今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

夢の中だけの痛覚

2022年01月30日 | 心理学

夢の中で、3回目のワクチン接種をして、接種した側の右上腕が過去2回の接種後よりも痛くなった。
それで夢の中の誰かに、今回の方が痛いと報告した。

夢という脳内覚醒現象では、夢主の知覚経験を構成する五感は各感覚中枢の反応によるものなので、視・聴覚以外の嗅覚・味覚・触覚も夢で経験可能であることは理論的には説明できるが、
実際の夢経験では、触覚、特に痛みの感覚(厳密には痛みは触覚とは区別される)は、たとえば私の場合は帯状疱疹や尿管結石の時のように、実際の痛みが夢の中に侵入してくる場合ばかりだった。

ところが、今回の腕の痛みの夢は、夢の中だけの感覚で、現実の痛みは存在しない(実際には3回目のワクチン接種はまだ受けていない)。

すなわち、夢は五感すべてを現実の影響を受けることなく脳内で構成可能であることが、経験的にも明らかとなった。
言い換えると、われわれの五感の経験は、現実に感覚刺激が存在していなくてもすべて脳内で構成可能であることがはっきりした。
また一歩、唯識思想の妥当性が高まったといえる。


科学的に見た山の異界性

2022年01月29日 | 山歩き

山は異界である。
ではどのような異界なのか。
下界と何が違うのか。
ここでは宗教民俗学やスピリチュアルな視点ではなく、科学的すなわち実在的・経験的な視点で述べる。

まずは、大気状態が地上と異なる
地上から雲底までの下層大気の場合、気温は100m上昇するごとに0.98℃下がる(乾燥断熱変化)
なので標高1000mの山は、海岸より約10℃低い(軽井沢は東京より約10℃低い)。
すなわち、山は下界よりも無条件に”寒冷”である。

それと気圧も下がる。
気圧とは大気上端から地面までの空気の重量であるから、地面が上昇すればそれだけ空気の重量=気圧が低減する。
地上が1000hPaなら、標高1000mで120hPa下がり、880hpaとなる(猛烈な台風の中心並み)。
気圧が下がると沸点が下がるため、高山では炊飯ができない。
750hPa面(標高3000m付近)の高層天気図を見ると、見慣れた地上天気図と異なる気圧配置になっている(地上天気図は海抜0mの等高度面だが、高層天気図は等圧面なので高・低気圧は高度差で表現される)
それによると、地上の高気圧や低気圧の影響はほとんど弱まり、風向は偏西風中心で、南北の気圧差・気温差が強い。
そして地上低気圧には反映されない高層固有の高・低気圧が存在する。
かように天気図的に、山は異界である。

減圧に準じて空気(酸素濃度)も薄くなる。
標高3000mほどの山だと高山病を発症し、頭痛に襲われる。
登山自体が有酸素運動でありながら、それが低酸素状態で遂行されるのである。
ただ、人体はよくできているもので、酸素濃度が下がると、酸素を運ぶ量を減らすまいと人体の造血能が高まる。
実際、学生時代、山から降りた後は、下界での長距離走が楽だった。

一方、増えるのは風速(下界にいくほど風は地面との摩擦が増えるので風速が弱まる)。
たとえば、冬の南アルプスを南下中、背後からの北風があまりに強いので、立ち止まって体重を後ろ側にかけてみた。
普通なら後ろに倒れるのだが、風は荷物を背負った私をきちんと支えて、倒れることはなかった(私の身体を支えるほどの45m/s以上の強風が間断なく続いている)。
※:気象用語の「強風」は風速15m/s。台風時の「暴風」は風速25m/s。風速30m/sの「猛烈な風」以降は名称がない。

日本の山で風が一番強いのは、冬の富士山で、8合目以上だと、人が強風に煽られて舞い上がってしまう(≒風速70m/s)。
そうなったら氷の大斜面を滑落する(止まるまで体が削り取られていく)。
なので冬富士に登る場合は、ピッケルを深く刺してそれに全体重をのせて伏せる耐風姿勢を瞬時にとれなくてはならない。

山は降水量も多い。
地形による強制上昇によって雲が発生しやすいためで、下界より先に山に雨が降り、下界で止んでも山は雲をかぶっている。
登山に雨具は必需品。

晴天の場合は、紫外線が強くなる。
1000mで13%強くなる。
なのでチベットやボリビアの高地人は日焼けしている。

次に地の気が異なる
まず山は地磁気が異常となる所が多い。
特に玄武岩でできた火山は地磁気が強くなる(方位磁石が回転する所もある)。
また、長大な山脈を構成する花崗岩帯では放射線が出ている。

以上から、山では身体が下界とは異なる過酷な状態に置かれていることがわかる。

では、山に固有の怪異現象は起きるのか。
まずは木霊(こだま)すなわち山彦(やまびこ)
これは、山中にいて、自分の声をまねする者の存在とされた。
ただ現代人はすでに音の反響現象であることがわかっている。

次に「ご来迎」
昔から修験行者が山上で阿弥陀仏を拝したという言い伝えが数多くあり、
これこそ霊山の証拠とされた。
実際、山では、円形の後光に囲まれた像が山の空中に出現する。
それを弥陀の来迎(らいごう)と解釈して、この現象を「ご来迎」という。

実は同じ現象を、ヨーロッパアルプスでは悪魔の仕業と思われた。
有名なのが、アルプスとしては低山であるが、ブロッケン山に登山者中、その人数と同じ十字架が浮かあがった「ブロッケンの怪」。
これを一般化して「ブロッケン現象」ともいう。
なぜ登山者と同じ数の十字架なのか。
これは太陽光によってできた人物の影が反対側の雲の壁に投映される光学現象で、私も日本アルプスで経験済み(さほど珍しくない)。
雲の中の円形の後光の中心に映っているのは自分の姿(影)で、腕を振るとそれがわかる。

曖昧な図形にそれを見た人の心の中が投影されるのは、心理学のロールシャッハ・テストで証明済みで、自分の影が仏教行者には阿弥陀仏に見え、死の領域にいるキリスト教徒には十字架に見えたわけ。
現代人は、自分の影を有り難がることも恐れることもない。

以上は科学的に解釈済みの物理現象だが、ほかに物理現象でない幻覚を山で経験する。
単調な風景の中を長時間歩行中に疲労してくると経験する。
これも日本アルプス級の大きい山で経験した(高尾山程度では無理)。
自分の経験では、しばらく山道を歩いていると、行く手に山小屋が見えた。
喜んで近づいていくと、森の一部だった。

冬の北アルプスで、同行者は純白の山陵にバーゲンセールの赤い幟(のぼり)が並んで立っているを見たという。
ヒマラヤで遭難し、負傷を負いながら一人下山したある登山家は、もう一人の自分が隣りにいて、しばらく一緒に歩いたという。
音声による幻聴もある。
いずれも心身の疲労と単調な風景による一種の感覚遮断状態で発生する、脳内感覚中枢の自己刺激で、夢見と共通するメカニズム。
行者の霊山での神秘体験はおおかたこれで説明できる(むしろあえてそういう状態に心身をもっていく)。

といってもこのような幻覚は山以外では経験しない。
下界で経験したら、薬物依存か統合失調症が疑われる。
その意味で深い山は健常者にも幻覚体験をもたらす魔界といえる。

結局、山では不思議な現象は起きないのか。
そんなことはない。
山には下界にない異様な空間がある。
立山の地獄谷には、荒涼とした地面から硫黄の噴気塔がうなり声を出しながら噴気を出している。
活火山が造るこの生命を拒絶した風景はまさに地獄の情景だ。

一方、立山の南にある五色ヶ原(山上の平原)で、霧で周囲の山々が見えなくなり、あたりは可憐な御花畑(高山植物の群落)と雪渓に囲まれた中を歩いていた時、「天国ってこんな所なんだろうな」と思った。
このように、山には地上では見ることのない地獄や天国(極楽)的な場所がある(それらを元に作られたのが「立山曼荼羅」)。

それと、南アルプスの鳳凰山に雨の中登った時、霧が一瞬晴れて、雲間から神々しい甲斐駒ケ岳が見えた時、思わずひざまずいた。
神を見た感じたから。
こういう経験も下界ではしない。

以上総合すると、やはり山は異界だといえる。


スウェーデンボルグという先駆者

2022年01月27日 | 作品・作家評

スウェーデンボルグというスウェーデン人は、スピリチュアル研究の先駆者として名前だけは知っていたので、きちんと知りたいと思い、高橋和夫氏の著作『スウェーデンボルグ—科学から神秘世界へ―』(講談社学術文庫の電子版)を読んだ。
以下、それを読んでの感想。

スウェーデンボルグ(地元の正しい発音はスウェーデンボリ)は18世紀のヨーロッパで活躍した人で、まずは科学理論家として、脳や心の科学の先駆者として評価される。

脳については、大脳皮質の機能局在性、右脳と左脳の機能分化、それに脳波活動を示唆した。

心については、『合理的心理学』という著作で、肉体、自然的な心(記憶、感覚、情動、本能)、合理的な心(判断、思考、想像)、さらには霊的な心(超意識)、霊魂という階層構造を言及した。
これには驚いた。

なぜって、私の「多重過程モデル(システム0〜4)」に対応しているから。
すなわち、システム0=肉体、システム1=自然的な心、システム2=合理的な心、システム3=霊的な心、システム4=霊魂、とぴったり対応する。
私のモデルは、既存(といっても21世紀)の「二重過程モデル」(システム1,システム2)を上下に拡張したものだが、なんと科学的心理学が誕生する(19世紀中葉)ずっと前の18世紀にほぼ同じモデルが提唱されていたのだ。
ということで、まずはスウェーデンボルグは心の「多重過程モデル」の先駆者でもある。
もっとも、「多重過程モデル」の先を行くモデルは、さらに千年前の弘法大師空海がシステム10にまで達するモデルを『十住心論』で構築しているが。

スウェーデンボルグの功績は、むしろこの後、既存のキリスト教批判を通した、普遍宗教の構想にある。
21世紀のスビリチュアリティも特定宗教に依存しないグローバルな視野を前提にしているが、スウェーデンボルグはキリスト教しか知らなかったにもかかわらず、キリスト教に潜むローカル性(非普遍性)、たとえばアダムの神話的原罪や”怒る”神の擬人性から脱して、恐怖に基づく善行ではなく、愛に基づく善行を説いた(彼は、カトリックもカルヴァン派もルター派も批判している)。
※愛は存在を支える宇宙原理であり、怒りのような人間的感情ではない。
彼なりに宗教をつきつめていけば、その原理は、①悪を避け、②善を行ない、③神を信じる(信頼する)というシンプルなものになるという。

これって、唐の詩人白楽天が仏教の真髄をある仏僧に尋ねたら、その仏僧が答えた「諸悪莫作 衆善奉行 是諸仏教」というセリフ(悪い事はするな、良い事をしろ、それが仏教)と同じ。
それを聞いた白楽天は、平凡な回答にがっかりしたそうだが、麻原彰晃やイスラム国が命ずる事よりもはるかに普遍性がある。
※:もっとも世俗道徳での善悪ではなく、宗教レベルの善悪(戒慄)を言っているはず。ちなみに仏教では「神を信じる」は不要。

だからスウェーデンボルグの宗教観は、それを知った鈴木大拙にとっては仏教とも共通したものと映り、彼をして日本最初のスウェーデンボルグの紹介者にした。

私も今後は、神道に潜むローカル性(日本民族にしか通用しない論理)を取り除いて、神道における普遍宗教性をアピールしていきたい。

なにより21世紀は、従来のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道などがもつそれぞれのローカル性を乗り越えて、互いに異教徒視していがみあう必要のない、人類全体の普遍宗教に達するべき時期である。
このように特定宗教に依存しない視座が本来のスピリチュアリティ(霊性)であり、
その先駆者がスウェーデンボルグなのだ。


映画『八甲田山』で気づいたこと

2022年01月24日 | 作品・作家評

勝手ながら、1月25日を、明治35(1902)年に起きた青森県の八甲田山での199名遭難死事件を悼む「八甲田忌」としている(その理由→1月25日は八甲田忌)。

山を愛する一人として、世界最大の山岳遭難死事件を悼み、とりわけ若くして死んだ兵卒たちが眠る山麓の記念墓地には訪れるべき子孫がいないため、私がこの日に彼らの子孫に成り代わって冥福を祈るようにしている。

そしてまた、新田次郎原作の映画『八甲田山』を観ることにしている(3時間弱の長編なので数日に分ける)。
ただし、原作『八甲田山 死の彷徨』の時点で創作(まず人名がすべて変更)が入っていて、映画はさらに原作と異なる創作(女性案内人(秋吉久美子)に対する心温まる対応)が加わっている。
真実を伝えているのは、八甲田の資料館で買った『八甲田連峰 吹雪の惨劇』(小笠原孤酒著)など地元資料(それによれば”神田大尉”のやけっぱちになった集団自決への叫びは事実に基づく)。

創作であってもこの映画は日本映画史に残る名作なので、観るに値する(私はDVDを所有)。

八甲田忌を前にその映画を観て、改めて気づいたことがある。
23日に出発した青森五連隊210名が、麓の田茂木野村で小休止の際、村長からの案内人の申し出を拒否して自力で八甲田に入り込もうとする連隊を見ながら、村長役の加藤 嘉が「よりにもよって山の神様の日に…。命知らずのバカなまねにもほどがある!」と吐き捨てたシーン。

今までさして気に留めなかったシーンだったが、昨年末から山岳宗教の勉強をしていたので、「山の神の日には、山に入ってはいけない」という信仰が前提となっていることに気づいた(宮家 準『霊山と日本人』)。
この掟を破ってこの日に山に入ると、山の神は喜怒哀楽が激しいので、怒りを爆発する。

明治35年の1月23日が本当に山の神の日であったかは疑問だが、このシーンを入れたことで、青森五連隊の運命が暗示されたことになる。

ちなみに「山の神の日」に対する畏怖は、最近の映画『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』(矢口史靖監督)でも表現されている。

山への敬意にもとづく登山(峰入り)を志している私自身、山の怒りに触れないよう心がけたい。


高尾山の次は浅草寺

2022年01月23日 | 東京周辺

先週の日曜は高尾山に行ったので、今週の日曜は浅草に行った。

なぜなら、高尾山について最も参考になるガイドは、川副秀樹氏の『浅草と高尾山の不思議:東京を再発見する大人の旅』(言視社)で、高尾山に行く前にこの本(電子版)を読んだのだが、表題でわかるように、高尾山と一緒に浅草寺(のあちこち)についても、これまた詳しく紹介されていたので、高尾山の次は浅草寺に行きたくなったから。

多くの人は高尾山はメインの1号路ばかりを通って、その道から外れた名所を素通りするように、浅草寺においても仲見世と本堂の往復で、脇の名所を素通りしている。
上の本を読んで、私もその一人だったことがわかった。

浅草へは、自宅から少し歩いた通りで雷門行きのバスに乗れるので楽。
浅草寺に行くなら、終点手前の「浅草六区」で降りる。
ぞろぞろ歩いているおじさんたちに混じって進んだら、ウインズというビルの場外馬券場に入りそうになった。
ここは訪問予定ではないので、あわてて列から抜けて、昼から立ち飲みをやっているホッピー通りを横断し、商店街を抜けて浅草寺境内に西口から入る。
ここには淡島堂があり、本尊を拝む。
ここは私にとっての出入り口にあるため、以前から知っている。

さて、境内を北に進み、今まで来たことなかった銭塚地蔵尊を詣でる。
真新しい堂内には、背中合わせの六地蔵が六方向に向いている。
堂内を一周して、御影を購入(200円)。
堂の外には、カンカン地蔵という名の原形をとどめていない石地蔵があり(写真)、昔の人が石肌を削って願をかけていたからそうなったらしく、石で地蔵をたたくとカンカンと音がするという。
今では削ることは禁止されていて、置いてある黒い丸石で地蔵のあちこちをたたいてみると、場所によっては確かにカンカンと音がする(私欲のない私はいちいち願をかけない)。

本堂の次に大きい影向堂に行くと、奥に干支の本尊が横一列に並んでいる。
目の前にいたご婦人2人が、本尊に向かって2回おじぎをしている。
そして案の定、次に柏手を2回打った。
さすがに目の前でこんなことされては黙っていられず、横に並んで、そっと「お寺では柏手は打ちません」と教える。→お寺での参拝の仕方
すると、二人は驚いた様子で、「ありがとうございました」とお礼を言ってきた。

ここから六地蔵石灯籠、金龍権現、観音座像、銭塚弁天を通り、阿弥陀座像と四天王が囲む宝篋印塔を眺めて、本堂に行くと、参拝者が長い行列になっているので、私は脇から本尊に参拝。

するとここでも長い列から、パンパンと柏手を打つ音が響いた。
まさか、明治になって制定された神社参拝作法を意地でもお寺で実行する主義ではあるまい。
そういう神仏分離主義者は、排仏指向なのでもとより仏寺で参拝はしないはず。
むしろ神も仏も区別しない神仏習合派というなら、それはそれで歓迎したいが、
たぶんさきほどのご婦人と同じく、仏様に対する正しい参拝法を知らないだけなのだろう(お寺で柏手打つ人が、必ずしも若い人とは限らないのが悲しい)。

宝蔵門を抜けて、大行院の三宝荒神を拝み(ここの御影は1000円とやたら高いので買わない。自宅のキッチンにはすでに三宝荒神像が祀ってあるし)、反対側の二尊仏、阿弥陀仏、地蔵仏を巡って、弁天堂に行く。
残念ながら、ここの弁天堂(白髪弁天)は巳の日以外は閉じている。

かように浅草寺境内は、見所が多い(二天門・浅草神社は省略)。
次回は、巳の日に来るとしよう。

感染者激増中なので、混雑してはいないが、さすが浅草だけに人出はそれなりにある。
その中で、若い女性の着物姿は映えるが、若い男性の着物の着方、なんとかならないかなぁ(着物を着ようとするその心意気は良しとする)。


ワクチン接種にかかわる不信電話がきた

2022年01月22日 | 新型コロナウイルス

ワクチン3回目の接種予約を開始している東京で、母宛に役所と思わせる(役所を名乗ってはいない)不信電話がきた。

事後、母の弁によると、
なんでもワクチン予約での生年月日に誤りがあるので、確認したいという。

それを聞いた母は、まずは生年月日の情報から始めて、さらに個人情報を引き出すつもりらしいことを察知したため、それ以上応対するつもりがないので電話を切った。

先日の記事に記した通り、母はすでにクリニックに予約し、役所が指定した予約はキャンセル済み。
なので役所が母の生年月日を確認する理由がない。
そもそも役所なら住民の生年月日という基本情報は把握しているはずで、それを元に予約通知が出されたのだ。

この種の不信電話は、半年前の2回目の接種の際にもあったそうだ(もちろん、2回目の接種は問題なく終了済)。

私自身も、名古屋宅の固定電話は留守番電話にしていて、メッセージを確認してから受話器を取るようにしている。
なにしろ固定電話にかかってくる大半が営業電話で、いちいち相手していられないから。
留守番だと、まともな用件のない相手はメッセージを入れずに切る。
中には、振り込め詐欺やこの手の不信電話もあったかもしれない。
携帯メールにもくるほどだから。


尿路結石を制す2

2022年01月21日 | 健康

10日ほど前、右の脇腹が痛くなった。
マラソン中に痛くなるあれと同じような痛み。
ただマラソン中ではなく、夜寝ている時に痛いので(夢の中でも痛かった)、異なる現象。
この刺すような痛み、しかも腎臓に近い位置ということは…
”尿路結石”に違いない。
※:腎臓~尿道のどこかでできる結石。できる部位によって腎臓結石、尿管結石、尿道結石。

結石は、再発しやすいといわれ、実際数回再発している。
初回こそ痛くてのたうち回ったものの、2回目以降は、石が小さかったのが幸いして、ジャンプなどして膀胱に落とすことで事無きを得ている。→尿路結石なりかけを制す

ただ、今回はかなり位置が上で腎臓に近いので、これは降りるまでに手間がかかる。
腹のその場所を押すと明らかな疼痛がある。
ジャンプを繰り返しても、すぐには降りていかない。
幸い、今回も石は大きくないようで、尿路を塞いではいないようだ。
だから痛みはあるものの、睡眠・仕事中は忘れられる程度。

実は16日に高尾山に行ったのも、主目的は「峰入り」だが、結石を下げるのも目的の1つで、山の下りでドシドシと足を踏んで勢いよく降りた。

尿路は下に行くにつれて太くなるのか知らないが、次第に痛みは消えていき、押して初めて感じるほどになった。

そして今日になってどこを押しても痛みはなくなった。
たぶん膀胱に落ちた。
あとは勢いよく排出される(石が大きいと、便器ではっきり確認できる)。

私には、かように”尿路結石”と、そしてもう1つ”帯状疱疹”が潜在しているのだが、いずれも初回を除いて、痛みに悩むことなく、以下のように対処することができている。
●尿路結石はジャンプ:医学的にはレーザーで破壊する治療法がある。
●帯状疱疹は温湿布:医学的には薬の点滴で治療可。


今どきの外出の是非

2022年01月20日 | 新型コロナウイルス

人流が問題でないという尾身会長と、外出自粛を訴える小池知事の言を、マスコミ(具体的にはテレビ朝日の報道番組)は矛盾とみなして、どっちなんだ!と息巻いているが、こっちはその姿勢にあきれた。
この幼児的な二価論理に、賢明な国民はつき合う必要はない。

真の感染場面は、マスクを外しての会話・会食であることが明らかなのだから、それを徹底的に抑制すればいいだけ。
※:尾身会長は会食は”4人”に制限すべきというが、4人でも多すぎると思う。個食以外にない。
外出はその準備過程であって、マスクをしての外出そのものが感染場面でないことは今さらいうまでもない(全員がマスクをして沈黙している公共交通機関は換気をきちんとしているので、少なくとも家族が集う換気の悪い自宅内より感染確率は低い)。

なにをおいても感染を抑える事を第一にしたい人は、準備段階から含めて抑制したがる。
感染だけをなんとかしたい人は、より具体的な場面を問題にする。
われわれはこの”間”を選択すればいいだけ。
自分の頭で判断できる(それが普通のオトナ)。

感染場面に向う外出は危険な行動。
そうでない外出は危険でない。
そういう場合分けができない、言葉や行動の表面だけを捉える無知性な言説を振り回ことがマスコミの役目なら、もう社会に不要。
もっと役に立つ知性的な情報を流してほしい。


3回目のワクチン予約してきた

2022年01月17日 | 新型コロナウイルス

自宅のある文京区から、3回目のワクチン接種について、期日・場所が指定された通知が来た。
あいにくその日は名古屋在なので、キャンセルして、日と場所を自分で選びなおす。

通知にあるリストを見ると、近所のいつもかかっているクリニックでも予約可なので、
直接赴いて予約を取り付けた(電話だと予約日の交渉が面倒そう)。

区が指定してきた2月10日より一週間遅れるが、致し方ない(ホントは1月中に受けたかった)。

過去二回の接種での副反応はたいしたことなかったし、それより、弱毒化して重症化の危険は減ったにしても、罹った後の後遺症の方がこわい(特に♂にとって)。

母も同じクリニックでの予約を取り付けた。

ワクチン効果が薄れたこの一ヶ月間は、特に感染に気をつけないと。

 


行としての登山(峰入り)の試み

2022年01月16日 | 山歩き

登山の目的を、より精神的なものへと再構築するため、山岳信仰・修験道に関する書を読み漁り、それらを参考に、”行”としての登山(これを修験道にならって「峰入り」とする)を試みた。
対象としたのは、都内の高尾山(599m)。
装備は普通の登山+α。

まず、山という異界に入る所、すなわち登山口で、山に一礼する。
それに加えて光明真言※を唱え、数珠を手首に巻き、般若心経の手拭いを頭に巻いて、歩き始める。
※光明真言:おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら、まに、はんどま、じんばら、はらばりたや、うん

山に入り、山の霊気を全身に感じる。
6号路のすぐ入った所に石仏群があり、石塔に刻まれた「洗心」の文字が(右写真)、今まではなんとも思わなかったのに、今回は素直に心に響く。

修験道の山修行である”峰入り”は、「擬死再生」の行である。
なので登山の代わりとしての今回の”峰入り”も、それを目的とする。
峰入り前半の”登り”は、自己が死にゆく過程。
すなわち、ケガレた自己を亡き者にして清める。

「懺悔、懺悔、六根清浄」(ざんげ、ざんげ、ろっこんしょうじょう)と唱えながら山道を登る。
頭で念じるだけでは駄目で、実際に口に出して唱えることでこの念を持続できる。

六根、すなわち眼耳鼻舌身意が、山の清気によって清められる。
山の清気は鼻から肺に入り、さらに動脈を通して全身の細胞に行き渡る。
その一方、下界生活で穢れた自身の気は静脈を通して肺に集められ、吐き出される。
これを繰り返しながら登ることで、高度を増すにつれてますます清くなる山の気にどんどん置き換わる。

稜線に出て、はるか足下に広がる下界を眺める(右写真)。
今、自分は下界とは異なる世界にいるのだ。
空気が汚れていることが見た目でわかるあの下界でずっとうごめいていた自分の生活を、ここ(山の世界)から俯瞰する。

高尾山は山であるほか、薬王院という寺院の境内でもある。
すなわち宗教空間としての聖なる異界でもある。
その異界の入り口である浄心門の扁額には「霊氣満山」とある。

ただし私にとっては山それ自体が聖なる空間(宗教的な霊山でなくても、山はそれ自体で霊山)なので、薬王院の参拝だけ入念にすることはない。
もっとも薬王院的な山頂である奥の院の不動堂では、不動明王の真言を唱える。
ハイカーがこぞって素通りするその奥の浅間神社では、光明真言を唱える(神と仏の区別は不要)。
※日本人の宗教観からみて不自然な神社本庁的神道には従わない。
ここから山頂までは、歩きも楽なこともあり、懺悔文 (ざんげもん)※を唱えながら歩く。
※懺悔文:我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)、皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)、従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいざんげ)

山頂に達した(右写真)。
だが、最高点の三角点は踏まない(最高点を足げにしない)。
山頂も礼拝の対象だから。
峰入りと登山(ピークハント=山頂狩)の一番の違いがこの点だ。

ここまでの登りで穢れた自分を浄化した。
山頂を礼拝した後、空に向いて、天の気を受ける。
ここでゆっくり休んで、周囲の山々を眺める。
周囲の山々(霊山)からの気も受ける。
山頂は、天地の気の接点であり、死と生の交換点でもある。
そして新たな生のために食物によるエネルギー(穀気)を補給する。
ただし、食事(料理)を楽しむことはしない。
もちろん飲酒もしない。
下界での悦楽は、山に持ち込まない。

山頂を後にして、下山を開始する。
峰入り後半の”下山”は、新しい自分に生まれ変わる過程。
という胎内で、自分が誕生し、育くまれていく。
そして自ら胎外に出て下界に戻る。
※山の神は女性

身体的負荷は登りの方が高いが、滑落などの危険性は下りの方が高い(実際の”死”は下りで招きやすい)。
下りは慎重さを最優先するので、意識は視野に集中するため、何も唱えず、無心になる。
ただし瞑想状態にはならず、刻々変化する足下の地面に瞬時に身体を対応させる。

危険箇所を無事過ぎて、傾斜もゆるくなり、下界が近づく頃、
生まれ変わった自分は山の胎内で充分成長したので、下界に戻る決意として、
四弘誓願文(しぐせいがんもん)※を唱えながら歩く。

※四弘誓願文:衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)、法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

山と下界との境界すなわち下山口に達したら、山に振り返って感謝の念をこめて一礼(光明真言を唱える)。

高尾山は、家族連れで来れるハイキング入門の山だが、このように”行”として”峰入り”することで、今まで味わえなかった充実感を得られる。

修験道を参考にした手前、また山も高尾山だったっため、仏教的色彩が強い”行”になったが、真言や誓願文などは唱えなくてもよいと思う(手拭いも次回からは無地の白手拭いにする)。


山は異界である

2022年01月08日 | 山歩き

2021年12月31日の記事:「登山の目的を再構築したい」を受けて、登山の在り方を考え直すために、まずは対象である「山」を問い直す。

山とはなにか。
山は、地面が大規模に隆起したものであり、
造山運動あるいは噴火という”地”の強力なエネルギーが発露された状態である。

そのエネルギーによって、山は”地”でありながら、”天”に向って伸びている。
天に伸びた地は、それだけ平地とは異質の”地”となる。

平地から山に移行する境界から先は、人が暮せる空間でなくなり、天に伸びる樹木が主役となって深く生い茂り、時には岩が、時には沢が山肌を刻む。
山はむき出しの自然の世界である。

すなわち、山は人が住む平地とは別の世界、異界である。
※山の異界性は民俗学で死の世界という意味で使われきたが、ここでは山の自然的異質性を根拠とする。

異界としての山は、固有の力が作用する世界であるため、人は平地の時のようには振る舞えない。
山道は、一歩でも踏み外せば、谷底に転落する(山に入っている間は、人はポテンシャル(位置)・エネルギーが高い状態にある)。
人工音や人の声はなくなり、鳥の声、葉のざわめき、沢の音、時には獣の鳴き声もする。
山中には街灯も家の灯もないので、夜は真の暗黒となる。
道に迷って助けを呼んでも虚しくこだまするだけ。
山は、本来的に人間が住める空間ではなく、命を落とす危険に曝されている。
だから登山にはそれ相当の準備・装備、そして地図と懐中電灯の携行が必要となる。

山に入って、山腹の斜面を登り詰め、稜線(尾根)に出ると、足元に麓から先の”下界”が見えてくる。
われわれが生活する”下界”を見下ろす”上界”ともいうべき異界に達したことになる。
下界の上空は濁っているが、山の空は澄んでいて、空気の質が異なることがわかる。
人工臭はまったくなく、温度が冷たい。
異界であることを、全身で実感させられる。

山の頂上は山の中でも独特の気の場である。
天に伸びた地の先端である頂上は、山(地)の気と天の気の交流の場所である。
そこは地の気の噴出口であるとともに、天の気からの照射(放電)を受ける突端でもある。
そして、周囲の山々からも気の放散を受ける。
山という異界の気を上下左右から浴びる。
それによって、人にも何らかの変化があっておかしくない。

山は気が異なるだけではない。
山という存在そのものが超越的な力をもっている。
山は、四方に水を生み出し、山中に草花、樹木、昆虫、鳥獣を養う。
その結果、人里に水、雨、木々や動物といった幸(さち)をもたらす。
その一方で、有毒ガス、噴火、風雪、土石流という災いをもたらす。 
すなわち、山は生殺与奪の力をもち、人間に対してもしばしその命を奪う。
このような超越的な霊力をもつ山は、それだけで”霊山”といえる。

この霊力をもった山に対して、人はどう関係したらよいのか。
山という異界において、山の力を感受することに意味があるのではないか。
言い換えれば、レジャーや身体運動としての登山には、この重要な点が欠落している。

人は(霊)山にどう接してきたか、日本の山岳宗教が参考になる。


歩き方は1つではない

2022年01月07日 | 作法

東京に雪が降ると、転倒する人が続出して、雪国の人からバカにされる。

なぜなら、東京人は雪道にふさわしい靴と歩き方を選択していないから。
いわば雪道をノーマルタイヤで普通にスピード出して運転し、当然ながらスリップ事故を起こしているようなものだから。

せっかくだから、歩き方は1つではない、ということを認識しよう。
残念ながら、世に出ている「歩行法」は、洋式歩行のみを唯一正しいとした偏狭なものだ。
すなわち、爪先後方蹴りだし駆動で、膝を伸ばして踵着地、骨盤を前後に回転し、足とは逆の腕を振る。
スニーカーで平らな道をスタスタ歩くにはこれでいい。
だがこの歩き方で雪道や和室を歩かないでほしい。

着物を着て和室を歩くなら、和式歩行をしてほしい。
すなわち、膝を軽く曲げた姿勢で、爪先も踵も大きく上げないすり足で、両手は腿に付けて、腕は振らない(振るにしても足と同じ側)。
こうすれば足音を立てずに歩けるし、つまずいたり滑ることもない。
江戸時代の日本人はこの歩き方だった(江戸時代の日本人は今でいう”正しい”歩き方をせずに、数百キロの街道を歩き通せていた)。

そして雪道では、足をフラットに降ろし、後方にけり出さずに、フラットに持ち上げる。
すなわち着地した靴底内の重心移動を極力避ける。
この歩き方はダイナミックに重心移動する洋式歩行とは真逆で、和式歩行に近い。
いいかえれば雪道で”正しい”洋式歩行をすると、必ずスリップする(底面がツルツルの靴ならなおさら)。

最適な歩きは、道の状態や履物によって異なるのである。
だから、歩きは複数パターン身につけ、時と場合に応じて選択すべきである。
歩き方は自然に身に付くのではなく、学ぶものである。

日本人はきちんと歩く教育を受けていない人が大半なので(本来は学校の体育でやるべき)、和式・洋式いずれの視点からも中途半端な歩き方になっている。
小笠原流礼法に基づく私の授業では、和式、洋式双方の正式な歩行法を教えている。


第6波が来た

2022年01月06日 | 新型コロナウイルス

とうとう第6波が来た。
あのままの防御を続けていればと願ったのだが、マスクを外しての会食が全国で見られるようになったので、早晩来るなと思っていた。
手招きしているようなものだから。

マスクをしたままの”人流”自体が問題ではなく、マスクを外しての”三密”が危険なのだから(三密が揃ったら危険なのではなく、一つの密でも危険)。

だから私は、11月下旬の高校同期会を欠席し(出席したら、肩組んで寮歌を歌ってしまう)、外での飲み会厳禁を貫いている。

外出時のマスクは我慢できても、会食・飲み会を我慢できない人が一定数いるようだ(私は個食・家飲みに馴染んでいる)。

オミクロン株が主流になると、感染力が強いから、増加率も爆上がりになるだろう。
ただ弱毒性になっていることが期待できそうな点が、不幸中の幸いか。
といっても私はインフルエンザすらもう御免※なので、防御解除はしない。
※:一昨年の元旦に発症し、数日高熱と頭痛で絶食して寝込んだ後、味覚異常を経験した。


雑司ヶ谷七福神巡り:2022

2022年01月05日 | 東京周辺

数ある都内の七福神巡りで、こじんまりとまとっまって、ささっと行けそうなのが雑司ヶ谷七福神。
繁華街の池袋から歩き始められるのもいい。
専用サイトからルート地図をダウンロードして、池袋駅から出発。

まずは南池袋公園そばのビルにある仙行寺の福禄寿
ここの福禄寿は、例の頭が伸びた姿ではなく、普通の少年のよう(写真)。
また本尊の真新しい木造釈迦如来(池袋大仏)も拝める。
ダウンロードしたのと同じ地図の案内図パンフがあり、各所のスタンプが押せるようになっているので、それをもらってスタンプを押す。

そこから南に2ブロック行った道脇に大小二体の布袋の石像がある。
いわゆる道沿いの石地蔵のようなロケーションだが、ここにもスタンプがある(以下、すべてスタンプを押す)。

さらに南行して、繁華街から静かな寺町(いずれも日蓮宗)に入り、墓地脇の細い道を抜け、大きな真乗院の脇にある(塔頭?)観静院に石像の弁才天があり、参拝者は水をかける。
*弁天は、同音による当て字で、元はインドの音楽神であるサラスバティなので弁才天が正しい。その証拠に、サラスバティはビーナ(シタールのような弦楽器でベースギターの役割)を弾き、弁才天は琵琶(ビーナの中国形)を弾いている。ただ弁財天にした方が、金運期待の参拝者が増える。私はお金より音楽の才がほしいが。

さらに南行して、寺町の中心・鬼子母神堂に達する。
まず重要文化財の本堂に参拝し、脇の大黒堂にある漆黒の大黒天を拝む。
本堂の脇に、鬼子母神の恐ろしげな石像がある(写真)。
また、この寺名物の「すすきみみずく」、すなわちススキの穂で作ったみみずくの人形(1800円)を買う。
境内には、じっと見つめるとゲシュタルト崩壊を起こす大銀杏があり、今回も見つめて、ゲシュタルト崩壊を味わう(→鬼子母神の大イチョウで不思議な体験)。

ここからは東に進み、大鳥神社の恵比寿を参拝(恵比寿は七福神の中で唯一日本の神なので神社で正しい)。
都電荒川線を線路を渡って、上り坂になる所で清立院の石段を上ると、近代的な堂に文化財の小さな毘沙門天が祀ってある。
堂の前で、甘酒を売っていたので(100円)、それをすすりながら境内を見て回る。
ついでに、無料の泡盛+水のサービスを受ける
ここから雑司ヶ谷霊園の高台になり、東の住宅街に入りこむと、旧宣教師館があり、無人ながら館内を見学できる。

さらに東行し、坂を降りると文京区に入り、順路最後の清土鬼子母神、すなわち鬼子母神堂の本尊である鬼子母神が出土した所に達する。

そこには、七福神の中で一番存在感のない寿老人(ただの爺さん)の代わりとして、お美しい女神の吉祥天の石像が祀ってある(写真)。

昨年8月に初めて訪れてから、この吉祥天像が気に入っているので、ここに来るのが楽しみだった。
モデル撮影さながらに、あちこちのアングルからシャッターを押す。
この美しい吉祥天のお母さんが、あの恐ろしげな鬼子母神なのだ(また近くの毘沙門天が夫。毘沙門天だから義母に負けないだろう)。
以上、歩く距離も短く、地図もスタンプも完備しているので、気軽に巡れた。
また、いずれの所も、混雑せず、数人程度しかいなかった。

ここから護国寺に出れば、地下鉄で出発点の池袋に戻れる。
私は、都バスで帰宅した。


三が日を経て体重増加なし

2022年01月04日 | 健康

正月三が日は、三日連続で昼から日本酒を飲みながらお節料理をばくばく食べ、外出はほとんどせずに家にいて、夜は坐ったまま読書。
そして寝酒のつまみに湖池屋のポテトチップス「のり塩」の大袋(180g)を3日で2袋空けた。
だが4日に計った体重は年末と変らなかった。
すなわち、3が日の怠惰な食べ放題生活が”無かった事”になっている!

まず、お節料理は、蛋白質と野菜ばかりで、食べでがある割りにはカロリー的にはたいしたことなさそう。
日本酒のカロリーは、すぐに熱となって消費される。
お節の仕上げの雑煮は、餅一個。
昼に大食するので、夜は腹が減らず、イソベ餅2個だけ。
寝酒のつまみこそ、確かに体重増加要因だが、それ以外には糖質(とりわけ餅)をたいして摂らないのがいいようだ。
湖池屋の「のり塩」の大袋を寝酒のつまみにするのは、確かに問題だが、これは正月三が日だけに解禁していることなので、大目に見てほしい(大袋2袋で2023kcal…これがなかったらむしろ体重が減っていたろう).