今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

2019年を振り返る

2019年12月30日 | 歳時

東京宅での大掃除と正月用の買い出しもほぼ完了し、いよいよ新年を迎える準備が整った。

そこで毎年末恒例の”今年の振り返り”をしてみよう(本ブログの主旨に則り、極私的振り返り)。

今年は、なんといっても天皇の生前譲位という、明治以降初めての出来事があり、祝賀ムードの中で年号が替り、新天皇の即位の儀式が執り行われた。
むしろこのパターンを標準にしたらどうか(ただし大嘗祭はもう少し質素でいい)。

それと昨年に続いて”災”害が続き(昨年の漢字が「災」だった)、特に9月と10月の東日本の台風被害が目立った。
人災では、なんといっても7月の京アニ放火事件が痛ましい。
これらを受けて防災への意識が私の中でも高まった。

さて、個人的には、昨年に続き、大学院の研究科長の職務が重くのしかかったが、一番の懸念だった研究科改革案の見通しがつき、まずは最初の壁を突破した。
同じ立場でも二年目になり、初年度の昨年よりは精神的に余裕ができたせいか、論文は例年通り2本書き上げた。
その中で、茶臼山カエル館でのパワー現象の実証研究を論文にできたことが大きい(2020年3月発行)。
今後はスピリチュアルな領域(私の「心の多重過程モデル」ではシステム4)に入って行くつもりで、その第一弾だ。

この研究に関連して、私自身が中日新聞に載り、中京テレビで流れた。
世間受けは悪くなさそう。
その他に、青森の”キリストの墓”関連で読売新聞関西版に載った。

昨年末の年筮で、今年の卦が「水山蹇」と出て、歩みが止るとされたが、それが一番当ったのはわが一番の趣味であった山についてで、今年はさらに山から遠ざかってしまった。
行った山は、高尾山、尾高山(鈴鹿の前山)、都幾山(慈光寺裏山)、津具丸山(奥三河)、丹沢大山、御岳山の低山ばかりで、このうち丸山だけは道なき道を行く私にとって理想的な登山だった。
山が減った代わりに増えたのが寺で、秘仏開帳に合せて拝観したのが、荒子観音(愛知)の円空仏、護国寺(東京)の如意輪観音、竹成大日堂(三重)の双体大日如来、慈光寺(埼玉)の千手観音、長楽寺(京都)の准胝観音、浄楽寺(神奈川)の運慶仏。

振り返りをわが親族にひろげると、重度の障害者である12歳の姪が2月に8時間に及ぶ脊椎の大手術を無事終えた。
成長期を迎える前に必要な手術をやり終えることができ、後遺症もない。
4月に15歳の甥が高校に進学した。
9月にはイタリアから姉が、10月には姉の息子である甥も日本にやってきた。
母の90歳の誕生日を祝うためだ。
その母は、すこぶる元気で、体の不具合をむしろ克服してきて、年々元気になっている。

私自身も後発白内障を発症したが、通っている眼科のレーザー治療で簡単に治った。
慢性的な高血圧と耳鳴り・難聴は相変わらずだが、あとは、左脚の腸脛靱帯の故障が治らず、日常生活はまったく支障がないものの、大山や御岳山の下りで痛くなってしまう。

物関係では、3月に名古屋宅でずっと使っていた布団を打ち直して新品同様にしてもらい、また3箇ヶ所目立った傷がついていた愛車(FIAT500)が保険できれいに修理された。
いうなれば、持ち物の健康は回復した。
そして12月に人生で手に入れたい最後の物であったLeicaのカメラを手にした。
もう、これといって欲しい物はない。

こうして見ると、今年はむしろ懸案事項が解決され、望みがかなった一年だったことに気づいた。
昨年の振り返り記事で「来年は…」と願ったことも実現したし。→2018年を振り返る
年筮が衰運だった割りには、(おとなしくしたせいか)結果が良かった。
感謝して終りにしたい。


年末の武州御岳山

2019年12月28日 | 山歩き

暮れも押し詰まった28日、残す用事は大掃除とお節具材の買物だけとなったので、晴天の一日を山歩きに充てた。


すでに連日休日モードで食べる割りに歩かないため、増加気味になっている体重もなんとかしたい。
といっても相変わらず早起きは苦手だし、慢性化した腸脛靱帯炎を抱えているので近くて軽い山にする。

行き先として思いついたのは、東京・奥多摩にある御岳(みたけ)山。
スピリチュアル志向が高まるにつれ、どうせなら”霊山”に行きたくなる。 
この御岳山の信仰の歴史は2千年に及ぶといわれ、信仰の山としてははるかに有名な木曽の御嶽(おんたけ)よりも霊山としての歴史は古い。

御岳なら、山上に飲食店があるので、食料は持参せず、そこで蕎麦を食べたい。
山にはケーブルカーが架かっているので、往きだけ使うことにする(つまり、山歩きというより観光気分)。
その代わり、朝食は抜いて出発。

8時半の遅い出で、山手線から西武新宿線・JR青梅線・バス・ケーブルと乗り継いで、ほとんど歩かずに標高850mの御岳平に11時すぎに着いた(バス停からケーブル乗り口までの急坂は短いがきついので、足の弱い人は注意)。
日本晴れで、スカイツリーを筆頭とする都心のビル群が見える。
山上には雪が残っていて、同じ都内でもここは下界とは異なる空間であることがわかる。

ここから御嶽※神社に向う道は平坦な舗装道路。
※山名は御、神社と駅名は御
この御岳山は、山好きになって半年後の中学一年の正月に、運転好きの母と来たのが最初で(買ったばかりのキャラバンシューズを履いてきた)、
翌年は、中学の友人2人を誘って、大晦日の夜に登って(生まれて初めて)初日の出を拝んだ。
すなわち、山が好きになった私にとっての原点ともいえる所。
御岳の山中は、人工物が建ち込んで、深山の雰囲気がない代わりに、山と人とが共存しているこの地独特の雰囲気は好ましい(高尾山よりは観光地化していない)。

山上の食堂街をすぎると神社への長い石段が始まり、一汗かくころ、標高929mの頂上にある御嶽神社に達する。
立派な社殿に参拝して、その奥に行くと、まずは「蔵王権現命」(ざおうごんげんのみこと)と書かれた木の柱が立っていて、触拝所と書いてある。
以前にはなかったと思うし、実際柱は新しい。
崇神天皇創建という伝説はともあれ、ここは明治以前は蔵王権現信仰で栄えた所なので、神仏習合の原点に戻る姿勢は嬉しい。
本殿の真後ろには、オオカミを祀る大口真神(おおくちのまがみ)社があり、実質的な主神の位置を占める。
さらにその最奥には、奥の院(甲龍山,1077m)の鋭峰を拝む遥拝所がある(写真)。
はっきり言って、御岳山は山としてはまったく地味で目立たず、どう見ても、屹立したこの奥の院こそが山岳信仰の対象にふさわしい。
神社のある御岳山は、その遥拝所の位置づけだったのではないか(ただよりマクロ的には、さらにその奥の大岳山こそが主峰の風格を持っている)。

ともあれ境内の摂社群を一巡して、往路を戻る。
食堂街のどこかで山菜そばを食べるつもりだが(山では天ぷらではなく山菜)、値段が表示されない店は入りづらいので、850円と表示されている千本屋に入る。
付け出しに刺し身コンニャク(当地の名物)を出してくれた。
目の前の女性客がカレーを食べていたのを珍しいと思っていたが、後でガイドを見たらこの店の「鹿カレー」(ジビエ料理)が名物らしい。

帰路は、ケーブルを使わず、表参道を麓まで降りる。
道は山上の集落の車が通れるように舗装されているので、杉並木の中を軽快にスタスタ降りる(これが大山のような石段の連続だと膝につらい)。

ケーブル下からバスで来た道を歩き、御岳渓谷(多摩川)の橋を渡る近道を通って御嶽駅に着いた。
隣接の案内所で、名物・御嶽汁のフリーズドライ(2袋500円)を土産に買う。

下りは石段でなかったこともあり、左脚の腸脛靱帯はうずきもしなかったが、最後の最後、高田馬場駅で山手線のホームに降りる階段で、まともに降りれないほどの痛みがきてしまった。

帰宅後、風呂上がりに体重を測ったら、(昼食べた山菜そばが体内にはいっているのに)昨日より1kg減っていた!

ただ、今晩は延期だった甥の誕生会で、ケーキまで食べる予定なので、すぐにリバウンドするだろう。


私が買う宝くじは

2019年12月26日 | 歳時

12月に入り、余興に宝くじでも買ってみるか、と思った12月2日のことを記す。

もちろん、隕石の直撃を受ける確率に期待することはしない。
億万長者を狙って大枚をはたくのは愚の骨頂、みすみす大金をドブに捨てるようなものだ。
なので本気ではなく余興としてスっても痛くない額=10枚を限度とする。

今月売り出されるのは、年末ジャンボ、ジャンボミニ、それにちょっと遅れて東京初夢なるものもある。
この3つの中から1つ選ぶとすればどれか。

まず、一等の高値に釣られるのは、胴元のいいカモでしかないので、
私は一等はハナから期待せず、視野の外におく。
その代わり、当る確率がもっと高く、もらってうれしい額として百万円(百万長者)を目標規準にする。

ということで、3種の宝くじの百万円当る率で選ぼう。

それぞれの当り籤(くじ)の数がすでに発表されており、連番で10枚に1枚当る最下位籤数が発行数の1/10と見当がつくので、これを分母にしてみる。
分子はもちろん百万円の籤数。
これを3つの宝くじで比べると、以下になった。
年末ジャンボ:2300/46000000=0.00005
ジャンボミニ: 1800/18000000=0.0001
東京初夢  :50/500000=0.0001
(百万円が当る確率はこれらのさらに1/10と思えばいい)。

分子だけを見ると、年末ジャンボの当り籤数が多いが、それ以上に分母(発行枚数)が多いので、確率は1桁分少ない(半分)。
ジャンボミニと東京初夢が同じ確率で並んだ。
ではこの2つのどちらでもいいかというとそうではない。
1枚当りの単価がジャンボミニでは300円に対して、東京初夢は200円。
すなわち、東京初夢の方が、コストが 2/3ですむ。
あるいは1000円当りの当籤確率が高くなる。

ということで、年末ジャンボたちには手を出さず、25日から発売の東京初夢をバラで10枚買うことにし、今日26日に実行した。


年末の用事と芥川龍之介の生と死展

2019年12月25日 | 時事

日本では、ホリデー(年末年始)週間のクリスマスモードから正月を迎える年末モードの転換日といえる今日25日。
私は今日も粛々と年末の用事をこなす。

まず、昨晩仕上げた賀状を、近場のポストではなく、あえて郵便局に出向いて投函。
そのまま電車で秋葉に行き、ヨドバシ秋葉店でカメラと時計の備品を買う。
秋葉の「小諸そば」で昼食。
戻って、近所の低額床屋で散髪。
新年を清らかな気分で迎えるため、子どもの時から散髪も年末の用事の一つになっているのだ。

その途中、田端駅前の田端文士村記念館で企画展の「芥川龍之介の生と死」を観る。
この企画展は1月26日までなので、帰省中のホリデー週間に観ようと思っていた。

芥川龍之介は田端に居宅があって、彼を慕って文士や他の芸術家たちもここに住んで、一時期、文士村を形成していたのだ。
そしてその居宅で彼は自死した。
この企画展で、その死の真相に迫ることは無理でも、その前後の状況を知る事はできた。
特に彼と親交のあった、谷崎潤一郎、室生犀星、堀辰雄などが彼の死をどう受けとめたかがよくわかった。
細面で眼光鋭い竜之介の写真からは”神経質さ”が伺われ、彼自身もそれを自覚していたことがわかったが、いわゆる不安神経症でないにしても、完璧主義によって自分を苦しめる傾向はあったろう。
彼の”死に顔”は、苦しみから解放されたようなおだやかなものであったという。

ホリデー週間の用事としては、この企画展見学は少々重すぎたかな。

帰宅して、27日締めの固定資産税(第3期分)を近所のコンビニで納税する。
今日が誕生日の甥のお祝いは、父親が仕事のため週末に延期となっので(プレゼントの準備は済んでいる)、夜は母と(回転)寿司屋に行った。
これも年末の行事。

かくして、おせち具材の買い出しと大掃除(私は浴室担当)を残して、年末の用事もほとんど済ませた。
明日以降は、自由時間を謳歌したい。


年末ホリデーモードに入る

2019年12月24日 | 歳時

東京に帰省した23日は、5歳の姪がいることもあって、早めのクリスマス会。
姪はプリキュアが大好きなので、その関連のおもちゃを伯父の私や祖母からもらう。
皆で義妹の手料理を賞味し、イタリアの姉が送ってくれたスパークリングワインを空ける。

そして今日24日は、もう我が家はクリスマスが終ったので、正月準備を開始すべく、正月用の日本酒を買い、銀行でお年玉用の新札を両替し、金券ショップで年賀状を買う。
家に戻って作成済みの賀状の裏面(賀詞や写真、昨年の近況など)と表面の自分の住所を印刷し、宛名の相手の住所は手書き、そして裏面に相手に応じて一筆書き加える。
この作業が実に面倒なのだが、私は賀状を書く時くらいは、まったくご無沙汰している相手と心で対話するために、宛名等は手書きにしている。

筆ペンでの手書きそれ自体が面倒なのだが、書いてつくづく思うのは、書きにくい字と書きやすい字がはっきり別れること。
書きにくいのは、「之」、「北」、「洲」。
いずれもバランスを取るのに苦労する。
たとえば「北」は、バランス上「比」と書きたくなってしまう。
「洲」は「州」部分の間隔が難しい。
書きやすいのは、「恵」(下の心がバランス取りやすい)、「春」(上の三と人がバランス取りやすい)。

いまや賀状の相手は、賀状のみで繋がっているだけ。
しかも、その相手は増える事がなく、減っていく一方。
その意味では、面倒さは軽減傾向にある。
一応クリスマスイブなので、所蔵しているバッハ全集の「クリスマス・オラトリオ」を聴きながら作業した。

我が家にとっては今日はパーティのお休み日なので、夕食は日本蕎麦。
22時すぎにやっと賀状書きが終った。
これで今日の予定終了(投函は明日)。
一年で最大の筆記作業で、いつもよりうつむき姿勢が続いたため、首の付け根が凝った。

かように大掃除をした一昨日から年末ホリデーモードに入り、これから毎日をこのホリデー週間に詰っている儀式の準備と遂行に費やす。

明日25日は家族の皆で誕生日を祝う。
12月25日に生まれた我が甥の。


冬至の年筮2019

2019年12月22日 | パワー・スピリチュアル

大掃除を終え、柚子湯に入って、部屋も体も清めたので、易を為す者の冬至の行事、来年の年筮を執り行う。

名古屋宅には、100円ショップで買った竹串が50本あり、これを筮竹とする(易占は卦を得るのが目的なので、その道具はどれでもよい。コイン3枚でもよい)。
中筮法で、6度爻を出し卦を得る。
結果は、「沢雷随」(䷐)の変爻なし。

秋(沢)の雷を意味し、時季外れの雷なので、勢いが弱い。
随なので、率先はせず、他に従うを善しとする。
昨年の卦「水山蹇」(停滞運)よりは、運気は幾分上昇している。

年筮は世間一般を対象としたものだが、
これを自分の仕事に当てはめると、研究科長としてリーダーシップを発揮することはせず、周囲の意見に従うとよい、ということになる。


大掃除2019

2019年12月22日 | 生活

今週末、帰省しなかったもう一つの理由は、名古屋の棲み家の大掃除をするためだった。

大掃除、それは熱力学第二法則たるエントロピーの増大に抗う、反自然的行為なのだが、宇宙の片隅に出現した生物という、それ自体がエントロピーの増大に抗う、反自然的存在が、自らの延命のために実行しなければならない、むなしい営為である。
なぜむなしいかというと、どうせエントロピーが増大して、早晩掃除の成果が跡形もなくなるから。
なもので、私は、このむなしい営為を極力避けるために、年に一度だけにしている。

昨晩泊った温泉宿から戻り、ちょっと休憩して、午後1時の時報とともに開始。
大掃除は行動開始のハードルが高いので、思い切りが必要。
だが、いったんやりはじめると、休憩も不要で熱中できる。

今年は、新戦力にハンディ掃除機が加わったので、床だけでなく、本棚や壁の隙間など、細かい所も効率よくきれいになる。
居間が終わり、台所、浴室、そしてトイレの順に掃除し、磨いて、最後はフローリングにワックスをかけて終わり。
昨年は年末に大掃除をしなかったので、一昨年と比べると所要時間は同じ4時間で、午後5時に終わった。
一年で一番昼が短い冬至なので、もう外は真っ暗。

買物から戻って、早速きれいになった浴槽に柚子を入れて、冬至の柚子湯を楽しむ。

冬至といえば、もう一つやることがある。
易による来年を占う年筮だ。
これは別記事で。


卒論提出というヤマ越え

2019年12月19日 | お仕事

本日、わが卒論ゼミ生たちが卒論提出にこぎつけた(指導教員である私が最終許可を出す)。
締切り一日前。
論文原稿というものは、校正をすればするほど、表現の適切性が高まり、論旨の流れがスムースになり、説得力が高まる。
なので、早く提出することは論文の価値を上げるのを止めることであり、意味がない。
だから、私は学生たちの最後の壁となって、幾度も原稿を跳ね返し、ぎりぎりまで修正に修正を重ねて、少しでも良い論文に仕上げさせる。

昨年までは、大学で学生と一緒にパソコンの画面を見て内容をチェックしていたが、今年はワードの校閲機能をつかって、ネット上で原稿をやり取りした。
この方が修正箇所が全て判るのでやりやすいことがわかった。

かくして、ほとんどの学生にとっては一生に一度となる大論文を完成させた。
それを書けるようにするのが大学教員の役割。
でも、卒業後は、このような論文(論理的な文章)が書けなくなるのが、大学院の社会人を見るとわかる。
もったいない(といっても、書く用事がないもんな)。

さて、卒論提出は、学生だけでなく、指導教員である私にとっても大きなヤマを超えたことになり、さらに今年中に作成すべき書類も提出した。
今年の業務は、明日の授業1コマを残すのみとなった。


立石に立石を見に行く

2019年12月15日 | 東京周辺

つげ義春ファンの一人として、彼にゆかりのある葛飾区の「立石」(たていし)に行きたい(聖地巡礼)と前々から思っていた。
その地には、地名の由来となる「立石」なる石があり、その石は地中深く根を張っていて、いくら掘っても取り出せないという噂も気になっていた。

世間では、立石は「飲み歩き」すなわち真っ昼間から酒を飲めるスポットとして有名らしい。
ところが、その飲み屋街が、再開発によって消滅するというネット記事を一昨日目にした。

私は先月に論文を書き上げ、今週は仕事のヤマを乗り越えて、やっと日曜ものんびりできるようになった。 
といっても、早起きして山に行くのはつらいので、散歩に出かける先を探すと、第一候補が立石になった。

早速Leicaを首に下げて出かける(いろいろ試し撮りをしたい)。
京成本線の青砥で押上線に乗り換えて一駅目の「京成立石」で降りる。

駅の南側にアーケード付きの商店街があり、日曜の昼前なので、休みの店もあるが、(再開発のためだろう)閉店のシャッターが降りている店が目につく(写真)。
そんな中にも、昼前ながら居酒屋など酒を出す店が開いており、すでに客もいる。
さすが名にし負う「立石商店街」。

私自身は、正月三が日以外は昼には酒を飲まないようにしているので、せっかくながら「飲み歩き」 はせず、代わりに100円ショップで、ソックスと買物袋を買う(私にとって丁度いい長さのアンクルタイプのソックスは、見つけたら買うようにしている)。

まずは線路沿いの無人の立石諏訪神社に立ち寄り、猿田彦とされている庚申塔(本来は道教。昔の神社は他宗教に寛容だった)を見て、立石の東を流れる中川の河畔に登る。
そう、立石の地は川より低いのだ(防災的なリスクを背負う)。

江戸時代に建てられた帝釈天の道標を過ぎ、中川から離れて、海抜0m以下の地を少し歩くと、児童公園がある。
そこに立石祠と彫られた石柱があり、奥に立石がご神体のように祀られている(写真中央)。
立石本体は、周囲が江戸時代からの石囲いで囲まれ、地面からわずかに顔を出している程度で、そこに小銭が投げ込まれている(この風景は、鹿島神宮の要石と酷似)。 
説明板によると、石本体は房総半島の鋸山(採石場になっていた)から持ち込まれたもので、川近くの街道の標石の役目をもっていたという。
そして江戸時代に、御利益を願って削り取られてこの姿になったという。
私が耳にした噂はガセだったが(同曲の噂は、鹿島神宮の要石にも)、こうして祀られて崇敬されているのだから、それなりに存在価値はあろう(東京都指定史跡)。

再び東に歩き、この地の鎮守らしき立派な熊野神社に達する。
この神社は、かの陰陽師・安倍晴明に勧進されたという葛飾最古の社(写真)。
社殿正面には茅の輪がかかっており、作法通りに左・右・左と回って社殿に進む。
社殿の両脇には一対の楠の神木が有り(ともに樹齢350年で夫婦楠という)、霊気を漂わせている(葛飾区天然記念物)。
また境内に動物の大きな写真が飾っており、境内の奥にはポニーが3頭いる。
幼稚園を併設していて、園児がポニーに乗るという。
かなり動物好きな神社だ。
また、胴製の7mの五重の塔(のミニチュア)もあり、神仏習合を拒否していないのが嬉しい。
境内の配置は、陰陽五行に則った五角形を摸していて、さらに富士塚もあって、頂上に浅間神社がある。
私は富士塚巡り(登頂)も趣味にしているので、余禄に与(あず)かった感じ。
かようにこの神社はすべてを受け入れる真言宗的融通無碍さがあり、逆に明治以降の神仏分離的狭さがなくて気に入った。
社務所で、金の八咫烏の置き守りを買った(500円)。 
はっきり言って、訪れる価値は立石よりもこちらにある。 

ここから、住宅地を青砥まで歩いて、京成線で戻った。 
時間が余ったので、日暮里で降りて谷中を散歩して帰宅した。 


この2年最大のヤマ超え

2019年12月13日 | お仕事

今週は、仕事上の勝負の週だった。

2年前に大学院の研究科長に選出された際、研究科の組織改革を託されたのだが、任期中なかなか進捗しなかった(なのでもう2年再任された)。
来期の入試制度変更の期限ともいえる12月、今週の火曜の会議で、やっと会議の構成員全員から承認される改革案を提出し、承認された。
これはその日のブログ記事にしたが、ここからが学内の関連組織を走り廻るスタート。

翌水曜は、入試課に研究科で承認された改革案を説明し、その日の全学入試会議でも報告(まだオーソライズされていないが)。
木曜は、来週開かれる大学院委員会の事務局に、議題として改革案を提出。
そして金曜の今日、大学組織のトップである理事長に対して、学長や事務局長も同席する中、 改革案を説明。
その場で理事長の承認を得た。
トップの承認を得たので、来週の大学院委員会も問題なくなった。
かくして、私に課せられた最大の仕事をやりこなす事ができた。
期限的には、ギリギリセーフ。
まずは、気分だけでも解放館にひたりたい。


最大のヤマを超える

2019年12月10日 | お仕事

大学院の研究科長(学部の学部長に相当)の私にとって、この2年間の最大のヤマである組織・カリキュラム改革案が、年末ぎりぎりの研究科委員会で承認された。
過去二回出した案が承認されず、修正に修正を重ねて三度めの正直。 
もちろん私一人の頭ではなく、周囲の知恵を借りて、誰もが納得する案ができ上がった。

質問はあっても批判は一つも出ず、すんなり承認された。

あとは、学内の承認を次々にとって、最後は理事会の承認を得る。 
まだまだステップは長いが、ここから先はある意味事務作業。

その会議の後は、職場の忘年会。
しかも愛知の幻の銘酒”空(くう)”も呑めるので、解放感にひたりたいところだが、
早速大学提出用の書類作りに励まなくてはならない。
”空”を中心にいただき、早めに失礼した。

それに4年生の卒論締切りも迫っている。
解放感にひたるのは、卒論提出が終わる来週末までお預けだ。 


紅葉の六義園とコートールド美術館展で考えたこと

2019年12月08日 | 東京周辺

晴天の日曜、買ったばかりのLeica(D-Lux7)に慣れるため、近所の六義園に紅葉を撮りに行った。
六義園は駒込駅側ではなく、通常門の上富士側から入れば並ばなくてよい。
ここは2013年にも紅葉撮影で来たことがある。→記事「晩秋の六義園

六義園は、中央部の池を周遊する内周と、深山幽谷風情の外周とがあるので2周する。 
園内の最高地点である藤代峠から俯瞰する庭園もいい。

私はわがLeicaに PLフィルター(光の反射を減らす)を付けて、撮りまくった。
晴天なので、広葉樹のに、針葉樹の、そして空のが加わって、見事に心理4原色が揃う(右写真:Leica写真のお披露目)。
この自然の色の競演を、愛(め)でないわけにはいかない。

現代人にとって、”愛でる”ことは”撮影”を意味する。

ほとんどの人は、スマホのカメラを向ける(どうせなら、スマホを横にして撮った方がいいよ)。
たまにでかい望遠レンズを付けたデジイチの重装備の人もいる(こういう混んだ場所での撮影は、望遠の方が向いている)。

コンパクトデジカメ(ただしLeica!)の私は、シャッタースピードを固定して、あとはオートにして撮るが、紅葉のクローズアップを撮るには、ピントをマニュアルにして、葉に焦点を合わせる(下写真)。

人が風景にカメラを向ける瞬間、それはそこに何らかの美的感動を覚えたからであり、その風景の色彩と形態を画面に構成して切り取ろうとする。
スマホは限界があるが、カメラならファインダとレンズを使って意図した構図を構成できる。
この撮影行為そのものが、自分が感じた美に対する応答(愛でる)なので、撮ろうという意思を持つことが、美への感受性を高めることになる。 

かくして六義園を堪能したものの、まだ日が高いので、山手線に乗って上野で降りる。
上野公園のイチョウの黄葉を撮るため。
上野公園に行ったら、園内の東京都美術館で「コートールド美術館展」なるものが開催中で、その目玉がマネの傑作「フォリー=ベルジェールのバー」(ど真ん中でカウンターに立つ女性が印象的で、背後の情景がすべて鏡像というのも面白い)。

日曜の昼過ぎなのに、入口に行列が見えないので、急きょ予定を変更して入館した。

まず接したのが、モネやセザンヌの風景画。
風景と長時間格闘した結果といえる絵画作品を観て、 今しがた自分がやってきた、ファインダを見てシャッターを押すだけの風景写真が、美への応答というにはあまりに安直であることに気づかされた。

感受した美に対して、その色彩と構図を自らの手で表現していく作業。
これがアート(技・芸・術)というものだ。 

セザンヌの「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」を見て、この構図(主題となる遠くの山に、木と横に伸びた枝を近景に配す)は自分も写真で使っていると思った(実際、六義園で撮った)。
展示資料であるこの山の実写を見たら、それは立派な山で、私がセザンヌと同じくその地に滞在したら、この山をあちこちのアングルから撮りまくったに違いない。
だが同じセザンヌの「ノルマンディーの農場、夏」などのなんの変哲もない林の風景に対して、私は美を感受してシャッターを押すだろうか。
たとえ押したとしても(デジカメのシャッターは惜しげもなく押せるから)、その画像ファイルは一瞥しただけで、ゴミ箱行きになりそうだ。

逆に言えば、セザンヌはそんな一見凡庸な風景に対しても構成美を感受し、それを美術作品にまで仕上げた。 
そこが素人の私と違う。
私は、美しいに決っている秋の紅葉を、これまた美的に構成された天下の名園の中で見ようとした。
しかも性能のいいLeicaのカメラで。
実に通俗の極みだ。

わが茶祖・珠光は、「冷・凍・寂・枯」 を旨とし、誰も見向きもしない冬枯れの枝に対して、美を感受する心を求めた。
印象派の巨匠たちが描いたのは、それまでの神話上の劇的場面や着飾った王族たちではなく、街中にくすぶる名もない庶民たち、すなわち”侘び・寂び”た情景だった。
芸術家は、表現力以前に、美を感受する目が違う。 

かように六義園での撮影に自己批判を余儀なくされて美術館を後にし、上野公園を歩いた。
上野の森美術館前ではゴッホ展を見ようとする人たちが大行列をなして、公園内に伸びている。
ゴッホは生前、絵がまったく売れなかったというのに、今の時代のこの人気のなんと皮肉なことか。
それは、”通俗”それ自体が時代で変わるということだ(新しい通俗を切り開く人がいた)。 

美術館前の広場に黄色が鮮やかなイチョウの大木があり、その下には着物姿の女性が立っている。
思わずバッグにしまっていたカメラを撮り出し、シャッターを押した。
さらに寒桜も咲いており、桜を前景にイチョウの黄葉を撮った。

いやはや、通俗からはすぐには抜けられそうもない。


念願の(一応)ライカ

2019年12月06日 | 生活

数ある欲望の中で、私にとって一番御しやすいのが”物欲”。
一時的に”買いたい”熱が高まっても、たいていはほどなく冷める。
たとえば、すっかり買う気で店に行って、手に取ってはみたものの、よく考えたら今ある物で足りると思い直して、買わずに帰ることがよくある。 

そんな中、唯一冷めなかったのが”ライカ熱”。(ライカとはドイツのカメラメーカー)
写真自体は、小学校から趣味にしていて、高校時代は写真部で暗室に入っていた。
その頃は、撮る人間の感性・技能こそ大事と思い、カメラの性能に依存することに反発を感じていた。

だが自らカメラを買える身分になってからは、カメラ界のポルシェに相当するライカのカメラが憧れの的になった。
ライカのカメラを思うと無性に欲しくなり、頭がぼーっとしてしまう(これが”ライカ熱”の症状)。
ただ、ほとんど車が買える値段を前に、現実的に手が出なかった。
仕方なしに、ライカ社と提携しているパナソニックのLumix(ボディの隅に黒いLeicaと同じ形の Lマークがある)を買って、”なんちゃってライカ”でガマンしていた(本ブログの今までの写真の多くはこのカメラによる)。

そういう私も、家を買い、車を買い、それでも生活に窮する事なく、余裕のある生活を楽しめるようになった。

あと欲しいものがあるとすれば、それはただ1つ、ライカのカメラだけ。
もういい歳だ。待つことにもリスクが増してくる。
あこがれのライカを持つことなしに死にたくはない。

そんな折り、ライカから手ごろな値段のコンパクトデジカメ、 D-LUX7が発売された。
アウトドアで軽快に撮りたい私は、もとより重装備の一眼レフには惹かれない。
第一、大判にプリントアウトする(展示会に応募)目的はなく、個人的にパソコン画面で見れればいいので、あくなき画質を求めることはない。
レンズ交換のないズームレンズだけのハイエンドデジカメクラスでも、 ボケ味のあるような写真は撮れる。
昔は絞りやシャッタースピードはもちろん、ピントも手動で撮影してきたので、マニュアル操作は苦でない(今は撮影後の編集でいろいろできる)。

コンパクトデジカメといってもそこはライカ、他メーカーより頭一つ出た値段だが、国内メーカーの一眼よりは安い。
すなわち車が買える値段ではない。
ということで、念願の、まさに人生における念願のライカを手に入れた(写真。この写真が非ライカの最後となろう)。

もっともこの機種、ライカのラインナップに入っているものの、厳密にいうとパナソニックのOEM。
それをライカ社がいじってグレードアップしているものの、 made in China 。
でもボディ右上には赤いLeicaのロゴが燦然と輝ているので、”一応ライカ”と名乗れる。

さっそく、" なんちゃってライカ"として使っていた Lumix DMC-LX100(以下、Lumix)から SDカードを取り出し、それをライカD-LUX7(以下、ライカ)に差し込み、ライカの電源を入れた。
そうしたら、カードを初期化する必要もなく撮影ができ、なんと Lumixで撮った前のデータ(写真)まで見れる。
さらに、操作ボタンなども 幸か不幸かLumixと同じなので(というか外見がそっくり)、操作も手慣れたもの。
さらにさらに、なんと バッテリが Lumixとまったく同じものなので(もちろんロゴはLeica)そのまま使えるではないか。
このバッテリはLumix用に3個持っているので、合せて4個全部使える(ライカについていたバッテリを Lumixの充電器で充電できる)。
これはうれしい(もっともこのライカは、USBケーブルで充電できるので、予備バッテリはそう沢山は必要ない)。
あと外付けのストロボも付属している。

ただ見方を変えれば、私のライカって、”なんちゃって”以上にLumixな気がする…。


後発白内障の治療

2019年12月02日 | 健康

2013年に右目の白内障を手術した(→白内障手術体験記:見えている瞳のままで)。

その右目が最近、曇って見えるようなった。
始めはメガネの曇りかと思ったが、メガネを外しても曇っている。
これ、白内障の時と同じ症状。

白内障を診断してもらって以来のかかりつけの眼科に行って、症状を訴えた。

検査の結果、「後発白内障」だという。

白内障手術をした人の2割ほどの人が発するというそれは、手術で人工水晶体に入れ替えた水晶体の外膜に、術前の細胞が生き残っていて、それが分裂繁殖することで、水晶体底面で濁りを発生するという。

治療は、レーザーでその細胞をやっつけることで、この場で5分くらいでできるという(費用は3割負担で4千円ほど)。
この状態を維持する理由はないので、さっそくやってもらうことにした。

まず右目に麻酔となる目薬をさし、レーザー装置の前に坐って、頭部を固定され、右目にレンズが装着される。
私は両目を開いた状態で、漠然と前方に目を向ける。
右目だけ赤い点が3つほど見え、パシッと軽い衝撃が後頭部まで走る。
レーザーが私の水晶体に向けて発射されたのだ。
衝撃感はあっても痛みはない。
この衝撃が幾度も繰り返される。 
治療はあっけなく終った。

右目は、検査用の瞳孔を開く薬の影響で、明るすぎて見えにくくなっているため、治療の効果はすぐには確認できない。

炎症を抑える目薬をもらって、2週間後に再検査となる。
白内障手術後とは違って、その間生活上の制約はない。
再手術しなくてすんで安心した。 

※後日(2週間後)、眼科に行って経過を診断してもらった。
視野は術後の頃と同じくらいにクリアに戻った。
再発することもほとんどないそうだ。 


大嘗宮を参観

2019年12月01日 | 東京周辺

12月初日の日曜、昨晩(高校同期会)の酒も抜けた昼過ぎ、来週8日までという皇居内の大嘗宮の参観に出発。

晴天の日曜だから、混雑しているのはわかりきっている。
なので、今日は行列の場所をチェックするだけにして、今日よりは絶対空いているはずの明日を参観本番とするつもり(ただし一応カメラを持参)。

地下鉄の「二重橋」駅のホームから、すでにぞろぞろと人が続く。
外に出て、警官に誘導されるままに、二重橋方向に向う。
もちろん周囲は人の列だが、列は停まることなく進んでいる。
二重橋前の広場には、待ち行列用に仕切られた空間があるのだが、そこは誰もいない。
荷物検査とボディチェックを受けて、さらに行列ごと進むので、もう引き返せない。
思いのほか混んでいなかったので、このまま参観してしまおう。

坂下門をくぐり、宮内庁庁舎の前で参観用の地図をもらって、紅葉の今時分通り抜けができる乾 (イヌイ)通り経由ルートで向うことにした。
私にとってここは”江戸城”なので、徳川将軍のかつての威光を感じながら進む。
道潅濠を過ぎ、乾門と大嘗宮のある本丸の分岐にさしかかると、行列が停止。
本丸へはここから橋を渡って狭い上り坂になるのだ。
ここからさきは待ち行列となるらしく、大嘗宮見学に80分かかると案内係の人が大声で伝える。
といっても、本丸をぐるりと半周するまでは、停まることなく進めた。
坂下門から本丸に直行してきた行列との合流地点で、まずは進行停止。
その後ゆっくり進み、大嘗宮の正面で、また停止。
ここからは、人数を区切って、進ませる。

ゆっくり大嘗宮の正面に達すると、みなカメラやスマホをかざして、大嘗宮の内部を写す。
「立ち止らないで」という指示が響くので、ゆっくり横に進みながら撮影する。


天皇が代替わりした年だけに行なわれる大嘗祭で、その後すぐに取り壊されるという貴重建築なので、目よりもカメラに焼き付けるのを優先。

参観路は大嘗宮の正面から側面にまわって、さらに背面にまわる。
背面からの方が天皇自ら供饌の儀を執り行った悠紀殿・主基殿、そして、その準備に使った廻立殿が間近に見え、しかも周囲の木々に囲まれた風景になるので、見栄えがいい(写真右が主基殿、左が廻立殿)。
一方、正面側に面している建物群は、皇族以下の参列者用なのだ。 

なので、もし大嘗宮を参観したい読者がいるなら、正面からではなく背面からじっくり観ることをお勧めする(しかも背後の楽部庁舎から雅楽の音が響いてくる)。
また大嘗宮に達するまで「80分」というアナウンスだったが、実際にはその半分の時間ですんだので、アナウンスの時間にびびる必要はない。
帰路は、二の丸を通過し、三の丸尚蔵館を見学して、大手門から出た。 

かくして、貴重な参観を、思いの外すんなりこなせた。