今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

練馬・石神井を歩く:追記

2022年08月31日 | 東京周辺

今日は8月の最終日。
小学生的には”夏休みの最終日”なので、平日ながら私も8月の最後を堪能するため、図書館での仕事(論文執筆)をせずに、かといって遠出や山はきついので、軽く都内を歩くことにした。

行き先は練馬区・石神井(しゃくじい)
そこには、石神井城址があり、区の郷土博物館があり、ちょっと離れて”都内で石仏といえばここ!”という長命寺がある。
すなわち、ここんとこ”マイブーム”になっている郷土博物館巡りと、もっと長期的に(=ダラダラと)続けているお寺・仏像巡りと山城巡りの三つを一度に満たすのだ。
※:敬愛する”みうらじゅん”氏の造語。氏の人生を知れば、過去の流行語で終らせずに使い続けたくなる→みうらじゅんになれなかった


まずは長命寺。
この寺は「東高野山」を山号にしているように、東の高野と称するほどの真言宗の名刹で、閻魔像などの石仏が有名で、実は高校時代に訪れている(その頃からお寺巡りをしていた)。
この付近を高野台(たかのだい)というが、もちろんこの寺が地名の元だから本来は「こうやだい」というべきなのだが、すでに足立区に高野台(こうやだい)があったため、やむなく訓読みにしたという(Wikiによる)。

西武池袋線(乗るのは有楽町線)の石神井公園の1つ手前の練馬高野台駅で降り、まずは腹ごしらえの店を探す。
本来なら、長命寺の石神井側にある「長命寺そば」を食べるべきだが、道順と時間帯が合わないため、駅近くの店を探す。
あいにく(私の昼食腹に丁度いい)日本そばの店がなく、かといってサイゼリアでパスタというのも寺に行く前の気分に合わず、バーミアンで中華丼を食べることにした(五目焼きそばはカロリーが高いので同じトッピングの丼にした)。
初めて入ったバーミアンは、ロボットが料理を運んでいるので、楽しみにしていたら、私が注文した中華丼は人間が運んできた。
気を取り直して、長命寺に行く。

長命寺は東門と南門があり、境内には様々な如来・菩薩・明王の石仏が並んでいる。
観音堂の奥に十王が並んでいて、一番奥に古く有名な閻魔像がある。
ただこれら江戸時代の石仏は作りが素朴すぎて被写体とするにはイマイチ(南大門の四天王も)。
むしろ最近の勢至菩薩の作りが良かった(写真)。


長命寺から一本道を進んで(「長命寺そば」の店の前を通過し)石神井公園駅に出てそれを通り越して石神井池(人工池)のある公園に入る。
池にはボートが浮かんでいて楽しそうだが、外国にも一人で行ける私なのに公園のボートを一人で乗る勇気がない。

池の南側を進んで、池淵史跡公園に入り、まずは庚申塔や古民家を見る。
この古民家を見て、小学校2年の時、学校の遠足で練馬に芋掘りに来た記憶が蘇った(このような民家があった所だった)。
練馬は豊島園という洒落た遊園地もあったが、全体的には大根を中心とする農地のイメージが強かった。


この公園の一角に練馬区の郷土博物館である「石神井ふるさと文化館」がある。
建物は新しく、2階に展示室があり入場無料(特別展がある時は有料らしい)。

練馬区は、石神井川と白子川が東西に流れいてることもあり、この二つの川に沿って旧石器時代も縄文時代(草創期から)も遺跡の数が今まで巡った市区より随分多い。
ただ古墳が一つもなく、古代の情報は乏しい。
中世は、石神井に城を構えた秩父平氏系の豊島氏の情報に期待したが、展示はほとんどなかった。
というのも近世からの練馬大根についての展示スペースが大半を占めていたから。
確かに、23区においても、練馬といえば大根で、かように都内でも名産として名を馳せている物がある(台東区谷中の生姜、江戸川区小松川の小松菜、そして目黒のサンマ…)。
練馬の大根は、土壌の関係で尻細大根というタクアンに適した大根の産地で、タクアン漬けも名物となったという。

さらに昭和に入って、練馬の大泉(学園)に戦前に映画スタジオ、戦後に東映動画(現・東映アニメーション)ができて映画とアニメの聖地になり、手塚治虫、石森章太郎、松本零士などの仕事場もあった。
三宝寺池の向こうの分室には、区内に居を構えた檀一雄と五味康祐の展示室がある。
確かに新興住宅地となった練馬区に一時的に縁を結んだ有名人は実際多いが、(その有名人リストを見ると)新宿区における夏目漱石のような、その地で生まれ育ち、その地で死んだ”地元の”有名人はいない。

ミュージアムショップでは、私はローカルな民話に目がないので『ねりまの昔ばなし』(410円)を迷わず買った(この本によると、練馬大根の元となった種は尾張から持ってきたものという)


ここから三宝寺池の南側にある石神井城址を訪問する。
中世を通して豊島氏の居城であったが、戦国無双の太田道灌に攻められて落城した。
名所旧跡としての碑はあるが、縄張内は無断立入禁止の柵に覆われてふらりと来たのでは入れない(許可が必要)。
それでも柵外から土塁と空堀は確認できた(写真)。
隣接する地元の鎮守・石神井氷川神社を参拝し(摂社には御嶽・三峰・榛名・大山阿夫利など山岳系の神が集められている)。


さらに三宝寺池をぐるりと回って、落城の”悲話”にまつわる姫塚・殿塚を見て、文化公園という敷地に入るとアメダス「練馬」の露場※(ろじょう)がある(写真)。
※:条件に即した気象観測装置がセットされている屋外の場所。そういえば”アメダス露場巡り”も趣味にしていた。
ここの露場も(北の丸公園内の「東京」と同じく)地面は芝生になって、周囲は林があり、コンクリ・アスファルトの都会の暑さは免れている。
ただし「東京」よりは気温が高めに出る分、都民が感じる暑さに近い。
この向かいにふるさと文化館の分室がある。


以上、石神井公園内の史跡・施設をくまなく巡回した
※:公園の南隣りにある三宝寺・道場寺は「石神井川を歩く」の時に訪れた
結果的に、郷土博物館、仏像、山城、アメダス露場の4つの巡回趣味を満たした。
これに満足して、石神井公園駅までの一本道を進む。

途中スーパーで大根をチェックしたが、地元産ではなかった。
駅前の観光案内所(都区内の駅に観光案内所があるのは珍しい)には、地元産の物品もあり、地元のマスカットブドウが入っている大福を土産に買った(できたら練馬大根、あるいはそれを使った沢庵漬けもおいて欲しい)。
こういう地元産品を買えることで、訪れた甲斐が高まる。
というわけで、8月最後の日を充実して過ごせた。

今夜は、手元にある豊島氏と照姫伝説の(『昔ばなし』も加えた)本を読むことにする。


追記:上の書を読んだら、史実では石神井落城後も城主・豊島泰経は転戦して道潅と戦い続け、最後は小机城(横浜市)で負けた。なので落城時の三宝寺池への入水の悲話は伝説。同じく入水したという娘の”照姫”は明治頃の『照日の松』という創作上の人物。それがいつのまにか伝説の一つとなり(『昔ばなし』にも集録)、今では地元で「照姫祭り」も開催されているという。そういうわけで姫塚・殿塚ともに史跡ではない(かくも人は”物語”を欲する)。江戸サイド(神田川流域)は太田道灌贔屓だが、練馬を含めた豊島郡(石神井川流域:練馬区に「豊島園」があったのもこの理由)は豊島氏贔屓が今も続いているわけだ。


気候変動だったら

2022年08月30日 | お天気

昨今の世界各地の気象状態は、「気候変動」と言われている現象(1年現象の”異常気象”とは区別すべき)だったら恐ろしい。
※:専門家の間では「温暖化」ではなくこの表現が使われている。

今年の夏は特に欧州・北米・中国では降水量が減少し、渇水状態になっている。
一方でパキスタン・アフガニスタンでは国土広く洪水に見舞われている。

これらが単発の異常気象ではなく、持続的な「気候変動」だとしたら、世界の降水分布が変動することを意味する。
地球表面の水収支は一定なので、どこかが減れば、別のところが増える。
日本は降水量が増えているので、後者に属す。

全てを破壊する水圧の力は恐ろしいが、事前に逃げればいいのでなんとかなる。
生物の生存にとっては渇水の方が深刻。
ヨーロッパやアメリカ、中国が気候変動して乾燥地帯になれば、文明の交代に等しい世界史的な出来事となろう。

その代わりに砂漠地帯が熱帯雨林化し、寒冷地が温帯化するかもしれない(十〜百年スケールだと温暖化しているが、千〜万年スケールだと氷期に向かって寒冷化する)。

明確な国境などなかった近代以前は、気候変動が起きれば適地を求めて民族レベルで移動した。
南極以外の地上が全て国土として管理されている現代、戦争の理由が増えるかもしれない。


旅をしなかった8月

2022年08月28日 | 生活

今朝、沖縄旅行に行く弟一家を見送った。

実は、私も母を連れて奥軽井沢の温泉宿に泊まりに行く予定だった。
でも母が大浴場での歩行に不安を示したので、数日前にキャンセルし、結局昨年に続いて2年連続のキャンセルとなった。
そして8月の泊まり旅もなくなった。

もちろん、例年、8月は論文執筆期間にしており、混んで高い時期の旅は避けている。
18きっぷを使った名古屋との行き来も8月は1往復だけ。

また、自分の脚で可能な低山は真夏は暑いので行かない。

日帰りで近場の街歩き(しかも都内、23区内)をやっただけ。
むしろ、近場にも訪れる価値のある場所を見つけて喜んでいる。

涼しくなったら、鉄道での遠出をしてみたい。


郷土博物館巡り:豊島・新宿・港

2022年08月27日 | 東京周辺

最近、ちょっと近場を歩きたいがこれといった行き先が思い当たらない場合にいいと思っているのが、郷土博物館(個々の名称は色々)。

訪問先について自治体規模の地理歴史を学べ、訪問先周辺の基礎知識を得るのに丁度いい。

館内でずっと立ちづくめというのが難点だが、雨天でもマイペースで見学でき、しかも料金は安い(無料のところもある)。

郷土博物館が行き先となるので、まずは東京の近場から固めたいが、地元文京区を含め、隣接する区の北区・台東区・荒川区は訪問済み(他に中野区、杉並区、江東区、足立区も)。
南に隣接する千代田区は、東京の筆頭の区なのに、郷土博物館が無い!
北西隣の豊島区と南西隣の新宿区にはちゃんとあり、千代田区のさらに南の港区にもある。


そこで都心部の山手線内(江戸府内)からということで、豊島・新宿・港の3区の郷土博物館を、土曜の本日、一気に”はしご”する(池袋(豊島)・新宿とくれば、3つ目は渋谷になり、しかも渋谷区の郷土博物館は山手線内にあるのだが、今回は渋谷区より港区を優先する)。

山手線内を”はしご”するなら、その内側を縦横に走っている東京メトロの24時間券が便利(自販機で購入できる)。
購入から24時間(日をまたいでよい)以内なら、600円でメトロ管内が自由に乗り降りできる。
メトロに乗る区間は大抵200円だから、3回以上乗れば元が取れる。

まず(1回目)は南北線から有楽町線に乗り換えて池袋に行く(丸の内線乗り換えの方が池袋には近いが、出口が博物館から遠い)。

豊島区を最初にしたのは、池袋なら昼食を摂りやすいから(他の2つは繁華街でない)。
といっても食べる店の多くは開くのが11時から。
それより早いと、チェーン店ばかりとなり、それではつまらない。
11時になるまで少し待って、地元の中華店で私定番の「五目焼きそば」を食べる(650円と安め)。


豊島区郷土資料館で、”資料館”と名のつくのは建物的に独立した建物である”博物館”よりランクが落ちて、ビルの1フロアを意味する(文京区・荒川区も同じ)。
その代わり入場無料。

展示は豊島区の地層から始まり、区内で確認された地層(関東ローム層)が再現されている。
驚いたことに、姶良カルデラなどの南九州からの噴石物の層が複数ある。
それと旧石器時代の出土品もあり、府中に負けていない。
縄文時代は、我が家近くの豊島区駒込にも縄文遺跡があり、台地上よりはむしろ豊島区のような台地末端部の方が海に近くて生活しやすかったろう。
ところが、古代・中世になると、とんと情報がなくなり、太田道灌が戦さに走り回った程度。
そして江戸時代になると、町屋と武家屋敷が広がって途端に賑やかになる。

とりわけ染井を中心とした巣鴨・駒込両村は植木・園芸の一大中心地となり、他国からも見物客がくるほど。
職人の技術も高く、この地からソメイヨシノが生まれた。
そして今でもJR駒込駅はツツジの名所(ツツジはこの地の名物だった)。
かくも、この地は、植物とりわけ花を愛でる人の心が開花した所。

一方、豊島区西部の長崎には、戦前にアトリエ村ができて若い芸術家が集まったという(その模型がある)。
戦後の「トキワ荘」もその名残かもしれない。
以上、ワンフロアなので面積的には小さいが、近所ということもあり、歴史散歩と民話の本を買った。


ここから(2つ目は)副都心線・丸の内線と乗り継いで四谷三丁目で降り、新宿区歴史博物館に行く。
ここは立派な単独の建物で(写真)、庭もある。
それだけに入館料を払い、荷物をロッカーに入れる。

まず地層は豊島区よりは粗い再現。
その代わり、旧跡時代のナウマン象の骨、縄文は草創期の土器が区内に出土している。
これが新宿区のアドバンテージ。
ただ、古代・中世は板碑程度しかなく、近世に入って甲州街道の内藤新宿ができてやっと賑わいだすものの、まだ江戸府内からの”郊外”扱いだった。

新宿が東京の中心部に入るのは明治以降で、坪内逍遥以降、多くの文学者が好んでこの地に住み着いた。
中でも新宿生まれ、新宿育ちで、新宿で死んだ夏目漱石は、新宿区第一の歴史的著名人。
そして展示は、戦後の闇市から、酒場としての新宿、すなわち東京を代表する酒場文化の街(私も若い時にその一端に触れたことがある)という顔で終わる。
かくして、新宿の繁栄は、ついに都庁をも引き寄せて現在進行形なのだ。
さすが新宿区、豊島区との差を見せつけられた。
受付で、区の地域ごとの観光地図(無料)をもらう。


3つ目は四谷三丁目の駅から四谷で南北線に乗り換え白金台で降りる。
地上に上がると目の前に文化財的価値のありそうな戦前のビルがあり、なんとそこが港区郷土歴史館
入館時は3時になっていたので、よくある4時に閉館だと時間が足りるか心配したのだが、なんと土曜は8時までという。
建物自体が歴史の証人の価値を持っている。
入館料300円を払い、まずは中央ホール(写真)に見入る(映画のロケに使えそう)。
常設展は上階の小さな部屋ごとに分けられている。

常設展は東京湾の説明から始まる。
港区のアイデンティティは、まさに港、具体的には金杉浦・本芝浦(芝浜)の漁港にあった。
その近くに貝塚を含んだ遺跡があり、縄文時代から弥生時代さらには江戸時代までの住居跡が重なっている。
多くの川が入り込む東京湾は、栄養豊かで浅瀬のため、大昔から漁労に適していた。
きっと多摩の台地上の縄文人より食生活は豊かだったに違いない。

ただ港区も古代・中世は情報がなく、徳川家康の入府後、増上寺や武家屋敷ができて賑やかになる。
幕末維新になるとまず福沢諭吉が慶應義塾を作り、明治になって新橋に鉄道の駅が出来、東京芝浦電気(東芝)や日本電気(NEC)、森永製菓が港区に誕生した。

この博物館になった建物は、旧公衆衛生院で。昭和13年の建築(写真)。
展示室になっているのは元研究室や教室だった所(大きな講堂はそのまま残っている)。
建物は古いが、展示の解説・補足説明などはタッチパネルの液晶画面を多用していて、設備は立派。

ミュージアムショップでは、オリジナルグッズや菓子があり、博物館紀要の他に『港区の歴史』というシリーズ本が分冊になって一冊3000円で売っている(全巻揃えると万を越す)。
私はそこまでして港区に詳しくなる気はないので、買うのを諦めたが、図書館にあればぜひ読みたい。
すなわち私の期待水準を超えた品揃えなのだ。

これで帰る(やはり時間的にも体力的にも3ヶ所が限度)。
4つ目の帰途は途中で千代田線に乗り換えて、立ち寄る所がある西日暮里まで乗った(正規運賃は250円)。


以上、3つの区の郷土博物館をまわったが、設備・内容の充実度は、まわった逆順だった。
とにかく港区はすごい(建物も、内容も、サービスも)。

実は”都心3区”の残りの千代田区と中央区は、民間の博物館に任せて区立の博物館を設けていない。
その点、港区は民間の博物館もたくさん持ちながら、自前の立派な博物館を運営している姿勢は素晴らしい。

ただ、豊島区にはソメイヨシノ、新宿区は夏目漱石という全国レベルの郷土自慢があるが、港区には何があるだろう(いや、”東京都港区”であること、それが自慢になろう)。


祝、白河越え!

2022年08月22日 | 時事

自分が目の黒いうちにお目にかかりたい事が3つあった。

1つは、旧大洋ホエールズ〜現横浜DeNAベイスターズのリーグ優勝。
2つは、自民党以外の政権。
これら2つはお目にかかれた。

3つ目は、高校野球甲子園大会の優勝旗の白河の関(福島県)越え。
この3つ目がなかなかお目にかかれず、馬齢を重ねていく身に不安を感じていたが、本日やっとその場面にお目にかかる事ができた。

その歴史的偉業をやり遂げるのにふさわしいのは、過去に決勝戦で苦杯をなめた宮城県代表の仙台育英

決勝相手の下関国際は、優勝候補筆頭の大阪桐蔭を破り、さらに選抜準優勝の近江も破った勢いがあり、相手として不足はない。

それまでの試合は1つも見ていないが、力は仙台育英の方が上だと思っていたので、この歴史的瞬間をテレビで観ようと、調布行きを昨日に済ませ、今日は満を持して自宅に待機していた。
昼前に、祝杯用のビールの小缶も買って。

試合は、ご存知の通り、大差がついて安心して観ていられた。

勝利が決まって選手たちが校歌を歌っている間、テレビの前の私も思わず起立していた。
その画面にNHKのニュース速報が流れ、仙台育英が東北勢として初めて優勝したと報じた。

そして用意していた缶ビールを空けた。

これで思い残す事がなくなった、ことになる。


調布に行く:深大寺と博物館

2022年08月21日 | 東京周辺

昨日は府中に行ったので、今日は調布に行く。

私の頭の中では調布と府中は(位置的にも語呂的にも)ペアになっているので、片方に行くともう一方にも行きたくなる。
そして調布といえば深大寺だ。

昨年わが家に吉祥天をお迎えして以来、”吉祥天巡り”をしているのだが、深大寺門前のそば店内に吉祥天の祠があるのをネットで知り、行きたいと思っていた。
さらに先日、深川に行った折、こだわる地元メシは「深大寺そば」と書いて以来、無性に深大寺そばが食べくなった。

というわけで、昨日に続いて曇天の外出日和の日曜、吉祥天とそばの用事で深大寺に行き、昨日と同じ目的で調布市立の博物館にも行く(そば店と博物館は月曜休みなので)。


京王線の調布で降り、北口のバスターミナル(12番)で「深大寺」行きのバスに乗る。
深大寺行きのバスは、確かに深大寺の門前まで行くが、神代植物公園を大回りするので、大回りする手前の「深大寺小学校」が深大寺の参道入り口でもあり、ここで降りた方が早く寺に到着する(バスの車内放送でもそう勧める)。
それだけでなく、「深大寺小学校」で降りるなら、深大寺行きだけでなく、三鷹駅・吉祥寺駅・杏林大学病院のいずれの路線も通るので、乗れるバスの選択肢が格段に増える(手前で降りてもバス運賃は同じ)。

深大寺の門前に降り立つ。
日曜昼前で、さすがに人出も多い。
正午前なので空いているうちに深大寺そばを食べよう。
入る店は決まっていて、その名も「門前」に入る。
この店内に吉祥天が祀ってあるから。

そばは、とろろか、きのこか、天ぷらか迷ったが、「福満膳」だとそれらが三つの小鉢で出るのでそれにした(1420円)。
※:福満は深大寺を開いた満功上人の父で渡来人。恋仲となった地元女性との間を相手の両親に妨害されたので、水神・深沙(じんじゃ)大王に祈願して妨害を除去し、満功上人が誕生できたという。王が深大寺の名の元。

そばを待っている間に、店の奥にある吉祥天の祠を拝みにいく(写真)。
そもそもなんで吉祥天を祀っているのか疑問だったが、祠の説明札(写真左)を読むと、吉祥天は徳円の神なので、福満と通じるというわけだ。
祠の中は吉祥天のお札があるだけで、残念ながら像はない。
それでも、賽銭を入れ、吉祥天の手印(ムドラー)を結び、その真言(マントラ)を唱えた。

吉祥天の参拝を済ませ、そばも食べた(小鉢が3つあるので、そば湯も3杯飲めた)ので、深大寺に来た目的は果たした。
もちろん、せっかくなので目の前のお寺の境内に入り、本堂・元三大師(降魔札を購入)・開山堂・国宝白鳳仏・深沙大王堂も参拝(茅葺の山門は修復中)。


残った訪問先は調布の博物館だが、時間がたっぷりあって歩き足りないので、この周囲の寺社にも足を延ばしたい。
そのためにバス停近くの観光案内所に行くと、手前に積んである深大寺周辺の拡大地図ではなく、しまってあった調布市全体の観光地図(バスの路線図もある)を渡してくれた。

それを頼りに、まずは深大寺一帯の湧水の神様を祀る青渭(あおい)神社に行く。
神社の祭神は古代からの”水神”のままで、無理に皇祖神に交代されずに本来の信仰が保たれている。
※:先ほどの吉祥天もこの水神も「記紀」に載っていない神だが、人々がボトムアップ的に神認定すれば神となるのが本来の神道。

深大寺そばはこの豊かな湧水のおかげで、江戸時代から評判で(ただし門前に蕎麦屋が並んだのは昭和30年代からで、今では17軒に増えている)、しかも蕎麦自体、現在でも深大寺城址の敷地で栽培されている。

青渭神社の入り口には、巨大なケヤキの神木がある。
樹齢6−700年という人間ではあり得ない生命力で、幹の一部は枯れていながら今でも豊かな葉を茂らせている。
このような超絶的な存在者こそ、本来的な神道における”神”である。
この神威に敬服しながらも、老樹をいたわる気持ちで、幹に両手をかざして気の交流をした。


ここから坂を下って、満功上人が両親・福満夫婦のために創建した祇園寺に行く。
祇園寺は、朝鮮風の2体の石像が入口で出迎えてくれる(写真)。
背後の墓地に満功上人の子孫の墓がある。

さらに満功上人の祖父母を祀る虎狛神社にも立ち寄り、佐須のバス亭で(頻繁にくる)バスに乗って調布北口に戻る。


ここから京王相模原線で1駅先の京王多摩川で降り、目指す博物館に行く。

調布市郷土博物館昨日の府中市立博物館とは比べようもないが、市区レベルの郷土博物館としては普通の規模(入館無料)。
入り口には、新選組局長・近藤勇の銅像の原像が展示されている。
二階の展示室にも、近藤勇の生家が敷地ごとに精巧な模型となっている(写真:手前の白い札がある所は産湯に使った井戸で、これだけは生家跡に現存する)。
かように近藤勇は調布第一の歴史的人物となっている(日野市では土方歳三が相当)。

やはりここも旧石器時代からの出土品や縄文土器が並ぶ。
お隣の市に国府が置かれた頃、こちらは租庸調の税のうち調としてを納めていたという。
その布は多摩川の流れにさらして染色した。
万葉集にある「多摩川にさらす手作りさらさらに 何ぞこの児のここだかなしき」の情景の地だ。
しかもこちらの深大寺は、古さこそ国府の「多磨寺」に一歩譲るが、今でも健在で、国宝の白鳳仏もあるように、歴史が続いているのは調布の方だ。


京王多摩川駅の反対側には角川大映スタジオがあり、入り口には2体の”大魔神”の像(埴輪顔と忿怒顔)があって思わず近寄りたくなるが、スタジオは一般公開していない(公開すれば新たな名所になる)。

電車で調布に戻り、あえて改札を出て、まずは駅と同じ建物にある成城石井に入るも、目的の物がない。
駅前の観光案内所に行って「深大寺ビールはどこで売っていますか」と尋ねると、「たぶん、パルコの地下にあると思います」との返事。
そう、調布土産に地ビール「深大寺ビール」を買って帰りたかったのだ。

パルコ地下の店に深大寺ビールがあり、2種類買った。
深大寺ビールは、深大寺の門前の店でも売っているが、土産物価格なのでそこでは買わずに、調布駅前で探したのだ。
駅前では門前の約6割の値段で買えた。


府中の博物館見学

2022年08月20日 | 東京周辺

千葉県立博物館の充実ぶりに感動して以来(→記事)、小旅行で訪れる地の県レベルの博物館に行って、先ずはその県全体の地理・歴史を把握したいと思った。

早速足元の東京から始めたい。
まず頭に浮かぶのは上野にある東京国立博物館(東博)だが、東京と名がつくが国立だけに東京がテーマではない(来日した人が見学するのにふさわしい)。
東京がテーマなら、両国にある江戸東京博物館だが、残念ながら今は改築のため長期閉館中。

そこで対象を市区レベルに落としてみると、23区にそれぞれある区立の施設よりも、武蔵国(東京、川﨑・横浜、さいたま新都心を含む)の国府があった府中市の博物館が充実しているようだ。

確かに江戸時代以前は、律令時代から江戸よりも府中が格上だった。
その名残は現代にも引き継がれ、学生時代に接した府中出身者のプライドの高さは23区何ずるものぞという感じだった。

といっても区部(江戸・東京府)側から見ると、府中はあくまで”都下・多摩”にある市の1つ(隣の調布と同格)という認識だが、私自身、下町(台地下)よりも武蔵野(台地上)の方が好きなので、貧弱な区立博物館よりは、立派な府中市立の博物館を先に訪れたい。


とうわけで、強い日射のない曇天という外出日和の今日、京王線の府中駅に降り立ち、
先ずは、地元の蕎麦屋で軽く蕎麦を食べる(私にとって蕎麦以外は昼食として重すぎるので)。

ここから目指す博物館までは、距離があって最寄駅でもないのだが、大国魂神社の周囲に国府跡の史跡ができたので、武蔵国府に敬意を表して、それらから見学したい。

大国魂神社の東脇に最近オープンした「武蔵国府跡」(平成21年に国史跡に指定)なる所があり、狭いながらも整備された施設を見学できる。

ここから神社の参道を横切った先に、無料の「ふるさと府中歴史館」があり、先ずはそこで府中の歴史を概観する。
もちろん府中の鎮守たる大国魂神社にも参拝し、空いているので、本殿周囲の摂社群も見て回る。
境内には結婚式場があり、ちょうどウエディングドレス姿の花嫁がいて、記念写真を撮っていた。
教会でもそうだが、こういう慶事に出会(でくわ)すのも嬉しいものだ。


神社の西側の参道に出ると、府中街道の向かいに「国司館と家康御殿史跡広場」があり、国司の拝礼の場面がミニチュアで再現されている(写真:昼の間だけ公開)。
しかも徳川家康が、その跡地を御殿として使い、死後の遺体を久能山から日光に移送するときもここに滞在し法要を営んだという。

府中街道の御殿坂を南下して、大国魂神社に隣接する妙光院(真言宗:頭部の彫刻が詳細な十一面観音の石仏があった)と安養寺(天台宗)に立ち寄る。


坂を下ったところで東京競馬場の大きな施設の脇を西に入って、緑道に沿って多摩川につながる平地を進むと、府中市郷土の森という広い公園に達し、そこにプラネタリウムを併設している立派な郷土の森博物館がある。
こんな立派な博物館は、区部にも八王子にもない。

市外者として300円払って早速常設展を見る。
時代順の展示で、最初はなんと旧石器時代。
府中には2万3千年以上前から人が住んでいて、旧石器の矢じり(ナウマン象などを狩ったらしい)がたくさん出土し、それらがずらりと展示されている。
もちろんそれに続く縄文時代の土器や土偶(写真)も展示されている。
確かに西多摩にあった私の高校の近くでも、民家の畑に縄文中期の土器の破片が地面に露出していてつかみ取り状態で放置されていた。

そして国府が置かれた古代。
国府跡の発掘が進んでいることもあって、古代の国府(国衙)付近が大きなジオラマに再現されている。
国府の近くには「多磨寺」という東京最古の寺があったという。
※:”多磨”と書く地名は今でも府中市内にあり、そこに都立の”多磨霊園”があり、その近くに西武多摩川線の”多磨駅”がある。

中世は、なんといっても新田義貞と鎌倉幕府軍が戦った”分倍河原の戦い”がハイライト(短編動画になっている)。
この戦いで勝利をおさめた新田軍はさらに進軍して、鎌倉を攻め落とす。

小田原北条氏に代わって関東に入った徳川家康は、ここ府中に御殿を作る。
そして五街道の1つとして甲州街道が整備されると、府中は甲州街道の宿場町となり、家康の御殿跡もあって江戸からの観光地ともなる。
その近世の宿場町としての府も精巧なジオラマに再現されている。

この後は、江戸・東京の郊外の位置(野菜など供給)になっていき、京王線の開通で東京近郊の住宅地となっていく(地元の人は京王線に乗って「東京に行く」と言っていた)。

歴史巡りの次の間は、自然がテーマだが、武蔵野台地から二段の崖線で多摩川に降りる地形と、多摩川中流の限られた生物でおしまい(市レベルの博物館だとこれが限界だろう)。
なので見学時間は1時間強。
ただし、館外の森には、市内の古民家や古い建物が移築されていてそれらの内部も見学できる。


園外の公園には観光物産館があり、地元の野菜などを売っていて、私は府中の地酒「國府鶴 中屋久兵衛」を買った。

物産館の前にバス停があり、30分おきに分倍河原駅(さら府中駅)行きに乗れる。
幸い5分ほど待ってバスに乗れ、分倍河原駅に向かった。

次回の府中は、この分倍河原の西側に広がる古墳群を巡ってみたい(高安寺、善明寺、浅間山などは訪問済み)


深川を歩く

2022年08月16日 | 東京周辺

このくそ暑い中、江東区・深川の寺巡りに行った(もちろん日傘を差して)。
というのも、本日16日にそこで閻魔様が開帳されるから。
今のうちから閻魔様に顔をつないでおきたいって?


まず深川の南側、地下鉄の「門前仲町(ちょう)※」から地上に上がる。
※:江戸府内の「町」は「ちょう」と発音。「まち」は郊外。
ここは富岡八幡(深川八幡)と深川不動の門前町(まち)で、今でも商店街を形成している。

そこでまずは「てんや」に入って、天丼ではなく”天ぷら蕎麦”を食べる。
深川なら「深川めし」だろ!と突っ込まれる所だが、まだ10時台で飯屋は開店前だし、東京の駅弁として18きっぱーの時食べたので、あまりこだわりはない(東京の地元食でこだわるのは調布の「深大寺そば」)。


富岡八幡には故あって行かず、橋と通りの名として有名な永代寺を軽く参詣して、参道先の深川不動に行く。
※:世間をにぎわした不吉な殺人事件があったので。
境内に入ってすぐ左の深川龍神に参拝し、靴を脱いで本堂に入る。
中では護摩行の最中で、椅子に坐って護摩行を眺める。
1階には大きな不動明王、2階には阿弥陀仏その他、3階は閉まっていて、エレベータで行く4階には大日如来を拝める。

前回、まだ真言宗に違和感があった頃に訪れた時は、堂内の仏像のオンパレードに違和感があったが、現在はその逆になっているので、2階のカラフルな吉祥天に対しても女神巡りができたと喜んだ。
※2012年8月15日に富岡八幡とともに訪れている。今回、ほぼぴったり10年ぶりの再訪だった。10年前はなぜか記事にしていない。
また境内には吒枳尼天(だきにてん:女神ではなく、恐ろしい女夜叉)を祀った出世稲荷社(神仏習合)があり、祠前で太鼓を叩いて祈る。

吒枳尼天のお札か御影が欲しかったが、願掛けの札と狐の人形しか売ってなかった(私は神仏に対して無心に祈り、個人的な願掛けはしない)
ここ深川不動は成田山新勝寺の東京別院であり、本尊の御影は成田山のがほしいので買わなかった。


ここから清澄通りに出て北上し、臨済宗の陽岳寺は狭い玄関前の空間しか入れないが、伏見義民の碑に参拝し、臨済宗には珍しい僧形の石仏(地蔵・達磨大師ではない)の写真を撮った。
※:飢饉の天明年間、京都の伏見奉行の悪政を命を賭して直訴するため、3名の義民が江戸に入り、直訴には成功したが、1名は奉行側の追手に殺され、2名は獄死した。陽岳寺は彼らをかくまい、彼らの墓もある。

ここから北に深川の寺町が始まる。


陽岳寺の北隣が、本日の目的地、法乗院(真言宗)。
ここは「深川えんま堂」とも言われるように大きな閻魔像があるのだが、開帳日が1・16日に限られている。
閻魔堂の扉は開いているが、参拝者が正面のガラス戸を開いて大きな閻魔像を拝む。

実はこの寺の目的はもう1つあって、珍しいことに孔雀明王を拝めるのだ。
孔雀明王は、修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)にパワーを授けた女尊(羽を広げた孔雀の上に座る)ということで、修験道と女神の二重の目的で拝観したかった。

本堂直下の半地下で扉を参拝者が開ける堂内には、左右に地獄絵図があり(こういうのって浄土宗的)、正面に阿弥陀如来、向かって右に千手観音、左に孔雀明王がある(阿弥陀三尊の組合せなら観音と勢至菩薩が普通)。
対面した孔雀明王は、造形は中性的ながらも彩色が美しい(写真)。
私は、毎日自室の尊像に対してやっているように、孔雀明王の印を組み、真言(オン・マユラギランティ・ソワカ)を唱える。

この寺の北隣は深川七福神の福禄寿を祀ってある心行寺(浄土宗)。


江東区南部を縦横に走っている運河の1つ仙台堀川を越え、浄心寺(日蓮宗)の境内を通り抜けて、公園で一休みし、寺町の風情が漂う中をさらに進んで、長専院(浄土宗)で出世不動を拝み(今回は出世の御利益がありそう、その正面の正覚院(浄土宗)でガラス越しに本堂の阿弥陀三尊を拝み、深川散策のメインストリートといえる「資料館通り」に出る。
※:浄土宗と不動明王の組合せは宗派的には不整合だが、新宿の太宗寺(浄土宗)にも不動堂があって、それは運搬中の不動様がその寺を選んだためという。

この通りには「深川めし」の店や土産物の店があり、散策者が多い。
正面の霊巖寺(浄土宗)は、江戸六地蔵の1つでもあり、松平定信の立派な墓がある。
寺が経営する幼稚園の園児が作った等身大の「かかし」が通りに飾られている(夏の寺にふさわしく「お化け」かと思った)。


通り沿いに東に進むと、ビルの一角に深川江戸資料館がある。
400円払って、冷房の効いた館内に入ると、そこは江戸深川の町並を再現した空間(写真)。
また深川や木場などの文化財一覧の冊子などを発行していて、ここは深川近辺の情報センターとしての役割も担っている。

この資料館界隈と清澄通りの向こうの清澄庭園を合わせると、江戸情緒が残る深川を堪能できる。


私はもう少し”深川”を堪能するため、さらに北上して、江戸に入った家康(1590年)がさっそく開削させたという立派な運河である小名木川を越え、深川の鎮守たる深川神明宮に足をのばした。

実は今まで、深川って運河の町だから、運河のどれか、たぶん一番深い小名木川の別名を”深川”としたのかと思っていた。
ところが深川神明宮前の説明板を読むと、摂津から来た深川八郎右衛門という人が名主となってここを慶長元年(1596:江戸開府前!)に開拓したので、その名をとって地名になったとのこと。

実は江戸の町を作るに当たって、摂津すなわち今の大阪から人が移住してきた所が深川のほかにもある。
もんじゃ焼きで有名な中央区月島
江戸の町人文化のルーツは大坂の町人が担ったのかもしれない。


ここから南に戻り、シーラカンス像がある西深川橋の鉄橋(写真)で再び小名木川を越えて、地下鉄の清澄白河駅に着いた(松平定信の白河藩邸があったのだろう)。

このように深川は、浅草や谷中と並んで、”江戸”を味わうのにいい町だ(いずれも寺町)。


終戦の日の思い出を母から聞く

2022年08月15日 | メモリアル

77年目の終戦の日を迎えたので、今年93歳になる母に、当時の思い出を尋ねた。
当時、母は生家のある東京を離れて、親戚のいる栃木県に疎開していた。

疎開先の家は、工場経営をしてて裕福で、複数組の家族を受け入れても空間も食料も余裕があったという。
母は、学校での授業がほとんどなく、勤労動員として中島飛行機の工場で飛行機作りをしていた。
年端もいかぬ女学生たちが作った飛行機で大丈夫なのか心配だったという。

15日の当日は、家で玉音放送を聞いたが、何言っているか理解できなかったという。

東京の実家は空襲で焼けたが※、母は疎開中でそれを経験せず、また疎開先の生活も楽で、学校でいじめにもあわず学校生活を楽しんでいたので、「戦争中のつらい経験」というのがなく、また親類で戦死した者もなかった。
※:飼い犬は屋内の土間で死んでいた。飼い猫はどこかに逃げて行った。

ただ、翌日の新聞は、終戦については触れず、相変わらず南方での嘘の戦果を大々的に報じていたのが印象的だったという。

さらに戦後も裕福な田舎に残ったため、食料難も経験しなかったという。

ということで、母自身、戦争のつらい経験の話は、他人事であった。

母は「この世界の片隅に」の”すずさん”よりは1世代下で、黒澤明監督の「一番美しく」(1944年)が描いた世代に等しい。

むしろ母自身は、戦後の破壊された状態から高度成長を経て先進国となったその後の日本の方が、感慨深いという。


証明写真を撮る

2022年08月13日 | 生活

にわかに証明写真が必要になった。

JR東日本の「ジパング倶楽部」に入会したら届いた会員手帳に証明写真の貼り付けが求められていた。
もうひとつ、「マイナンバーカード」の交付申請を(いつかやらねばと思っていながら)先延ばしにしていたのだが、その一番の理由は証明写真が必要なことだった。

というわけで年貢の納め時、数十年ぶりに証明写真を撮ることにした。

言い換えれば、今の名古屋の勤務先に就職してから30年以上、証明写真を撮っていない(運転免許証・パスポートは除く)。

まず証明写真を撮ること自体が面倒。
手っ取り早いのは、駅などにある証明写真機
これならふらりと赴いてその場で写真をゲットできる(1000円)。
さっそく駅に行き、改札手前にあるその機械から出る写真サイズを確認。
すると、マイナンバー用のサイズと、ジパング倶楽部用のサイズの組合せパターンがない。
ただ、紙ではなくデータだけ受け取って自分で印刷する方法もあるという。

自分で印刷するなら、スマホのカメラで撮る無料の証明写真撮影アプリがある(ことを知った)。
さっそくアプリをダウンロードして、室内で自分にスマホのカメラを向けて撮った。
できた画像は、背景こそ証明写真風に処理されているものの、洗面所の鏡で見慣れている自分の顔とのギャップに唖然。
いくらなんでもこんな顔ではない!
絶対使いたくない。
どうしてこんな顔に写るのか? たぶん光の方向が悪いのだろう。

ずっと貼付けている証明写真だからこそ、見ていられる写真でありたい。
そうなるとスマホアプリはもとより、駅前の機械でもなく、撮影のプロがきちんとした光源で撮ってくれる写真館がいい。

そういえば30年以上前の履歴書に貼った写真は、新宿伊勢丹の写真館で撮ったもの。
さすがに出来がよく、親に「見合い写真に使える」と言われた。
サイトで伊勢丹写真館を探し、値段と受取りまでの日数を確認する。
この暑い中、新宿、しかも駅から離れた伊勢丹まで2往復するのが面倒。

サイトで近所の写真館を探すと、最寄り駅近くに昔からある写真スタジオがヒットした。
そこは駅の往復時にいつも目にしている。
値段は伊勢丹より安く、その場で受け取れる。
もちろんサイズはリクエストできる。

さっそく予約を入れたいが、この暑い時分なので、汗が出る前の午前中にしたい。
ところが先方の写真家は、天気がいいと午前中は撮影に出るという。

幸い、本日は東京に台風が接近し、雲行きが怪しい。
当日の朝に電話するとすぐにでもOKとのこと。

ごたごたした室内の一角に座って写真をバシバシ撮られ、パソコン画面から使う一枚を選ぶ(表情が硬すぎもなく、かといってにやけていないもの)。
さすが、鏡で見ている顔に近く、実用に耐える(今さら見合い写真には…)。
その写真を指定したサイズに合わせて数枚ずつ作ってくれ、残りの写真が並んだA4のシートと、cdでデータをくれた。
所要時間は30分ほどで、しめて2800円。
近所なので気楽に予約し、徒歩で往復できるので楽だった。


山と川の怖さ

2022年08月12日 | 防災・安全

夏休みもたけなわ(”酣”って書くらしい)の昨今、山や川での事故のニュースが絶えない。

山の事故は滑落と疲労(筋肉が麻痺して一歩も歩けなくなる)※、川の事故は川遊びでの溺れが多い。
※:その他に”道迷い”もあるが、 GPS必携の今、それは恥ずかしい愚挙。現在位置を確認しながら歩かない人は山に入るべからず。

山では位置エネルギーが高くなっていて、ちょっとした転倒でも(制御できない運動エネルギーに転換して)加速度がついて滑落し、転がりながら岩角に体をぶつける。
そもそも山の中は人間が普通に生活できる環境ではない。

川はプールと違って水圧が強く、水温も低く、水深と水流の変化が非連続で予測しづらい。
川の中でバランスを崩して転倒すると、水圧と水深によって水中で転がされ、起き上がれずにそのまま溺れる。

私は本ブログで山を「異界」としているが、死の危険度が格段に増大する異空間という意味での異界でもある。
同じ意味で川も異界だ。

むき出しの自然がもつ圧倒的パワーに接することは、衝撃に弱い生物にとっては死の危険を意味する。
”人知を超えたパワー”って何も宗教世界の話ではなく、山や川で体験できるのだ(だから神道では山や川を拝む神社がある)。
しかもこれら異界は安全な空間の延長上にあるので、安易な気持ちで入り込んでしまう。

なので異界に入るには充分な準備・装備と覚悟が必要。
むき出しの自然に入り込む真のアウトドアは、万人に勧められるものではない。
覚悟のない人(と家族)は、安易に”異界”には入り込まず、設備のあるキャンプ場か指定された海水浴場で満足してほしい(今時分の富士山も人が多すぎ)。

私は、高尾山の山頂の茶屋で売っているビールを飲まない(喉から手が出るが)。
高尾山といえども、下山は転倒・滑落の危険が高いからで、それを酔った状態でやるのは、飲酒運転に等しい暴挙に思えてならないから(ビールは下山後までお預け)
同様に、河原のバーベキューで、酔った勢いで川に入るのも暴挙。

自然に対しては、”災害”でなくても、「正しく怖がる」ことが必要。
「正しく」とは正しい知識と行動による。
安全な人間界で育った人間は、無知の状態で自然界に入ってはならない。


神社本庁に属していない神社はモグリなのか

2022年08月11日 | 時事

ネットで、ある怪しげな神社を問題視する理由として、「神社本庁に属していない」ことを挙げていた。
この発想こそが恐ろしい権威主義あるいは国家神道主義だ。

神社本庁は、日本国内の神社を統括する”公共団体”ではなく、一民間団体にすぎない。
そこに加盟するか否かは、神社側の自由である。

神社本庁に属していない神社:伏見稲荷(全国の稲荷神社の元締め)
神社本庁からの脱退したことのある神社:靖国神社、明治神宮、宇佐八幡(全国の八幡神社の元締め)
これらは、モグリの怪しげな神社なのだろうか?

むしろ神社側にとって、神社本庁の在り方の方が問題視したいのではないか(人事に介入するとか)。

”本庁”という官庁表現を名乗るのは、歴史的に戦前の国家神道の”元締め”(神祇省)の継承を目指しているからだろう。

だが、私は神社本庁の方が本来の伝統的神道を曲げていると思っている。

神社本庁は伊勢神宮中心主義で、すべての神社を皇祖に収斂しようとする。
これは戦前の「国家神道」に繋がる。

国家神道は皇祖(天照大神)に関係しない(国津神系の)地域神を否定してきた。
明治~昭和20年までの(ほんの一時期の)国家神道時代、全国の神社で地元で信仰されてきた祭神が廃され、無理やり皇祖神に置き換えされた(なので現在の神社の祭神が皇祖神である場合、本来の祭神ではない可能性がある)。

また明治維新の前後、それまで神社を管理していた仏教寺院が破壊・廃絶させられた。
それに続く維新時の”神仏分離”という宗教的に暴力的措置によって神仏混交という日本人(支配者側ではなく常民側)の自然な(融通無礙の)宗教心の具現である伝統的神道が否定された。

たとえば江戸時代の剣術道場は鹿島・香取の二神を祀っていた。
それが明治後は、二神の中央(中尊)に「天照大神」を置いた三神に変更させられている。
天照大神は剣術の神ではないのに。
このように、人々の素朴な神社信仰を無理やり皇祖中心主義に曲げられてた。

もう一つ身近な例として、私の自宅地域の鎮守は天祖神社(地元では”神明様”と呼んでいた)なのだが、拝殿に置かれている神社本庁のパンフに、氏神と信仰する神の間に皇祖天照大神を中心に飾れと指図してある。
それを見た母は、天祖神社の札と天照大神の札の両方を買ってきた。
これって中身が同じ。
私は余分な天照大神の札をお炊き上げ用の箱に入れた。

天祖神社以外で、祭神に天照大神があったら、明治以降に国家神道的要請によって追加された可能性がある。
なのでむしろ皇祖以外の祭神があれば、その神がその神社本来の祭神である可能性が高い。

このように、神社本庁は皇室に対する日本人の自然な敬意とは異質の”狂信的な天皇崇拝”を推し進めた国家神道を継承するものである。

神社本庁の”権威”を素朴に認める人たちは、戦前の国家神道を素朴に支持していることになる。

私は自分なりの神道観※を持っていて、礼拝の所作も含めて神社本庁に従わない。
※:特定の教祖・聖典(教義=システム2)に依存(絶対化)せず、宗教心(システム4)そのものに準拠する本来的な神道は、人類共通の普遍宗教(キリスト教段階)となる潜在性があるのに、その反対方向の一民族国家宗教(ユダヤ教段階)に矮小化するのはもったいない。


夏季休業中に”仕事”

2022年08月10日 | 歳時

8月に入り、前期試験の成績をつけ終え、唯一の出勤業務であるオープンキャンパスも済んだので、いよいよ”夏季休業”状態に入った。

この休業中こそ、遊びまくるのではなく、本来の”仕事”である研究活動のアウトプット、すなわち論文執筆に集中できる貴重な期間(大学の夏休みが長いのは、学生を遊ばせるためではなく、教員の研究活動のためだ)。

論文執筆は、幸い場所を限定しないので、東京宅に戻って、ノートパソコン持参で国会図書館で進める。
自宅だと気が散るし、日中の一番暑い時間帯を、冷房の効いた静かな図書館の方が集中できる。
地下鉄を使った家からの往復も気分転換と軽い運動効果を得られる。

閲覧室はスペースが広く、電源も自由に使える。
なんと言っても、必要な文献(出版物)は日本で一番揃っている。
先日までコロナ禍対応の予約制だったが、今では土曜以外は自由に使える。

ここがいいのは、食堂完備な点。
ただ本来の大食堂は閉鎖中なので(喫茶部と中食堂は利用可)、弁当を売っている売店で巻きずし(4切れ)を買う(私にとって昼食はそれで充分)。

以前と違ってヘッドホンで音楽を聞くのもOK。
惜しむらくは、休日が閉館であること。
明日の”山の日”はどうしよう。


池上彰・佐藤優『日本左翼史』3部作

2022年08月01日 | 作品・作家評

ネットの名言に「若い時に左翼でなかった者は正義感がない。おとなになって保守にならない者は責任感がない」というのがある。
私自身、若い頃(学生時代)は、左翼にシンパシーを抱いていた。
高校の授業でマルクスの「共産党宣言」に接し(教師の政治嗜好によるのではない)、大学生となって岩波文庫のマルクス哲学の書を読み漁ったが(ただし経済学に興味をもてなかったので『資本論』は読まずじまい)、暴力主義的な新左翼セクト、それ以上にソ連・東欧の実態に失望したため、急速に左翼から離れていき、やがて保守になっていった。
※形而上学的でないので読みやすかったという理由もある。

そこで改めて、池上彰と佐藤優との左翼史についての対談形式の『日本左翼史』3部作(講談社)を読んだ。
それぞれ「真説」(1945-1960)、「激動」(1960-1972)、「漂流」(1972-2022)と題打つ。
3冊一気に読み進めることもできるが、私でさえ「真説」は前時代の話なので、本当に「史」に興味がある人向け(ただしここを読まないとその後の展開の原点が分からない)。
多くの人にとっては、3冊目の「漂流」が同時代史といえ、2022年のロシアのウクライナ侵略も射程に入っている。

そもそもこの本を出す理由が、まずは唯一残った左翼政党である日本共産党が今年で結党100年を向かえるので、自党中心に左翼史を書き換えられることに対する危惧があり、その先手を打つため。
なぜなら、共産党がこれまで左翼の中心に位置していたわけでははく、共産党自身も変節を繰り返してきた(2022年においても)。
左翼が共産党だけになると、現共産党(執行部)に不利な歴史的言説はすべて封殺されることになりそう。
すなわち、共産党以上に左翼の主役を担ってきた日本社会党の歴史(衰亡史)、それに反日共系の新左翼セクト(革マル、中核、赤軍など)たちを抜きにして日本左翼史は語れないため。
※:今となっては見る影もない絶滅寸前の「社民党」の前身。

もっと幅広い目的もある。
衰亡する左翼をあざ笑うのが目的ではなく、むしろその逆で、
左翼そのものの退潮による政治・社会のアンバランス化に対する危惧がある。
このままでは、左翼(=マルクス主義)が堅持してきた下層民の主役化と国家・民族主義を超越する国際主義への芽が摘み捉えてしまう。
そういう意味で左翼は復活すべきといい、そのために過去の過ちをきちんと反省(自己批判)するための書という。

佐藤氏は、社会党の下部組織である「社青同」に属していたということもあって、社会党の内部事情にも詳しい。
生々しい話もたくさん出てくるが、元当事者であっただけに、論評が個人的想いに彩られる部分もある。

3冊目のあとがきで、同志社大学神学部出身でもある佐藤氏は、日本左翼は、イエスの唱えた”隣人愛”を神なき状況で実践しようとしたと結論する。
それを私は、愛ではなく、その裏返しである憎悪に由来する正義が原動力であったことの限界と不幸、と表現したい。

ただ左翼退潮現象は、”日本”に限定されるものではない。
左翼思想に代わって、他者に対する関心に乏しい”新自由主義”が跋扈しているのも世界的現象だ。

そもそも左翼における愛の欠如は、人類史を闘争史としか見なかったマルクスの視点に由来するのかもしれない。
ただ、マルクスは”多義的に読める”という氏の見解には同意できる。
マルクスに愛がなかったわけではない。
「共産党宣言」をする政治的アジテーターのマルクスではなく、哲学者のマルクスには、能天気なほどに人間性への信頼があった。
なのでマルクスが描いた共産主義社会は、憎悪が原動力の左翼人間ではなく、隣人愛に満ちた菩薩のような人間でないと実現不可能であることも証明されてしまった。
かくしてその人間観の甘さ(単純な善悪二元論)に限界をじた私は、人間心理の暗黒面を直視し、葛藤に苦しむ人間を前提としたフロイトに移行した。