今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

熟睡中の心:ウパニシャッド哲学とシステム0

2021年02月28日 | 心理学

20世紀前半のインドの聖者バガヴァーン・シュリ・ラマナ・マハルシの対話本『ラマナ・マハルシとの対話』全3巻(Kindle版)を読んでいる。
さまざまな人からの質問(初心者的な内容が多い)にマハルシが丁寧に回答しているもので、彼の寛容な(忍耐強い)人格が伺われる。

これを読んでいて興味をもったのは、自我が作動していない熟睡中の自己がアートマン(真我)だという話。
すなわち、熟睡は夢見はもちろん、覚醒よりも価値があるという。

これはマハルシのオリジナルではなく、ヒンズー教の聖典「ウパニシャッド」に由来している。
ヒンズー教ではアートマンは睡眠中にブラフマン(梵)と一体になるという(梵我一如)。
そしてアートマン(真我)とは、表層的な現象の背後にある存在そのものという(不生不滅)。
だから、真我は(覚醒時にも)常に在る。

私の「心の多重過程モデル」では、覚醒中は意識作用であるシステム1・2(心を構成するサブシステム)が作動し、熟睡中はこれらは休止して生命活動としてのシステム0(同上)のみが作動した状態。
ということは、システム0=アートマン(真我)ということになるのか。

私はシステム0を生理的活動※と見なしたが、マハルシは身体活動を除外している。
※:アリストテレスの「心」の概念に基づく心身一元論なので、生理活動と心理現象を区別しない。

なぜなら真我は身体活動に依るのではなく、身体活動が真我に依るものだから。
確かにシステム0を生理活動と同一視すると、存在者(身体)にすぎないことになる。
真我とは存在者を可能にする存在そのものをいう(≒アリストテレスの形相としての心)。

覚醒時には、真我は自我作用(想念)に覆われてしまって、真我を経験できない(ハイデガーのいう「存在忘却」状態)。

真我(システム0)はいかにして経験可能か。
熟睡時の真我の記憶はないが、熟睡後の目覚めで幸福感を得られることから、真我の経験は至福に満ちたものだという。
では覚醒しながら真我を経験するにはどうすればよいか。

マハルシは、その方法が瞑想(サマーディ=三昧)だという。
瞑想とは、自我作用(想念)を停止し、覚醒しながら熟睡状態に近づく方法である。
自我意識を消し、身体意識をなくす。
これらの意識対象をなくすことで、根源的な意識主体(存在)のみを実感する。
そして、存在していることが本来的に幸福なのだという。

想念(=システム2)は存在を覆い隠し、存在(幸福)から目をそらせる。
システム1・2のみを対象とする心理学が存在に達しない理由もむべなるかな。

さらに瞑想中に眠ってしまってもかまわないということになる(ただし夢見はダメ)。

「惰眠をむさぼる」という言葉があるように、覚醒に価値をおくわれわれは、睡眠を無駄なものと位置づけてきた(短時間睡眠を目指す人がいた)。
だが、最近は医学的にも睡眠の重要性が指摘されている(認知症の予防効果など)。

科学的観点から私はマハルシの説を支持するものではないが(聖典・聖者に対しても批判的スタンスを堅持)※、
眠る事をかくも正当化してくれ、不可能とみなしていたシステム0の経験に目を開かせてくれたのはありがたい(ただし私のモデルでは、瞑想はシステム0とは異なるシステム3という心の特殊状態)。

私はつねづね山に行きたいと思っているのだが、早起きするのが嫌で行かないでいる。
アートマンになっている至福状態を大切にしたいということか。
もっともこれは惰眠の言い訳にすぎない気もするが。

※いちいちあげつらわないが、古代思想を踏襲しているだけのマハルシの書は、上記以外は参考に値するものはなく、本ブログでもこれ以上言及しない。”熟睡”に関心があるなら、睡眠についての最新科学の本を読んだ方がいい。


私にとっての心理学・哲学・宗教

2021年02月25日 | 心理学

 ここ最近の記事は、私が仏教に入り込もうとしている印象を与えているだろう。
仏教への積極的接近は、心の探究における心理学の限界を超えるため、「スピリチュアルの解禁」の一環としてである。
ただ仏教(宗教)はあくまで探究にとっての参考対象であり、帰依の対象ではない。
”心”を、心理学と哲学と宗教の三本柱で探究していきたいのだ。

これら3つはそれぞれ長短があるため、互いに補完する関係でバランスをとるべく、これら3つの関係づけを紹介する。
以下、「それにあるもの」を○、「ないもの」を×として示す(○心理学=心理学にあるもの)。
○心理学、×哲学、×宗教:実証的探究ができるのは心理学だけ。科学としての法則性の追究という態度を探究の基本に据える。

×心理学、○哲学、○宗教:だがその心理学に欠けているものがある。それは”存在(現象の根源)”への視座である。この視座の不在が心理学のいかんともしがたい”浅さ”を露呈している。心の奥底には”存在”があるのだが、心理学は不可視のそこ(底)に達しようとしない。

○心理学、○哲学、×宗教:学問(科学と哲学)にあって宗教にないものは「疑うこと」。学問には批判不可の聖域(聖典)があってはならない。 学問を探究する者は、決して安心(あんじん)を求めず、不確かさの中の不安で在り続ける耐性(タフさ)が必要である。

○心理学、×哲学、○宗教:心の探究は思惟(論理)だけでは不可能。定量分析、体験、イメージ化など、多様なアプローチが必要。また、ケア(癒し)の実践も伴う(救済という視野は無い)。 

以上をふまえて自分が取りたいスタンスはもちろん、
○心理学、○哲学、○宗教:心理学に”宗教哲学”を付加したい。それは存在への”批判”的視座である。ただし思惟だけに頼るのではなく、”行”による体験を通して心の在り方を探究したい(行の基本は、思惟を停止させる瞑想〕。

3本柱の中身は以下。
心理学:心の多重過程モデル(システム1・2の「二重課程モデル」を拡大したシステム0〜システム4)
哲学:現象学(ただしフッサールの認識論的現象学より、ハイデガーの存在論的現象学)
宗教:仏教が中心となる(神道にも親しむ)が、思想的により準拠しているのは”気の理論”。特定宗派の信徒ではないので、あらゆる宗派に敬意を持って接する。 ただし、儀礼に対して自分なりのスタンスで接することがある(特に神道に対して)。

ついでに、3本柱にかかわった心理学の先人を紹介する。
心理学・宗教:C.G.ユング。システム4(トランスパーソナル)の理論的支柱。易もマンダラも彼の理論で説明可能。
心理学・哲学・宗教:W.ジェームズ。『心理学』『プラグマティズム』『宗教的経験の諸相』の著者。結局私はジェームズの掌の中にいる。 

心理学と仏教との関係については、日本での仏教と科学(主に心理学)との交流史(明治〜現代)を概観した『科学化する仏教』(碧海寿広著 角川書店 )が、参考になる。


牛久大仏に行ってきた

2021年02月23日 | 

天皇誕生日という祝日、湘南で観梅をと思ったが、混雑との情報を受け、急きょ方角を北東に変えて、牛久大仏(茨城県牛久市)を観に行く事にした。

常磐線からも遠望できる、平成5年公開のこの巨大な大仏に対しては、実は当初から関心がなかった。
仏像といえば数百年経た古仏にしか関心がなかったためでもある。

ただ、昭和以降の大仏でも、お顔が美しい大船観音(神奈川県鎌倉市)は前から好きだったし、最近では真新しい東京の鹿野大仏(東京都日の出町〕に行ってきた→鹿野大仏〜阿伎留台地を歩く
こういう”大仏”は観光のためのモニュメントではなく、まじめな信仰の場であったりするので、行って見るとそれなりに充実する。
なので毛嫌いする理由がないことに気づき、行く気になった次第。

休日だと牛久駅前(2番乗場)から通常の路線バス以外に直行バスが走り、東京から意外にすんなりと行ける。

「牛久大仏」のバス停を降りると、目の前に高さ120mの超巨大な阿弥陀立像が聳えている。
なんと奈良の大仏が手のひらに乗る大きさだ。
タワーや高層ビルのようなその高さだけで、拒否感があったのだが、
こうして直接目の前で眺めると、造形が丁寧で”仏像”として違和感ない姿であるため、
不気味さや威圧感などがなく、超越的な阿弥陀様がこの地に降臨された!という見立てができる。

入口で拝観料(胎内こみで800円)を支払い、まずは食堂に入って天そばで腹ごしらえ。
公園状の園内から一歩一歩大仏に近づき、さらに後ろにまわって、胎内に入る(土足厳禁、トイレなし)。
コロナの時期でしかも花の季節の前なので、客が少ないのが幸い。
大仏の胸の高さにある5階にエレベータで上がると、仏舎利(釈尊の遺骨)が納められており(ここだけ撮影不可)、釈尊の生涯などが紹介されている。
また四方の縦長の窓から外が眺められる。
4階に階段で降り、そこからエレベータでずっと下の3階に行くと、壁面にずらりと阿弥陀像(胎内仏)が居並んだ収骨廟になっている。
廟の名号(個人名)を見ると、タイ語など、東南アジア系の氏名が散見する。
ここは浄土真宗東本願寺派なので、大乗仏教の中でも南伝仏教とはかなり離れているはずなのだが…。
そういえば一緒の見学者の中にもマレー系の若者がいる。
ここで東京本願寺発行の小冊子のうち牛久大仏建立の意味を説明した「方便化身の浄土」を購入(300円)。

2階には売店があり、念仏・法話の部屋があり、壁面は写経空間になっている。
せっかくなので壁に向って正座して写経(200円)した。
以上、大仏の胎内は、単なる展望台ではなく、きちんとした宗教空間(寺院)になっていた。

外に出て、大仏手前の池のある庭園に行く。
ここは浄土を摸しているという。
花の季節だったら、さぞ美しかろう。
大乗仏教が示す仏の世界は、禁欲三昧の無味乾燥な世界ではなく、”楽”や”喜”の肯定的感情に満ちた情景であってほしい。

園内を一周して、帰りのバスに時間があるので、大仏がよく見える広場のベンチに座る(写真)。
ずっとこの大仏を眺めていたいから。
いや、むしろずっとこの大仏に眺められていたいから。

巨大な大仏がかくも安心感を与えてくれる。
ただ大きいだけではなく、仏としての優しさがきちんと表現されているからだ。
牛久大仏は、高さ120mの、確かな”仏像”である。

バスの時間が近づいたので、大仏に向って合掌して園を出た。


高幡不動と百草園

2021年02月21日 | 東京周辺

暖かくなるという日曜、先週の高尾山に続いて京王電鉄に乗り込む。
先週(→iPodtouchを紛失)のお礼の意味を込めてのほかに
昨日の不動明王の念誦をやっているうち、本物に接したくなったため、高幡不動に行きたくなり、さらに土曜朝の番組で百草(もぐさ)園の案内をやっていて、この梅の名所にも行きたくなったから。

ネットで高幡不動の護摩行の時間を確認し、11:30からの回に間に合わせるように家を出る。

せっかく護摩行に参加するので、護摩料を払って護摩札を申込もうかと思い、お札所に入った。
護摩の申込には書類で願を掛ける(「家内安全」、「商売繁盛」などから選択する)ようになっていて、仏教とは現世利益的なかかわりをしたくないので、内心白けてしまった(長年真言宗に違和感をもっていたのはこの点)。
それでも、一昨年の2月、姪の大手術の成功を祈ってここで護摩木(護摩行で焼かれる木)を奉納したのを思い出し、また願は掛けなかったが昨年12月と今年の1月の母の両膝手術も成功裏に終ったので、護摩木に「御礼」と書いて奉納した。
不動明王の御姿も購入。

本堂の前で護摩行が始まるのを待っていたら、今回はどうも堂内に入れないようになっている。
考えてみれば、例年通りに参加者が本堂内にひしめいては、モロに”三密”(非密教的意味)になってしまう。
すなわち、今回の護摩行にわれわれ一般人は参加できず、僧侶の護摩行を本堂の外から眺めるだけとなる。
残念だがしかたない。
それでも不動明王の念誦の参考にするため、立ち見で護摩行を眺めた。

僧侶が般若心経を繰り返す中、護摩壇の火が起こされ、炎が充分に強くなったら、
不動明王の真言の繰り返しとなり、護摩札を次々と炎にかざす(終了後護摩札は申込者に渡される)。
太鼓のリズムに合わせて唱えられるその真言は、
ノウマクサンマンダーバーザラダンセンダ,マーカロシャーダーソハタヤウンタラターカンマン
となっている。
意味を重視する散文(昨日の記事)ではなく、リズミカルに唱える韻文としてなら、このように唱えればいいわけだ。

護摩行が終って、僧侶がこちらに向って言うには、緊急事態宣言が発令されている間は、このような形での護摩行になるという。

護摩行見学が終り、寺を出て、丁度昼時で門前の蕎麦屋(開運そば)で蕎麦を食べる。
実はこれが楽しみで、あえて昼食前の護摩の回を選んだのだ。
寺の参拝では現世利益を望まぬ私も、かように俗人の一人である。

腹を満たして、京王線に乗り、一駅先の「百草園」で降りる。
駅の出口から、案内板の示す通りに百草園を目指す。
車道だがものすごい急坂の登りで、狭心症が心配になる。
300円払って入園する。
急坂を登ってきたこともあって、汗をかいたので、帽子と上着をトートリュックにしまう。
元は大寺院だったという園内は、多摩丘陵の斜面上に古民家や池を擁し、頂上の展望台からは都心の高層ビル群が望める(スカイツリーは春霞で見えなかった)。
梅の種類は多いが、梅園というほどの規模ではない。
ただ、たくさんの花を咲かせている梅の木が、確実に”春”を告げているのは確か。
もっとも、梅の花を見ると、どうしても「梅は咲いたか、桜はまだかいな〜」という小唄の通り、桜を連想し、待ちわびてしまう。
梅は桜の露払い役でしかないようだ。

百草園からの帰りは、さっきの急坂を避けて、ハイキングコースのような細い歩道を選んだ(スマホのマップだとGoogleマップのみに載っている)。
この細い道は大宮神社を経由し、駅前に出る(駅からは左正面)。
百草園に歩いて行くならこちらの道を勧める。


不動明王に祈る

2021年02月20日 | パワー・スピリチュアル

どうやら自分は不動明王とご縁があるらしい。
自分の身体条件で行ける山が高尾山と丹沢の大山に絞られているのだが、両山とも不動様の霊山だし、そもそもわが東京宅は、向ヶ丘の目赤不動(江戸五不動の1つ)と谷田川の不動に挟まれた(不)動坂にある。

そして自室にAmazonで購入した不動三尊像(不動明王・コンガラ童子・セイタカ童子の三尊。作家作品)を置き※、毎日手を合わせている。
仏像(フィギュア)コレクターでもある私は、不動三尊の真後ろに大日如来、左右の斜め後ろに降三世明王と軍荼利明王を配置している。

せっかくなら、きちんと念誦しようと思い立ち、数珠を購入した。
数珠は108個の珠から成っていて、念誦の回数を数えるのに使う。

本来の念誦は、不動明王の真言(ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン)を千遍唱えるのだが、まずは練習として百遍すなわち数珠一周分(正確には108遍)やってみた。
問題ない。

翌日の今日、五百遍に挑戦してみた。
数珠五周分。
上の真言を間断なく数百回もくりかえし唱えていると、その行動がシステム1の自動運動に移行し、暇になったシステム2が別のことを考え出してしまう。
よくいえばルーチンワーク化して苦もない”作業”となるのだが、これでは祈り行為でなくなる。

そうなってしまう理由の1つが、自分にとって無意味な音にすぎない真言のせいだ。
真言の単語ごとの意味を理解せずに、丸暗記してしまった。
だから自分でも訳の分からない呪文を唱えているのに等しい。
いやむしろ、滑舌の練習にすぎなくなっている。

密教の行は”三密”で、身・口・意が融合していなくてはならない。
身は本来は手による印だが、今は数珠を繰る動作。
口は真言を唱える。
だが意(システム2)が真言と離れてしまう。

これではいけないと思い、五百遍に達したところで、一旦終了し、真言の逐語訳を参照した。
手元にある『真言宗在家勤行講義』(坂田光全著 東方出版)によると
ノウマク(帰命する) サンマンダ(あまねく) バザラダン(諸々の金剛) センダ(暴悪者よ) マカロシャダ(大忿怒者よ) ソハタヤ(摧破せよ) ウンタラタ(忿怒の聖語) カンマン(不動尊の種子)となる。
そしてテキストの意訳をさらに簡略にすると「すべての金剛に帰命したてまつる。暴悪・大忿怒の相を示す明王よ、煩悩諸魔等を摧破せよ」という文になる。
なので、「ノウマク、サンマンダバザラダン。センダ・マカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」と区切って(忿怒部分に力点)、その”意”を心に浮かべながらあと五百遍唱えることにした。
ということで、後半の五百遍は念誦できたといえる。

念誦の間、Amazonで買った不動三尊を見つめながら唱えるのだが、その像はお寺で”開眼”をしていない良く言っても”美術品”。
私は仏教は偶像崇拝教ではないと思っている。
目の前にある仏像は、単なる造形であるが、それは仏をイメージ化した模像(イコン※)である。
※イコン(icon):原義はキリストの聖画像

仏像(icon)は仏そのものではない。
仏の在り方を可視化したものであり、それを見つめることで(目を閉じずに)仏を観想できるのだ。
物としての仏像は火事に遇えば焼け焦げるし、それでなくてもいつかは朽ちる。
だがそこに仏のなんたるかが視覚的に表現されている(文字表現の教典に対応)。
仏の本体は物質的な存在者ではなく、法(ダルマ)であるため、本来不可視なのだ(存在者を可能にする”存在”が不可視なように)。
人間は視覚情報が重要だから、可視化された仏像を通して、仏を観じ、そして仏に対して拝礼をする。
不動明王などの諸仏(明王や菩薩も含める)は、法の部分集合(一定のまとまり)といえ、忿怒の表情は大慈悲の部分集合である。


iPodtouchを紛失

2021年02月15日 | 失敗・災難

実は、昨日(14日)、高尾山に行ってきたのだが、その記事を書かなかったのは、いやな思い出で締めくくられていたため。

山歩きでのラジオ聴取用に持参したiPodtouchを紛失したことが、帰宅後判明した。

いくら身辺を探しても見当たらず、iPadの「探す」でtouchを指定すると、見当たらないという。

記憶を探ると、帰路の京王線内でtouchをいじって、アウトドア用ベストのチャックの壊れたポケットに入れた(つもり)が最後。
新宿から山手線に乗り換えたがそこではいっさい触れていない。

なのでなくしたとすれば京王線の車内だ。
誰かが見つけて、届けてくれればいいが…
幸い、画面はパスワードロックをかけていて、しかもtouchの用途はラジオ聴取とカーナビに限定しているので、アップルペイなど買い物アプリや業務用メールなどは登録していないが、パスワードが突破されれば悪用される可能性は否定できない。

翌朝一番に、京王電鉄の「お忘れ物取扱所」に電話をかけた。
予想に反してすぐ繋がり、なくした物と乗車した便の説明をする。
iPhoneと似て非なるマイナーなiPodtouchを説明するのにひと苦労。
しばらく案内音楽が流れたあと、該当する届けはないとのこと。
また連絡どうぞという言葉を最後に受けて電話を切った。

処置なしだ。
touchの用途は限られているが、無いと生活に不便。
再購入を考えて、ネット検索してみると最新世代が2万円強とのこと。
実はApplewatchを買おうと思っていたのだが、touchに切り替えざるをえない。
今日は東京で仕事がないので、午後に買いに行くか。

昼に予約していた眼科から戻り、買い物に行く前に、最後のあがき。
「また連絡どうぞ」という言葉に賭けて、もう一度京王電鉄のお忘れ物取扱所に電話してみた。

またすぐ繋がり、前回とは違う担当者なので、説明しなおした。
今度の人はiPodtouchという製品を知っているようで、さっきとは違い、裏面の状態とか待ち受け画面を聞いてくる。
それに答えると(裏面にはカエルのシールを貼っていて、待ち受け画面は自室の如意輪観音だ)、なんと、該当する物が仙川駅に届いているという!

ここからは、とんとん拍子に話が進み、とにかく仙川駅に向う。
改札口で、事情を説明し、本人確認の免許証を提示すると、1日ぶりにわがiPodtouchと対面できた。
書類の受取り欄に記入すべく、それを見ると、届けてくれたのは20代の男性で、「権利を放棄」してくれている。

私のiPodtouchを、車内で見つけて仙川駅に届けてくれたこのお方に、このページを使ってお礼を申上げる。

どうもありがとうございました!

せっかくなので、この恩人様が利用する仙川駅の改札を出て、駅前を歩き、京王ストアでコロッケを買って食べた(京王電鉄へのお礼の気持ち)。

教訓1:大切な物はきちんと丁寧にしまおう。

教訓2:失せ物は執念をもって探そう。→同曲の記事「わが携帯電話よ


震度6強で死者なし

2021年02月14日 | 防災・安全

昨晩、就寝しようと思っていた矢先の地震。
東京は震度4で、室内の本棚に置いていた写真立てが床に落ちただけだった(震度4だとかように落下被害が発生する)。

これは久々に大きいなとテレビをつけたら、福島と宮城が震度6強、マグネチュード7.3。

地震のエネルギー(マグネチュード)でいうと、兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)、熊本地震と同じ。
それと違うのは、直下型でないので、今回は震源から遠かったため最大で震度6強。
ただ宮城や福島では10年前の東北地方太平洋沖地震とほぼ同じ震度だ(なので福島第一原発が気になった)。
その時、震度5強の東京でも死者が3名出たのだ。
今回夜半にもかかわらず震度6強で死者が出なかったのは、すごい。

震度6強だと、耐震性のない古い木造家屋は倒壊する。
あと室内の本棚が倒れ、その下敷きになる(これは震度6弱でも発生)。
そういう被害が出なかったのは、これらの地域の耐震対策が進んでいたためだろう。

実は10年前のあの地震で宮城県栗原市は震度7を記録したが、死者が出なかった(震度7で死者なしはめずらしい)。
もちろん、今回は震源が深くて、津波が発生しなかったことも大きい。

負傷者は100名以上だが、たいていはあわてて逃げようとしての転倒などで、これは震度5でも発生する。

あと地震の感想などで「縦揺れ」、「横揺れ」とかさかんに言っているが、それらは主観的な印象にすぎず、揺れの評価としてあまり意味がない。
直下型地震の断層上なら垂直方向の揺れはありうるが、伝播してきた地面の揺れは横揺れが主体。
横揺れの左右動か前後動かは建築構造などで異なり、長方形の短辺側に沿って揺れるという。
なので長辺側は辺と直角方向に揺れるので、長辺に沿って本棚やタンスがあると倒れてくる(建物が正方形か円形なら安定)。
これらはどうしても長辺側に配置したくなる。
ならばせめて重い物を下に収納して重心を下げよう(物理法則として、重心から地面への垂線が基底面から外れると倒れる。地震の場合、地面から遠い上ほど揺れが大きく、下ほど揺れが小さい。なので重心を下げれば倒れにくい)。


秋葉原と日本そばと

2021年02月13日 | 東京周辺

昨日で過去最大級の”繁忙期”を終え、数週間ぶりに帰京した(新幹線内は、1月よりは混んでいて、山の手線内はまったく普通の混雑状態)。
目の前に迫る業務群から解放された久々の伸びやかな気分で、翌日の今日、秋葉原に足を運んだ。

ネット情報で知っていたが、秋葉での昼飯処にしていた『小諸そば』が(2軒とも)無くなっていた。
コロナ禍での客足の激減の影響を一番受けたのだ。
なぜなら、他のガッツリ系のラーメン店もメイド喫茶も顕在(これらも閉店あり)。
ついでに、エウリ(絵売り)アンのお店※も顕在なので、依然として”客”がいるようだ。
※以前は駅前のヤマダ電機が入っているビルの1階にあって、駅から出てくる単独男に次々声かけしていた(私も声をかけられたが店に入ったことはない)。そのヤマダ電機も撤退している。

客層が高年齢になる日本そば店が、コロナ禍のあおりをモロに受けた。
確かに、秋葉に「日本そば」は似合わない。

仕方ないので、中央通りから一本入った道(私にとってのメインストリート)沿いに、昔からある日本そば店『松月庵』に初めて入った。
土曜の昼過ぎで、客は私一人。
考えてみたら、むしろこういう老舗の自営店こそ、大切にしたい。

駅反対側のヨドバシカメラに向うため、駅前のラジオ会館方面に向うと、角の『富士そば』は健在だった。
ここの店は、隣がメイド喫茶で、着飾ったかわいらしいメイドが入口に立って客を呼んでいて、歩道の道路側にはいつも法輪功の人がなんと自国の共産党政府を激しく弾劾しているという、実にアナーキーな一角。
同じ日本そばチェーンでも私は『富士そば』より『小諸そば』派なのだが、この一角の秋葉らしいアナーキーさは応援したい。
思想・信条、そして表現の自由は基本的人権の1つであるから。
法輪功の皆さん、あなたたちの国には支配王朝に立ち向かった太平道・白蓮教・太平天国の歴史がある!
(このような文を記す私のブログは言論統制下の中国本土では閲覧不可に違いない)。


コロナ禍での浜名湖の宿

2021年02月10日 | 

繁忙期の終点に近づいたので、週中ながら、久しぶりに「グリーンプラザ浜名湖」に泊った。
この宿、コロナの影響でしばらく休館していて本日から開館。

待ちわびた人が多かったのか、いや週中ながら休前日だからか、客は多かった。

まず、ここは温泉になった※。
しかもそこらにある薄い「アルカリ単純泉」ではなく、溶存物質が2894g/kgもある立派な療養泉で「ナトリウム・カリウム・塩化物泉」。
泉質としては平凡だが、うれしいことにラドンも少々ある(ただ16,8Bq/kg=0.07μSv/hなのでバックグラウンドと差がない)
温泉は増築した露天風呂に流れている(内湯は従来のまま)。
といってもさすがに源泉掛け流しではなく、加水・加温・塩素殺菌の循環湯だ。
次回は浴槽内の濃さを計測してみる。

※温泉を掘り当てたのかと思ったが、分析書によると、源泉の場所は隣県の愛知県の湯谷(ゆや)温泉。運び湯だった。ちなみに浜名湖に温泉はある。近くの「かんぽの宿三ヶ日」は温泉だし、対岸には館山寺温泉がある。

部屋(全室レイクビューの和洋室)も食事も気に入っている宿の唯一の欠点=「温泉でない」が一応は解消された。

そしてここの食事はバイキング。
以前は、カニ(しかもタラバ!)も食べ放題だったが、当然、今はその面影はない。
でも、安宿チェーンのバイキングとは違って、内容にワクワク感を覚える。
グリーンプラザのバイキングはどこでも地元の食材・料理が目玉(北軽井沢のバイキングが一番お気に入り)。
静岡はちょっとうれしさに欠けるものの、鰻(さすがに地元産ではなかろうが)それに浜松餃子が人気。
鰻をここぞとばかりに皿一杯に取る人がいるが、ビタミンA過剰症に注意してほしい。
浜松餃子は、餃子そのものとしては宇都宮餃子のような個性的なおいしさがないが、餃子というだけで食べ放題はうれしい。

コロナ禍でのバイキングなので、客はビニール手袋をはめてマスクをして料理を取る。
トングは30分おきに交換される。
当然、食事中はマスクをはずすが、客席は離されている(一人席以外は)。

食事時間は90分だが、空腹にまかせてバクバク食べたら、30分で満腹になってしまった。
でもいつも通り、ご飯や麺・スイーツなど糖質は控えたのでカロリー的にはOK。
日頃は少ない動物性蛋白質をたくさん摂れた。

追記:翌日帰宅後、夕食前に体重計に載ったら、体重はむしろ減っていた。夕も朝もバイキングだけど、最近は腹いっぱい食べないし(セーブしているのではなく、心理的には満足)、糖質を避けているためかな。


一番の繁忙期を乗り越え

2021年02月07日 | お仕事

1月中旬から2月前半にかけては、わが仕事の一番の繁忙期。
例年、後期試験とその採点(成績つけ)と入試(大学共通入試と一般入試)が連続し、これだけも忙しいのだが、今年はさらに大学院研究科の改組の手続と次年度の入学広報の変更(なにしろ研究科長なので)、その間に学生の面談と卒論発表会をこなし、次年度の教員の担当委員の更新を依頼してまわり、学部の入試が終われば、つぎに大学院入試があり、それと同じ日が締切の授業テキストの原稿を書き上げる。

最初は「こんないっぺんに無理だ」と思ったが、なんとかすべて無事にこなすことができた。
仕事って次から次へとこなしていくしかない。
そして、やっかいだ・紛糾すると思っていたことが、けっこうスムースに運ぶ。
目の前に立ちはだかる大きなヤマも、着実に進んでいけば乗り越えられる。
実に山登りと同じだ。

あと目の前にあるのは、議長を担当する会議2つと修論の最終試験。
余裕が出てきたので、久しぶりに読みたかった本を読む。

人生経験で自信をもって言えるのは、自分で設定した限界は真の限界ではない、ということ。
自分で設定した限界なんて、実は簡単に超えられる。
そして真の限界に達してはじめて、自己超越(新しい自分)が実現される。
”筋トレ”がそれを証明しているではないか。