哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ドライな思想風景

2011年06月30日 | xx5存在は理論なのか

Almatadema_the_education_of_the_chi ここに見えるリンゴに反射する光エネルギーがいかにして観察者の脳神経系の連鎖的活性化を引き起こすかという問題は科学であるけれども、ここに見えるリンゴは本当に存在するのか、という問題提起は科学ではありません。哲学の対象でしょう。科学の問題は科学と技術が発展していけば、いつかは答えが見つかる。しかし哲学の問題と思われるものは、たぶん答えがない。

現代科学は現象から帰納的に原因を推定し理論を作っていく。その理論によって逆に現象を予測しそれが当たっていればその理論を科学とする。それだけのルールで着々と進んでいきます。存在の問題などはおいてけぼりにされます。存在は本当に存在しているのか、などとつぶやいている拙稿などあっというまに時代から振り落とされるでしょう。まさに、答えの出ない哲学など無視して科学と経済は進んでいく、という現代のドライな思想風景はここからきているともいえますね。

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リンゴが観測できるわけ

2011年06月29日 | xx5存在は理論なのか

現実世界の存在を大前提にすれば、当然、リンゴがここにあるからリンゴが目で見える、ということになります。リンゴの科学を進める場合、リンゴがここにあるからリンゴが観測できる、というところからまず議論が出発するでしょう。そして網膜に映る映像から脳神経系はどのようにしてリンゴが存在することが分かるのか、という近代認識論から引き継いだ現代認知科学の問題が出てくる。それはそれで科学として重要な課題になっています。

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物質の実在という前提

2011年06月28日 | xx5存在は理論なのか

Almatadema_tepidarium_lawrence_al_4 近代哲学から現代哲学への過渡期と見ることもできる十九世紀後半の西洋哲学は、勃興する科学の影響を受けて、現象から帰納的に原因を推定し、あるいは感覚情報から世界の実在を推定する理論を作っていきました(たとえば、一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』既出、一八八六年 フリードリヒ・ニーチェ善悪の彼岸)。これらの理論によれば、世界は現象から理論によって推定され、現象と理論の整合性によって存在を推測される、とされます。現代科学は、本質的にこの時期の哲学を下敷きにしているとされています(一九八三年 カール・ポパー『現実と科学の狙い』既出)。

実際に科学を進めている現場の科学者はずっと素朴で、科学哲学や科学基礎論などに深くかかわる気はなく、単純に現実世界の存在を大前提にして理論を組み立てています。現在最先端の宇宙論や脳科学や認知科学も当然、物質の実在という同じ前提を使っています。

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現実を感知する感覚器官

2011年06月27日 | xx5存在は理論なのか

拙稿の見解によれば、これら古典哲学から中世の神学を経て近代哲学に至る華々しかった形而上学的な論争は、残念ながら、恐竜のように滅亡してしまって今日に子孫を残していません。近代哲学が中心的な問題としていた存在論と認識論、観念論と経験論の論争なども、現在では化石のように過去の哲学史として残っているだけといえます。

これらの哲学論争は、はじめから現実世界の存在を大前提にしています。そうすると現実世界を感知する感覚器官のアウトプットは何か、などという問題が派生してくる。視覚とは何か?触覚とは何か?それらと現実世界との関係はどう考えればよいのか?視覚と触覚の統合は可能か不可能か?などの諸問題が出てきています。

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近代認識論

2011年06月26日 | xx5存在は理論なのか

Almatadema_pyrrhics 西洋近代哲学の創成期(十七~十八世紀ころ)には、現実にあるこの世界を人間はなぜ目で見て認識できるのだろうか、という問題(近代認識論という)が提起されました。空間や物体はまず触覚で感知され、その後経験によって視覚で認知できるようになる(一七〇九年 ジョージ・バークリー『視覚新論』)とか、 空間や物体は生まれつき人間に備わっている幾何学の理解力にもとづくから視覚で認知できるようになるのだ(一七〇四年 ゴットフリード・ライプニッツ人知新論)とか、諸説が戦わされました。十八世紀啓蒙時代の西洋哲学は、人間の理性の働きを見事に整理しましたが、その前提は世界の実在であり、結論もまた世界の実在となっています(たとえば、 一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判既出)。

拝読ブログ:日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ

拝読ブログ:BodySpace

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