哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

注目→運動共鳴

2009年10月31日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Fuseli_percival

テレビに国会議事堂が写る。テレビカメラがズームアップする。私たちは自分が国会議事堂を注目しているような気になってしまう。自分が「国会議事堂がね」と言っているような気になってしまうのです。「いま国会議事堂に注目しているのはテレビのカメラマンであって私ではない」などと、むきになって思う人はあまりいない。

こういう場合と、実際に自分がカメラを構えて国会議事堂をズームアップしているときとでは、どう違うのか? あまり違わないのではないか。というよりも、拙稿の見解によれば、全然違いません。私たちはテレビカメラに運動共鳴を起こしている。国会議事堂に注目しているのは、テレビカメラであると同時に、私の身体です。

こういう仕組みが私たちの身体に備わっているから、私たちはテレビを楽しむことができる。テレビばかりでなく、私たちは同じこの仕組みで、映画も楽しめるし、演劇も、ミュージカルも、ニュースも、人生も楽しめるのです。

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感知⇔運動共鳴

2009年10月30日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちが、そこに何があるとか、何かが変化しているとかを感知するときは、(拙稿の見解では)まずその対象(たとえば日本経済)に私たちの身体が無意識のうちに運動共鳴して身体運動の準備を起こしている。運動形成神経回路のその活動を感知して私たちの身体の感情機構が反応し、その活動を記憶する。この過程は無意識で行われて、意識では自覚できず記憶もできません。私たちの主観としては、ただその対象(たとえば日本経済)がそこにあるとか、こう変化しているとか、感じるだけです。

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言語の脳内構造

2009年10月29日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Fuseli_oath   

たとえば、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉の使い方の場合、「回復する」という動作の主体は「日本経済」という抽象概念です。そしてこの場合、言葉の話し手も聞き手も(拙稿の見解によれば)、同じように脳内の運動形成回路の上で、自分の身体がダメージから回復して立ち上がるときの準備動作を仮想運動として実行している。そしてこのとき、回復する主体として日本経済がイメージされている。日本経済が回復という動作を起こしていて、それにこの身体が運動共鳴を起こしている。

逆に言えば、この場合、日本経済という抽象概念のイメージは「回復する」という動作を起こして私たちの身体を共鳴させる主体として私たちの脳内に登場している。こういう場合に限り、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉ができてくる。

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→哲学者用の入り口

2009年10月29日 | 

           哲学者 WELCOME

目次

プロローグ

目次

第一部 (序説)哲学はなぜ間違うのか

1  (哲学学序説)哲学はなぜ間違うのか?

2  (言語論序説)言葉は錯覚からできている

3  (人間論序説)人間はなぜ哲学をするのか?

4  (世界論序説)世界という錯覚を共有する動物

5  (哲学者学序説)哲学する人間を科学する

   第二部 (哲学表現論)この世はなぜあるのか

6  (存在論)この世はなぜあるのか?

7  (生命論)命はなぜあるのか?

8  (霊魂論)心はなぜあるのか?

9  (意識論)意識はなぜあるのか? 

10 (自由意志論)欲望はなぜあるのか?

11 (認識論)苦痛はなぜあるのか?

12 (自我論)私はなぜあるのか?

   第三部 (世俗哲学)私はなぜ死ぬのか

13 (認識論)存在はなぜ存在するのか?

14 (科学論)それでも科学は存在するのか?

15 (生死論)私はなぜ死ぬのか?

16 (幸福論)私はなぜ幸福になれないのか?

17 (幸福論2)私はなぜ幸福になれるのか?

   第四部 (存在哲学)私と世界とのいかがわしい関係

18 (言語哲学)私はなぜ言葉が分かるのか?

19 (自我現象学)私はここにいる

20 (認知哲学)私はなぜ息をするのか?

21 (内観現象学)私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?

22 (人生の科学)私にはなぜ私の人生があるのか?

(以下 未定)

              引用文献原題 (哲学者必読文献リスト)









1  哲学はなぜ間違うのか?

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運動共鳴*仮想運動=言語

2009年10月28日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

重要なことは、この、「Yをする」という動作の主体は、私でもよいが私に限らない。他人、仲間などだれでもよい。人間であればだれでもよい。さらに人間に限られない。いちおう人間のような動きをするように思えるものである必要がありますが、擬人化を使えば、動物、無生物、抽象概念などでもよい。実際、私たちが毎日作り出す言葉の多くは、擬人化による比喩で作られている。

身体がYをする準備動作に入っている、という場合の、「Yをする」という運動準備は、主体を決める必要がない。このとき、たまたま私たちの身体がYをするXというものに運動共鳴していると、そのXが主体ということになる。そのとき言葉を発すると「XがYをする」という言葉ができてくる。私たちの身体の中に、まず「Yをする」という運動(仮想運動)ができてきて、次にそのYをする主体として注目しているXがはっきりしてくるという順番でしょう。

拝読ブログ:還暦・再生誕

拝読ブログ:長谷敏司『あなたのための物語』と山本弘『地球移動作戦』

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