哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

お気に入りの身体

2009年09月30日 | xx私はなぜ息をするのか

幼児のころから慣れ親しんできたこの身体を、いつのまにか私たちは、お気に入りのゲームの主人公のように、ひいきのサッカーチームのように、愛玩するペットのように、愛するようになる。

私たちは、お気に入りのゲームの主人公の動きを、ひいきのサッカーチームの動きを、そして愛玩するペットの動きを注目する。そうすると、それが何をしようとしているかが予測できる。その予測によってそれがしようとしていることを、それの欲望と感じる。その、お気に入りのゲームの主人公の、ひいきのサッカーチームの、そして愛玩するペットの、欲望が、私たちの欲望になる。それと同じ仕組みで、私たちは私たちの身体の欲望を私たちの欲望と思い込む。そしてその身体がするであろうと予測される行為を私たちの意志と思う。

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運動出力と感覚入力

2009年09月29日 | xx私はなぜ息をするのか

Ertev

私たちは、自分が感じる内部感覚や感情を、目の前に見える現実世界の一部であるように見える私たち自身の身体という物質に貼り付けて感じ取る。この身体という物質がそれらの内部感覚や感情を発生している、と感じる。内部感覚や感情ばかりでなく、見えるものも聞こえるものも、自分のこの身体という物質が感じている、と思っています。たしかに、感情が高ぶって涙が出るのはこの目だし、その目をつぶればものは見えない。この耳をふさげば音は聞こえない。

しかし結局、(拙稿の見解では)それはそういう理屈でそう思うのではなく、身体でそう感じる。つまりそういう運動感覚シミュレーションがうまく物事を予測できるから、私たちの直感はそう感じるように学習した。運動出力と感覚入力がうまくシミュレーションにあわせ込める。そのマッチングのシミュレーションに使える物質世界の対象物を、私たちは、自分の身体と思う。そうしてとらえた自分の身体を使いこなす感覚が身についてくる。使いこなしていく自分の身体に慣れ親しんできます。

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なぜ現実は唯一なのか?

2009年09月28日 | xx私はなぜ息をするのか

ここで重要なことは、このような現実の作られ方を私たちは直感ではまったく感じ取ることができない、ということです。複数のいろいろな現実が現れることがある、ということも直感では感じられない。それらの現実がときには矛盾することも、私たちの直感は感じ取れない拙稿19章「私はここにいる」)。むしろ私たちの直感では、現実はただ一つしかない。そして完結している、と感じられる。

私たちにとって現実は、はっきりとここにそれがある、としか感じられません。逆に言えば、そうでなければ困ったことになってしまう。現実が唯一でなければ、私たちは確信を持って身体を動かすことができませんからね。

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「現実」の起源

2009年09月27日 | xx私はなぜ息をするのか

Erteu

さて、最後にまた本章のテーマに戻りましょう。

私はなぜ息をするのか?

私はなぜ私が息をすると思うのか?

それは私たちの予測装置がそれを予測するからである。息をする運動を意識するから、私は私が息をすると思う。息をすることを言葉で言えるから、私は私が息をすると思う。息をする身体という物質の変化を科学で表現できるから、私は私が息をすると思う。

私は息をする。それは私が感じ取る現実である。つまり、私たちの身体に備わった(それぞれの)予測装置がうまく働くとき、その装置に乗って動き回る経験を指して、私たちは、(それぞれの)「現実」というのでしょう。

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現実は身体が作る

2009年09月26日 | xx私はなぜ息をするのか

哺乳動物の進化の過程で、目の前で変化する物体や運動する動物体の変形と移動の予測装置が身体に備わってくる。その予測装置が予測した状態に自分の身体を誘導するために、(拙稿の見解では)類人猿の進化の過程で、現実を感じ取るという仕組みが人類の身体に備わるようになった。その機構が、脳の内部に意識を作り出し言語を作りだし科学を作り出した。それに対応して私たちの外部には意識できる現実世界や人間社会や言語表現や科学的に説明できる物質世界が、それぞれの現実として、映し出されていくようになった。

身の回りの環境を生々しい現実と感じ取って、それに反射的に対応するように身体運動を誘導することで生存繁殖に便利な行動を作り出す。(拙稿の見解では)そういう仕組みの身体を持つように人類は進化した。科学が描くような物質のあり方が現実と感じ取れれば、道具を操作して物質をコントロールする場合にとても便利です。それで私たちはこの物質世界を生々しい現実と感じる。人の心がよく分かり、人々の作る空気を敏感に感じ取れれば、現代の社会の中を生き抜いていく場合に相当便利です。それで、そういう社会に暮らす私たちは、現代社会の人間関係を生々しい現実として感じ取るような身体を持つようになる。言語表現を生々しく感じ取れれば、会話を重んじる社会生活で有利です。それで言葉の操り方そのものをまたひとつの生々しい現実と感じて、私たちは社会を生き抜いていくようになりました。

拝読ブログ:つきはぎだらけの脳と心脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?

拝読ブログ:現の世を一歩下りる

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