | 身内

1月25日は旧暦の元日、すなわち旧正月。
新型肺炎騒ぎの中、中国から大量の観光客が押し寄せている”春節”である。

旧暦ならばこそ、伝統的歳時と整合しており、厳冬期を乗り越えて春の息吹を感じる”新春”にふさわしい(正しくは立の前日の分が季節の変わり目)。
その翌日の26日、我が家では、元日に私がインフルエンザで寝込んだためできなかった屠蘇の儀を、あらためて執り行なうことになった。

屠蘇の儀とは、元日に家族が集まって、お節料理を食べる前に執り行う、式三献(三三九度)の儀式である。
いわゆる”盃事”と言われる儀式で、残念ながら明治以降は婚礼の儀にのみ残ったこの式三献は、婚礼以外の祝い事にも執り行う定番の儀式で、少なくとも正月ごとに年一回は実行してしかるべきものである。

正月は、酒または味醂に屠蘇散を入れ、家族で幼順に盃を回す。
盃は三枚あり、一枚ごとに三度(三口)づつ飲むので計、三×三=九度となる(三三九度は俗称で、正式名は式三献)。
儀式なので、幼な子や酒を飲めない人は、飲まずに、口をつけるまねだけでよい。

わが家は、その屠蘇の儀を正月最大の儀式として受け入れてくれているので、私が元日寝込んでも、省略することなく、延期してくれていた。

言い換えれば、それほどまでに、私は屠蘇の儀に入れ込んでいたのだ。
私はこの時だけ烏帽子・直垂の武家の正装をし(それ以外の正月衣裳は羽織袴)、雅楽「越天楽」のCDを流して、神妙に屠蘇を注ぐ役を担う。

本日は、お節料理の簡易版に、正月インフルエンザになった私と甥の快気祝いとして、近所の店で注文してくる寿司セットの宴となった。

これで正月やり残したことは、磯辺餅を食べることだけとなった。


1月25日は八甲田忌

2020年01月25日 | 歳時

毎年1月25日を、私は勝手に「八甲田忌」としている。

明治35(1902)年、青森の八甲田山中で、青森5連隊199名が遭難した日。
一度の遭難死で世界最大。
山岳遭難最大の惨事である。

青森五連隊210名は1月23日に駐屯地を出発し、徒歩で八甲田に入った。
しかし悪天候のホワイトアウトで道を失い、24日にはすでに山中で遭難状態となった(28日まで続く)。

私がその中で25日を忌日としているのは、その年のこの日が、日本の最低気温を記録した日でもあるから。
青森五連隊が雪の八甲田山中を天幕もなくさまよっている25日、太平洋側に発達した低気圧が、シベリアの大寒気を引込み、北海道の旭川で-41℃を記録した(この記録は約120年たった今でも破られていない)。
北海道の少し南、青森も当然この異常な寒波の中(-20℃は有にあったろう)。
発達した低気圧だから、気温だけでなく、風も強く、そのため極低温下の大暴風雪となる(体感気温は風速1mにつき1℃下る)。

ああ、なんとタイミングの悪いことよ。
よりによって、数百年に一度の大寒波襲来の中、太平洋と日本海の風がぶつかり、地形が複雑な雪の八甲田に風雪をしのぐ天幕もなく入り込むとは(もちろん初日から温泉宿に泊る予定だった)。
まずは、気象情報の軽視を遭難の第一原因としたい。

といっても、ほぼ同時期に八甲田に入っいる弘前35連隊38名は、ほとんど無傷で走破している(ただし25日は、平地の三本木(現十和田市)にいて、八甲田に入る前だった)。
その対比が、新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』、そしてそれをもとに作られた映画『八甲田山』(1977)に描かれている。
原作もいいが、映画がすばらしい(俳優陣のレベルの高さ、凍傷者を出したロケのリアルさ,音楽が芥川也寸志)。
私は八甲田忌にあわせて、毎年この映画を観る事にしている。

できたら、読者のみなさんも、映画だけでなく、一度、青森の幸畑(資料館と墓がある)を経由して、馬立場(記念像がある)へと八甲田の北麓を訪れてほしい。
私もかつてこの地をレンタカーで訪れ、山中の酸ケ湯温泉に泊り、翌日は十和田湖に向った。


冬の孤寓に戻って最初にすること

2020年01月21日 | 生活

東京の実家での週末生活を終え、まずは名古屋市内の職場に直行して会議を3つこなし、夕方名古屋の東隅にある孤寓に帰った。
数日ぶりの冷えきった孤寓に戻って最初にすることは、エアコンのスイッチを入れることではない。
それができないのだ。

その前にやらねばならないことは、エアコンのリモコンを暖めること。
つまり、エアコンのスイッチを入れるためのリモコンが、冷えすぎて反応しなくなっているのだ。
最初は、電池が切れたのかと思ったが、新しい電池に交換しても反応しなかった。
アウトドア活動の経験で、寒い屋外では電池製品が作動しないことを思い出した。
その場合は暖めると作動する。
というわけで、冷えきった室内で最初にやることは、エアコンのリモコンをわが人肌で暖めること。
主君信長の草履をおのれの肌で暖めた藤吉郎(のちの秀吉)のごとくリモコンを暖め続けていると、リモコンの液晶がついて、やっとエアコンのスイッチを入れることができた。
ちなみに、信長のごとくわがままなこのエアコンは、かなり昔の三菱の霧ケ峰。


草加を歩く

2020年01月19日 | 東京周辺

埼玉の観光地って、”川越”以外はなかなか思い浮かばない。
県全体が東京のベッドタウン的位置なので、田畑を潰した新興住宅地ばかりのような気がしてしまう。

そんな中、歩くに値するような街として気になっていたのが、草加
そう、関東人にとってのせんべいの代名詞・”草加せんべい”の草加だ。

ここは東武スカイツリー線で、埼玉に入ったばかりの所で、越谷や春日部より東京に近い。
そのくせ、(北)千住から始まる日光街道の2番目の宿場だったこともあり、宿場外れの街道の松並木が”草加松原”として残っている。
東京近郊でこんな松並木が残っている所はなく(栃木に行けば、例幣使街道の長い松並木があるが)、国指定名勝になっている。

ということで、晴天の日曜、東武線の急行で北千住から2つめの草加に行った。

まずは駅の西口に出て、地元の鎮守・草加神社にご挨拶に向う。
ここは元は氷川神社だったが、明治になって周囲の神社が合祀されて(特に皇祖でない神を祀る神社は、明治政府によって強制的に整理の対象となった)、改めて草加神社として再出発。
向いが SLのある公園ということもあってか、地元の人たちが次々散歩がてらにやってくる。
ここで売られているお守り(100円)は、パワーストーンが入っていたり、七福神の誰かが入っていたりと工夫されていて、私はパワーストーンのお守りを買った(入っていたのは”ソーダライト”で魔除けの効果があるという)。

さて、目当ての旧日光街道は駅の東口なので、駅に引き返し、
歩く前の腹ごしらえをする。
旅先では全国チェーンではなく地元の店を選ぶことにしているが、
11時半前なので、開いている店が限られ、「ぎょうざの満州」に入る。
ここもチェーン店だが、「山田うどん」と並んで埼玉のソウルフードだからOK。
焼そば+餃子を注文。
ただ、地元に愛されるソウルフードって、観光客があえて賞味するほどでないのも確か。
たとえば、勤務先(名古屋)の学生から聞いた話だが、中学か高校の時、東京から転校してきた級友に、
おいしいラーメンを紹介するということで、名古屋の中高生が愛する「スガキヤ」に連れて行ったところ、その転校生は怒ったそうだ。
名古屋人の”スガキヤ愛”がなみなみならぬことも知っているが、怒る東京人の気持ちもわかる。

駅に戻って「草加市物産・観光情報センター」に行く(観光スポットは東口なのだが、ここは西口にある)。
草加はせんべい以外にも、染め物や革製品などの地場産業があることがわかる(ここで販売されている)。
ここで観光マップをもらう。

東口に出て、まずおせんさん(草加せんべいの伝説の開祖)がせんべいを焼いている像があるのだが、地元の人がその像の向い側に座っているため、写真が撮れない。
観光マップの案内通りに進むと、次は小学校の校舎を使った歴史民俗資料館
旅先では、まずは鎮守の神社と歴史民俗資料館を訪れることにしている。
前者は挨拶のため、後者は地域の基礎知識を得るため。
元教室の展示室には、草加宿を通った松尾芭蕉に関する資料のほか、旧草加宿のジオラマがある。

草加宿を開いた大川図書(以降、子孫の大川氏が草加の名主)の墓がある東福寺を参り、
旧日光街道に出ると、さっそく草加せんべいの店が並ぶ。
これほど草加せんべいの店があるということは、単なる観光みやげというより、
今でも地元の人たちの嗜好品として愛されているのだろう(今でも手焼きだし)。

宿場の外れから、旧街道は綾瀬川沿いの松並木となる(写真:矢立橋の上から街道の松並木を見下ろす)。
この並木は隣接する車道(現日光街道)に並んだ歩行者専用道路となっているので、江戸時代のままの日光街道を歩いている気分になれる。
この松並木は全部を歩き通す気がしないくらい長いので(それだけ大規模)、2/3で引き返すことにする。
引き返し地点に草加市伝統産業展示室があり、そこで草加せんべいや他の地場産業の品物を買えるのだが、残念なことに2月まで閉館。
これが楽しみだったのに!
草加せんべいが買えないので、代わりに草加せんべいの店が載っているマップをもらって(市内に25件もある)、ここから往路を引き返す。
松並木起点の草加宿芭蕉庵に入ると、地元のせんべい店の品が1枚ずつはいった計8枚の草加せんべいセットがあったのでこれを土産に買う(せんべい店マップを見ても、どこで買ったらいいか判断に迷う)。
あとは旧街道に沿って宿場跡を巡って駅に戻るだけ。

ところが、その途中、首から下げていたLeicaのボディケース(カメラのボディ部分を覆うケース)がなくなっていることに気づいた。
Leica専用の革のボディケースなので、安くはない。
道を歩いている時に、留め具が緩んで落ちたに違いないので、今まで歩いた道を戻る。
すなわち、今日歩いた道を2回通ることになったが、結局、見つからなかった。
実は、カメラを買うたびに、革のボディケースを買うのだが、3度買って、3度なくした。
かくもボディケースはなくしやすい。
なので、どうせ早晩なくすとは思っていたが、一ヶ月もたなかったのは痛い。

かように草加は観光地として歩き甲斐がある地で、地元の手焼きせんべいだけでも迷うほど店が多い。
個人的にいやな思い出がくっついてしまったのは残念だが。

追記:家で食べた土産の草加せんべいは、”名物”の名に恥じず、おいしかった。できたら、せんべいを応用した個性ある地元料理を開発してほしい(せんべいは土産で、それを昼食にしたい)。


セールに反応しなくなった

2020年01月11日 | 生活

今の時期、あちこちで安売りセールの売り声が響く。
私の好きなブランド L.L.ビーンもセールの真っ最中。

アマゾンで何も注文していない時がつまらないように、私とて買い物をする時のワクワク感を知っている。
ところが、ここ最近は、セールに反応しなくなった。

ちょうど今欲しいものが、偶然セール対象だったら、こんな嬉しいことはない。
ところが、私は欲しいものは欲しい時に買うのが正しいと思っているので、欲しいという気持ちを維持しながらセールを待つということはしない。
買わないで待っている間、その商品を使うことができないでいるのが、もったいない。

逆に、セールだからあえて買おうとするものは、すなわち「安きゃ買う」というものは、本気で欲しい(必要な)ものではない。
なので、セールだから、その機会に買うものは、実は”普段は”買う必要のないもの、すなわち無駄な買い物であることに、気づいたのだ。

なるほど「安物買いの銭失い」とは至言である。
”ついで買い”が許されるのは、せいぜい100円ショップだけにしたい。

ちなみに、書籍はセールを利用する。
 hontoというネットの電子書籍販売ではしょっちゅう20%引きのセールをやっている(時には50%以上も)。
本はいつ読んでもいいし、読みたい本は無限にあるので、出費を制限したくない。
ただ1度読んだら再読しない本は、書棚におく空間がもったいない。
これらは、電子書籍で充分。
なので電子本だけはセールを待って買う。


七草粥の代り

2020年01月07日 | 歳時

世間に一日遅れて、私も今日から仕事始め。
まずは会議を2本(うち1つは私が議長)。

今晩は、七草粥を食べようと、地元スーパー3軒に立寄ったが、七草粥セットが置いてない。
昨年まではあったはず。
売れなかったのだろうか。

確かに、春の七草(セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)を材料にした粥って、はっきり言って侘びしく、ちっともワクワクしない。
仕方ないので、スーパーで98円のレトルトの粥と、七草の代りに緑豊かなベビー・リーフを買って、あと七草の代表としてダイコン(スズシロ)を入れ、鶏卵を1つ落としてそれなりに栄養のある粥を作った。
これだけでは味がないので、茶漬け用にとってあった丸美屋の「梅茶漬け」の元を適当に入れた。
テレビを見ていたら、キャスターが昔、七草粥セットをバイトでパックしていたことがあって、それは神経を使うたいへんな作業だったという。
つまり、労多い割りに、有り難がられない商品なようだ。

そもそも七草粥は古代中国由来の1500年の歴史ある風習(五節句の中では最古)。
これが廃れるのは惜しい。
でもおいしくない。


正月休み最終日の外出

2020年01月06日 | 生活

世間は”仕事始め”となる月曜だが、私は明日がそれなので、今日は正月休みの最終日。
インフルエンザの影響からは遠のき、熱は平熱に下り、食欲もある程度回復。
ただ、節々の痛み(特に睡眠中)は残り、気管にはまだ痰が溜る。
ということもあり、床から出た3日以降も外出は控え、年末・年始に録り貯めた「バス旅」(オリジナル+Z)を観ていた。

正月休みの最終日は、天気もいいので、気温の高い昼過ぎに外出。
まずは地元の鎮守様(天祖神社)に初詣。
例年なら元日の朝、羽織・袴姿で真っ先に訪れた場所。
せめて正月気分が残る松の内に来たかった。
といっても「初詣」の幟(のぼり)があるだけで、境内は閑散。

明日の朝使う新幹線チケットを買いに駅に行き、帰りに第二鎮守の八幡神社に詣でる。
こちらでは、近所の会社の初詣が行なわれていて、スーツ姿の団体が社殿内で神事を受けていた。
これこそが、日本の仕事始めの風景。

神社並びの東覚寺は”谷中七福神”の1つ(福禄寿)で、東京でもっとも由緒ある七福神巡りのスタート地点。
この巡礼期間はもうしばらく続く。
そして、この寺でもう一つ有名なのは、赤紙仁王。
すなわち体の悪いところに対応する仁王の部位に赤紙を貼ることで、平癒を祈願するというするもの(幼少時、姉の腹部の出来物がこれで見事に治ったのを記憶している)。
実は、私がインフルエンザにかかった後、2世帯同居する16歳の甥が私と同じ A 型のインフルエンザに罹ってしまって、今でも寝込んでいる。
世に出回っているインフルエンザの治療薬は、ティーンエイジャーには行動異常の副作用があるので、彼らには効く薬が限られる。
私が寝込む前後には甥とはまったく接していないので、どこで感染したかわからないが、
とにかく甥の平癒を願って、インフルエンザウイルスの感染部位である胸部に赤紙を貼る(赤紙は寺務所で購入)。
門前の赤紙仁王は、すでにいつも全身に赤紙が張り尽くされている。
なので、既存の赤紙の上に自分がもらった赤紙の糊のついた部分を貼り付ける。
不動堂を守護する仁王は左右二体あるので、右の像から貼り、次いで左の像の同じ部位に貼る(と指導された)。
右が優先なのは、インド式だ。*

まだ本調子ではなく、明日からの仕事に差し障りがあるとまずいので、かくして外出も以上の最小限に抑えた。

*と病み上がりの頭で書いたけど、考えたら、仁王は門番なので、内側の本尊(中尊)の視点から見るべきだ。それだと、参拝者にとっての右側は左側(客位)、左側は右側(主位)になる。つまり中国(陰陽)式の左優先。


インフルエンザで寝正月

2020年01月03日 | 健康

元日早々(元旦)から頭痛がして食欲もなく、お節もたべずに寝込んでいた。
夕方、インフルエンザだったら(小さい子にうつると)たいへんというので、元日にもやっている診療所に連れていかれた。
熱は朝計ったら37度5分でたいしたことないが、頭痛がひどくて起きていられない。
高血圧で頭痛がするのは、脳の血管が切れる前兆のおそれがあると医者が脅かす。
この症状からはインフルエンザではないという診断だったが(私もそう思った)、念のため検査をお願いした。
すると検査キットの Aのとこが薄くピンクになって陽性だった。

ただ治療は簡単ということで処方せんを書いてもらったが、元日やっている薬局はかなり歩く。
幸い土地勘がある所だったので、抜け道を通って、薬局にたどりつく。
薬をもらって、マスクも買い、タクシーで帰宅。
薬は、2種類の粉薬を咽喉に吸入するもので、それを2つ服用した。
すると、咽喉から痰がでてきた。
これでよくなるかと思ったら、そうは問屋が卸さなかった。

翌2日、頭痛はとれたももの、熱が38度5分に上がり、今度はふらふらして起き上がられない。
なので2日も一日中寝込んでいた。
3日目の朝になって熱が37度5分に下り、1日のような頭痛はないので、やっと起き上がることができた。
髭を剃り、歯を磨き、風呂に入った。
2日間、まったく食べ物を口にしなかったので、体重は2kg減っていた(ただし筋肉量が減って脂肪は減ってないらしい)。

もともと3が日は、何もしないつもりだったので、寝込んだことによる損失はないが、1年のうちで貴重な何もしない期間を楽しめなかったのは残念。

そもそもなぜインフルエンザに罹患したのか。
思い当たるのは、大晦日の夕方、菩提寺の霊廟にお参りに行った際、寒空にいたのと、その霊廟で会った親戚がインフルエンザにかかっていた。
だからあえて近寄らなかったが、空気感染したのか。
帰宅後は普通に食事をし、年明けの2時まで起きていたが、その間ゆっくり調子が悪くなっていった。

その後、元気が回復したはいいものの、味覚が変わってしまって、塩分に過敏になり、塩気のあるものはことごとく塩の塊の味しかしなくなった。
なので、楽しみしていたお節の煮付けやタコの刺し身は食べられず、もっぱら甘いもの(黒豆、伊達巻)しか口に入らない。
いつもだったら、甘いものこそ口に入れないのに。
なので餅も大好きな磯辺焼きではなく(醤油が塩の塊の味)、砂糖の入った安倍川餅。