今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

秋川高校八期会2023

2023年11月25日 | メモリアル

廃校になった都立秋川高校(全寮制)の、同期会である「八期会」に今年も参加した(写真:私はどこでしょう。答えは文末の※)。

寮の部屋やクラス・部活(運動部に必ず入る)の違いで、当時は接点のなかった同期生とも、(互いに名前だけは知っていたこともあり)ここで会うことで親しく言葉を交わす。

逆に当時寮の同室だった者との再会が何よりも嬉しく、その頃の思い出話に花を咲かせるだけでなく、その頃の知らなかった側面を今更ながらに知って、思い出の修正をするのも新鮮だ。

そんな中、残念なのは、同期の訃報で、今年も複数名の訃報の報告があり、
初参加の僧侶をやっている同期の音頭で、全員が起立して黙祷した。
それを終えて思ったことは、いつか私もこの皆からの黙祷を受けたいなということ。

そして出席した者も、何らかの疾患を経験しており(同室同期のある者は脳梗塞、ある者は心不全)、中にはほとんど失明していたり、手足が痺れて動きづらい者もいる。
当然、病いのために出席できないと知らせた者も。
ということは、年々参加者が減っていくのだろうな。

その一方で、現役で音楽活動をしている者が、今回楽器持参で特別に演奏を披露してくれた。
それを聴いて、自分もかつては尺八とタブラ(インドの打楽器)をやっていて、それらを続けていれば皆の前で披露できたのに、と残念がった。

会場は、例年通り同期がシェフとして経営しているイタリア料理店。
コロナ禍の危機を乗り越えて繁盛している。

そういうこともあって、この日は一年で一番酒に酔う。
かつて同期の前で酔い潰れた失敗があるので、私に対してウコンが供された。
それも肴にさらに飲み、帰宅してそのまま床に入る。
こういう時って、宴会の続きの夢を見るものだ。

※:私は中央の上部に赤黒い服で右手を挙げています。


高校部活の仲間と飲む

2023年08月26日 | メモリアル

高校時代の部活のメンバーから、飲み会の誘いを受け、久しぶりに同期および1年後輩の面々と飲んだ。
そのうち一人とは、卒業以来の再会。

高校生活は自分の人生でとても思い出深いものだったが、対人関係的には、大学に入った時点でほぼ断絶してしまった。
それが長い年数を経て、細々であっても復活できるのは嬉しい。

高校時代の彼らとは、寮生活に加えて同じ部活(ワンゲル)で、山で一緒にテントに泊まる仲の”近さ”だったが、
こうして久々に会うと、お互いの現在があまりに別々な方向に進んでいて、その距離の”遠さ”(接点の無さ)を痛感してしまう。
しかも、一人名古屋に移ってしまった私だけ、彼らの間のより日常的な付き合いの輪から外れている。

趣味の話になっても、残念ながら互いに”山”が共通項でなくなっている。
彼らの現在の趣味は世間的に認められて話の種としては面白いが、
私の関心の方は、山との関係も含みスピリチュアル(霊)的になっているので、語って引かれずに済むのが難しい。

数年後には名古屋を引き払って完全に東京に戻ってくることは確定しているから、こちらの足場も固めておきたい。


父の享年を超えた

2023年07月30日 | メモリアル

本日、東京宅で、母や弟一家が私の1日遅れの誕生会を開いてくれた。

義妹の手料理に舌鼓を打ち、発泡ワインを2本空けた。

この一年間、ある意味、薄氷を踏む思いで過した。

なにしろ亡父の享年だったから。

そして、この一年の間に同年齢の従兄弟が亡くなり、何人もの同年の有名人の訃報に接した。

そういう危ない年齢になったのだ。

私自身、舌ガンの疑いを乗り越え、大腸のポリープを取り、降圧剤も増え、目の機能も衰えて、体のあちこちにガタが来ている。

言い換えれば、歯科・内科・循環器科・眼科の定期検診を怠らずに、手遅れになる前に対処しているわけだ。

あとは山の事故・交通事故に気をつけて、息災でいたい。


坂本龍一氏の訃報に思う

2023年04月03日 | メモリアル

昨晩、ネットで坂本龍一氏の訃報に接した。
思わず、えっと声を上げてしまった。

もっとも末期がんであることは知っていたので、寝耳に水というわけではないが、3月に神宮外苑の伐採についてコメントを出していたことから、こんな早いとは思わなかった。

とにかく憧れの音楽家で、パソコンで音楽をやったことのある身としては、 YMOの音楽を真似したかったし(一番好きなのは「テクノポリス」!)、キーボードを習っていた頃は「戦場のメリークリスマス」を弾きたかった。
※:あの頃のTokio(東京)はぶっ飛んだ最先端都市だった。
自分にとってそれなりに存在感があった人がこの世を去るのは寂しいものだ。

それにしても、氏はがん体質だったようだ。

母の知人にもがん体質の人がいて、消化器系のがんを複数患った後、今は悪性リンパ腫の治療をしている。
それぞれ早い処置をしたこともあって、それなりに頑張っている。

かように、がんは進行すると怖いが、個別のがんは早期発見して処置すればなんとかなる。
ということは定期的な検診が大切。

私は、職場での毎年の健康診断で、血液検査(白血球数→リンパ腫(白血病)、血糖値→膵臓がん、肝臓機能→肝臓がんチェック)と胸部レントゲン撮影(肺がんチェック)をしている。

あと個人的に胃検診(胃がん・食道がんチェック)と大腸健診(大腸がん・直腸がんチェック)をそれぞれ数年おきにやっている(大腸検診ではポリープの切除も実行)。
咽頭がんと前立腺がんのチェックはやっていないが、特に後者はやった方がいいらしい。

いずれのがんも、まずは初期症状(自覚症状)を確認しておくとよい。

あと、相関性は高くないものの、ストレスを内に溜めやすい性格とがんの関係も言われている(タイプC性格)。

生活習慣だと、がん因子とされる喫煙とは無縁で、赤肉もあまり食べないが、酒は欠かせない。
ただし、酒はストレスを内に溜めない効果があると思うし、焼酎など度数の強い酒は必ず数倍に薄めて、食道や胃の粘膜を刺激しないようにしている。
毎月の温泉旅もストレス解消にいい。

人は必ず死ぬが、生きている間は健康的に楽しく過ごしたい。
音楽の存在自体が、生きていることの喜びでもある。
その意味で氏は、人々に生きる喜びを与えてくれた。


高校の同期会2022

2022年11月27日 | メモリアル

今は亡き我が母校・都立秋川高校(全寮制)の同期会が、例年の場所(同期の一人が築地で営んでいるイタリアレストラン)で開催され、3年ぶりに参加した→前回の記事

以前は当時の先生たちも参加されていたが、逝去された方も増え、今年は参加者はいなかった。

一方、”生徒”側にもガンを患って来れなくなった常連もいる。
こうして集まった同期たちも、寄る年波(としなみ)でそれぞれ体の不調を抱えている。
もちろん参加できるのは健康な者たちだが、中には脳梗塞を発症して、後遺症なく参加している同期がいた。

幸い私はあえて節制する必要もないので、この時だけはマスクを外して、ワインを飲みながら互いの近況や昔話に花を咲かせて久しぶりに酔った。
かように制限なく飲んでしまうのは、この仲間たちとの飲み会だけ。

最後は肩を組んで、いまだに忘れない寮歌を歌う。
ふらつく足で帰ったものの、二日酔いにはならずに済んだ。


同い年の従兄弟の訃報

2022年11月05日 | メモリアル

小さい時から一緒に遊んでいた同い年(同年齢)の従兄弟(いとこ)の訃報が届いた。
なんでも手術中の死亡ということで(疑念が湧くが)、本人は全身麻酔中に帰らぬ人となったわけだ(11月2日)。

血縁の同年齢で、家族ぐるみで旅行にも一緒に行き、二人で山にも行った仲で、友人以上の近さがあっただけに、ショックも大きく、同時に「死」というものが急に身近に感じられてしまう。

なにしろ、別系統のやはり同年齢の従兄弟も、脳梗塞で半身不随になった。

そして何より、今年の私(従兄弟たちも)の年齢は亡父が死去した年齢に等しい。
ということもあり、今年一年は無事に過ごして父の寿命を越えることを目指していた。
その矢先の訃報だけに、父の寿命を越えることがより大きな試練として、残された私に課せられたようだ。

 

 


終戦の日の思い出を母から聞く

2022年08月15日 | メモリアル

77年目の終戦の日を迎えたので、今年93歳になる母に、当時の思い出を尋ねた。
当時、母は生家のある東京を離れて、親戚のいる栃木県に疎開していた。

疎開先の家は、工場経営をしてて裕福で、複数組の家族を受け入れても空間も食料も余裕があったという。
母は、学校での授業がほとんどなく、勤労動員として中島飛行機の工場で飛行機作りをしていた。
年端もいかぬ女学生たちが作った飛行機で大丈夫なのか心配だったという。

15日の当日は、家で玉音放送を聞いたが、何言っているか理解できなかったという。

東京の実家は空襲で焼けたが※、母は疎開中でそれを経験せず、また疎開先の生活も楽で、学校でいじめにもあわず学校生活を楽しんでいたので、「戦争中のつらい経験」というのがなく、また親類で戦死した者もなかった。
※:飼い犬は屋内の土間で死んでいた。飼い猫はどこかに逃げて行った。

ただ、翌日の新聞は、終戦については触れず、相変わらず南方での嘘の戦果を大々的に報じていたのが印象的だったという。

さらに戦後も裕福な田舎に残ったため、食料難も経験しなかったという。

ということで、母自身、戦争のつらい経験の話は、他人事であった。

母は「この世界の片隅に」の”すずさん”よりは1世代下で、黒澤明監督の「一番美しく」(1944年)が描いた世代に等しい。

むしろ母自身は、戦後の破壊された状態から高度成長を経て先進国となったその後の日本の方が、感慨深いという。


左利きの星:石原慎太郎氏

2022年02月02日 | メモリアル

石原慎太郎氏の訃報に接して、私も「巨星落つ」という感に浸った一人だが、
その巨星とは、一般には政治家(とりわけ元都知事)としてだろうが、私にとっては”左利き”の巨星でもあった。

一般に左利きは、右脳が優位なので、ダ・ビンチを筆頭に画家などのイメージ芸術系の有名人が多い。
※:他にモーツァルト、ダーウィン、アインシュタイン、チャップリン、ポール・マッカートニー、ジミ・ヘンドリックスなど
逆に左脳にある言語能力は右利きに比べると不得意になりがちで(私もその一人)、その理由で作家などの言語芸術系は稀。

そんな中で、慎太郎氏は、左利きの作家(文筆家)として、なんと大学生で芥川賞作家となり、その後政治家になってからも、最晩年まで作家であり続けた稀有な人である。
すなわち、”左利きの作家”として巨星なのだ。

都知事時代の都のディーゼル車規制での会見で、ペットボトルを開けて中の黒い煤を振る映像があるが、右手にペットボトルを持っているのは、左手で蓋を開けるためだ。

昔は、テレビで出演者が左手で箸やペンを持つ映像を流すと、抗議の電話が殺到したという。
「左手なんか使わせるな」と。

左利きの人が有名人になって、左手を使う映像を繰り返し流すことで、左利きに対する偏見を減らすことができる。
氏は自らそれを実践してくれた。

ちなみに利き手は遺伝素因がある(私の祖母が利きで、その4人の息子は全員右利きだが、孫では5人のうち私を含めた2人が左利き)。
なので氏の四男の画家の方は、左利きかもしれない。


田中邦衛さんを悼む

2021年04月02日 | メモリアル

仕事から帰り、自宅のパソコンでネットニュースを開いたら、真っ先に出てきたのが「田中邦衛さん死去 88歳」のニュース。
思わず「えっ!」と声を出してしまった。

訃報に接して、声を上げたのは誰以来か※。
※:ブログを確認したら、野村克也氏の時。

実は、すでに高齢であることを知っていたので、ひそかに怖れてはいた。

私にとっての田中邦衛は、まずは、東宝映画「若大将シリーズ」(1961-81)の”若大将”(加山雄三)のライバル(悪役)”青大将”が最初(子供時代に観た)。
テレビ番組でもあった「若者たち」(1967)も印象的だった(代表作である「北の国から」は個人的に無縁だった)。
後から知ったが、黒沢明作品「悪い奴ほどよく眠る」(1960),「椿三十郎」(1962)にも出演していた。
おそらく最後の記憶は、NHK大河「新選組!」(2004)での主役近藤勇(香取慎吾)の義父・近藤周斎役。
存在感ある見事なバイプレーヤだった。
彼の個性は風貌だけでなく独特の話し方にあり、”ものまね”の対象となるほどで、その意味では、田中邦衛は、どの役をやっても田中邦衛だった。
俳優の個性が役を呑み込む。
それは役に固有の存在感(新たな生命)を与えることを意味する。

私にとって歴史上の近藤周斎は、田中邦衛の顔と声になってしまった。
その意味で、これからもずっと記憶に残る俳優だ。

追記:wikiによれば、彼は岐阜県の土岐市出身で、出た高校は麗澤瑞浪高校(中高一貫校)。この高校、恵那の安宿チェーンに泊る時に通る沿道にあり、先日通ってきたばかり。


野村克也氏を悼む

2020年02月11日 | メモリアル

今朝、テレビのニュース速報で野村克也氏死去のテロップが流れた時、思わず声を上げてしまった。
故金田正一氏の葬儀に車椅子姿の映像を見たが、衰えたとはいえ、危ない様子には見えなかった。

私にとって野村選手は、王・長島の巨人がプロ野球の話題の大半だった時代、パ・リーグで彼らに匹敵する活躍をしながら(三冠王)、テレビで観ることがない存在だった。

現役を引退し、解説者となることで野球中継でなじみとなり、野村解説者オリジナルの”野村スコープ”での論理的な解説が好きだった。
ピッチャーと打者との一球ごとの駆け引きを、統計データをもとにリアルタイムで説明・予想するその解説によって、野球の醍醐味を知的に味わわせてくれた。

そして、当時私がファンだったヤクルト・スワローズの監督となり、野村監督はリーグ優勝、そして王者西武を破っての日本一に輝き、自らの野球理論の正しさを自らの手で証明してみせた。
元ヤクルトファンにとって、野村元監督は”恩人”である。

しかも、新人の育成、他球団でお払い箱になった選手を次々と再び活躍させ、「野村再生工場」と称されるほどのすばらしい育成力を発揮した。

かように、野村克也氏は、選手として、解説者として、そして監督として、それぞれ超一流の実績を残した、プロ野球人として最高レベルの”三冠王”だ。
氏に匹敵する人が他にいるだろうか。
昭和の偉人が、また一人いなくなった。 合掌🙏🏽


秋川高校の八期会2019

2019年12月01日 | メモリアル

昨晩は、今は亡き高校(廃校した都立秋川高校)の同期(八期)会に2年振りに出席した。

会場は例年通り、同期生が開いている築地のイタリア・レストラン。

西多摩(今のあきる野市)にあった高校ということもあり、遠方からの出席者を配慮して、開始は午後3時と早め。

今回唯一出席いただいた先生は、齢い90。
私が欠席した昨年に、ミスター秋川こと、宗方先生が亡くなったという。

毎回明らかにされる、高校(寮)時代のエピソード。
その情景が昨日のようにありありと思い出される。
その一方で、同期生たちの近況報告には、健康問題のウエイトが大きくなっている。
もうすでに鬼籍に入っている同期もいるくらいだ。 

この旧友たちと一緒にいる間、自分がいつもとは異なる心になる。

全寮制ゆえに、人間(自分と他者)の醜さをも直視し、それとつきあわねければならなかったあの3年間。
その中で、育まれた素直さとタフさ。
その心が呼び覚まされる。 

昔の心に戻った状態で、全員で肩を組んで寮歌を放吟し、来年の再会を約して別れた。

こんな中、立入り禁止になっているあきる野市の高校跡地には、残ったメタセコイアの並木だけが、いまだ天空に向って成長を続けている。
人間の10倍以上の寿命といわれるメタセコイアを選んだ宗方先生は、個人の寿命を超えて育んでほしいものを、われわれ生徒に託した。
たとえ体は衰えても、われわれの心の中に、跡地のメタセコイアとともに成長し続けているものがあるかもしれない。 

そういえば、われわれの寮歌は次の歌詞で締めくくられている、「深き心のあればこそ 永遠(トワ)に残れり、秋川に」。  


富士駅近くの寺に墓参

2019年03月16日 | メモリアル

卒業式も終えたので、春休みとして、18切符で帰京の途につく。
ただし、今回は、静岡県の富士駅で途中下車。

この駅近くの寺に墓参のため。
学生時代の友人がその寺の住職だったのだが、亡くなったのだ。

友人といっても私が名古屋の大学に就職する時に、
祝いの席に来てくれたのが生前会った最後なので、かれこれ四半世紀は会っていなかった。 
一昨年に訃報を間接的に知り、18切符で富士駅を通るたびに寺を見ていたので、
いつか途中下車して墓参に立ち寄ろうと思ってたが、なかなかその一歩が踏み出せなかった。
今回、別の友人の半強制的な誘いによって、やっと墓参が実現した。

その友人と富士駅で落ち合い、献花用の花束を買って、寺に向った。
奥さんに案内されて、まず墓参をした。
歴代住職の墓をまとめた新しい卵塔を造った彼は、自分も入る墓を造ったことになり、
その新しい墓の唯一の墓誌に彼の名が彫ってあった。
寺の内部を案内され、あとは3人で故人を偲ぶ話をした。

その寺は、生前の彼によって、屋根の上にチベット仏教風の搭を作り、
またビルマの涅槃像が講堂に本尊として据えられている。
寺の宗旨は曹洞宗だが、そのたたずまいは町中の禅宗寺院としては、はっきり言って異様だ。
それは、彼の視野が、彼にとっての寺の在り方が、
一宗派や日本の慣習的仏教に限定されない、仏教全域を包含しているためだ。
本来の仏教の在り方を彼なりに追求し、形として実現したことになる
(資金的な苦労もあったろう)。 

型にはまらない行動力は学生の頃からあった。

ただ、彼なりに強いストレスを受けていたようで、永平寺での修行時に大病を患って手術をし、
それが結果的に、最期を早めてしまった。

早すぎる死ではあるが、彼が形として実現した寺を見れば、
彼自身の人生を全うしたといっていい。
実際、彼は病を従容と受け入れ、治療に専念することをよしとしなかったという。
奥さんからすれば、彼は生き急ぎすぎたような印象だという。
彼からすれば、やりたいことを先延ばしせず、”今”を懸命に生きたのだろう。

そういえば、かの日本曹洞宗の開祖・道元も50代で亡くなった。
なしとげられた業(わざ)は、寿命の長さに比例するものではない。 


秋川高校八期会(2017)でメタセコイアを想う

2017年11月26日 | メモリアル

年に一度、この時期に必ず開かれる(今は亡き)都立秋川(アキカワ)高校の同期会に出席した。
名古屋からは他に1名、大阪、北九州、八丈島、ハワイからも同期が駆け付ける。 

われわれ元生徒だけでなく、当時の先生も招待される。
出席される先生方は80歳を越えながらもお元気で、顔の色つやもいい(逆にここ最近欠席される先生は体調が思わしくない)。

互いの近況をひとくさり語った後は、高校(寮生活)時代の思い出話。
先生を交えて、今だから話されるエピソードもあり、 あの3年間の思い出が新たに追加される。

その中で、最近避けて通れない話題が、同期生の訃報。
今回も新たな訃報がもたらされた。
その同期生は、私が入学して最初に口をきいた相手で、2年の時に退学したのだが、会いたかった。

われわれ全寮制の高校では、途中退学しようと、途中から編入学して来てたった1年間だけであろうと、一宿一飯の縁があれば皆仲間。
実際、常連というかむしろ同期会の幹事がそれらの該当者。 
言い換えれば、たった1年間だけでも一生ものの強烈な経験だったのだろう。

個人的に心を惹かれた情報(出席者全員が資料をもらった)は
我が母校の跡地に残っているメタセコイアの並木について。
そもそも開校後に特別な思いで植えられたこの生きた化石、学名メタセコイア・ヤポニカ・ミキ。
もらった資料はその木を我が高校のシンボルとして植えることに奔走された、我が校の親、ミスター・秋川こと宗方先生の手記。
メタセコイアは廃校後の現在もすくすくと成長しつづけているのだが、都が管理している跡地はいつもは門が閉められ進入禁止。
その跡地が開門され通行できるイベントが先月あった。
それに参加した同期によれば、メタセコイアにとても強い”気”を感じたという。

「パワースポット鑑定士」を自認する私には、あのメタセコイアから”気”が出ているのは容易に想像できる。
これはぜひ、鑑定に行きたい。
来年は、東京都開催の「育樹祭」時に開門されるという。


懐かしい秋川八期会2016

2016年11月27日 | メモリアル


今はなき都立秋川高校の同期会が、いつもの時期・いつもの場所で開催され、数年ぶりに参加した。
といっても、年一回はなんらかのイベントには参加している。

まずは、毎年この会を開いてくれる幹事たちに感謝。

当時の先生も5名参加して、我々との外見の差が縮まっていくのを感じる(我々側が歳とっている)。

全寮制の高校で、生活をともにしてきて、全員が顔見知りであったため、当時のエピソードは腐るほどある。
いまだに初めて聞く話に事欠かない。 

湧き上がる「懐かしさ」に浸っていると、時間的存在者たる”現存在”の根本気分である「懐かしさ・郷愁」に思いをはせる。

過去という時間性に対する気分である「懐かしさ」。
かつては存在し、今は存在していないという、記憶の中の存在に対して抱く気分。
存在と不存在の双方を体験したからこそ、その存在を正しく受けとめることができる。
その時とはまた異なる追体験によって、自分の歴史性(時間によって創られた自分)が確認される。
懐かしさは、忘却していた存在との再会による存在実感の気分なのだ。
しかもその実感は、過去を共有していた他者たちとの共感を伴っている。
他者たちと共に味わえる存在実感なのだ。 

懐かしさに浸るのは、後ろ向きの態度で生産的ではないという懸念がないことはない。
だが、「存在忘却せずに存在を実感して生きる」というハイデガーの格率を生きたい私は、
未来や現在だけでなく、どんどん増えていく過去に対してもきちんと存在を実感したいのだ。
だから、懐かしさを大切にしたい。

そういえば、参加者の中に、私のブログの読者になってくれている同期生がいた。
せっかくならコメントを残してくれるよう頼んだ。

懐かしさに浸って、2次会まで行き、久しぶりに酔った。
翌日は日曜だからよかった。
懐かしさの代償が少々体にきた。


秋川高校跡を訪れた時の気持ち

2016年05月15日 | メモリアル

今は亡き「都立秋川(あきかわ)高校」の残り火を消すまいとする頼もしい同期会幹事がイベントを企画してくれた。
皆で高校跡地を訪問し、さらに秋川(あきがわ)の河畔でバーベキューをし、上流の秋川渓谷の温泉宿で宿泊し、翌日はもっと上流の集落で同期が住職している禅寺で坐禅するというもの。

すばらしい企画だが、都合で当日には行けない。
元々その温泉宿に泊ってみたかったこともあって、1日遅れで、一人で挙行した(といっても跡地と宿のみ)。

まずはJR五日市線の「秋川(あきがわ)」駅で降りて、高校跡地を訪れる。
敷地はそのままにされ、周囲を柵で囲まれ、立ち入り禁止となって草が生い茂るままに放置されている。
校舎や寮などの建物はすでになく、唯一現存しているのは、メインストリート沿いの大きく成長したメタセコイアの並木(写真)。
その並木も無駄に成長しているようにしか見えない。

敷地の広大な周囲を一周してみたら、敷地の西半分にできた「都立あきる野学園 」(養護学校)がわが秋川高校の卒業証明書の発行を請け負っているという表示板があった(写真)。
受付は学校が開いている平日のみだが、あえて今は亡き高校の卒業証明書が欲しくなった。

こうして学校敷地を一周して、この高校跡地を訪れるたびに、心の中で泣いている自分がいる。

この気持ちは何なのか。
単なる「懐かしさ」では説明しきれない。
そこには、ほのぼのとしたあるいは感動的な過去との再会とは違う、心の痛みがある。

自分が通った小学校も中学校も今の家の近所にあり、在学当時の建物さえ残っている。
脇を通っても懐かしさすら感じない。
大学は遠方だが、やはり在学当時の建物が残っている。
だが行く気がおきない。

高校だけが違う気持ちになる。 
その高校が廃校になり、跡地だけがかろうじて残っているためであるのは確かだ。
心の中で泣いているのも、その無惨な姿がそうさせているといえる。
だが、それだけではないと思う。

その高校時代の想いが特別だった。
親元を離れた全寮制で厳しい生活の辛さ。
生活を共にした同級生たちとの濃いつながり。
いつも見守ってくれた奥多摩の山々。 
その時の思いが切なく蘇ってくる。

「懐かしさ」 を「望郷の念」と言い換えるなら、
”ここ”に在学当時の望郷の対象は、”ここ”ではない家族のいる自宅であった。
親しい故郷から遠い見知らぬ土地にいる違和感こそが当時の”ここ”での思い。

そして今感じる望郷の対象は、3年間を過した”ここ”。
他所では体験できなかった”ここ”だけの思い出。

”ここ”に居た時の辛さが蘇り、その蘇った思いを結びつける”ここ”が跡地になってしまったことが新たに辛くなる。
私が心の中で泣いているのは、望郷の念を噛みしめていた場所を失ったという二重の故郷喪失のためであるようだ。
これだけは当時と変わらぬ奥多摩の山並みを見ている時も、心の中で泣いしまうのもそのためだ。 

このような感情を抱かせる所は、私にとってここしかない。