山は異界である。
ではどのような異界なのか。
下界と何が違うのか。
ここでは宗教民俗学やスピリチュアルな視点ではなく、科学的すなわち実在的・経験的な視点で述べる。
まずは、大気状態が地上と異なる。
地上から雲底までの下層大気の場合、気温は100m上昇するごとに0.98℃下がる(乾燥断熱変化)。
なので標高1000mの山は、海岸より約10℃低い(軽井沢は東京より約10℃低い)。
すなわち、山は下界よりも無条件に”寒冷”である。
それと気圧も下がる。
気圧とは大気上端から地面までの空気の重量であるから、地面が上昇すればそれだけ空気の重量=気圧が低減する。
地上が1000hPaなら、標高1000mで120hPa下がり、880hpaとなる(猛烈な台風の中心並み)。
気圧が下がると沸点が下がるため、高山では炊飯ができない。
750hPa面(標高3000m付近)の高層天気図を見ると、見慣れた地上天気図と異なる気圧配置になっている(地上天気図は海抜0mの等高度面だが、高層天気図は等圧面なので高・低気圧は高度差で表現される)。
それによると、地上の高気圧や低気圧の影響はほとんど弱まり、風向は偏西風中心で、南北の気圧差・気温差が強い。
そして地上低気圧には反映されない高層固有の高・低気圧が存在する。
かように天気図的に、山は異界である。
減圧に準じて空気(酸素濃度)も薄くなる。
標高3000mほどの山だと高山病を発症し、頭痛に襲われる。
登山自体が有酸素運動でありながら、それが低酸素状態で遂行されるのである。
ただ、人体はよくできているもので、酸素濃度が下がると、酸素を運ぶ量を減らすまいと人体の造血能が高まる。
実際、学生時代、山から降りた後は、下界での長距離走が楽だった。
一方、増えるのは風速(下界にいくほど風は地面との摩擦が増えるので風速が弱まる)。
たとえば、冬の南アルプスを南下中、背後からの北風があまりに強いので、立ち止まって体重を後ろ側にかけてみた。
普通なら後ろに倒れるのだが、風は荷物を背負った私をきちんと支えて、倒れることはなかった(私の身体を支えるほどの45m/s以上の強風※が間断なく続いている)。
※:気象用語の「強風」は風速15m/s。台風時の「暴風」は風速25m/s。風速30m/sの「猛烈な風」以降は名称がない。
日本の山で風が一番強いのは、冬の富士山で、8合目以上だと、人が強風に煽られて舞い上がってしまう(≒風速70m/s)。
そうなったら氷の大斜面を滑落する(止まるまで体が削り取られていく)。
なので冬富士に登る場合は、ピッケルを深く刺してそれに全体重をのせて伏せる耐風姿勢を瞬時にとれなくてはならない。
山は降水量も多い。
地形による強制上昇によって雲が発生しやすいためで、下界より先に山に雨が降り、下界で止んでも山は雲をかぶっている。
登山に雨具は必需品。
晴天の場合は、紫外線が強くなる。
1000mで13%強くなる。
なのでチベットやボリビアの高地人は日焼けしている。
次に地の気が異なる。
まず山は地磁気が異常となる所が多い。
特に玄武岩でできた火山は地磁気が強くなる(方位磁石が回転する所もある)。
また、長大な山脈を構成する花崗岩帯では放射線が出ている。
以上から、山では身体が下界とは異なる過酷な状態に置かれていることがわかる。
では、山に固有の怪異現象は起きるのか。
まずは木霊(こだま)すなわち山彦(やまびこ)。
これは、山中にいて、自分の声をまねする者の存在とされた。
ただ現代人はすでに音の反響現象であることがわかっている。
次に「ご来迎」
昔から修験行者が山上で阿弥陀仏を拝したという言い伝えが数多くあり、
これこそ霊山の証拠とされた。
実際、山では、円形の後光に囲まれた像が山の空中に出現する。
それを弥陀の来迎(らいごう)と解釈して、この現象を「ご来迎」という。
実は同じ現象を、ヨーロッパアルプスでは悪魔の仕業と思われた。
有名なのが、アルプスとしては低山であるが、ブロッケン山に登山者中、その人数と同じ十字架が浮かあがった「ブロッケンの怪」。
これを一般化して「ブロッケン現象」ともいう。
なぜ登山者と同じ数の十字架なのか。
これは太陽光によってできた人物の影が反対側の雲の壁に投映される光学現象で、私も日本アルプスで経験済み(さほど珍しくない)。
雲の中の円形の後光の中心に映っているのは自分の姿(影)で、腕を振るとそれがわかる。
曖昧な図形にそれを見た人の心の中が投影されるのは、心理学のロールシャッハ・テストで証明済みで、自分の影が仏教行者には阿弥陀仏に見え、死の領域にいるキリスト教徒には十字架に見えたわけ。
現代人は、自分の影を有り難がることも恐れることもない。
以上は科学的に解釈済みの物理現象だが、ほかに物理現象でない幻覚を山で経験する。
単調な風景の中を長時間歩行中に疲労してくると経験する。
これも日本アルプス級の大きい山で経験した(高尾山程度では無理)。
自分の経験では、しばらく山道を歩いていると、行く手に山小屋が見えた。
喜んで近づいていくと、森の一部だった。
冬の北アルプスで、同行者は純白の山陵にバーゲンセールの赤い幟(のぼり)が並んで立っているを見たという。
ヒマラヤで遭難し、負傷を負いながら一人下山したある登山家は、もう一人の自分が隣りにいて、しばらく一緒に歩いたという。
音声による幻聴もある。
いずれも心身の疲労と単調な風景による一種の感覚遮断状態で発生する、脳内感覚中枢の自己刺激で、夢見と共通するメカニズム。
行者の霊山での神秘体験はおおかたこれで説明できる(むしろあえてそういう状態に心身をもっていく)。
といってもこのような幻覚は山以外では経験しない。
下界で経験したら、薬物依存か統合失調症が疑われる。
その意味で深い山は健常者にも幻覚体験をもたらす魔界といえる。
結局、山では不思議な現象は起きないのか。
そんなことはない。
山には下界にない異様な空間がある。
立山の地獄谷には、荒涼とした地面から硫黄の噴気塔がうなり声を出しながら噴気を出している。
活火山が造るこの生命を拒絶した風景はまさに地獄の情景だ。
一方、立山の南にある五色ヶ原(山上の平原)で、霧で周囲の山々が見えなくなり、あたりは可憐な御花畑(高山植物の群落)と雪渓に囲まれた中を歩いていた時、「天国ってこんな所なんだろうな」と思った。
このように、山には地上では見ることのない地獄や天国(極楽)的な場所がある(それらを元に作られたのが「立山曼荼羅」)。
それと、南アルプスの鳳凰山に雨の中登った時、霧が一瞬晴れて、雲間から神々しい甲斐駒ケ岳が見えた時、思わずひざまずいた。
神を見た感じたから。
こういう経験も下界ではしない。
以上総合すると、やはり山は異界だといえる。