哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

私、いま、ここ

2008年01月16日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_joachimii  こういう問題は、科学以外の方法、たとえば哲学、文学、宗教でも、やはり、しっかり捉えることは難しい。(拙稿の見解では)言葉を使う限り、だれの目にも見えて、指で指し示して共感することができないものは、物質として存在させることができないからです。それらは物質として存在はできないけれども、人間の感情に強く響く。なによりもそれらは、話し手と聞き手の間を共感によって伝わる主体的な操作の表現になっている。それらは、主体が何かをするという形式で自然言語の背骨になっている(自然言語の構造については一章を設けて拙稿の見解を後述する予定)。自然言語の骨組みをつくる、私、いま、ここ、というような言葉に対応するものは科学では表現できない。それらは、だれもが直感で簡単明瞭に分かりきっているものであるのに、科学では説明できない。物質として表現することができない。科学にとって、それらは意味が不明なのです。物質の法則だけを描写する科学は、私、あるいは今、あるいはここ、という言葉が表わすものを存在させることができません。

それらを、どうすれば存在させることができるようになるのか? あるいは、存在させなくてもよいのか? 存在させなくてもすむようなやり方があるのか? (拙稿の見解では)それを説明できない現代科学は虚無の上に立っている。

逆に言えば、それら(自然言語の骨組みを作っているような)人間が感じる強い存在感を科学するということは、科学が自分の立っている足元を掘り崩していくことです。背が高くなった現代科学は足元がよく見えないし、自分に足元があることさえ忘れているかもしれない。その足元を掘り崩したら、まともに立っていられなくなるような気がする。

しかし、近い将来、科学はそれをしなければならなくなるでしょう。

(サブテーマ:それでも科学は存在するのか? end)

(次回からはサブテーマ:死はなぜあるのか?)

拝読サイト:タイムカプセル見つかる!

拝読サイト:How To Fold A T-Shirt In 2 Seconds

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物質を動かす主体

2008年01月15日 | x4それでも科学は存在するのか

仲間としっかり共感できないことで、人間が感じることはいくらでもある。それらの中には、強く感情に結びつき存在感が強いものも多い。しかし、そういうものは、科学の方法では捉えることができない。たとえば、科学を使って物質世界をいくら詳しく調べても、その物質世界を見ている主観としての自分自身や物質を動かす主体としての自分というものは見つからない(一九八九年 コリン・マクギン『心身問題は解けるのか?』既出)。科学は、対象を見ている主体としての自分を棚上げにしたうえで、対象を記述することしかできないからです。これは科学の限界といえるが、それ以前に、人間の言語の限界でもある。

人間の言語は、主観を持った主体が、自分の外側の対象を感じ取り(自分の意思で)操作するという図式を表現する形式で成り立っている。もし人間が主観(と意思)を持った主体でないとすれば、人間は言葉を話すことができない。言葉が何かを表わすことができない。言葉というものは、主観を持っている主体が何かをすることを表現する形式(主語・述語)で成り立っているからです。ところが、科学が描く物質世界には主観もなく主体も意思もない。すべての物質は、言語形式で表現される場合、主体が操作対象とする主体の外側に属するもの(客体という)でしかない。

拝読サイト:ゴルフ場の未確認浮揚移動物体

拝読サイト:初音ミクMAD「みくみくにしてあげる」イメージムービー

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身体感覚→科学の根っこ

2008年01月14日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_dukeofsaxonyandwife だれが見ても、いつ見ても、何度でも同じように目にしっかりと見えて、手で触れて動かせるものたちを物質という。それらの物質たちの変化は、分かりきった法則にしたがっている。その法則は私が見ても、私以外のどの人間が見ても、いつ見ても、何度でも同じように見える。その法則にしたがってこの私の肉体が物質から作られていて、この物質世界をこのように感じている、ということがはっきり分かります。それで私たちは安心して、物質が存在している、と感じる。物質世界は実在すると思っている。そう感じられるならば、そう感じられることだけを根拠に、そう思ってよいのです。

この物質世界が存在している、と言う意味はそれだけのことです。そこに神秘などは、何もありません。

最近数百年の科学者たちの努力が積み重なって、現在の科学は、この物質世界をかなり詳しく説明することができる。科学は、もともとは人間どうしで共感できる身体感覚(視覚、触覚、運動感覚、聴覚、加速度感覚)でつかんだ目に見える物質の存在感を基礎として、そこから経験と論理で積み上げていって合成した、統一的な理論の存在感を作り出している。科学の結論は、だから、きちんと理解すれば、目の前の物質に関する視覚など直接感じられる身体感覚の共感と同じくらい、しっかりした存在感を持っている。

人間どうしの共感が身体感覚に存在感を与える目の前の物質について、それが存在する、といってよいならば、科学が存在するといっているものは、存在するといってよいことになる。つまり、目の前の物質が存在すると感じられれば、科学は存在すると感じられます。

これが、いわば、科学の根底、科学的認識の根っこのところです。この根っこは現代科学のすべてに共通する。私がこの身体で、仲間の人間と共感して身体感覚で感じることによる世界の現れ方の他に、科学の根拠はないのですから(認知論・認知心理学の観点による科学の基礎論としては、たとえば二〇〇二年  ピーター・カルーサーズ他編『科学の認知論的基礎』)。 

拝読サイト:科学とは法則で出来ている

拝読サイト:阿呆と読む物質と記憶

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大成功する科学と経済

2008年01月13日 | x4それでも科学は存在するのか

そういう態度で研究を進めたので、科学者の研究対象は、物質だけになってしまったのです。こういう態度で研究を進めて、うまく解明できる現象は、物質現象しかない。だれの目にもはっきり見えて、語り合えて、記録できて、いつでも、何度でも、同じ条件では同じ法則にしたがって同じ現象を観察できるものは、物質しかありません。逆に言えば、そういうものを物質というのです。人間にとっては、厳密にいえば、そういうものしか客観的には存在できない。だれもが目で見えて、その存在感を共有することによって存在が確かめられるもの、それを物質という。

ですから物質以外のものを対象とする学問が、科学のように大成功できないのは当然なのです。この世界で物質以外、だれもが同じように認めるものは、実はあまりありません。

お金のありがたさ、音楽の楽しさ、数学の美しさ、ゲームの魅力、スポーツの快楽、くらいでしょうか。これらも目には見えませんが、言葉に頼らず、人間の脳の先天的な神経機構に強く働きかけます。つまり、お金や音楽やゲーム、これらは頭蓋骨の外側に人工的に作られた脳の雌型(脳が雄型とすれば)なのです。それぞれに特有な神経回路にぴったりはまって人々の脳に共通な共鳴を起こす人工の仕組みです。身体の外側に作られたものなのに身体の奥深いところを揺さぶる。ある意味では麻薬のような機能を持っている。お金を媒介に人々が連携できるゲームである経済活動は、現代社会で大成功しています。音楽、数学、ゲーム、スポーツなどを通じての人間どうしの相互理解は、ほぼ完全に成功している。そういえば私たちが毎日をそのために費やしている仕事やビジネス活動は、お金と数学とゲームを混ぜたような活動ですね。音楽やスポーツも混ざっているかもしれない。まあとにかく、これら以外の場面での人間の相互理解は、実際、なかなかうまくいきません。

言葉を使えばどんな場合でも相互理解できるはずだ、という期待が大きい分、日常会話などでは、どうもうまく行かない場合が目立つ。政治や権利関係や感情問題を話し合っているときなど、特にそんなようです。正確に話そうとすればするほど、こんがらがってくる。言葉を安易に使うと、錯覚が錯綜として絡まりあい、論理的な矛盾を引き起こしやすい。実は、懸命に正確な言葉を使おうとするアカデミックな議論でもそううまくはいかない。物質という介在なしに、言葉(自然言語)を精緻に使おうとすればするほど、混乱してくる。結局、人文系の学問、哲学、文学などは、なかなかうまくいきません。

それで結局、言葉、あるいは言葉に準ずる記号体系を使う学問としては、物質に関する言葉だけを扱う自然科学と、人工的な抽象記号を組み上げる数学と音楽が、ずば抜けて成功を収めるわけです。

拝読サイト:081月刊行開始:東京大学出版会『エウクレイデス全集』

拝読サイト:麻薬が薬になる話

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科学者が嘘を語ると・・

2008年01月12日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_nymph4 科学が記述する物質現象は、神話、伝説など他のどの言い伝えよりも存在感がある。目に見える物質現象はもちろんですが、目に直接は見えなくても科学によって存在が確認されている現象は、明らかに存在するように感じられる。それは、科学者が昔からの言い伝えを信じないで、自分の目で見て自分の手で動かしてみたものだけを信じて、明快な言葉で語り合ってきたからです。それは、だれが実験しても何度でも同じように起こるような、再現性があるものでなくてはいけない。そして報告するときは嘘を語らない。それは科学者の職業倫理でもありますが、なによりも科学者は、専門に関して嘘を語ると、科学者として生きて行けない社会に暮らしているからです。つまり、自分は科学者として生きていけなくてもかまわない、などと思うようないい加減な志願者は科学者になるための厳しい修行に耐えられないはずですから、これは強い縛りになっている。そういう科学者たちがその研究成果を報告し互いの評価に曝される国際学会は、どの国の政治からも宗教からも独立している。その倫理と社会的構造によって、科学者の学会で認められる科学は、その信頼性を保証される仕組みになっています。

科学が大成功した理由は、成功するはずのことだけをしたからです。仲間どうしの間で、だれの目でも見ることができて、だれの手でも触れて動かすことができて、だれもに通じるはっきりした言葉で語ることができて、正確に繰り返し確かめ合えること、つまりだれにも共有できる経験にもとづいている再現性のある物質現象だけを研究の対象にする。あやふやなことは避ける。はじめから自分以外の研究者が後から追実験をして確認できるような形で研究発表をする。つまり、だれの目にも明らかに、いつでも、何度でも、はっきり目に見える。何度でも触って確かめられる。そういう現象だけを対象にして、観察し実験し、正確に語り合い記録してきたからです。

拝読サイト:ジェームズ・ローレンス パウエル『白亜紀に夜がくる―恐竜の絶滅と現代地質学』

拝読サイト:不老長寿

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