哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

物質よりも大事なもの

2007年07月11日 | 7命はなぜあるのか

Waterhouse9hylas_1 世の中で自分の命が一番大事、と思い込んでいる人がたくさんいますが、それは存在しない神様を拝んでいる素朴な信者と変わらないのではないでしょうか。その神様に誉められたくて善行をすれば、社会はうまく動いていく。実用上は、それはとても役に立つ。しかし実のところ、自分の命というものは、すくなくとも自分にとっては存在しない、と言うほうが、理屈としてはもっとも正しい。つまり、自分にとっては、他人の命があるだけです。私の命は、私の目に見える物質としての私の身体の中にはないけれども、私の身体を見ている他人の身体(脳)の中にある。私にとっては、仲間の人間のだれもがそれがあると感じていると感じられるから、それはあるのです。

目に見える物質ではないけれども、だれの脳の中にも物質の感知よりもずっと深いところにある錯覚の存在感として、生き物の命というものはある。そういうものは、人間にとって、目に見える物質よりもずっと大事なものです。

だから人の命は、どの物質よりも大事なものなのです。

(サブテーマ:命はなぜあるのか? end  ご愛読感謝)

(次回からは サブテーマ:心はなぜあるのか? 乞うご期待)

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自分が生きているという錯覚

2007年07月10日 | 7命はなぜあるのか

Waterhouse8naiad 胸に手を当てて、心臓の鼓動を感じながら、深く考えて見ましょう。心臓は脈動しているけれども、エアコンのモータだって回転し続けている。私には命があって、エアコンにはないのか? 自分の命って何だ? 他人に命があることはよく分かる。でも、自分に命があるかどうか、自分が生きているのかどうか、目をつぶって、正直に言えば、よく分からないでしょう? 自分の命、それは自分の外観が他人から見てどう見えるか、他人の視線を感じることから想像して自分の姿を思い描いているところから来る錯覚に過ぎない。頭に手を当てて思い出してみましょう。ずっと幼いころ、だれかに教えられて、自分は生きているんだ、と思うようになったのではないですか。思い出せないでしょうけれど、それはだれかに繰り返し教えられて、そう思うようになった、という気がしませんか? だから、自分が生きている、ということは、(他人にとっては事実でしょうが)自分にとっては錯覚かもしれない。素直にいえば、それはまったく錯覚のように思えますね。実際、それは存在しない錯覚のことではないでしょうか。

拝読ブログ:エアコン故障Σ(゜∀。;)

拝読ブログ:いつもと違うか?

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私の命は私の中にない

2007年07月09日 | 7命はなぜあるのか

 Waterhouse7adonis 閑話休題、小学生対策はさておき、話を戻しましょう。

ふつう私たちはどう思っているか。人は死ぬ。人が死ぬと命はなくなる。赤ん坊が生まれると、それは新しく命を作り出す。人の命は流れの中の泡のように現れ消えていく。生まれ、育ち、子を産み育てて、死んでいく。親から子へ綿々と受け継がれるものとしての命。そういう命の流れの存在を感じ、神秘と感じ、大事に守ってきたのが人類です。

そういう命が自分の身体の中にもある。自分はいつか死んでしまうだろうけれども、それまでの間、ずっと自分のものとして命は、ある。そういう考えを、人は持つようになりました。

しかし、もう一度考えてみましょう。私たちはなぜ、命は一番大事なものだと思っているのか。「自分の命」と話し手が言うとき、もともとの言葉の働きとしては、それは聞き手が感じる話し手の人体の外見的な動き(息をしているとか)に対応するものを指している。もともとこの言葉は、それしか表わしていません。それは聞き手の無意識な脳の機構の活動としてある。話し手は「自分の命」と言うことで、聞き手の脳内のその活動を期待する。もともとはそういう単純なことです。話し手の中に、なにか立派な神秘的なものがあるわけではありません。独り言で言うときも、日記に書くときも、哲学論文に書くときも、同じ。話し手(または書き手)は、聞き手を想像して、聞き手が見ているはずの、物質としての話し手の身体の状態を言っているだけのことです。

つまり、私の命は、実は私の中にはない。それを思っている他の人間の中にある。それを思っている他の人間の中の私の中にある、と私が思うものなのです。

拝読ブログ:やっと最終日の最終行程「人体の不思議展」を見る

拝読ブログ:なぜ人を殺してはいけないか(10)――大澤真幸

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なぜ人を殺してはいけないの?

2007年07月08日 | 7命はなぜあるのか

Waterhousediogenes 「命が一番大事って、どういうこと?」

小学生にこう聞かれて、大人は答えられない。

「なぜ人を殺してはいけないの?」 

 小学生のこういう質問に、安易に答えてはいけません。「命は一番大事なものだからだよ」などと答えると、かしこい子供は、「命が一番大事って、どういうこと? だれがいつ、決めたの?」と来る。そうなったら、大人に勝ち目はありません。

小学生はこういう質問を持ち出して、大人が困るのを楽しみたい、という気持ちもあるでしょう。もちろん大人は答えられない。これは哲学的な質問だからです。つまり、答がない。なぜなら、それを言葉で質問することが間違いだからです。しかし、小学生に向かって、哲学はなぜ間違えるのか(筆者の持論;既出)を語り始めるのも大人気ないでしょう。まあ、筆者なら愚問をもって愚問を制する戦略で応戦する。つまり「じゃあ、なぜ君はパンツをはいているの?なぜパンツを脱いで全裸で道路を歩いてはいけないの?」とか、「なぜ、道路でうんこしてはいけないの?」などと聞き返す作戦を取りますね。もっとも、古代ギリシアのある哲学者は、公共の劇場でうんこすることで、犬のように生きることを理想とする哲学を教えたといいますから、うんこも哲学的とは言える。

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死は概念ではない

2007年07月07日 | 7命はなぜあるのか
Waterhouse6daphne

目の前のその命が生きていることは、それを見ている自分の感情が動くことで分かる。人間がそれを感知してすばやく対応できるように、脳のこの感知機構はできています。それが、生きていること、つまり命、ということの意味です。命の意味は、それしかない。それは生物学を勉強して分かるものではありません。言葉で言われて分かるものではありません。目でそれを見ると、自分の感情が動き、同時に身体が、無意識に自然に動いていく。それでその物に命があると分かる。

死ぬこと。生きていることが止まること。それも、それを見ている私たちの身体が直感で感じることです。それが死といわれるものです。生き物の命、生と死、そういうものは客観的物質世界の中にはありません。概念で捉えて考えたり、言葉で言い表して理解したり、科学の対象として分析したりするものではなくて、無意識にただ感じるだけのものです。

それは観察されるものの中にあるのではなくて、観察者の無意識の感情の中にしかない。観察者としての人間はそれを感じ、感情を揺すぶられることから逃れられない。それが命。それを感じるものが人間です。

拝読ブログ:「死の遺伝子」を発見

拝読ブログ:命というものの神秘

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