今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

八菅修験復活の日

2024年03月28日 | 東京周辺

相模(神奈川)の修験道の地といえば、伊豆山(伊豆国に位置)を含む箱根修験が有名で、
先日その伊豆山神社を訪れ、この地を訪れたという役行者(えんのぎょうじゃ)※の木像を見た(→記事)。
※:役小角(えんのおずぬ)。7世紀に実在した修験道の開祖。大和の生まれだが、伊豆大島に流罪になったことがあり、伊豆国周辺にも伝説を残す。

実はそこ以外に、丹沢の東麓、相模川が作る平野との間の八菅山(はすげさん:225m)を中心とした丘陵地帯に、
八菅修験という修験道の地がある。

丹沢の霊山といえば大山(阿夫利山)だが、そこからは少々離れている(大山修験とは別集団)。
修験集団としてはマイナーだったようで関東でも知られていない。

明治政府の「神仏分離令」の際、修験道も廃止させられた(日本の山岳宗教の破壊といえる)ため、
神仏習合を維持できなくなった修験の地は、神道か仏教のどちらかの帰属を迫られた。
教義的には仏教の方が近いはずだが、当時は仏教は貶められ、神道が神聖視されていた。
神道を選んで神社となった所は、結果的に修験道を排除する方向となった
仏僧が開いた箱根権現も同じ運命。例外は羽黒山神社)。

ここ八菅修験も、神社となってからは修験の行場ではなくなったが、
年に一度の本日、大祭に山伏が参加し、修験道が復活する。
そして神社の宝物殿もこの日に開かれる。


ということで、小田急線の本厚木駅から神奈中バスで「一本松」で降りて、中津大橋を渡って対岸の八菅神社に行く。

麓の参道入り口前には出店が数軒出ている(焼きそば等があり昼食可能)。
社務所奥にこじんまりした宝物殿があり、100円払って入る(館内撮影禁止)。
やはりこの地を訪れたという役行者の木像があり、他に中小の仏像が並ぶ。

この神社は村社で、地元の氏子の人たち(皆ご老人)が、烏帽子に神官の衣装をつけて、
(のぼり)や長持を持って行列を組んで上に登る準備中。

私は先回りして本殿に向かう急で長い男坂を登る(写真)。
上に行くと、氏子の人たちが、護摩木を販売している。
さらにその上に広場があり、その中央に青々とした杉の葉が山盛りになっている。
本日の火渡り儀式用だ。
さらにその上に本殿があるので、ますは本殿を神社式で参拝し、
儀式の場となる広場に降りて、見物客の輪に加わる。


程なく(12:00)、下から法螺貝の音が響いてきて、先ほどの氏子たちの行列に続いて、
法螺貝を吹きながら8名もの山伏がやってくる。
まず氏子たちが広場に入って四色の幟を四方に立て、すでに供物が備えられている神棚の蝋燭に点火する。

先頭の山伏が、広場の入り口で振り返って、後続する山伏と儀式的な問答をする。
その問答の後、後続する山伏たちが、広場に並び、弓で四方に矢を放ち、剣や槍を振るって邪を清める。
そして杉の葉の山に火をつけ、まずは灰色の煙が濛々(もうもう)と立ち上がる。

先頭だった山伏が太鼓を叩き、それに合わせて他の山伏たちは手持ちの短い錫杖を振りながら般若心経を唱える。
私も日光中禅寺で買ったミニ錫杖を持ってきたので、一緒にそれを振って般若心経を唱える。

山伏が葉の山の下部を竹竿でこじ開けて空気を入れると、煙の下から真っ赤な炎が舞い上がる(写真)。
杉の葉の山が”護摩壇”になった。
正面に座った山伏が護摩木を炎に投げ入れる。
周囲の見物客も四方八方から自分の護摩木を炎に投げ込む。

炎が下火になると、山伏たちは不動明王の真言を唱えながら、
半ば灰になった護摩壇を金属の熊手で整地し始め、中央部を平らな地面にして火渡りの通路を作る。

そのまま土の面にして、熱を冷ますのかと思っていたら、その面に新たに木片を敷いて、再び炎を立てる。
そしてなんと、裸足になった山伏がその炎が立っている面を歩き抜ける(写真:山伏が動いているのでピントが乱れている)。
本物の火渡りだ。
これには周囲から歓声が上がった。

そして、灰になった木片を退けて、完全に土の面を出して、周囲の見物客たちが渡ることになる。
私は、この後の丘陵歩きのため脱ぎにくい山靴を履いてきたのだが、この場に臨んで、火渡りに参加しない選択はない。
火渡りの行列に加わり、裸足になって、熱くない土の面を歩き抜いた。
濡れ手拭いを渡され、足を水に浸す場を抜けて、足を拭いて靴をはいた。

以上で、大祭の儀式はおしまい。


儀式内容は真言密教そのもので、高尾山の火渡り(→記事)と同じだった(ちなみに私の火渡り経験はこれで3回目)。
日頃は無人の村社に、今日だけ修験道が復活し、自分もそれに参加できた。

本殿直下には、不動明王を祀る護摩堂があり、参道沿いには石仏が並んでいる。
すなわち、この神社は神仏習合という修験の伝統を保持している。

本殿裏を登って丘陵の上に出ると、そこは整地された「八菅修験ハイキングコース」になっていて、
その先に行場跡が点在している(説明板あり)。
こうして跡地としてでも修験道を身近に感じる所があるのは関東では珍しく、貴重だ
※東京の高尾山が”修験の地”を売り出したのは明治以降で、今では関東有数の修験の地になっている(私も火渡り・滝行に参加)。

といっても200m程度の穏やかな丘陵なので里に近く、
修験の行場としては(山をやっていた者としては)難易度が低すぎて、行場としての魅力・価値も落ちると思う。
この丘陵の奥にある仏果山(747m)・経ヶ岳(633m)の山塊がもう少しマシな行場たりえたろう。
更に丹沢表尾根の行者岳(1209m)付近の岩崚ならば本格的な行場たりえた
※:場所と山名からして、丹沢修験の行場だったようだ。ちなみに相模の修験集団は、箱根・神縄・丹沢・大山・日向・八菅などに分れていたらしい(川島敏郎『大山詣り』より)。



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