今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

東鎌倉を巡る:覚園寺・明王院・杉本寺

2023年05月28日 | 東京周辺

今年の2月以来の鎌倉を訪れた。→前回の鎌倉
今回の主目的は、毎月28日だけに開帳される明王院の五大明王の拝観。
28日が東京にいる日と重なるのはそう多くないので、この機を逃したくない。

ちなみに明王院は、十二所(じゅうにそ)という鎌倉東端の地にある(切り通しを越えると横浜市)。

高校時代に鎌倉を好きになってその時に市内の寺を巡り尽くしたが、こういう外れにある寺はその時以来(半世紀ぶり)の再訪となる。

そして鶴岡八幡宮より東の”東鎌倉”(私が勝手に命名)に行くとなれば、覚園寺(かくおんじ)を外すわけにはいかない。

覚園寺は、寺の密度の高い鎌倉の中では珍しくポツンと離れた所にあるが、薬師三尊のとりわけ日光菩薩が美仏好きの私のお気に入りで(鎌倉の仏ではトップ)、機会があれば必ず訪れてお顔を拝みたい。

鎌倉の寺々は観光寺院に堕すことなく、宗教空間としての尊厳を維持するよう努めている。
前回訪れた時の覚園寺は1時間毎にグループになって解説者付きで拝観した。
なのでタイミングが悪いと50分以上待つことになる。
一方、明王院は13時に法要があり、それに合わせて拝観ができるようだ。
ということで、ポツンと離れた覚園寺と13時の明王院のどちらを先にするか迷ったが、覚園寺を先にして12時に拝観し、そこから山道を抜けて13時に明王院に降りるという計画にした。


横須賀線の鎌倉駅に10時半に降り立ち、早速観光案内所で、覚園寺の拝観時間について尋ねると、今では1時間毎ではなく、自由に拝観できるという。
それなら時間調整は不要で、駅のコンビニでおにぎりを買って、覚園寺最寄りの大塔宮までバスに乗り、バス乗り場のベンチでおにぎりを食べて、お宮境内のトイレを借りて、覚園寺への一本道を進む。
途中に本格的な蕎麦を出す店などがあるが、寺巡りに値が張ったランチを食べる気はしない。

覚園寺の入り口に達し(写真)、まずは愛染堂で愛染明王を参拝し、拝観料500円払って、自然豊かな境内に入る(ここから先は撮影禁止)。
「順路」があったがそれに気づかず、茅葺の薬師堂(順路では最後)に直進し、丈六の薬師三尊を見上げる。
以前よりは明るい堂内なので、じっくり拝観できる。
薬師如来の両脇侍の日光・月光菩薩は、本尊を挟んで対照的な姿勢以外の形態は同じはずだが、奈良の薬師寺の両菩薩がそうであるように、ここの両菩薩も微妙にお顔が異なる。
向かって左の月光菩薩は、残念なことにお顔に丸い染みのようなものが幾つもできているのが美観を損ね、また目の造りも生気に乏しい。
それに対して、向かって右の日光菩薩は、綺麗なお顔に切長の半眼ながら目がぱっちりしていて目力がある。
その目にしっかり見つめられると、「日光菩薩様にずっと見られていたい」という気持ちになってしまって、立ち去る踏ん切りがつかめない。
13時の明王院の法要に間に合わねばならないので、12時を区切りに去ることにした(受付で三尊の御影を買う)。


大塔宮まで戻り、東進して、発掘が進んで公園になっている永福寺跡を素通りし、瑞泉寺の総門をくぐって、天園ハイキングコースの山道に入る。
寺の密度が高い鎌倉では、寺巡りには駅前にあったレンタサイクル利用が一番効率良さそうだが、鎌倉にはこういう山道が近道にもなるので、それを使う場合は徒歩しかない。
目指す明王院への山道は地図には載っているものの分岐点の指導標に示されず、またGoogleマップのナビもルートとして認識してくれない。
でも踏み跡は確かなので、山をやっている者ならスマホの地図を見ながら難なく明王院脇に降りられる。


13時を数分過ぎて着いた明王院では、茅葺の本堂(写真)で護摩法要が始まっていて(法螺貝の音が響く)、堂内は参拝者で満席。
それでも最後尾の縁側に立って、前席の人に配られた読経の冊子を後ろから覗きながら、観音経の唱和に加わる。
法要が終わると、一人づつ護摩木を渡されて、護摩の残り火にくべて、奥に進んで開帳された五大明王を拝観する(ただ暗い堂内で黒ずくめの像は、不動明王以外見分けがつかない)。


明王院を後にし、ここまで来たならと、鎌倉最東端の寺である光触寺(時宗)をやはり半世紀ぶりに訪れる。
昔はなかった一遍上人の銅像があった(全国的には珍しい時宗寺院が鎌倉にはいくつもある)。
寺に入る道の入り口にバス停があり、鎌倉駅行きのバスは10分おきにあるので乗っていってもいいのだが、この地には多分もう訪れることはないと思うので(あっても半世紀後?)、道路脇の石仏群を見て、訪れていなかった松久寺(曹洞宗)に立ち寄る。


ここまで来たなら、もう少し進んで多数の仏像を拝観できる杉本寺(すぎもとでら)にも立ち寄る(浄妙寺、報国寺はカット)

ここは30年ぶりだが、本堂に上がる石段の上半分は苔むした石段となって観賞用となっていて(写真)、代わりに脇に新たな石段ができていた。
高台にある本堂では、本尊の(行基作などの古い)3観音は本堂奥に鎮座していて遠くから眺める。
目の前の前立ち(本尊のレプリカ)の観音がなんと運慶作という。
杉本寺は、鎌倉時代の寺ではなく、平安初期創建の鎌倉で一番古い寺。
ここで本尊3観音の御影(3枚で300円)を買う。
ここからバスで鎌倉駅に戻った。

私は、御朱印集めの趣味はないが、ご本尊の御影を集めている。
今回、覚園寺と杉本寺で計4枚の御影を得たが、明王院の五大明王の御影は残念ながら9月28日しか配布されない。
今年のその日はウィークデーなので、それをゲットできるのは、退職後だろう。
ということは、いずれまた東鎌倉を訪れることになりそうだ。

建長寺・円覚寺


ChatGPTが詠む俳句

2023年05月22日 | パソコン・メディア

ChatGPTに俳句を作らせてみた。
あえて制限事項を設けて。

梅雨の時季を詠んだ俳句を松尾芭蕉風に作ってください、と依頼してみた。
すると、すかさず以下の句を出してきた。

「蝉の声 聞く梅雨の日 涼風かな」

私が期待した蕉風は「五月雨をあつめてはやし最上川」的なものだったのだが、
五月雨(さみだれ)を梅雨ではなく、五月の雨と勘違いする、すなわち新暦と旧暦の区別がつかない素人レベルであることは判明していた
※:まずGPTに五月の俳句を求めたら、そこで「五月雨」が使われた。

芭蕉らしいのは「蝉の声」(←閑さや岩に染み入る蝉の声)。
ただ17文字になっているが、「涼風」を「すずかぜ」と読むと、五七五ではなく、五七六となって字余り。
また意味的区切りは「蝉の声聞く、梅雨の日、 涼風かな」となり、ますますリズムに合わない。

「蝉」は夏の季語で、梅雨は四季で言えば確かに「夏」に入るが、蝉は雨天では鳴かないし、そもそも梅雨の時分はまだ土の中(ハルゼミを除く)。
すなわち、自然描写としてはあまりに不自然。

時期を違えた盛夏の蝉時雨(せみしぐれ)と梅雨とをあえて重ね合わせる高度な句というわけでもなさそうで、最後の「涼風かな」もとってつけた印象。
要するに「蝉」と「梅雨」と「涼風」をただ並べただけの安易なもの。

もちろん今の AIに含意豊かな詩情を期待してはいない。
むしろ人間では思いつかない(「そうくるか!」という感じの)斬新な言葉の組合せを期待したのだが。

ついでに和歌もつくらせてみたが、五七五七七になっておらず、まったくお話にならぬ出来。

散文でない詩(うた)は、音とリズムをそなえた”音楽”でもあることを無視してはならない(そういう制約を与えてこそ芸術的価値が上る)。
まずは、形だけでも整えてほしいものだ。


ChatGPTによる「霊が見える現象」の心理学的解説

2023年05月21日 | 心理学

ChatGPTに「霊が見えるという現象について、心理学的に解説してください。」と頼んだら、すかさず以下の答えを返してきた(段落分けと太字はこちらで編集)。

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心理学的な観点から、「霊が見える」という現象は、通常は幻覚や錯覚の一形態として解釈されます。以下に、その理由といくつかの可能な心理学的要因を説明します。

錯覚と幻覚: 人間の知覚は、時に現実とは異なる情報を与えることがあります。錯覚は、実際の刺激が存在するにも関わらず、それを誤解釈する状態です。幻覚は、実際には存在しない刺激を知覚する状態です。霊が見えると主張する人々は、錯覚や幻覚によって霊の存在を感じている可能性があります。

個人の信念や文化: 個人の信念や文化は、その人の知覚や解釈に大きな影響を与えます。特定の宗教的信念や文化的背景を持つ人々は、霊的存在に対してより敏感になる可能性があります。彼らが「霊が見える」と主張することは、その信念や文化的枠組みの一部である場合があります。

心理的な需要や欲求: 人間の心理は、時に不確実性や喪失に対して安心や安定を求める傾向があります。霊が見えると主張することは、亡くなった愛する人とのつながりを再確立し、安心感を得る手段として機能する場合があります。

知覚の誤り: 我々の知覚は、外部の情報や内部の情報に基づいて構築されます。しかし、知覚は時に誤りや不正確さを含むことがあります。例えば、光の反射や影のパターンを見間違えることで、人々は霊的な存在がいると感じるかもしれません。

これらの要因により、「霊が見える」と主張される現象は、個人の主観的な経験や信念、知覚の歪みに基づいて解釈されることがあります。心理学の観点からは、科学的な証拠や客観的な観察に基づいた解釈が優先されます。しかし、個々の経験や信念は、人々の生活や心理的な幸福において重要な役割を果たすことも理解されています。
ーーーーーーーーーー

以上、4つに整理されている点はよい。
特に3つめの「亡くなった愛する人とのつながり…」という感情的視点が加わっているのは評価したい(私の研究では不要な視点だが)。
個人的には、幻覚の原因についてもう少し詳しく示してほしかった。
数秒でこれを仕上げるという点では人間業を超えている(学生に課せば一週間は要するだろう)。

ただ学問的な解説としては、研究例の引用・出典が必要なのだが、それらが一切ないのは、報告書としてはかなりの減点。
その点では Wikiに劣る。
こういう要求は、プロンプトの制約条件としてこちらが設定しておくべきか。
まぁ、素人がググるよりは、作業効率はいいといえるか。


死んで生まれ変われるか

2023年05月20日 | 時事

「死んで生まれ変わろう」という目的で死ぬと、望み通り生まれ変われるだろうか。
その可能性はほとんど無いといえるだろう。
少なくとも、生まれ変わりたいと思っている当の「自我」は、脳死とともに消滅するので、”自分”は生まれ変われない。

個人を構成する自我ではなく、その背後の”霊体”は生まれ変わりが可能だとしても、六道輪廻思想によると、人間に生まれ変われる保証はない。
生前の行ないによって転生先が決まるので、人間として恥じる行為をしたなら、転生先は餓鬼や畜生、あるいは地獄となる(良くて修羅)。

冒頭の発言を私の母は、死ぬのではなく「死ぬ気になって生まれ変ろう」と決心すべきと批判した。
まさにその通り、人間としての”生”の中で、生まれ変わることが可能なのだ。
生前に積んでしまった業(カルマ)は、その生の中においてこそ、最も手早く清算することができる(人は「悔い改める」ことが可能)。

人間界に生まれた者に与えられた”生きる目的”は、霊的に成長することにある※。
※:六道的には、天部に転生すること。いいかえれば、死後にカミ・ホトケにグレードアップすること。

それは人間として、真っ当に正しく生きれば叶う目的だ(特定の宗教宗派の信仰者に限定されない)。
学校教育的に言えば、”人間としての課程”を修了することだ。

なので人間としての努力を放棄する目的の死は、残念ながら霊的にグレードダウンこそすれ、決して高まることはない。


中毒と依存の違い

2023年05月19日 | 時事

今だから、「薬物中毒」と「薬物依存」の違いについて明確にし、両者の混同を一掃したい(「ヤク中」という俗語にしか接しない人が混同している)。

中毒とは、毒に中(あ)たることで、毒による作用(症状)が発現している事を言う。
その典型が「食中毒」であり、これを理解しない人はいない。

その流れで言うと、アルコール中毒は、アルコール毒による症状が出ている事で、急性で軽い場合は酩酊ですむが、重症になると意識混濁、最悪の場合は呼吸停止で死亡する。
そして慢性症状は、手足の震えや精神症状(幻覚)などがあり、これがいわゆる「アル中」の症状として演技などで示される(この限りでは「アル中」の用法は間違いでない)。

その慢性症状は、アルコール依存によって起こる。
すなわち、アルコール依存は、アルコールの常用が生活に悪影響が出るほどに進んだ場合で、その結果として、本来毒物であるアルコールによる中毒症状が出るわけだ。
依存には心理的依存と身体的依存がある。
身体的依存は、それが切れると身体反応(離脱症状)が起こる状態。
この症状(いわゆる禁断症状)は中毒症状とは異なる。

アルコール依存はアルコール中毒の原因にはなるが、100%直結するわけではない。
急性アルコール中毒はアルコール依存とは関係なく、人生たった一回の飲酒(新歓コンパ)でも起こる。

すなわち中毒は身体的毒物反応であり、依存は悪影響が出ている過度の常用という行動を言う。
なので中毒の対処は医学(薬理)的だが、依存の対処は心理学(行動修正)的となる。

従って、科学的な概念の世界では、腐った食べ物による食中毒が”腐った食べ物依存”のことでないように、薬物中毒は薬物依存とは別個の現象である。


太陽熱=紫外線の強さではない

2023年05月17日 | お天気

真夏日(30℃以上)の名古屋。
実は真夏日(≠猛暑日)は毎年5月に迎えるので、異常ではない。

テレビ取材を見ていたら、今日の太陽光の熱さを紫外線の強さとみなしていた人がいた。

紫外線はX線と同じく人間には知覚できないので、人間はその強さを感じることはできない。

太陽光を浴びて感じる”熱さ”は、まずは気温(空気の温度)がベースとなって、それに太陽光の赤外放射の加熱作用がプラスされたもの(冬は気温が低いので赤外放射だけでは暖まらない)。
すなわち、紫外線ではなく赤外線の効果(赤外線も不可視だが、こちらは熱として感じる)。

ちなみに私設日進気象台での本日のUVIndex(有害紫外線指標)の最大値は6.0で、これは3月並みの値(盛夏には10を上回る)。
すなわち、決して高くはなく、黒づくめで防御する段階(8以上)ではない(私はつばの広い帽子を着用)。

世間の人は、太陽放射による電磁波を、感じる事ができないはずの紫外線一辺倒で判断して(マスコミ経由の気象予報士/美容皮膚科医の影響か)、紫外線・可視光・赤外線に分けて対応しない。

たとえば太陽放射の防御に有効な日傘(私も愛用)は、紫外線防御のためだけではなく、
赤外線放射による加熱も防御でき、それは熱中症予防に有効なのだ。
太陽放射を浴びた皮膚の表面温度は、赤外線効果によって気温をはるかに上回る温度に熱せられる(メラニン色素による皮膚の赤化反応は紫外線に対するもの)。
日傘は「持ち歩く日陰」として赤外線による皮膚温上昇(暑さの直接原因)も防いでいる。
それなのに、私のような男が日傘を差していると、男のくせに肌の美容を気にしていると勘違いしている女性がいるが、とんだ無知・無理解、ジェンダー差別だ。

計測値にもとづく知的な判断ができない社会が悲しい。


去り難かった茶臼山高原

2023年05月16日 | 名古屋周辺

今日の茶臼山高原は、朝から晴天。
青空の下で赤紫の芝桜、新緑の草原の木々、そして仰ぎ見る南アルプスの白い山々が鮮やかだ。

今日は名古屋に帰る日だが、幸い用事がないので、ゆっくりしていける。

一年ぶりに高原から山頂を往復し、長野側の南アルプスが視界に広がる草原に寝ころがると(写真はそこから南アルプス)、いつまでもこうしていたくなって、下界の(夏日の)名古屋に帰りたくなくなる。
帰る踏ん切りがつかないので、カエル館にお邪魔して時間を潰した。

そのカエル館のパワースポットがなくても、愛知の屋根である茶臼山高原は元々愛知で一番好きな所である。

逆に言えば、愛知で一番好きな地が、さらに真正のパワースポットでもあるのだ。
※:何の根拠もない”自称”パワースポットではなく、客観的に物理的パワーが計測され、しかも多数の生体反応が確認されている。私がこれらのデータをとって”真正”パワースポットの判を押した。

ここでのパワーの測定作業は、前回の記事にあるように終了するが、この地は雄大な風景、周辺地域の多彩な鉱物(玄武岩、瑪瑙、花崗岩など)貴重な動植物に恵まれた、特別な場所であることには変わりはない。

これからは研究の場ではなく、もっと気楽な観光地として訪れ続けたい。


カエル館の計測ひとまず終了

2023年05月15日 | 茶臼山カエル館計測

長年携わってきた茶臼山カエル館(長野県根羽村)での計測をひとまず終了することにした。

カエル館内での磁気異常も来館者の身体反応も相変わらず盛んだが、研究としては限界に達して、これ以上進展する見込みはないためだ。
※:脳梗塞の後遺症で右手の薬指が屈曲したままだった人が、昨年、カエル館の磁気スポットに坐ったら、その指が動くようになった。ただし、帰宅したら元に戻ってしまった。ところが今年は、磁気スポットで動くようになった指が、帰宅しても動いていたという(その後の消息は不明)。

すなわち、来館者の身体反応はその有無と種類に個人差が大きく、館内の物理的パワーとの間の関係が掴めない。
温熱感や心拍は生理反応として測定可能だが、訴えが最も多い「ビリビリ感」は生理的に測定できない(経絡の電流を測ったが無相関)。
データとしての相関関係も確認できず、またそれを因果関係(発生機序)として説明もできない。

そして、私自身の関心が、物理的なパワーよりも、スピリチュアルな霊視に移ったことも影響している。

なので、茶臼山高原は好きな地だからこれからも訪れたいが、カエル館の測定はしなくなるだろう。
そのため本カテゴリー「茶臼山カエル館計測」の記事も今後増えることはないだろう。

茶臼山は信仰対象の”霊山”ではないので、霊視研究においては無関係となるだろう、と思って本日カエル館に行ったら、石の気持ちがわかる常連の男性がカエル館にやってきて、館長が所持していた石から、霊障を守るだけでなく、それらを突き抜けるパワーのある石を私に選んでくれた。
また彼がある晴天の深夜、高原の愛知県側で屋外でタバコを吸っていたら、茶臼山の平らな頂上部から光線が帯状に天空に伸びていたのを二回見たという(一回だけなら何かの見間違いと本人も思うところだった)。
彼は通常の”霊視”もできるが、それとは異なる非生物的パワーの視認能力もあり、しかも茶臼山でそれを経験している。
こういう出会いは大切にしておきたい。


グラっときたら、○の○○

2023年05月12日 | 防災・安全

地震に対する標語「グラっときたら、○の○○

この○を漢字で埋めてほしい。

 

 

年配者は、「火の用心」と回答するかもしれない。
実際、昔はそれが正解だった。
でも現在は不正解。

消防庁による正解は、「身の安全」。

身の安全が火の用心より優先となった。

ところが学生に質問すると、ほとんどの学生は「机の真?下』と答える(「机の下」で充分)。
小学校以来、学校で教わった地震時の反応(机の下に身を隠す)が頭に焼きつているから。

「身の安全」という答えは実は抽象的で、具体的にどうしたらいいのかわからない。
その意味では、良くない”正解”だ。

その点「机の真下」だと具体的な行動を指示しているので、どうすればいいかすぐわかる。
その意味では、こちらの方が良い答えだ。

ただ、そう答えた学生にこう質問する。
「もしその場に机がなかったらどうする?」
すると学生は答えに窮す。

「机の真下」は学校の教室に該当する限定された答えで、いわば具体的すぎて、応用性がない点で望ましくない。

ということは、最適な答えは、「身の安全」と「机の真下」の間にある。

安全を確保したい”身”とはどこか、机の下に入って守るのはどこか、そこに答えがある。

頭部を守るのが最重要なのだ。

なので、望ましい正解は、「グラっときたら、頭の保護」としたい。

机がなくても、なんでもいいから頭を保護すること(最悪、両腕を使う)。

→関連記事「スーパーで頭を刺されない方法


震度5強の地震に遭遇したら

2023年05月11日 | 防災・安全

震度5強の地震は、震度7や6強の地震よりも、広範囲・高頻度で起こりうる。
なので、起きた時どうするか、常に考えておいて損はない。

屋内にいる場合。
1981年以降の新耐震の建物の場合、震度5強では損傷の恐れはなく、外に逃げ出す必要はない。
外の方が、瓦落下等の被害をもたらすこともあるから。

地震時での対応は「逃げ道の確保」であって、逃げることではない。
ところが、震度5強で毎回負傷者が発生する。
今回も、慌てて逃げようとして、負傷した。
揺れが激しくて、身体を正しく制御できないから、負傷するのだ。
毎度発生するパターン。
逃げるよりも、その場で身をかがめて、安全を確保(=頭部を保護する)こと。

地震が終わった後、都市ガスは自動的に止まっている(慌てて使用中のガスコンロに向かう必要もない)。
停電も発生して、高層住宅ではエレベータが止まる。

ただし、これらはインフラが破壊された訳ではなく、安全装置が作動しもので、順次復旧する(エレベータ復旧作業には時間がかる)。

なので停電の対策は必要(高層階に住むということはこういう事態を想定済みのはず)。

都市ガスの復旧は、各家ごとにガスメータ側にある「復旧ボタン」を押すこと。

以上、新耐震を前提とした対策。
旧耐震に住んでいることは震度5強でも倒壊死に繋がるので、今時住んではならない。
※:東日本大震災の東京(震度5強)で死亡した3名は、これに該当。


高尾山で滝行

2023年05月06日 | パワー・スピリチュアル

先週の土曜は、奥多摩の御岳山にある御嶽神社で式年祭に参列し(→記事)、一週間後の今日は、高尾山の琵琶滝で滝行(高尾山の薬王院では”水行”(すいぎょう)という)に参加した。

滝行は、2009年のGWに、御岳山で神道式の行を経験したが(→記事)、今回は真言宗式。
もっとも滝行のルーツは修験道なので、御岳山も高尾山も根っこは同じ。

高尾山での水行の場は、琵琶滝と蛇滝、それにケーブル駅前の清滝の3箇所あるが、着替えなどの設備が整っているのは前の2つで、しかもそれぞれ毎月二回水行指導の日がある。

今年3月の高尾山行きで、蛇滝と琵琶滝の行場をチェックし(→)、アプローチのしやすさから琵琶滝での5月6日の水行指導を電話予約しておいた。

いつもは使わない目覚ましで目覚め、いちおう登山の格好(タオルと替え下着を追加)で出発。

琵琶滝の行場に着いて(写真:建物は不動堂)、行者だけが入れる右側(写真外)にある建物に入る。
そこで受付を済ませ、指導料3000円を払い、行衣を借りる。
私と同じく指導を受ける人たちが次々やってきて、20名以上になった。
年齢は10代の若者から私より年上らしき人まで幅広いが、それらの中間の中年が多い。
女性は5名ほど。

まずは服の上に借りた行衣を羽織って、館内で待機。
行衣姿の若い僧侶が来て、彼の説明を聞く。

まずは水行を含む”修行”の意味について。
御岳山では滝行はパワー(験力、神通力)をつける的なニュアンスだったが、真言宗のこちらでは、そういう志向性を否定し、水行のような山中の修行は、非日常性に身を置く経験によって、日常の有り難さ(感謝の心)を認識するためだという。
修行の目的は、苦るしむことではなく、心の在り方の(実感を伴った)変質にあるというわけだ。
仏教では、神通力のようなパワーは方便に過ぎず、それを目的とすることは低レベルの状態に満足する事であり、目指すべきなのは”悟り”という心の在り方の進化にある。

そして修行によって得られる”ご利益”というのは、個人的欲望を満たすことではなく(それは方便)、感謝を新たに感じる事で幸福感が増す事だという。
実際、汗水垂らして山に登って痛感するのは、冷房の効いた部屋でアイスを食べる日常生活のありがたさだ。

修行は身体を痛めつけること・苦しむことが目的でないという言葉を僧侶から聞けて安心した。

さていよいよその行が始まる。
まず塩で口を清め、滝手前の不動堂で、僧侶の読経の中、行衣姿のわれわれが「南無大聖不動明王」という名号を皆で唱える(珍しそうに眺めている登山客の視線を感じながら)。

ここから行者以外立入禁止の行場に入り、下着と行衣だけに着替えて、まず行場のゴミを払い、指導僧の指導の元、バケツに入った塩を両手でつかんで、全身を清め(最後は地面の塩を足で踏んで足の裏も清める)、一人ずつ順次、名号を唱えながらバケツで水をかぶってから、滝の下に進む。

滝の前で、指導されるままに、不動明王たる滝に向って名号を三唱し、滝つぼの石の座に右手をかけて名号を唱え、滝の真下の石の座に座ると、頭から落水を浴びて、いっきに体が冷たくなる。
ここでも指導僧の読経と名号に合わせて、名号を唱えるのだが、水の冷たさと滝の水圧に負けそうになる。
そんな中、あえて両手で脚や胴に滝の霊(冷)水を行き渡らせる。
寒さと水の力に負けまいと、大声で名号を唱えるために、
自分の力を内側から絞り出す。

自分の内に備えている力、それこそが自分自身の真正なパワーである。
その内なるパワーを”仏性”というなら、
滝に打たれてなお力強く名号を唱える瞬間、”即身成仏”を実現しているといえまいか。
これが水行(滝行)の意義だと実感した。
水行は単なる苦行ではなかった。

滝に向って今一度名号を三唱し、指導僧に一礼して、水行を終える。
一部記述を省略したが、おおむね以上のような流れ。

乾いた服に着替え、濡れた行衣は洗濯機で脱水し、元の場所に戻す。

待合室には、自前の行衣、袋入りの塩と一合酒の瓶を持参している人がいた。
尋ねると、今から一人で水行をするという。
水行の作法は先達から教わったという。

薬王院では指導を受けないと、個人での水行は受付ない。
ならば、今回指導を受けた私は、今後は一人で水行してもいいのか。
でも一回の経験では所作は覚えきれない。

指導僧が戻ってきたので、これについて尋ねると、今回の指導は団体用なので、個人で水行をする場合は別の指導をするという。
自立して行をするには3回ほどの指導が必要らしい。

10時半から説明が始まって、11時から水行が始まり、すべて終ったのが13時半頃(参加者数によって時間が異なる)。
なので高尾山に登るのはやめにした(水浴びした後は汗をかきたくないし)。
今日の水行に満足して下山する。

以前紹介した加門七海氏の本(→記事)の中で、修験本宗宗務総長が言うには、山で修行したまま下界(俗世間)に戻ると、”聖なるケガレ”を持ち帰ることになるので、「精進落し」をすべきということだ。
それに従って、高尾山口駅の売店で、缶ビールとつまみを買って、水辺の公園のベンチに腰掛けて精進落しをした。


睡眠という至福

2023年05月04日 | 生活

大谷がヌートバーの食事の誘いを断った理由が、睡眠のためということが話題になっている。

大谷は生活の中で何よりも睡眠を優先している訳だが、
それは体のコンディション調整のためと解釈されている。
その記事は、何かのために睡眠をとる、という発想だが、
もしかしたら大谷は睡眠そのものが目的で、睡眠を何より楽しんでいるのかもしれない。

現代人は、小学校以来ずっと平日の朝は「もっと寝ていたい、でも起きなければ」という、心の葛藤の末に起きている。
この葛藤こそ、睡眠の快と起床の不快を素直に表現している。

睡眠中は至福の時なのだ。
欲求の階層説で有名なA.マズローは、最下層の欲求の中に「睡眠の欲求」を入れ、
睡眠は生理的快であることを認めている。
さらに積極的に睡眠の価値を主張しているのが、
このブログでも紹介したマハリシのヒンズー教の思想である。

ヒンズー教によれば、睡眠中の自我の働きが停止している時こそ、
真我(アートマン)が作動し、自我が知らぬ間に、宇宙神ブラフマンと融合している。
すなわち、睡眠中においてこそ、人格の最高状態が実現されている。

ヒンズー教徒でない我々は、睡眠中は意識の停止状態で、身体的にはどうあれ、
意識経験的には無駄な時間とみなしているが(仏教も睡眠を修行の妨げとしている)、
ヒンズー教では、睡眠中の我こそ真の我である、というのだ。

大谷は、覚醒時に経験できない自分の最高状態を味わっているといえる。

大谷ほどでないが、私自身も、目覚まし時計で起こされない生活を実現してきた。
言い換えれば、シフトなどで睡眠リズムが崩される仕事は自分には無理で、
そういう過酷な勤務を人に求める社会はなんとかならないかと思っている。

本当は休日には山に行きたいのだが、不自然に早起きすることが嫌なので、
行くにしてもそうしないで済む近場の山に限定されている。
すなわち山という趣味よりも睡眠を優先している。

修験道の修行に憧れがあり、強歩や断食の行ならやってみたいとも思うが、
千日回峰行にあるような”不眠の行”だけは全くやりたくない(何も鍛えられないから)。

睡眠に幸せを感じているなら、入眠過程自体が幸せへの行程であり、
自然な目覚めで起きる時は充実感・満足感を伴う。
幸せの基準を睡眠におけば、これだけで幸せになれる。

こういう幸福な睡眠は、連休の今だからこそ、実体験できる。
そう、連休中は、あくせくして出かけなくても、きちんと眠るだけでもいいのだ。


5月3日に帰京

2023年05月03日 | 歳時

GWはカレンダー通りで、2日に職場で定例会議(昨年までなら遠隔だったが今は対面)があるため、2日の朝に愛知に戻り、会議と事務処理を済ませ、日帰りではもったいないのであえて名古屋宅に一泊して、5月3日に帰京する。

5月3日からはカレンダー上でも3連休で、いわば GWのど真ん中で最も混む時期(なのでジパング倶楽部の3割引も使えない)。

朝のテレビで、東名高速下り車線の大渋滞の中継を見て、これなら上りの新幹線はたいして混まないと予測。
といっても、早いうちに帰京の途につくべく、朝食も摂らずに名古屋宅を出る。

休日なのに名古屋駅に向かう地下鉄も満員で、名古屋駅に行くとさらにでかい荷物を持った人たちでごった返している。
新幹線の改札まではいつも以上の混み具合だったが、いざ新幹線の上りホームの自由席エリア(1-3号車)に進むと、行列はほとんどない。
実際、10時前ののぞみ(東京行き)に乗車すると、自由席はいつもと同じくらいの乗車率で、難なく進行方向左側の2人席を1人で確保(真横の3人席は空席)できた。
一方4号車以降の指定席は、入線時に視認したところ、グリーン車を除いて満席だった。
すなわち、GWに限って新幹線を使うような人たちは、”自由席”というリスクを取りたがらないようだ。

東京駅に着くと、ホームは下りの新幹線に乗ろうとする人で溢れている。

結局、日本での交通混雑って、首都圏の人たちの動向によるものなのだ。

人をかき分けて新幹線の改札を出て、まだ正午前なので、川口まで電車に乗って GWに予定していた買い物、すなわち、これからの時期の服を買う。
今までは L.L.ビーンが私の基本選択肢だったが、最近は同じアウトドアテイストであるワークマンプラスに移行している。
前者がいつも変わり映えしないラインアップなのに対し(もう買うものがない)、後者は新鮮味のある、それでいて機能的でかつ安価な製品を出している(ユニクロよりも安い)。
後者の唯一の欠点は、家から近い都心に店舗がないこと。

というわけで、GW中唯一の仕事と最後の移動と買い物を済ませたので、これから残りの日々はのんびり過ごすだけとなった。