今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

酷暑の神楽坂を歩く

2020年08月30日 | 東京周辺

安倍首相の退任については、誰もが言いたいことはあり、私も例外ではないが、
ここで私見を開陳しても、読者諸氏にとっては、共感・反感はあっても、
情報量的に得ることはないと思うので、心にしまっておく。
ただ潰瘍性大腸炎という難病は、決して自己責任ではなく、それをおしての今般の情勢での責務は、最悪のストレスだったということ。
コロナ対策になんの責任もない私でさえ、緊急事態宣言中は、降圧剤が効かずずっと血圧が高かった。
あと、こういう時のコメントこそ、人間性(人としての心)が判ってしまうものだ。

さて、8月最後の日曜。
相変わらず暑い。
わが私設本駒気象台では37℃を越える酷暑の中、あえて都心(新宿区)の神楽坂(かぐらざか)に行った。
もちろん日傘をさして。

なぜ神楽坂かというと、
明後日の9月から大学で業務体制が始動し、早速職場の健康診断が待ち受けている折り、血液検査での数値と慢性化している耳鳴り(難聴)をなんとかしたい。
前者は生活習慣の改善しかなく、後者は自分で鍼(てい鍼と電気鍼)に光療法を加えている。
ただ安倍首相ではないが、すんなり改善はしないので、
あとは神仏の力にすがりたいと、近場の”薬師様”を探した。
ヒットしたのは、神楽坂にある安養寺(天台宗)。
ここの薬師像は、丈六(2m余)の半身像で、その大きさは都内では珍しい。
ここに決めた、というわけ。

 JR飯田橋から両側が商店街の神楽坂を上る。
神楽坂は、もともと”お座敷”のある街だったので、昼でも着物姿のお姐さんが見受けられる。
坂を上がって狛犬ならぬ狛虎がある善國寺(日蓮宗)に立ち寄り、
岩座」というパワーストーンを売っている店をひやかし(オーラ診断を3000円でやってくれるという)、
神楽坂上の交差点を越えると安養寺に達した。

※ケチな私はここではやらずに、帰宅後さっそくスマホアプリ、無料の『オーラ測定」と有料(3日無料トライ)の「オーラとエネルギーの診断カメラ」をダウンロードして、両方やってみた。もちろん、両方ともカメラで撮影して診断する(アンケートでオーラの色診断をするサイトがあるが、オーラは測定しなくちゃダメでしょ)。両者で色が異なり、それぞれ2回やって前者は同じ色、後者は色が異なった。背景が異なると診断色が異なってしまうのか。個人的には無料版の結果で納得。

まずは歓喜天のお堂の扉を手で開けて入る。
冷房が効いていて、厨子に入った秘仏の歓喜天に礼拝(仏像の中ではストイックとは正反対の歓喜天も好き)。
外に出て、薬師様を探すと、隣の建物の二階に薬師仏を示す矢印がある。
薬師様がある入口はしまっていて、ガラス扉の手前からしか拝めない。
中を見ると「お守り500円」とある。
これを買えば、見せてくれることを期待して、階下のインターホンを押す。
要件を告げると、二階に入ってくれという。
また二階に上がると、中から普段着姿の住職が扉を開け、入れてくれた。
中に入って丈六金ぴかの薬師様を間近に拝み、脇に置いてあったお守りを購入する(薬師像が刻印してある)。
住職に寺の由来などを聞き、本尊周囲の室内装飾なども拝見する。

この寺は、今は敷地こそ狭いが、最澄の弟子の円仁が開基で、もと江戸城内の敷地にあり、家康入府の際に現在地に移転したという。
空襲にあって寺は全焼したが、丈六の薬師仏は奇蹟的に焼け残り、補修をして現在に至っている(自ら火傷から回復された薬師様だ)。
また薬師仏は、普通は薬壺を片手に乗せているのだが、ここの薬師様は、大きな薬壺を両手で抱え、壺に覆いがかけられた彫刻になっているのが珍しい。

かくして目的を達したわけだが、神楽坂に来て、このまま帰るわけにはいかない。
なぜなら、寺町でもある神楽坂のとある寺に、わが祖母の墓があるから。

わが祖母は、私が小学校低学年の時に他界し、また同居していないので、さほど濃い思い出はないが、若い時から政治活動をしていて(戦時中、特高による逮捕歴もある)、政治家に知り合いも多く、当時の総理大臣だった同郷の佐藤栄作氏からも特大の花輪が届いたのを覚えている。
世間では、むしろ青森のキリストの墓の紹介者で有名か。
といっても、墓は個人ではなく一家の墓なので、第三者には用はないだろう(なので寺名も記さず)。
その墓に線香を手向け、帰り際に寺の奥さんとあったので、軽い世間話をした。

ついでに近所にある別の寺にも訪れてみようと、住宅街の行き止まりの道をうろうろしていたら、眼光鋭い自転車乗りの人(♂)に睨まれた。
自転車を止めてこちらを睨むその姿は、キャップを目深にかぶり、上半身はTシャツだが、丈夫そうなズボンと靴から、素人ではないとわかる。
私は、彼に一瞥しただけでそれ以上は視線を合わせず、気にする様子も見せず、スマホの地図を見ながら、平然と別の道を選んで道を曲がる。
曲がり際に、相手に顔を向けずに視野にだけ入れて見たら、彼は自転車を止めたままずっとこちらを見ていた。
私は怪しいリュック姿であったが、幸い黒ずくめの服装ではなく、また警戒するそぶりをしなかったので、職務質問を受けて、リュックの中身を改められずに済んだ(アウトドア用のポケットナイフなどが入っていたらたいへん)。
まぁ、住宅街をうろうろしていると怪しまれても仕方がないか。

気を取り直して、表通りに戻り、神楽坂上の押し詰まった所に達すると、赤城神社がある。
言わずと知れた上州赤城山の末社(上州由来の神社では他に榛名神社、妙義神社が都内にあるが、これらの多くは維新の際、皇祖を祀る神社に無理やり合祀された)
幸い、ここの赤城神社はここ牛込地区の鎮守として残り、町名にもなっていて、江戸庶民の信仰が守られた。
社殿がモダンで、現代的神社として注目に値する。
併設する「蛍雪天神」は、「蛍雪時代」の旺文社の協力によるもので(後から知った)、受験の神様としてだけでなく、芸術の神様にもなっていて、隣の絵馬を懸ける所には、「スター・ウォーズ:フォースの覚醒」を始めとするいろいろな映画やテレビ番組のヒット祈願の大判の絵馬がたくさん並んでいる(写真)。
境内には茶屋ならぬおしゃれなカフェもあり、ゆっくり時間をすごせる。

山好きな私としては、関東平野の主たる赤城山の自然崇拝に由来する神社こそ応援したい(根源的な宗教心に一番近いから。神道の普遍的価値はその宗教的”根源”への近さにある)。

神社のそばに東西線の神楽坂駅入口があり、ここから帰路についた。
かように私には神楽坂は昼にしか用がない。


瞑想のすゝめ:エピローグ

2020年08月26日 | 心理学

瞑想のすゝめ:レベル3」の続きで、シリーズ最後の記事(終章)。
これまでの一連の記事は、自分の「心の多重過程モデル」と瞑想実践の結果をもとにしている。

「瞑想のすゝめ」をレベル3まで進ませて、私なりに瞑想の功能を多重的に示してきた。
すなわち、
レベル1:脳内のデフォルト・モード・ネットワークの鎮静化。数息観瞑想で深呼吸によるシステム0(心身)のバランスが安定する。
レベル2:マインドフルネス瞑想、すなわちシステム1の行動を停止し、システム2の能動的思考を停止し、受動性に委ねることにより、日常では素通りした純粋経験・刹那滅・存在への実感を体験する。システム2主導を乗り越えて、システム3を開く準備段階。
レベル3:システム3の作動訓練としての瞑想。システム2の自我の束縛から離れることをイメージする。


以上の流れは、「心の多重過程モデル」に則った瞑想の進展を意味する。
特にシステム3という心の新たな次元(能力)の起動は、多重過程モデル的にとても重要である。

ただ、オカルト界にもある既存の”心の進化モデル”は、目指す進化先が善で、乗り越えられるべき次元を悪として否定する。
たとえばマインドフルネス(仏教)も、システム3の発動を推奨するため、システム2以下を「マインドレスネス」と名づけて否定的に評価する。

それに対し「心の多重過程モデル」は、心を多重に作動させる=心を”豊か”にすることを目指すため、既存のシステムを肯定したまま上位システムを作動させる。
なので、上ばかりを目指すのではなく、システム0〜システム2のさらなる充実も手を抜かない(それぞれのトレーニング法がある)。
ただ未経験のシステム3の初動にとっては、システム1と2が邪魔するのでそれらを停止する瞑想が必要だった。
そしてシステム3が自由に作動できれば、システム1・2をいつものように作動させる(これらを充実させるのに上位のシステム3が必要)。

では、前回のシステム3を作動させる瞑想レベル3が最終段階なのだろうか。
下位を切り捨てない本モデルでは、レベル1の瞑想もレベル2の瞑想はいつでも効果がある。
でもまだ先がある。
システム3によって、システム2の自我から自極(認識主体)が離れることが可能となった。
これをこのままにしておく手はない。
では自我から離れた自極をどこに向わせるか。


精神分析的関心があるなら、システム1の”無意識の世界”に沈降しても構わないが、そういう退行的方向よりも、
自我(自己)の外へ抜け出て、自我的自己ならざる、超個(トランス・パーソナル)的な自己※、普遍的な自己に向うことで自己の可能性を異次元に拡大させる。

※自己的でありかつ他者的、外なる自己・内なる他者。

それが実現できれば、自己は実存次元よりさらに深い(高い)霊的(スピリチュアルな)次元※に達することができる。
それがシステム4である。

※生命をも超越している次元。ちなみに精神(spirit)も個的心(mind)を超越している。アカデミック心理学は実存以降の次元には手をつけない。


システム3はマインドフルネス(テーラワーダ仏教)段階だったが、超個的自己と邂逅するシステム4は大乗仏教的段階だ。
そしてシステム4では、内側の”心的エネルギー”が外側の物理的エネルギーに変換可能となる。
このレベルの現象は、アカデミック心理学の外側、つまり通常の心理学ではない「トランスパーソナル心理学」「超心理学」※の領域だ。
いうなれば私の心の多重過程モデルは、システム4に達することで、既存のアカデミックな心理学の枠を突破し、これらの科学と認められない心理学とを統合することになる。

※霊的次元を扱うのがトランスパーソナル心理学。超能力や超常現象を扱うのが超心理学。いずれもニュートン力学的科学観のアカデミック心理学からは認められていない。ちなみにアメリカ心理学の祖にしてプラグマティズム哲学者W,ジェームズは神霊協会にも属していた。

釈尊が神通力を使ったとされるのは、心がシステム4に達していたからだ。
またそれゆえ、強いオーラ(後光)も発していただろう(手で病を治せたイエスも同じだったろう)

私自身は、理論先行で、実践はシステム4の入り口段階でしかないが、 このレベルの瞑想は、仏教ではなく、気功の方法でやっている。
精緻な気の理論が心的エネルギーの使い方として実践的だからだ。

システム4では、システム3で一旦否定された、システム2的な”念”(思い込み:心的エネルギー)の力を有効な方向で積極的に利用する。
もともと念の力は、プラシーボ効果のように常人のシステム2→システム0レベルでも作動していた。
システム4でその力を自在に操れるようになった(私の先を行く)人たちは、洋の東西を問わず、一様にその力を人々のために使う”ヒーラー”になっている。

注意してほしいのは、素人には手品〔マジック)が超能力・超常現象に思えてしまうように、
真のシステム4とそれを表面だけ装ったシステム2との区別は、システム2が最高位の常人にはできないことである。
空想・はったり、誇大妄想はシステム2で可能だ。
システム2の科学的論理でもある程度は見破れるが、システム3に達しないと、システム2の限界がわからない。


瞑想レベル2以降、心の基本的な在り方が変容していく。
すなわち、システム2(自我中心主義)を乗り越え、存在者(在るもの)を可能にする”存在”(在ること)を実感するレベル2の瞑想によって、存在愛である慈悲心が沸き上がり、
さらにシステム3で自我から自由になった心は、名声や金銭などの自我欲を滿たす生き方はしなくなり、大乗の菩薩道よろしく、人々を癒すヒーラーの道を歩む。

ただ、すべての人がシステム4を開花できるかは確証がない。
システム3よりさらに敷居が高いシステム4は、システム1・2で生きていける現生人類、とりわけ現代文明人にとってはそれだけ開発のハードルが高い(超個的なものを身近に感じていた近代以前や先住民の人々はハードルが低いかもしれない)
システム4については今後、理論(ブログカテゴリー「心理学」)と実践(ブログカテゴリー「気・パワー」)によって探究していく。
システム3からシステム4への流れは、次の記事参照→「マインドフルネスからトランスパーソナルへ


瞑想のすゝめ:レベル3

2020年08月24日 | 心理学

瞑想のすゝめ:レベル2」の続き。

レベル3の瞑想は、心の新しいサブシステムを作動させる。
すなわち、心の新しい次元が開かれる。


心理学における既存の「二重過程モデル」(システム1,システム2)でいうと、通常の人間の心では、システム2が最高位である。
そのモデルを拡大した私の「心の多重過程モデル」によると、システム0が意識を可能にし、覚醒時に作動するシステム1は無自覚レベルの日常行動(条件づけ)をこなし、さらに高度なシステム2が綿密な意識活動(思考、表象)を可能にする。
システム2では、思考活動の主体として自我が発生し、自我が心の主人公となっている。
それによって適応的には高度化されて、システム2の知性が人類を繁栄させた。

ただ、システム2は万能ではなく、自覚できない不正確性が行動経済学によって、そして誤った信念が自己を苦しめていることが認知行動療法によって明らかにされた。
いずれも21世紀の心理学である。

だが、自我への執着や幻想的思考への拘泥が人間を苦しめていること、すなわちシステム2の副作用は、すでに2500年前に見透かされていた。
釈尊によって。
さらに釈尊は、身体を痛める苦行ではなく、静かな瞑想によって、システム2の限界を乗り越える道を自ら切り開いた。

実際、前稿で示したレベル2の瞑想で、自我に拘泥する状態の解除が可能となった。
純粋経験は、自我が未成立のシステム0レベルの体験への立ち戻りであり、存在の実感は、自我を可能にする深層への沈降である。
いずれも、システム2(自我)が素通りしてきた自己経験の根源部分である。
レベル2の瞑想によって、自我中心状態への揺さぶりができたら、いよいよレベル3の瞑想に進み、新境地を体験しよう。


やる瞑想は、マインドフルネス(ヴィパッサナー)瞑想でいい。
ただ、多重過程モデルの立場として、新しい境地である「システム3」を作動させることが目的となるので、少し手を加える。

これから作動するシステム3、すなわちマインドフルネス状態は、システム2が作動可能なら、誰でも作動できるのだが、日常生活ではまったく作動させる必要性がなく、また作動させる負荷が高いため、ほとんどの人は作動(経験)しないまま一生を終える。
べつにそれでも社会生活上は問題ないので、全員に必要とはならない。
そんな暇があるなら、システム2をフル稼働させていた方が生産性が高い、というのも確かだ。

ただ逆にシステム2をフル稼働させることでその限界に達したなら、さらに上の境地を切り開くことに価値がある。
日常の最高位であるシステム2の限界を乗り越えることができるから。
Google社で社員にマインドフルネス瞑想をさせているのも、そのためかもしれない。
ただ、理論的根拠が乏しい気がする。
それを整えるのが私の役目だ。

では実践に入ろう。
レベル3の瞑想は、瞑想している主体から離脱し、瞑想している自分を眺めることをする。
これは一種の二重自我状態で、瞑想している自己と、それを眺めている自己に分裂(乖離)する非日常体験だ。
自我に未経験の揺さぶりをかけるので、統合失調症や解離性障害など自我に脆弱性のある人は、実行を遠慮してほしい。

※多重人格などの乖離の病的状態。ただし解離は乖離能力を前提とする。その乖離をポジティブな方向で作動させたい。

「心の多重過程モデル」という理論的根拠にもとずく着実な方法なので、システム2(自我)がしっかりしている健常な人は、瞑想の目的となる状態が明確なので、ぜひトライしてほしい。

マインドフルネス瞑想をすればいいので、そちらの本を参考にしてかまわない。

瞑想状態に入ったら、瞑想している自分をそのままにして、それを後ろ(前からでも上からでもいい)から眺めている自分になる(幽体離脱をイメージしてもよい)。
それができたら、今度はその自分に眺められている瞑想している自分になる。
これを、繰り返すというより、同時に経験する
すなわち二重自我状態になる。
ただし、これは自我が単純にダブルになったのではない。

※この状態でもmuseのニューロ・フィードバックでは鳥が鳴くので、正しい瞑想 (calm)状態といえる。

この状態を心理学的に記述するにはやや込み入っていて、しかも読者には体験的理解がしにくいのだが、きちんと説明はできる。
理論的柱は、安永浩という精神医学者の「ファントム空間モデル」が前提で、それについては、私の論文を参照してもらうしかないが、

※「四重過程モデルにおける自己の多層性—マインドフルネス瞑想の心理学モデルとして—」椙山女学園大学大学研究論集49号(2018〕→ダウンロード

まずシステム2で自我が成立した段階に戻ると、自我はすでに自己認識ができるので、W.ジェームズが鋭く指摘したように、自我は主我( I )客我(me)に別れる。
客我は自己イメージやアイデンティティで、それの認識主体が主我である。
主我は自我の主体部分(主観作用、ノエシス)で、客体部分(ノエマ)が客我だ。
ここまではシステム2だから誰もが経験している。

上の瞑想での二重自我は、その主我が分離するのである(主我と客我の分離ではない!)。
ただし主我は真っ二つに分れるのではなく、
行動主体としての自我すなわち極自我と、観照機能だけの現象学的自極(いずれも安永浩の用語)に別れる。
瞑想している自分は極自我であり、それを背後から眺めている(瞑想はしていない)自分が自極だ※。

※この分離は、図らずも自我の失調によって非意図的に発生することがあり、私自身も運転中に事故りそうになった時に経験をしたことがある。また前稿(レベル2)で引用した「”瞑想難民”は解離に陥りやすい」というブラユキ師の指摘も、瞑想による自我の乖離で説明できる。

そもそもシステム2の自我は、フッサールの表現では「経験的自我」であり、行動主体・感情主体・思考主体である。
普段のシステム2では、主我と自極はいつもほぼ一致している。
安永氏の指摘では、もともとぴったり一致=同一ではないというから、分離は誰でもできるはず。

実は自極が主我(極自我)から分離可能であることを指摘したのは、安永浩より前に、フッサールがいた。
彼は、経験的自我から超越論的自我(超越論的主観性)を現象学の実践主体として抽出した。
すなわちフッサール自身が、経験的自我と超越論的自我とを分け、後者は自己の身体や人格に付属していないので、不死なのだとまで言ったらしい。
この理解しにくく悪評の超越論的自我という概念は、哲学的思考(システム2)を巡らすよりも、瞑想でレベル3に達すれば体験的に理解できる。

このように、自極が自我(主我)から分離することが、新たなシステム3の作動である。
そしてシステム2の主体である自我から解放された自極がシステム3の主体だ。

瞑想という、システム1の停止とシステム2の沈静状態になって初めて、この微妙な分離(システム2の一部からシステム3の作動)が可能となる。
それもあって、システム2では、おのれよりも高次のシステム3を理解するのは困難なのだ。

だが、いったんシステム3を作動できたら、システム2の瞑想主体(極自我)は、たとえば思考(マインド・ワンダリング)に陥ってもかまわない。
なぜならシステム3(自極)本体は思考に陥らず、それを眺めている側だから。

さらに、システム3自体は瞑想を必要としないので、瞑想をやめてもかまわない。
むしろ、非瞑想時にもシステム3を作動できるようにすることが望ましい(ただし解離の危険がある)。

マインドフルネスでも、「歩行瞑想」という名で、歩行中にシステム3を作動させる訓練がある。
システム1と2を使って道を間違えずに歩きながら、システム3で歩いている自分のたとえばあちこちの関節(足首、膝、股関節)をチェックする。
これで歩行姿勢の矯正ができる。
システム3は行動主体にはなれず、ただ観照するのみの単機能のサブ自己なのだが、人間の身体は、意識した部位がその焦点化によって反応するので(システム3→システム0のトップダウン経路)、矯正が実現するのだ。

上記した瞑想レベル3に至って、今まで最高位であった自我のさらに上に、システム3という新たな心のサブシステムが作動する。
これによって心は豊かなり、高次のバランスがとれる。
これを目的にするのがレベル3の瞑想だ。
→「瞑想のすゝめ:エピローグ」へ。


万年筆を買う

2020年08月23日 | 生活

夏の間に、ある人に手紙を書く予定でいる。
もちろん手書きのつもりだが、普通にボールペンで書こうと思っていた。
というのも、筆記具はボールペンとシャーペンしか持っていないから。
日常の執筆活動(論文、書類)は全てキー入力で、手帳代わりにタブレット愛用なので、メモすら筆記具を使わない。
そしてコミュニケーションもほとんどメールとなっている。

ところが、半沢直樹のドラマを見ていたら、手紙は万年筆で書いたほうがいいような気がしてきた。
ボールペンの字よりも相手にとって丁寧に映ることもあるが(実際それで相手に気持ちが伝わった)、書き手にとっても文字を丁寧に書く楽しさがあると思う。
それに”万年”もつのだから、気に入った物を1本持っていても悪くない。

そういえば万年筆って、中学校に入ると、腕時計とともに揃えたもので、いつも学ランの胸ポケットに差していた。
半沢のドラマでは、森山(賀来賢人)が中学の友人(瀬名:尾上松也)にもらった万年筆を社会人になっても使っているが、私は半世紀前に母に買ってもらったモンブランの万年筆が無くなってから幾久しい(万年もたなかった)。
大学生の頃にはもうボールペン中心になっていた。

もともと悪筆で、字を書くのが嫌いだった(中学校で一番嫌いな授業は「習字」)。
その悪筆を自分では左利きのせいにしていたが、筆跡は性格が反映されるので、利き手よりも性格の問題だろう。
字を書いていると、つい数文字分先の字を書いてしまう。
1文字づつ丁寧に書いていられないのだ。
頭の回転が速いというより、 ADHD傾向なためだ。

でもあまりに字を書かない生活を送ると、たまにはじっくり字を書いてもいいかなと思えてくる。
その折りの手紙と半沢だった。

そういうわけで、銀座の伊東屋に万年筆を買いに行った。
各メーカーのショーケースを見ると、値段は5桁が普通で、6桁に達するのもある。
さすが万年筆。
しかも、客が三々五々やってくる(半沢ドラマの影響ではあるまい)。
別に豪華に化粧したボディでなく、オーソドックスな黒いボディでいいのだが、かえって種類が多くて迷う。
その中でセーラーだけ左利き用があった。

昔使っていたモンブランはとても書き味が良かったが、左手で使ううちペン先が見た目にも歪んでしまった。
その思い出があったので、この左利き用(細字)にした(2万円)。
おまけにつけてくれるインクはブルーブラックにしようと思ったが、半沢ドラマで使われた万年筆が青インクだったことを思い出し、青にした(ここまで影響を受けるか)。
そういえば、どっちつかずのブルーブラックは好きではなかったのだ。

今の万年筆は、カートリッジだけでなく、インク吸入器(コンバーター)を使って、好きな色のインクを使える。
コンバーターは500円ほど。
そのインクの種類がとても多いことを知った。
時間をかけて気に入った色を見つけることにしよう。
そして手で字を書く楽しみを味わいたい。

後日譚
カートリッジを差し込んで、いざ使いはじめたら、インクがボトッと落ち、直径1cmほどのインクの山ができる。
これでは使えない。
カートリッジを確認すると、インクが染み出している。
翌朝、セーラーのサポートに電話をかけると、購入した伊東屋で直してもらった方が早いという(伊東屋には修理コーナーがあるから)。
さっそく伊東屋に行って、診てもらったら、なんとカートリッジを前後逆につけていた(カートリッジに薄く方向が記されていた)。
セーラー製は初めてなので…。
きちんと洗浄してインクを補充してもらった。
せっかくなので、コンバーターで使う「利休茶」のインクを買った(季節や気分によってインクの色を使い分けてみたい)。
帰宅して、数十年ぶりに万年筆で字を書く(書きやすい)。
漢字ばかり次々に書きたいので、般若心経を写経した。


瞑想のすゝめ:レベル2

2020年08月22日 | 心理学

前稿「瞑想のすゝめ:レベル1」の続き。

数息観などの一念による集中ができたら、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の自己制御への道が開けたことになる。

そうなれば、たとえば樹皮をじっと見つめて、ゲシュタルト崩壊現象を楽しむこともできる。
実はこの経験、瞑想が進むにつれて現れる”魔境”に惑わされない準備としても価値がある。

さて、一念から無念へと進んでみようか。

意外に簡単で、その一念を消せばよい。

消すとどうなるか。

意識がシャットダウンされるのではない。


そもそも意識状態には2水準ある。
1つは、意識がある/ないという、システム0のレベル。
意識があるのは覚醒で、無いのは睡眠か昏睡。
その次は、覚醒を前提として、何を意識しているかという、通常の心の働き(システム1・2)のレベル。

意識とは「何ものかへの意識である」という、志向性を前提とする現象学理論からすれば、
無念は、意識が明晰のまま意識対象がない、すなわちノエマなきノエシス、という現象学者フッサールが想定しなかった状態になる。

外部の衝撃音や閃光など、強制的な志向(システム1)が存在しない場合、システム2は意識対象がないと自分で勝手に思考や表象イメージでそれを作り出す。
それがマインド・ワンダリングだ。

それが発生しないように、無念無想を維持することは、不断の努力を要するが、不可能ではない。
実際、私は瞑想時にはMuseというニューロ・フィードバック装置をつけるのだが、無念無想になると、Calm状態という合図の鳥の声が鳴り、ポイントが付与される。→ニューロフィードバックによる瞑想訓練

ただ、無念無想に(ポイントが付くほかに)どんな意味・効果があるのか。

神経科学的には、DMNの最低状態という意味でしかない。
車のアイドリングだと、回転数が落ちたエンジンストップの直前状態であり、
むしろ、 DMNが必要以上に低下すると、認知症(脳の機能障害)につながる。

世の中には、なんでもやりすぎる人、すなわち一方向に突き進むだけの単純志向の人がいて、瞑想についても、無念無想を強迫的に追究する人がいる。

まぁ仏教自体が、瞑想(定)を欲界・色界・無色界で多段階化して、どんどん突き進むよう仕向けているフシがあるが、無念無想=心的活動の停止が仏道修行の目的ではないはずだ。

実際、仏僧プラユキ・ナラテボー師は、集中にとって邪魔になる思考や想念を悪玉視する人たちを「瞑想難民」と名づけている(『悟らなくたっていいじゃないか:普通の人のための仏教・瞑想入門』プラユキ・ナラテボー&魚川祐司、幻冬舎)。
瞑想の目的を見失ってしまった人たちだ。
実際そういう人たちは感情に乏しくなり、病理的な解離現象につながるという。

そもそも意識集中とは、認知心理学的には「情報の選択的注意」であり、他の情報の捨象であることから、この集中ばかりやっていると、「生き生きとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われる」(前掲書)という。
マインドフルネスの正反対状態だ。

そういうこともあり、私が提唱する瞑想の次なるステップは、集中(一念)→無念無想方向ではない。
心を豊かにすること(マインドフルネス)が目的の「心の多重過程モデル」の視点でお勧めするのは、心理学を超えて、現象学・存在論レベルに深化する次の三ステップ(①〜③)だ。


①まずは、能動的表象の代わりに、受動的状態になること。
一念(集中)という選択的集中作業によって排除された入力情報に気づくこと。
無念で心の扉を閉めるのではなく、その逆に心の扉を開け放つのだ。

実際には閉眼しているから、解放する感覚は聴覚と皮膚感覚になる。
今まで無視していた微細な環境音や座っている身体にかかる座面の圧力や、顔や手が感じる空気感に気づき、これらを純粋に感じる。

すなわち、解釈(ラベリング)をしない。
解釈以前の純粋経験状態で感じる。

通常では、我々はこの純粋経験を素通りして、解釈された状態(条件刺激としてシステム1、意味づけとしてシステム2)で経験する。
それをやめて、今まで素通りしてきた、解釈前の純粋経験(システム0)に立ち戻る。

それが立ち現れているその姿を先入観なく、受けとめる。
それが自ら語ることを、そのまま聞き取る。
まるで生まれて初めて接した時のように。
これがフッサールの提唱した「現象学的態度」である。

フッサールが提唱した現象学の欠点は、それを実践することの困難さにあった。
当然だ。
日常の習慣的態度(システム1)の作動では無理だし、哲学的思考(システム2)をフル回転させている限り無理だ。
フッサール自身が提供できなかった現象学的態度を実現する方法が、瞑想(サティ:マインドフルネス瞑想)である。
ちなみに、この「純粋経験」を提唱したのは、フッサールではなく、ましてや西田幾多郎でもなく、アメリカ心理学の祖・ウイリアム・ジェームズである。
心理学の祖は、心理的経験の原点(始点)から心理学を始めようとした。
私の「心の多重過程モデル」もそこに立ち戻りたい。
これによって、人は通常の心理学的経験次元(システム1・2の既存の「二重過程」)を越えることになる。
この貴重な経験をできるのが瞑想だ。


②そして、純粋経験を経験し続けていると、その純粋経験の時間”変化”が二次的に経験される。

純粋経験の一刻一刻が、つぎつぎと経験される(だから解釈をしている暇はない)。
その変化は境界のないとうとうと流れる”流れ”ではなく、ひとつひとつが区別して経験される。
日常では、その微小な”境界”を無視して、いっしょくたにして、おおざっぱな流れとして解釈しているのだ。
経験できる一刻一刻を可能な限り細分化した状態が仏教でいう”刹那”である。
その刹那は流れてはおらず、それぞれの刹那ごとに切り替わっていく。
動画として見えるフィルムの正体が、個別の静止画からなっているように。
この刹那の切替え現象を、すでに仏教では”刹那滅”として捉えていた。
通常の時間の流れではなく、この刹那滅を経験できるのも瞑想ならではだ。
ここでも瞑想は、通常の心理学的経験レベルを越えている。


③気づきに満ちた純粋経験を刹那ごとに経験することによって、経験の深度が深まっていく。
心理レベルから実存レベルに。
フッサールの現象学レベルから、ハイデガーの存在論レベルに。

ハイデガーによれば、存在していることをうすうす了解しているわれわれ(現存在)は、存在とその彼岸の無に直面することを恐れる(不安)ため、日頃は、あえて”存在忘却”している。
すなわち、”忙しさ”と”暇つぶし”で時間を満たすことによって、存在(と無)に直面することを避け続けている。
その結果、生(せい)として与えられた”時間”はただひたすら浪費され、そのくせ、時間が足早に通り過ぎたことをいつも悔やむ。

自分という存在に直面するとは、時間をきちんと生きることである。
自分が、今、ここにいて、すべてを実感する刹那をつぎつぎとじっくり経験する。
それが瞑想だ。

瞑想は退屈? とんでもない。
”忙しさ”にも”暇つぶし”にも逃げないで、”存在と時間”※を味わう、贅沢な経験だ。
瞑想こそ、最も充実したひとときだ。

忘却していた存在(在ること)を実感する。
瞑想で得られる充実感はこれに尽きる。
表層の心理生活レベルではなく、存在論レベルで生(せい)を生きている経験。

※減っていく一方の時間の中で、存在忘却しないでどう生きたらいいのか、という問いをハイデガー哲学に投げ掛けた結果(こういう実存的問いを投げ掛けられる相手はハイデガーしかいない)、ハイデガーが最晩年にほのめかしたことを自力で探った結果が、瞑想だ。
追記:その方向でハイデガーの先にあるのが、ひたすら坐禅せよと言った道元・『正法眼蔵』内の「有時」(存在=時間)の章であろう。

そしてこうやって存在をきちんと実感することで、存在することの喜び、存在への慈しみ、すなわち存在愛が育まれる。
愛の対象は本来、存在だ。
存在(在ること)に自己も他者もない(個々の自己とか他者とかは、”在るもの”すなわち”存在者”)。
あるのは存在者(在るもの)を存在たらしめる存在(在ること)という現象のみ。

※存在(在ること)と存在者(在るもの)とを分ける存在論的差異がハイデガーの要諦。彼の存在論は存在者ではなく存在を問題にする。

そこには自他の峻別を前提とするエゴイズムはないから、自利=利他となる。
仏教の慈悲は、自己を含んだ存在愛であり、自己を除外した対象愛(強迫的な自己犠牲を強いる)ではない。
また慈悲は、世俗道徳の反映ではなく、存在に達することでおのずと湧き出るものである(押し付けられた規範ではない)。
仏教にはすでに”慈悲の瞑想”なるものがあるが、それに依らずとも、瞑想それ自体が存在論レベルに達すれば、慈悲の心になる。


以上の瞑想では、雑念はなく、集中対象もないという意味で無念無想状態になっているともいえる。
だがそれ(心の空虚)が瞑想の目的ではなく、マインドフルになることが目的であり、無念無想は付随現象にすぎない。

このレベル2でも瞑想は充分に価値があるが、さらに次のレベル3がある。→「瞑想のすゝめ:レベル3」へ


瞑想のすゝめ:レベル1

2020年08月21日 | 心理学

瞑想は、インドで発達し、ヨーガや仏教で修行の基本になっており、更に中国の気功にも取り入れられている(気功は儒仏道それぞれの影響を受けている)。

ただ、多くの人は、坐禅などに挑戦したものの、雑念と足の痛みとの格闘に終っただけかもしれない。

瞑想にはいったいどんな効果があるのだろうか。

まずは瞑想の初心者向けに、宗教的修行としてではなく、生理心理学的視点、とりわけ私の「心の多重過程モデル」の視点で説明してみる。


瞑想とは、覚醒時に作動している心(システム1とシステム2)を覚醒しながら停止する、というすこぶる人工的(不自然)な行為である。

つまり日常の心理活動を停止し、あえて「何もしない」状態を維持する。
実はこの不自然さの努力に意味がある。

大脳前頭前野による自己制御のトレーニングだからだ。

通常の安静時には、特別な作業をしていない状態での脳内ネットワークが活動していて、それを最近の神経科学では、”デフォルト・モード・ネットワーク”(DMN)という。

外部の刺激に対する反応(システム1)ではなく、それとは独立した純粋の思考作用(システム2)によるものだが、特定課題遂行の思考ではなく、制限されないいわゆる雑念状態で、これを「マインド・ワンダリング」(心の放浪)、あるいはもっと活発な場合はキャーキャー叫びながら木々を飛び移る猿のようなので「モンキーマインド」ともいう。

この DMN活動が低下するとアルツハイマー病となるが、逆に過活動となると統合失調症(妄想、幻覚)となるという。

日常多くの人は、DMNが野放し状態で、マインド・ワンダリング状態が続いているはず。仕事や勉強に集中できない、あるいは寝つけない時の状態だ。

そのマインド・ワンダリング(モンキーマインド)をシステム2で鎮めるのが瞑想である。DMNを落ち着かせることが、脳活動の安定につながる。
瞑想はそれに効果がある。

さて、雑念状態(マインド・ワンダリング)を鎮めるにはどうすればよいか。
理想は無念状態であるが、そもそものDMNは無念状態ではないので、初心者には難しい。
雑念の”念”を止めるのではなく、念があっても”雑”でなくすればよい。
一念、すなわち集中状態でよい。
最初に取り組むといいのは、集中を目的とする瞑想(サマタ瞑想。止)である。

何に集中すればよいのか。
集中対象として、仏道修行では阿字や阿弥陀如来など映像イメージ、あるいは公案などの思考課題などがあるが、一番簡単なのは呼吸に集中することである。
呼吸はいつでもしているから、題材を探す必要がない。

面白いことに、呼吸に意識を当てると、それまで無自覚レベルのおとなしかった呼吸が、急に不自然な深呼吸を始める。
呼吸活動そのものが、脳幹の呼吸中枢による代謝性呼吸(システム0)から、横隔膜周囲の呼吸筋の運動制御による随意呼吸(システム1)に切り替わったのだ。
われわれは、呼吸を意識する時は必ず深呼吸をしてきた(深呼吸をする時だけ呼吸を意識した)。
その条件づけ(システム1)のためだ。


集中(一念)をやりやすくするため、呼吸を”数える”という思考課題をシステム2に与える。
この思念を利用する瞑想法(観)を「数息(すそく)観」という。

システム1で作動される深呼吸をゆっくりシステム2で数えることに集中する。
すなわち、条件づけ反応のシステム1を深呼吸に限定し、意識的思考活動のシステム2をそのカウント作業に限定させる。
呼吸は止まらないから、ずっと数え続けていられるので、他の思考に行かなくて済む。

実は、深呼吸は、それを続けること自体に効果がある。
深呼吸によって血中酸素分圧が上昇して、酸素が全身に行き渡り、諸器官が活性化される。
脂肪は燃焼され、内分泌も免疫力も活性化される。
横隔膜の大きな運動(腹式呼吸)によって腸の蠕動運動が活発になる。
吸気時には交感神経が興奮し(緊張)、呼気時には副交感神経が興奮する(弛緩)。
この交互の興奮によって自律神経のバランスが整えられ、明確なリズム運動によって脳内にセロトニンが分泌され、精神が安定する。

このような深呼吸活動を内側前頭前野にある自我がじっと静かに見つめる。
すなわち、身体機能が活性化し、精神が安定し、そして思考作用の高次の制御訓練がなされる。
瞑想はまずは心身の健康にいいということだ。
こんないいことが居ながらにして、道具もいらずにできるのだ。

呼吸は、生存に必須な身体活動でありながら、システム2で制御できる(止めることもできる)、すなわち体と心の接点となる活動。
ハイレベルの瞑想で行詰ったら、この呼吸瞑想に立ち戻るとよい。

瞑想のすゝめ:レベル2」に続く。


エネルギー心理学への道

2020年08月20日 | 心理学

アインシュタインの有名な定式 E=MC^2
これは『般若心経』の有名な一節「色即是空、空即是色」を意味する。
量子論も般若心経もともに等号(=、即是)は双方向的だ。

すなわち、物質の質量(M:色)はエネルギー(E:空)であり(光速Cの2乗という係数を伴って)、
エネルギー(空)こそ物質(色)の究極の姿なのだ。

心理学でずっと引っかかっていた言葉がある。
「心的エネルギー」というやつ。
フロイトから使われていた。
フロイト自身、自分は科学者だと自認していたから、まさか学術用語に文学的比喩を使うはずがない。
そしてエネルギー保存の法則を知らぬはずがない。

ということは心的エネルギーは、他のエネルギーから変換されたものであり、また心的エネルギーは他のエネルギーに変換可能なはずである。
こうなると、「トランスパーソナル心理学」だけでは不充分で、「エネルギー医学」※も必要になる。

※全体像を把握するには、リチャード・ガーバー『バイブレーション・メディスン:いのちを癒す<エネルギー医学>の全体像』(日本教文社)がおすすめ

これを私の「心の多重過程モデル」に置き換えると、心的エネルギーの操作段階(自由に使いこなす)としてのシステム4が、身体エネルギーとの交換の現場(システム0)と相互乗り入れする。

※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなすモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無意識)的反応。覚醒時に優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。システム1で対処できない場合に作動
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。作動負荷が高い
システム4:超個的(トランスパーソナル)レベル。霊的・宗教的体験。作動しない人が多い

心的エネルギーは、システム4で外界の物質・エネルギー系と交換し、システム0で身体の物質・エネルギー系と交換する。
これによって、「心」を構成するシステム0〜4の多重構造を統合的に捉えられる。
すなわち心⇄身体⇄外界という、心を含めたエネルギー循環システムへの視点が開かれる。
そこでは心的エネルギー=物理的エネルギーという等式が成立し、心的エネルギーは、エネルギーの1形態として計測の道が開かれる。

実はこの視点はすでに3000年前から存在している。
その意味で、人類にとって最も古い視点である。
「気」の理論だ。

中国医学では、基本概念である「気」を生命エネルギーとしているが、心身一元論にたっているため、心理現象も「気」の挙動で説明される(「気持ち」など日常語になっている)。
だがそもそもの気は、易の理論にあるように、身体外の宇宙エネルギーである(生命は宇宙エネルギーの負エントロピー現象)。
外気→内気の流れの理論が、であり、中国医学(鍼灸、漢方)である。
だが、内気→外気の流れも可能であることは気功が証明している(量子の”もつれ現象”も)。

なので私は、仏教よりも根源の位置に気の理論を置いている。
仏教では、「諸行無常、諸法無我」の認識に達して、その先がない。
仏教の基本態度が臨床心理的で、生きる苦の原因となっている”誤った信念”から解放する認知行動療法(悟りと修行)だから、人間の問題が解決するのが目的だ。
それに対して気の理論は、諸行がどう変化するのか、諸法あるいは色(空)がどう構成されるのかまで追究する。

その基本理論が仏教よりもさらに5百年前に成立した「易」(陰陽理論)だ。
太極が陰・陽に別れて宇宙(エネルギー)のダイナミズムが波動として始動する(ビッグバン)。
そして陰と陽はデジタル(2のn乗)的に多重化し、複雑な構成物(システム)を生成する。
仏教の「空」の哲理を、量子論以前に「気の陰陽理論」(宇宙エネルギー論)で説明するとわかりやすいかもしれない。


ホラーの季節は私にお呼びがかかる

2020年08月18日 | 心理学

夏のホラーの季節になると、私に対する需要が高まる。

なぜなら、「楽しまれる恐怖」についての研究を求めてネット検索すると私の論文がヒットするから。

今年も、ニコニコニュースのインタビューを受けて、それが本日からニコニコニュースの記事として公開された。

ニコニコ動画では、ホラー映画のCMを夜に流すと、迷惑だというコメントが多くくるという。
その理由を知りたくて、私の職場にインタビューに来た。

インタビュアーのノリが軽くて、こちらも楽しく話せた。
なのでインタビュー記事は気楽に読める内容になっている。

ただ、私の掲載写真がマスク警察の格好の標的になりそうなので、当サイトからのリンクは遠慮しておく。

実は、その分野を専門的に研究しているわけではなく、個別感情について、既存の発想に縛られず、虚心にその感情に向かい合うことで、新鮮な視点で捉えることを努めただけである。
それに社会心理学者として、お化け屋敷やジェットコースターにお金を払って恐怖体験したがる心理現象を無視できなかった。

その結果このテーマで、雑誌インタビュー数件、テレビ出演、学校での講演等の依頼があった。

ただ、防災士でもある私にとっては、恐怖とのつき合いは、「正しく怖がる」ことの重要性に向っているため、ホラー等の楽しまれる恐怖については世間の需要の割りには、関心が低い。

ちなみに、恐怖以外にも、驚き、怒り、悲しみ、愛、感動についても同じ視点で論文にしているのだが、それらについては一向にお呼びがかからない。


乾いたフェーン昇温に注意

2020年08月17日 | お天気

本日の浜松が41.1℃と、熊谷が記録した日本最高気温のタイに達した。

実は、今日は18きっぷで帰名(東京→名古屋)中で、あいにく浜松に着いたのは記録した4時間後の16時だったが、あえてホームに降り立つと(車両切り離しのため時間があった)、まだ充分暑かった。

ここ最近は、浜松市北部の山に囲まれた「天竜」が40℃を超えていて、トップを伺う勢いだった。
ところがその南の、太平洋に面している(中田島砂丘がある)浜松が41℃超えをしたのには驚いた。
なぜなら、海沿いの観測地は、日中は海風が入るから、日中は昇温が抑制されるもの。

それに記録したのが12:10という、一日の最高気温になる時間帯よりかなり前ということは、単なる日射による昇温ではない。

浜松の正午頃は西寄りの風だった。
さらに上空は北西寄りで、これは西日本に張り出した太平洋高気圧(「鯨の尾型」で盛夏特有の気圧配置)の縁辺流。
それが浜松の北西にある三河山地から、吹き降ろされることで、乾いたフェーンとなり、異常昇温をもたらしたといえる。

この頃、尾張東部の日進市にある我が日進気象台では、露点温度が急激に下った。
乾燥した空気の流入である。
風向はやはり北寄りに変化している。

半世紀以上最高気温日本一を維持していた山形がそうであったように、40℃超えの異常昇温は、通常の日射だけでは無理で、山越えフェーンの下降気流(断熱圧縮)による昇温が加わって成立する。

多治見は盆地なのでそれがおきやすい地形だし、熊谷は西寄りの風の場合、関東山地からのフェーンを受ける。
館林も北の越後山地からのフェーンで昇温するという。

ということは、風向がポイントで、風上が山地だと、フェーンによる昇温が起きやすい。

フェーンが最も頻繁に起きるのは北陸地方(日本海に低気圧がある場合)で、冬だと乾燥した南風が大規模火災の原因となる。


露点温度って使えそうだが

2020年08月13日 | お天気

日本で天気予報に使われる気象情報は、気温と相対湿度(以下、湿度)だ。
ところが、ヨーロッパなどでは湿度の代わりに「露点温度」が情報として提供されるという。
ヨーロッパの人々は、露点温度なるものを日々気象情報として参照しているわけだ。
いったいどんな意味があるのか。

露点温度というのは、いまの空気で水蒸気が結露する温度で、コップに氷水を入れるとその外側が結露するように、気温より必ず低い(気温=露点温度の場合は雨の中)。
では、この温度が気象情報としてどう使えるのか。

気温の影響を受けない水蒸気量の指標とみなせる(いわゆる湿度は気温の影響を受けるので”相対”湿度)。
気温と露点温度の差(気温露点差)が”相対”湿度として使えるので、気温と露点温度の2つで、相対湿度は不要ともいえる。
つまり露点温度が変化することは、水蒸気量の異なる空気が流入していることを意味する。

それを本日の夕立(東京で雷雨)で確認した。
まず最初に露点温度がガクンと低下した。
ついで風速が急に上昇した。
そして気温が低下し(=ここで相対湿度上昇)し、強い降水となった。

この一連の変化は、発達した積乱雲前面の露払い的な下降流(これが強くなるとダウンバースト)がまずやってきて(乾燥空気だが冷気なので相対湿度は下らない)、
その後、積乱雲の本体(降水雲)がやってきたことを意味する。

ジブリ・アニメの「もののけ姫」では、雷雨が来ることを表現するのに、まず草原を騒がせる陣風が吹き抜け、その後に大粒の雨が石の上に落ちる一連のシーンがあった。
この陣風がまさに露払い的な下降流の表現だ。

だがその前の露点温度の下降※は、さすがのジブリ・アニメでも表現できない。
露点温度は肌で感じる気温や湿度と違って、露点温度計を持っている者にしか、それが計測されないから。
※:降水前の露点温度の変化はこの場合のような下降とは限らず、むしろグッと上昇する場合の方が多い。低気圧に伴う温暖前線による降水がそれに該当する。

もともと湿度は「晴雨計」として家庭用の天気予報に使われているが、以上から、湿度よりも露点温度の方が天気予報に役に立つかも知れない。
もちろん、我が”私設気象台”ではアメリカ製の機器で露点温度も常時観測しているが、露点温度が測れる家庭用の液晶温度計は日本にはない(Amazonで唯一買えるのは外国製なので説明書は英文)。

日本の民生(家庭)用計測器ってホントにワンパターン(ワンパターンなのは計測器だけではないが

追記:私設気象台で露点温度の経時データを蓄積しているので、その挙動(周期性など)を分析して、気象情報としての意義を見出そうと思っている(2023年3月に論文発行→論文ダウンロードへ)。


周庭さんら逮捕(香港国家安全維持法)を非難する

2020年08月11日 | 時事

香港の活動家・周庭さんらが逮捕された。
いよいよ覇権主義国家※が牙を剝きはじめた。
今なら世界を敵に回してでも、覇権主義を通していけるという自信があるのだろう。
武漢から世界に拡散したウイルスが、まるでその第一弾であるかのよう。

※”覇権主義”とは中国が敵対する米ソなどの大国に向って称した非難用語だが、当時からそれっておのれの事指しているだろうと思っていた。これって、自分がやりたいことを、相手がやっているとして非難する”投影”という心理メカニズムそのままだから。

逮捕の根拠である「香港国家安全維持法」の36条では、罰則の対象として「永住者の身分を有さない者が香港特別行政区以外で香港特別行政区に対して本法に規定する犯罪を実施した場合」とあり (Wikiより)、なんと香港永住権を有さない外国人がその自国内であっても、中国政府批判をすると周庭さんと同じ”犯罪”となる。

ということは、こういう記事を書く私も、それだけで私は要注意人物となってしまい、
少なくとも、中国本土に足を踏み入れることは逮捕覚悟となる。

こっちだって中国政府が天安門事件※(この単語を使っているので、この記事は中国国内では閲覧できない)を隠ぺいしている限り、かの国には絶対行かないと心に誓っているが。

※この事件を鎮圧した人民解放軍は、国民を守る国軍ではなく、共産党を守る軍隊(赤軍)である。共産党は国軍ではなく赤軍を持ちたいから、国軍を否定する。

この法律は、外国人が香港の反政府的活動を支援することを、「内政干渉」として妨害することを実効的にするために、他国に”内政干渉”するという論理矛盾を犯している。
もっともそんな矛盾は気にもしない”ジャイアン”的論理(ご都合主義。ダブルスタンダード)を通すつもりだ。

しかも現代の国際常識では、ある国が自国民を好き勝手に扱ってよいということはなく、人権弾圧は国家を越えて非難されるべきものである(国法を超える法律的根拠はないが…この国が国連の常任理事国に居座っているから)。
なので私も自国民を思想弾圧するその政府を遠慮なく非難する。
というより、その法的根拠である「香港国家安全維持法」そのものを非難する。

こんな国に対して、私は、尊敬する古代中国文明の正統な後継とは認めない。
もし孔子様が現代に蘇り、彼の理想とした「礼治」※に最も近い国を選ばせたら、近世を通して”礼法”が広く深く国民に行きわたっている日本を選ぶだろう(政治家の質は問題だが)。

※礼治とは、法の強制がなくても、人々が自己制御で社会秩序を維持できる状態。その自己制御できる人を「士」という。日本の江戸時代の(寺子屋)教育は武士に限らず、この「士」を育成することにあったため、『論語』が基本テキストとなった。礼治に対立するのが法治。日本はもちろん法治国家であるが、コロナ対応1つをみても、まだ礼治(論語の精神)が作用している。→『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(石平)を読んで

追記:翌日保釈されたが、そもそも逮捕容疑が本人に説明されず、法の施行後に該当する行為をしていないという。
どうやら権力が恣意的運用するとことの”見せしめ”らしい。
もう一度言うが、こんな国が国連の常任理事国なので、拒否権を行使できるのだ。


都内の体感温度50℃

2020年08月09日 | お天気

名古屋から18きっぷで東京に帰った。

6時間かかるので、日中の暑い時間を冷房の効いた車内ですごす。

東京に着いたのは夕方なのに、ホームに下り立つとムッとする。

帰宅して夜になっても30℃を下まわらない。

自宅屋上に設置してある「私設本駒気象台」によると、本日の最高気温は37.3℃(15:29〕。
体温以上である。
コロナ感染時の体温というべきか。

こういう時は、施設入り口の温度チェッカーでも37℃を超えてしまうかも。

そして同時刻の体感温度(熱指数)は50.6℃。
風呂でも熱くて入れない。
気温は勿論だが湿度も高かったから。
しかも気温が体温以上だと、風も熱風となる。
熱指数は41℃を超えると熱中症の危険となるので、50℃なら簡単に熱中症になってしまう値。

今夜はエアコンつけっ放しだ。


前期(遠隔)授業が終わって

2020年08月07日 | お仕事

本日で前期授業が終わった。
もちろん遠隔授業で、本日最後の授業も、プレゼン画面のPDF資料と説明用のテキスト読み上げ音声によるオンデマンド授業。
今期は開始が遅かったので、終了が一週間延期だが、授業回数は2回少なく、試験週間がないので、今まで授業週間中に出した課題で採点する。

オンデマンド授業では、授業用のプレゼン画面に、自分の声の代わりにテキスト読み上げ原稿を作ってそれをパソコンのエージェントに読み上げさせ、それを音声ファイルで画面資料とともに学生に公開する。
こう書くと、楽そうだが、実は読み上げ原稿の作成と修正にすごい時間がとられる。
台本の推敲の積み重ねに際限がないのだ。
セリフだけでなく、間の取り方も推敲の対象なる。
生でしゃべった方がどんなに楽か。

もちろん、プロなのだから仕事に完璧を求めて当然。

私より滑舌のよい音声エージェントがPDF画麺を説明する結果、生の講義内容が1/3の時間に短縮された。
生だといかにダラダラしゃべっていたかがわかった。
たとえば、生だと大事な部分は繰り返すが、音声だと繰り返さない。
その代わりファイルなので学生は幾度も再生できる(ポッドキャストを聞く感覚で)。

一方、学生は対面授業と違って、好きな時間に視聴できるので楽かと思ったが、話しを聞くとそうではないらしい。
その原因は教員側にある。

教員は、出席確認を兼ねてまた学生に余分に勉強させようとして、毎回課題を出す。
私もそうする。
これを、遠隔授業の全教員がやるのだ。
その結果、学生は膨大な課題の山を毎週こなすはめとなる。

結局、遠隔授業によって、授業が効率化され、講義内容の完成度が上がり、そして学生はどんどん勉強する。

いわゆる一方向的情報提供の講義なら、むしろいいかもしれない。

時間と空間の制約がないのだから、受講者のハードルも下げられるし、
遠隔に新しい可能性を感じたのは確かだ。


8月の紫外線

2020年08月06日 | お天気

太陽光線が一年で一番強くなるのは、6月下旬の夏至の頃で、それより一ヶ月以上経過した8月の日射量は、5月半ば並みに弱くなる。

私は、独自に、大学で日射量や紫外線量を含む常時大気観測(「日進気象台」と称している)をして、ネット配信しており、この時期は特にUVIndex(有害紫外線量※)に注目している。

※皮膚ガンの原因となる有害なUVB(B波)を強調した指数。

上述したように、日射量は8月に入ると弱くなるのだが、紫外線量は減らないどころか、一年での最大期となる(特に上旬)からだ。

なぜかというと、上空のオゾン層(紫外線を吸収する)が5−6月より薄くなるためで、その結果、地上に届く紫外線は6〜7月よりかえって強くなる。

本日の「日進気象台」でのUVIndexの最大値は9.9(12:03)もあった。

UVIndexは8を超えると外出時は砂漠の民のような長袖を着用が勧められる。

当然UVケアをすべき(私は盛夏以外も UVケアをしている)。

UVIndex以外に紫外線量それ自体を計測すると、直達光以外に空や積雲からの散乱光もあるので、帽子よりも日傘が向いている(道路からの反射量はたいしたことない)。

紫外線量は、緯度の違いもあり、常時、東京<名古屋 となる。
時間変化も大きく、午後4時以降なら、早朝並みに下がるので、外出にお勧め。

日傘は太陽の直達光(赤外線放射を含む)そのものを防ぐので、体表面の高熱化の防止になり、熱中症を防ぐことにもなる。
それに風を通すので、蒸れることもない(もちろん私は盛夏に限り日傘を使っている)。


ニューロフィードバックによる瞑想訓練

2020年08月02日 | 心理学

Museというニューロフィードバック装置を使って、瞑想をしている。

言い換えると、ただ漫然と瞑想しているだけだと、自分の状態が本当に瞑想レベルに達しているのか、自己満足で瞑想した気になっているのかが素人にはわからない。
そこで、昔はバイオフィードバックと言われていた、脳波を使って状態をフィードバックする装置の1つ、Museをネットで購入した。

私自身、瞑想(坐禅)は学生時代からやっていて、
心理学の研究世界に入ってからは、バイオフィードバックに興味をもち、
たまたま非常勤先(当時は常勤職でなかった)の大学の心理学の先生が、パソコン(NECのPC9801!)を使ったバイオフィードバック装置を購入したので(日本製の商品名は失念)、思いっきりそれを使わせてもらった。

当時は、α波ブームで、とにかく脳波をα波にすればいいということで、α波の発信源である後頭部にセンサーをつけて、閉眼してα波がでると、カッコーの声がするものだった(結果にβ波などの出現比率が集計される)。
これを使って、まずは任意にα波を出すことをマスターした。

その後、今の大学に移り、同時にMacユーザーになっていた私は、 IBVAというMac専用の脳波装置を買った。
これは無線でパソコンにデータを飛ばして、脳波を音として再生(脳波音楽!)することが可能で、
またδ(デルタ)波からβ波まで、三次元でリアルタイム表示できるものだ(こういう優れた表示は、当時はMacでしか実現できなかった)。
ただ、センサーが前額部なので、α波優位状態は出にくくなってしまう。
その後オプションで、後頭部のセンサーや左右両脳を別個に取るセンサーも購入した。

これらは当時としては画期的に安価で気軽な脳波装置なのだが(それまでは脳波計は高額な医療機器)、
パソコンの前に座って、頭を締めつけるヘッドバンドを装着しなくては測定できないので、毎日の自分の瞑想訓練に使う気にはなれなかった。

またその後しばらくは、個人的に、瞑想にも脳波にも関心がうすれていった。

21世紀になって、ふたたび脳波が簡単に取れる装置が発売され、たとえば、MindWaveという装置は、自分の脳波をコントロールして、目の前の機器を脳波で動かすことができ、心理学の授業でデモンストレーションに使った。
この頃になると、脳波センサーもヘッドホン型に、またスマホアプリになるので、場所を選ばないで使えるようになる。
ただ、IBVAもMindWaveもアメリカ製。

そんな中、私が気に入ったのはMuseという装置。
これは前額部だけでなく側頭部にも、しかもそれぞれ左右の脳別にセンサーがある。
装置は耳掛け式で、簡単で違和感もない。
さらにトレーニング内容がきめ細かい。
一番すごいのは、従来はα波のような特定の脳波の優位性だけをフィードバックする単純なものだったが、
この装置は、仏僧などの深い瞑想状態のデータをもとに研究した結果にもとづき、複数の脳波と呼吸の複合パターンをフィードバックの対象としていること。

実は、仏僧による、すなわち瞑想の熟達者による日本の脳波研究で、瞑想状態は単純なα波優位ではなく、たとえば前額部からはθ(シータ)波が出ていることが以前からわかっていた。

さらに最近では、β波(通常のシステム2状態)より周波数が高い、γ(ガンマ)波が発見され、しかもそれは別の瞑想状態で頻発することがわかった。
β波は通常の思考中の脳波なので、γ波はそれより脳を使っている状態として、精神的ストレスの指標と推定されていた。

つまり、瞑想状態は、特定の脳波が優位という単純なものではなく、θ波からγ波までの複合的状態の1パターンなわけである。
それに加えて、呼吸がとても静かになり、おおげさに言えば停止状態に近づく(これは気功訓練でも指摘されている)。

以上の最新の研究成果にもとづく、複雑なアルゴリズムによるフィードバック装置をアメリカから購入して(日本のAmazonでは不可。3万円弱)、iOSの専用アプリもダウンロードした。

瞑想は、習慣づかないとなかなか続かないものだが、気功訓練(練気)から瞑想にも接近して、続けるようになれた。

Museでは、心(脳)の状態を、「アクティブ」(活動)、「ニュートラル」(安静)、「カーム」(瞑想)の3種類に分けている。
以前だったら、活動=β波優位と安静=α波優位の二分割だったろう。

そして、カームになると得点が加算され、また一定時間以上カームが続くと、鳥の声が鳴ってフォードバックされる。

その音声フィードバックのおかげで、鳥が鳴いている時の心の状態を維持すればいいのだ(瞑想は閉眼が基本なので、フィードバックには音声が必要)。

このMuseを使って瞑想を続けた結果、今では、セッション中は、鳥が鳴きぱなしになり、トレーニングプログラムの最後までクリアした。

さらに、開眼(阿字観)でもカーム状態を維持できることがわかった。

というわけで、一応客観的な基準での”瞑想マスター”として、瞑想についても記事にしていきたい。

ちなみに、現在は、Museのバージョンアップ版、Muse2、睡眠用のMuseSが発売されている。→Museのサイト(英語)