哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

神秘感の落とし穴を避けて

2007年06月30日 | 6この世はなぜあるのか

世界の存在感は、時代とともに変わります。人類の経験と知恵の蓄積によって世界の見え方は違ってくるのです。たとえば、中世以前の昔、睡眠中ので経験した出来事は、現実の世界で起こることと深い関係があると思われていました。つまり昔の人々にとって、夢は(過去、現在あるいは未来の)現実世界の一部だったのです。夢に関して、現代人の感覚は全然違います。私たちは、夢の中で起こったことは現実には何の影響も及ぼさない、と知っています。現代人は、客観的に存在していると感じられるこの物質世界が唯一の現実の世界だ、と思っています。このように人間が感じる世界の存在感は、時代の常識に影響されているのです。

この物質世界は、このようにその存在の基盤が絶対のものではないという欠点のほかにも、重大な欠点を持っています。つまり何とか世界は存在はしているらしいといってもよい、とは言えるものの、この世界はその内部に大事な物を含んでいません。

この世界は、私の感じる大事なものたちを含んでいません。この不確かな物質世界の中に存在しているかのように見える私らしいこの人体はその内部に、私たちが一番大事だと感じている感覚と感情、不安、恐れ、苦痛、神秘感、幸福、愛、誇り、思い出、恨み、後悔、欲望、意思、意図、そしてこのバラの美しさを持ってはいません。人体は、私の脳は、ただの物質です。私が確かに感じる大事な感覚、感情たち。不安、恐れ、幸福、主体性・・・それらは、物質である脳の中にあるものではない。つまり、この物質世界にあるものではないのです。では、それらは一体何者なのか? この物質世界とは違う世界があるのか? だんだん、そう思いたくなってしまいます。

こういうことは、考えても仕方がない、と割り切れれば問題はありません。考えなくても人生は無事に過ごしていけます。しかし、これが割り切れずに、なまじひっかかってしまうと、困ったことになります。あの世とか、精神世界とか、宗教とか偽科学とか、神秘感を利用するいろいろな話が作れてしまいます。もちろん、そういう考えは全部間違いです。この世に神秘など、どこにもあるはずがありません。けれども、なまじ考える人たちにとっては、ここは危ないところです。ここらへんから、今までの哲学は間違えて行ったのです。このわけの分らないところを、神秘感の落とし穴に陥らずに、なんとかうまく乗り切ることはできないでしょうか? 拙稿としては、このことについて、読者の皆さんと一緒に、この後詳しく調べていくことにしましょう。

(サブテーマ「この世はなぜあるのか?」end 長期愛読感謝) 

(次からはサブテーマ「命はなぜあるのか?」ご愛読を請う)

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拝読ブログ:無名兵士の言葉 / A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

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私>物質>脳>私>物質>脳>私・・・

2007年06月29日 | 6この世はなぜあるのか

ここのところは重要です。日常生活では、この世界が物質として明らかに実在して、その中に物質として私の身体があって、その身体の中に私がいる、というふつうの感覚で生きていればまったく問題はありません。そこに人生の苦しみも喜びもすべてがあり、それを力いっぱい生きることにしか人生の意味はありません。

けれども、私とは何かとか、死んだらどうなるか、というような(自己遡及的な)哲学のようなことを考えはじめたら、そのまま素朴な世界の実在を前提に考えてはいけません。それをしたら過去の哲学の間違いにはまり込んでしまいます。

目の前の物質世界は存在しているように感じられるけれども、実際に存在しているかどうかは確かめようがない。私たちは、ただそれを便宜的に存在するものとして扱っているだけだ。そこから出発しなおすしかありません。

その不確かな物質世界の中に私らしい人体が、ひとかたまりの物質としてここにあるように感じられる。けれども物質としてあるらしいこの人体はただの物質だから、私の主体とか、意思とか意識とか、私の心とか、私とは何かとか、死んだらどうなる、とかいうこととは、もともと関係ありません。そういう場合の私のこととはちょっと違います。全然違うといってもよい。目に見える物質世界の中の私は、物質としての人体としか見えません。それが私そのものであると感じればそのようにも思えるけれども、所詮は物質です。その物質の中には原子や分子、つまり物質しかありません。 その私らしい人体の中に、私が今感じている不安、恐れ、苦痛、神秘感、幸福、愛、誇り、思い出、そしてこのバラの美しさ、そしてそれを語っている私の主体、などを見つけようとしていくらその脳細胞を解剖したところで、あるいは分子構造を解析したところで、それは見つからないのです。

今ここに確実に存在しているように見えるこの物質世界は、人間の脳の機構によってこのように見えるけれども、それ以上の意味で存在しているということではない。私たち人間のだれもが、これを存在する、と感じるから、それが存在すると感じられるだけなのです。

拝読ブログ:月下美人

拝読ブログ:不確定性原理と重ね合わせのたとえ話 3

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オッカムのかみそり

2007年06月28日 | 6この世はなぜあるのか

もしかしたら、私たちが目の前に見える(自分を含む)人間という存在だと思い込んでいるものは、それぞれがコンピュータの中で実行されているゲームソフトのキャラクター(アバター?)のようなもので、お互いにディスプレイ画面の裏にあるデータを交換しながら同期しているだけなのかもしれない。目の前に見える現実である世界全体も、実は超大容量メモリつきの超高速コンピュータの中にある大きなコンピュータシミュレーションで、それぞれの人間をあらわすソフトとデータ交換している。それら全部のソフトやデータは、ひとつの巨大なコンピュータの中で実行されているシミュレーションプログラムなのかもしれない。とも言えるわけです。

このたとえ話のように、人間は、自分が感じているこの世界が本当に存在するかどうか、決して見極めることができません。存在すると仮定しても、この世界がさらに大きなどんな超世界の部分空間になっているのかいないのか、まったく確かめる手段はありません。どんなことでも想像できてしまうだけです。

見極められないものについて、存在するとかしないとか言っていてもしかたがないことです。そういう存在感は錯覚だ、意味がない、と言い切ることもできます。どうしても区別ができないものを区別しようとしてもしかたがありません。区別するということ自体、意味が不明になるのです。

だんだん、取り留めのない話になってきそうなので、このへんで、話をこれ以上おもしろおかしく発散させることはやめて、すこし整理することにしましょう。とりあえず話を単純にするために、「完璧に存在するかのように存在感をもって私たちが感じられるものは存在する」としてしまいましょう。存在する、という言葉の使い方はそういうことだ、としてしまっても一向に不都合はありません。いくらでも複雑に考えられる場合は、一番簡潔な考え方でいくのがよいでしょう(こういう決め付け方を哲学では「オッカムの剃刀」という)。だからこの世界は、ややこしいバーチャルリアリティなどではなくて、直感で単純に感じられる通りにリアルなのだ、とするわけです。「私たちが感じる通りこのように世界は存在するということにしよう」と私たちが言いきってしまえば、何の問題もないのです。

この物質世界が存在することを認めるためにはそうすればよいし、そうするしかありません。

拝読ブログ:アバターでバニーボーイ その1

拝読ブログ:セカンドライフで携帯を貰う

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現実と偽現実

2007年06月27日 | 6この世はなぜあるのか

この世界が存在することと、この世界が存在するかのように感じられることとは、論理的には一応別のことと言うべきでしょう。しかし、世界がこのように存在するから世界がこのように存在するように感じられるのか、世界はこのようには存在しないのに世界がこのように存在するかのように感じられるのか(偽現実など)、区別はつきません。世界がこのように存在するかのごとく感じられるかどうかは見極められますが、世界がこのように存在するかどうかは見極めることはできません。

たとえば、世界がこのように存在するように感じられるように高速の電気信号を私の脳にインプットする超高性能のコンピュータ上にインストールされた超高性能の現実そっくりなデータを作り出すシミュレーションのような機構があれば、私は世界がこのように存在すると感じるわけです。あるいは私が私の脳の働きだと思っている私が今感じている記憶や感情や思考も、その機構の一部としてのソフトウェアが算出した数値データかも知れません。たとえば、ニック・ボストロムという若い哲学者が提唱している偽現実は、こういうアイデアの一種です。どこかの銀河系のどこかの惑星系で繁栄した技術文明の高度なコンピュータ技術がこういう偽現実シミュレーションを作り出さないという証明はできません。もしそうなら、いま私が感じているこの現実世界がそれかもしれない。そうでないということは確かめようがありません。実際には直感でそうでないような気がするだけです。つまり世界がこのように存在すると私が感じるとしても、実際にどういう機構で私にそう感じさせることができるのかは、いくらでもおかしな可能性が考えられます。たとえばそれは、ふつうに考えられる物質世界の構造なのかもしれないし、あるいは高度なコンピュータシミュレーションかもしれないし、その他魔法のような超技術の仕掛けかもしれない。ようするに無限の可能性がありうるわけです。

拝読ブログ:マトリックス考

拝読ブログ:電脳コイル

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共有する物質の存在感=物質世界

2007年06月26日 | 6この世はなぜあるのか

人類はこの世界の存在感を、さらに他人の振る舞いを観察することで確認する能力を持っています。自分が感じる目の前の物質の存在感を、目の前の他人も感じていることを感じます。前を歩いている人が石ころをよける動作をすると、私もしっかりその石ころをよけることができます。

人間どうしによる世界の存在感の共感の相互作用が、さらに世界の存在感を極限にまで強めているのです。逆に言えば、この世界は人間が群として集団的に感じ取っている存在感の共鳴の上に作られている、といえます。

身の回りの物事や環境の存在感を共感する神経活動は、始めは群動物としての霊長類が仲間と感覚を共有して、集団として危険を避けるために発展し始めたのかもしれません。しかしのちには仲間同士のコミュニケーション、獲物相手の狩猟、敵との戦い、そして個人の経験の蓄積のためなど多目的になり、ますます不可欠な道具となってこの脳の構造は大発展しました。その結果、現生人類の脳は、自分の身体の周りに時間空間となって広がる複雑な物質世界が客観的に確固として存在するように感じることができるのです。

しかし、その世界の存在のもともとの根拠は私が感じ取る存在感の感覚、つまり私の運動と五感からの入力情報との相互関係を経験記憶と照合して身体運動への干渉を予測評価する脳の辺縁系神経細胞の活性化、でしかありません。これらの神経回路は、錯覚にも良くだまされるような情報処理装置です。

そういう神経回路機能が五感の末梢神経への物質のエネルギー作用を情報変換して脳の中で存在感を作り出すことによって、物質世界の存在を感じる。そのように人間の身体は作られています。だからいわば人類共通のその神経機構の共鳴によって人間が感じるこの世界が作られている、といえます。逆に言えば、人間が他人と共有できる物質の存在感だけから、この物質世界は作られています。他人と共有できない感覚に対応するものはこの物質世界には存在できません。つまり人間集団が神経回路を共鳴させられる客観的な物事だけからこの物質世界は作られています。そういうように世界を感じ取る神経回路機構を人間は持っているからです。

そういう神経回路機構の持ち主の集団全体、つまり人類、が誰もいなくなると、私がいま感じているようなこの世界、つまりこういう感じのこの世界はもう存在しません。

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拝読ブログ:音声と人類の共通意識

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