哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

脳と存在感

2007年05月31日 | 6この世はなぜあるのか

次のような仮説から始めます。

この世は存在しない。世界は存在しない。存在するかのように私が感じているだけだ。

 さて、その上でじっくり考えてみましょう。

目の前の物質は目で見えて手で触れるから、確かに存在感があります。存在感という感覚は、五感を総合して自分が感じる主観的な身体感覚です。正確には存在感というのは、五感で感じるだけでなくそのときしている自分の運動とそのとき受ける感覚の変化との関係を感じることで、目の前の物質が確かに存在しているという感じがしてくることです。この存在感は科学者が脳を観察するとき、前部帯状回扁桃体の神経回路が活性化する、という現象に対応しています。これらの神経回路は錯覚することがあります。もっともらしいバーチャルリアリティなどにだまされて、実物とまったく同じ存在感を感じます。

 それでも、人間の身体にはこれ以外に存在感を感じる仕組みはありません。ここは大事なところです。つまり、脳の神経活動で生じる存在感という感覚が、主観的に感じるところの、存在の根拠というべきものです。

 目の前の物体は存在感があります。たとえば、目の前の机が見えます。身体か顔を移動して視座を振ると、その分、斜めからその机が見えて、奥行きを持った立体的な形が分かります。それでまた別の角度から見ると、そこから見えるはずの机の形にちゃんと見えるわけです。しかも、身体を移動して別の場所へ行き、戻ってきてみると、また同じところにさっきの机が同じ形で置かれているのを見ることができます。つまり、その場所の物質の構成はさっきと変わっていなかったことが分かります。こういう経験を、人間の脳は、その空間と時間とその中にある物質構成(たとえばこの机)の存在感として感じるのです。空間と時間と物質とは、すべて、自分の目玉や顔や身体全体を動かしながら目の前の物を見るときに同時に感知できるものです。

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この世はなぜあるのか?

2007年05月30日 | 6この世はなぜあるのか

部 begin

(サブテーマ6:この世はなぜあるのか? begin

6  この世はなぜあるのか?

 「世界の中心で・・・」という題の小説がベストセラーになったころ、インターネットでアンケートをしていました。「世界の中心はどこだと思いますか?」という質問に老若男女が回答しました。いろいろな答えが出てきますが、「世界の中心は私だ」という回答が多いようでした。

 自分が一番大事だ、と言う単純な価値観の表明とも受け取れますが、微妙なニュアンスの中にはもう少し深い意味も含まれているのではないでしょうか? 宗教も関係しているかもしれません。こういうところに日本人の宗教観が反映されているのでしょうか?

いずれにせよ、「私がいなければ世界は意味がない」とか、「私が感じなければ世界は存在しないのと同じだ」というような感覚を、かなり多くの、特に若い日本人が持っているようです。現代日本の特徴なのでしょうか?

ところで筆者は、この「私が感じなければ世界は存在しないのと同じだ」という考え方が気に入りました。なるほどそう言えばそうだ、とも思えます。もっと言えば、この世界は存在などしていないのに私たちがそれを存在していると勘違いしているだけではないでしょうか? そうでない証拠があるのでしょうか。

そもそも、私たちはなぜ、世界が存在していると思っているのでしょうか? 人間は、なぜこの世があると思うのでしょうか?

この世は本当に存在しているのでしょうか? もしかしたら存在していないのではないでしょうか? すべての人間が、この世は存在する、と感じていることは確かなようです。その証拠はいくらでも確かめられるでしょう。しかし、それだからといって、この世が存在するかどうか、そのこと自身は確かめようがないのです。

このへんのことを確かめるために、次のような思考実験をしてみましょう。まず、この世は存在していない、という仮定をおいてみます。

この世が存在していないとしたら、それはどういうことなのでしょうか?

 これを出発点にして、議論を組み立ててみましょう。

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科学者は説明できない

2007年05月29日 | 5哲学する人間を科学する

そうすれば、哲学がどこでどう間違えていったのか、そして私たち現代人は、どうすればその間違いから脱出できるのか、分かってくるかもしれませんよ。

なぜ、哲学は間違うのか? 

なぜ、人を殺してはいけないのか? 

なぜ、全裸で街を歩いてはいけないのか?

そういうことはなぜなのか、どういうことなのか、分かってくるでしょう。

人の命、人の心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、全裸・・・。こういう存在感の強い言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか? 私たちは、こういうものに囲まれて、それらをどうしようかと考えることで、毎日を生きているのです。それなのに、こういうものたちは、科学ではまったく捉えられない。科学者はこれらを説明できないばかりでなく、なぜ説明できないかも説明できません。これが表しているものが物質そのものとして示せないからです。こういうものたちは、人間の脳の中にしかない錯覚なのでしょうか? そういう錯覚がなぜ、こんなに強く人間の感情を揺すぶるのでしょうか?

こういう言葉が表している目に見えないものたちと、それを思い浮かべるときに私たちの中で湧き上がる強い感情は、目に見えるこの物質世界の中にはないとすれば、この物質世界とどういう関係になっているのでしょうか? 拙稿の第二部では、これらの錯覚のようにも思える感覚や感情の作られ方を調べることからはじめます。また同時に、それでは科学の対象であるところの客観的な物質世界とは一体何なのか、という問題をも並行して考えていこうと思います。

Hatenachezmoi

(5  哲学する人間を科学する end)

(第1部 哲学はなぜ間違うのか end)

ご愛読感謝。次回からは

(第2部 この世はなぜあるのか begin)

(6       この世はなぜあるのか?  begin

ご愛読を乞う。

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固着に失敗した脊椎動物?

2007年05月28日 | 5哲学する人間を科学する

五億六千五百万年前の海を泳いでいた脊椎動物の先祖に当たる動物の中に、頭を海底の岩に接着させて固定生活を始めたものがありました。海底に根付いて流れてくる栄養物を食べるだけで何もせず何も考えず楽に生きていかれるように進化したのです。脳や脊髄になるはずの神経系も退化してなくなり、消化器と生殖器だけが残りました。それが現在のホヤの先祖です(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)。ホヤは幼生期には運動器と脳神経系を持ち海中を遊泳しますが成体ではそれらが消失して固着生活に入ります。海底に根付く能力を獲得しそこなったホヤ族の別の兄弟の子孫は、大人になっても固着できないので、しかたなく一生泳ぎ続けてやむをえず運動器と脳神経系を発達させ、魚類になり両生類になり爬虫類になり、人間を含む脊椎動物全体になったわけです。人間も成人すると固着して何も考えなくなるという遠い従兄弟(ホヤ)の人生(ホヤ生?)設計をどこかで記憶しているのでしょうか? 遊泳し続けるか、固着生活に入るか。どちらが幸せだったか、ホヤに聞いても分からないでしょうね。

ものを考えない固着成体になるかならないか、人間は小学生の頃に一番悩むわけです。

まあしかし、拙稿としては、ここでは歳若き哲学少年少女(および少数の年長の人々)のように「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」というようなものにこだわって、それらが何であるか、もう少し考えていきましょう。筆者は、社会生活も一応は経験して、これから老年に入るところですが、曲がる背中をちょっと伸ばして、命や心や自分の問題で頭がいっぱいになっていた少年のころを思い出してみようかと思います。とっくに捨ててしまったその幼いこだわりを、もう一度探し出し拾い上げていくことを、読者の皆さんと一緒に楽しめるかもしれません。

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どのブログがおもしろいか

2007年05月27日 | 5哲学する人間を科学する

社会で仲間に認められた役割を果たす。社会的安定、経済的成功を目指して努力する。家族を養い育てる。こういう現実のゲームを始めると、毎日忙しくてたまらない。ストレスも多く、苦しいことが多いが、それでも結局は無事に生きていける。その毎日の生活を守るためにがんばる。自分がいま幸福かどうか、などと考えない。実際、人間の本当の幸福はこういうところにあるのでしょう。そういう意味で、大人は子供よりも幸福なのです。

脳が備えているこういう能力、〝現実主義〟が十代後半から三十代にかけて徐々に発達するおかげで、人間は、神秘的な哲学の謎などに悩まされずに、上手に生きていかれるのです。

余談ですが、最近筆者は、アマチュア的興味から各世代の書くブログを拝見していまして、それぞれの世代の特徴を見分けられるようになりました。十代前半くらいの少年少女の日記が生き生きしていておもしろい。二十代の学生、大学院生、職探し、フリーターの人たちのものがまた、おもしろい。三十代の子育て主婦の書くものが実におもしろい。リタイアしたシニアのものもおもしろい。それ以外の高校生、安定したサラリーマンなどはあまり面白いことは書かないようです。精神的に忙しいのでしょう。目の前の仕事、課題と毎日の仲間との付き合いに忙しいように見えます。素人の観察で、いいかげんで偏見が入っているといわれそうですので、これだからどうだとかいう主張はしませんが、個人的には面白いと思いました。社会学者の研究が期待されます。

閑話休題。さて、人生におけるこういう社会的成長の仕組みはうまく働いているようです。もともと人間は、外界の現実、人間関係(社会的関係)に興味を持ち、それを材料にして現実世界の中で何かをしていくようにできている動物なのでしょう。いつまでも自分探しをしたがる哲学少年少女のように、外界を無視して自分の内面だけを見つめても、何も見つからない。肉の存在を無視してひき肉機の存在意義をいくら考えても何も分らないわけです(一九三〇年 バートランド・ラッセル幸福の達成』)。

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