哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

いわゆる意識という機能

2007年08月19日 | 9意識はなぜあるのか

Almatademabathofcaraculla_1 ただ、気をつけなければならないことがあります。こういう場合、存在という言葉を使うことが混乱の原因になる恐れがあるからです。哲学が混乱する大きな原因になっています。

自分の身体は目に見える物質ですから、拙稿でも、存在するという言葉を使ってよいことにしています。ただ、自分の身体は目に見える物質世界の存在であっても、前に述べたように、それは私たちが感じる視覚や触覚から生ずる存在感だけを頼りに存在している。このことを忘れないようにしましょう。これを忘れて、自分の身体やこの世界全体が素朴に実在するという前提から始めようとすると、二元論からは永久に脱出できませんよ。

一方、意識には存在感はありますが、目に見えない錯覚の存在感ですから物質としては存在しません。慎重に言葉をつかうべきならば、「A君は意識がある」という代わりに、「A君の身体運動については、いわゆる意識という機能を期待できる」というべきでしょう。まあ、伝統ある自然言語の使い方を、筆者などが修正できるはずはありませんね。こういう問題に関して、消去的唯物論と呼ばれる現代哲学の一派では、心や意識、信念、欲望など、目に見えない心理学的概念の存在を否定し、将来はその代わりに、人間どうしの感覚的共感、というような非概念的な情報共有を基にして、心を理解できるのではないか、という提案をしています(たとえば、一九八一年 ポール・チャーチランド『消去的唯物論と意図的態度』)。(拙稿の見解は消去的唯物論とは違いますが、)この提案には筆者も共感します。

脳の中に意識は入っていない。ちなみに、目覚まし時計の中に目覚ましは入っていない。飛行機の中に旅行は入っていない。ピストルの中に殺人は入っていません。

(サブテーマ:意識はなぜあるのか? end

(次回からは、サブテーマ:欲望はなぜあるのか?)

拝読ブログ:お前絶対に馬鹿だろ

拝読ブログ:飛行機の話 JALの一部のB777-200はお得??

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世界の実在をあきらめる?

2007年08月18日 | 9意識はなぜあるのか

物質としての存在感と、機能を持つシステムとしての存在感と、両方を同時に感じることは、私たち人間のふつうの感受性です。生きて動いている人体に対して、物質としての存在感と意識を持つという存在感との両方を感じることも、ふつうでしょう。しかし、意識という存在感が感じられるからといって、意識というものが存在する、ということではない。意識は、存在感があっても、実在しない錯覚に分類すべきものでしょう。

物質と意識の両方の実在を認める二元論は、無理があります。物質は物質の法則だけで変化していく。意識が物質に影響を与えることはできません。人体に関して言えば、物質としての身体と物質でない意識、という相容れないものが同時に存在する、という二元論はなりたちません。身体と意識が両方「存在する」のではなくて、両方が存在感を持って観察されるというだけのことです。どちらかが本当に存在していて本物の存在感を持ち、他方は、本当には存在していないのに偽の存在感を持っている、というような単純なことではない。両方とも本物の存在感を持っていて、それにもかかわらず両方とも存在していないということがある。あるいは、片方が存在しているというなら、もう片方は存在できない。意識が存在している、といってしまうと、物質は存在できない。物質が存在している、といってしまうと意識は存在できない。

だから、人間には意識がある、といいたいなら、物質の法則だけで動いているはずのこの目に見える物質世界が実在することを大前提として語ることをあきらめるか、または、そのへんをあいまいにごまかして言いぬけるしかない。ふつう私たちは、そのへんを故意にごまかすつもりはなくても、日常の常識的な会話では、ついついあいまいに話が通じていくので、常識では、物質も意識も、両方ともあることになっているわけです。

意識はなぜあるのか、これがその答えといえるでしょう。

拝読ブログ:市川 浩『〈身〉の構造 ―身体論を超えて

拝読ブログ:信じる

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心と身体、あるいは意識と脳

2007年08月17日 | 9意識はなぜあるのか

Godwardvenus2 この世界全体も、その中にある私たち人間の身体も、さらにその中にあるように思える意識も意思も心も、観察者の脳がそれを感じるから存在する、といえる。観察される人間の中に、心と身体、あるいは意識と脳、という心身二元論でいうような異質な二者が並存するのではありません。観察者は、相手の人間の身体を見て、その物質としての存在感を感じると同時に、その身体運動を見て、意識を持つと感じる。

石ころのような単なる物質を見る場合と、生きている人体を見て心や意識を読み取る場合とでは、観察者の脳の異なる部位の神経回路が働く。人間のように見えるものを感知したとき、意識を認知するその神経回路は働きます。だから、姿も動作も人間そっくりに作られたロボットを見ることで、その神経回路が働けば、私たちはそこに意識がある、と感じる。その神経回路が働くことが相手に意識が存在することの意味だ、といってもよいでしょう。それは錯覚の存在感です。しかし、そのとき人間は、相手の人体(あるいはロボット機構)に物質としての存在感と意識としての存在感と、両方を同時に感じるのです。これは、人間の脳がもつ正常な認識能力です。

時計を見て、物質としての存在感と、朝六時になったらブザーを鳴らしてくれるだろうという目覚まし機能の存在感とを、同時に感じることと似ています。金属でできた時計の形をした物質とブザーを鳴らす働き、という二つのものが同じ一個の時計として存在すると感じることは、おかしなことですか?

拝読ブログ:自由意志

拝読ブログ:狂った時計。

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意識が行動を起こすのか?

2007年08月16日 | 9意識はなぜあるのか

それはどこがどの程度、人間らしければよいのか? それを科学的に算定することは困難です。芸術作品の素晴らしさを数値で計測しようとするのに似ている。芸術作品のすばらしさは、作品の物的状態にあるのではなくて、観察者の脳の働きにある。 同じように、目の前にある人間のような物体が意識を持っているかどうかを決めるものは、観察される物体の内部にある脳やコンピュータという物質の内部状態にではなくて、観察者の脳の働きの中にあるのです。

私たち人間が人間の行動を観察する場合、どうしても、人間内部の意識が行動を起こす、という見方をします。それは他人の行動を自分の感じる運動形成の自覚を利用して感じ取る神経機構を使うからです。人間の外見しか見えないにもかかわらず、私たちは、人間内部の意識(というもの)が動く、と感じる。人間行動を、そういう心的現象としてみなす捉え方(世間常識や心理学の常識)は、物理学が物質現象を観察するときのような閉じた理論がなりたって因果則による精密な予測が可能なものと同じ、と考えるべきではなく、物質現象を記述する科学とは対応しない別の場で働くものと考えるべきだ(一九八〇年 ドナルド・デイヴィッドソン『哲学としての心理学』)という現代哲学者の主張はもっともです。

拝読ブログ:学問の重層構造

拝読ブログ:『物理学はいかに創られたか(下)』(アインシュタイン&インフェルト著・石原純訳)を読了した

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小学生が決める

2007年08月15日 | 9意識はなぜあるのか

Godwardvenus1 しかし、こうした定義によって意識があるとされるロボットが作られたとしても、それを人間が見た場合、必ずしも意識があるとは感じないかもしれません。それは見る人によるかもしれない。科学者の感覚と、小学生の感覚は違うでしょう。このことは重要です。

あるものが意識を持つかどうかは、哲学者や科学者が定義する問題ではなく、私たち一人一人、個々の観察者の脳がそれを見て直感的にどう反応するか、という問題なのです。直感の反応ですから、科学者がどう定義するか、とは無関係です。たとえば、あるロボットのような物体の動きに人間が刺激に反応するときの表情のように感じられる動きを読み取ることができれば、小学生は、「こいつは意識がある」と言うでしょう。この場合、あたかも人間が動くかのように見えるかどうか、が重要なわけです。

見かけの動き、というものが決定的になる。この意味では、たとえば、人間そっくりの外見を持つロボットに人体の神経系に対応する膨大な数のセンサーと運動回路がついていて、それを高性能搭載コンピュータにつなぎ、瞬時に過去の記憶を参照して将来の状況を予測し、自分に最も有利な運動を出力するロボットが作られれば、それはどう見ても意識がある、ということになるかもしれません。そういうロボットが、さらに人間と同じように、他の人間(他の同型ロボットでも良い)の内部の運動計画を自分の運動回路でシミュレーションできる機構を備えれば、(私たち人間が見て)人間の自意識のようなものがあるように見えるロボットが作れる。ただしこの場合でも、顔かたち動作など、どこまでも人間そっくりに作ることが重要です。

拝読ブログ:ジェミノイド

拝読ブログ:リアルに盆踊りするロボット(HRP-2

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