哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ガリレオvs. ローマ法王

2007年05月03日 | 4世界という錯覚を共有する動物

足元の深淵を覗き込むと、引きずり込まれてしまいそうですか? それは、それを感じている自分自身が怖いからでしょう? 光り輝く現代文明の世界の中で、現代人が唯一真っ暗な深淵と感じるものは、自分自身の存在かもしれませんね。若い人が自分を怖がるのはしかたのないことです。しかしそんなものは、ガリレオが言いふらしている地動説を聞いたときのローマ法王の恐怖に比べればたいしたことはありません。それでもそのしばらく後、法王も科学者もふつうの人も、地面が動いていることを知ったからといって、毎日の生活は何も困ったことにはならなかった。それどころか、天体の力学を知ることは自然科学の大発展のきっかけを作りました。人々の生活は豊かになりました。地動説から数百年後には、その科学を基盤にして力強い現代文明が立ち上がってきたわけです。

過去のそして現代の哲学が何も答えてくれないことが分かってしまったからといって、悲観する必要はありません。それが分かったことで、むしろ私たちは、言葉に惑わされずにまっすぐに事実を見ることができるようになる。むずかしい言葉など使わなくても、何も困ることはありません。人生が楽になるだけです。たとえば筆者などは、言葉を上手に使う高級な言語技術者にはなりそこないましたが、おかげで言葉を飾る苦労も知らず、毎日を楽々と生きています。

(サブテーマ「世界という錯覚を共有する動物」end 長期愛読感謝 

(次からはサブテーマ「哲学する人間を科学する」ご愛読を請う)

拝読ブログ:ガリレオのアルバイト

拝読ブログ:西欧封建社会とキリスト教会

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パンドラの箱の底

2007年05月02日 | 4世界という錯覚を共有する動物

まあ、そういう哲学の科学が本格的に発展してくるのを待つ間、これ以上、間違った哲学を増やすことははやめて、語ることができることだけを語ってみましょう。旧来の哲学のように新しく難しい言葉を次々に発明して世間に売り出し、錯覚の上にさらに間違った錯覚を付け加えて手品のように人々を幻惑したり(と同時に論者自身が自分の作った言葉で幻惑されてしまったり)する商売は控えたほうがよさそうです。むしろ逆に、欠陥商品の責任を取らされたメーカのように、間違った過去の哲学が世間に売りさばいてしまった欠陥品である間違った人間観、世界像、哲学思想、あるいはその欠陥の原因になっている日常語の曖昧さ、混乱、錯覚をひとつひとつ点検し、回収してまわるほうがよいのではないでしょうか。

それはふつうの言葉を使って、当たり前のことを言ってみるだけです。私たち現代人の誰もがうすうす感づいていることを、もう少しはっきり言うだけのことです。

それは、近代哲学が抉り出してしまったパンドラの箱の底、虚無の真っ暗な裂け目、そこから抜け出すことができなくなってしまった唯物論の深淵、です。つまり、自然科学の描くような物質世界はもともと存在しない。もちろん、目に映るこの世は存在しない、命は存在しない、心は存在しない、意識、苦痛、幸福というものは、実は存在しない。自我とか自分というものも、やはり存在しない。私は存在しない。死は存在しない。存在は存在しない。そして、それら存在しないものが、なぜ存在しているようなのか? なぜ存在しているように思えるのか? 人間はなぜ、それらが存在しているかのように確信するのか? なぜ、それら目に見えない、存在しないものたちが、目に見える物質たちよりも、私たちの人生にとって大事なものたちだと感じられるのか? なぜ、いままでの哲学はこれらの問題が解けないのか? 

科学はこれらの問題の解決に役立つのか? こういうことを感じる人間の脳の機構を作り上げる物質の法則は、なぜこうなっているのか? それは現代の科学知識だけを使っても、ある程度見分けることができます。そしてそれを知ることはちっとも怖いことではありません。

拝読ブログ:赤ちゃんポスト完成

拝読ブログ:虚無

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超精密脳測定装置

2007年05月01日 | 4世界という錯覚を共有する動物

Hatenacranach1 筆者の予想では、いずれ科学がますます発展していくと、人間の脳神経系の微細な活動をそのまま観察する(非侵襲的で)超精密な装置が作られるはずです。そういうものを使って人間どうしはお互いに感じていることを目で見ることで共感し、その感覚を共有化できるようになるのかもしれません。

そのような科学に支えられて、人間の相互理解は現在よりも格段に深くなっていく。そのときはじめて、脳の中に起こる感情や錯覚を正確に言い表す言葉が作られてくるでしょう。その言葉は自然言語に近いものなのか、画像の形を取るのか、偏微分方程式、あるいは神経ネットワーク多次元状態ベクトル遷移関数のような形を取るのか、筆者にはまったく分かりません。

ただ、たぶん間違いなく、そういう新しい言葉を使って、いつか哲学は人間が感じるもの全体について迷いなく語ることができるようになる。そのとき、それは哲学であって同時に科学になっているはずです。

哲学の科学、哲学学、あるいは新語を発明するのが好きな哲学的伝統の顰にならって、「メタメタフィジカ(メタ形而上学?メタメタ科学?)」とでも唱えましょうか? たちまちたくさんのツブテが飛んできてメタメタにハジカれそうですね。

ニュースサイト:脳内メカニズム解明

拝読ブログ:Why OO Sucks

拝読ブログ:酒の味覚をメタ認知

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哲学と科学との矛盾

2007年04月30日 | 4世界という錯覚を共有する動物
Hatenacranach2

哲学は、その間違いを人々に権威を持って教えてしまいました。それで世の中の人々が皆、それら錯覚の存在を当然と思ってしまったのです。あいまいな錯覚に物質以上の確実な存在感を感じてしまう。それは歴史上、文明の発展にとっては悪いことではありませんでした。近代の西洋文明のように、哲学に支えられて明瞭な言葉の体系を得た人々は自信を持って自分の人生に努力を集中し、個人の人生目標を確立し、感情を整理してビジネスライクに他人と協力し、現実の世界を開拓していきました。しかし、いまや、それは過去のことです。現代のように宗教が権威を失い、哲学と科学との矛盾が、ここまで明らかになると、哲学の間違いは人々を混乱させる役割を果たすようになるのです。

一番大事そうなことが分からない。世界は大きな謎を抱えているらしい。そのままその謎に知らん顔をして世界は毎日もっともらしく動いていく。冷徹な科学と経済はどこまでも力強そうになってくる。政治は偽善の応酬ばかりで愚劣な社会習慣を改めることができない。そういう白々しい偽善の世界に生きなければならない現代人はニヒルになっていきます。それを科学のせいにしたり政治のせいにしたりしてみるけれども、どうもそうではない。

それでその謎を解こうとするまじめな哲学は現代の科学や経済や政治がもたらす悲惨や偽善、この世の不条理について語りたくなってしまう。しかしそれを語りだすと、また新しい難解な言葉を作り出して袋小路にはまり込んでいく。そして結局は人々に見放されていくのです。そういうふうに、今までの哲学は間違えていったのです。

拝読ブログ:高校生の出世欲

拝読ブログ:代理出産をめぐって「戸籍」におもうこと

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哲学に期待しても無理

2007年04月29日 | 4世界という錯覚を共有する動物
Hatenacranach3

さて、駄洒落などはいい加減にして、本題に戻ります。哲学であろうと何学であろうと、言葉で語る以上、語ることができないものを語ることはできません。言葉で語ることができるものよりも語ることができないもののほうがずっと多く、ずっと人々の感情に結びついています。それらは人生において言葉よりも、たぶん、ずっと重要なものです。人々は、そういうよく分からないけれども重要そうなことをはっきり語ることを、哲学に期待するのです。ですが、それは無理です。哲学者はそれらの重要なことを、何とかはっきり語りたいでしょう。それでもそれを語ると、かならず間違いを語るしかないのです。

語ることができないものを無理やりに語っているうちに、それを語ることができるものであるかのように錯覚してしまいます。するとそれは、客観的世界に存在するものであるかのように感じてしまう。命、心、自分、個人、幸福、そういうものがこの世に存在すると思い込んでしまうのです。

拝読ブログ:4コマ哲学教室 

拝読ブログ:ゲゲゲの鬼太郎妖怪占い

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