哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

分離脳患者の認知実験

2007年09月13日 | x欲望はなぜあるのか

私たち人間が、欲望あるいは意思、と言っているものは何なのか、その実体を示唆するよい実験例があります。

「目の前に置かれた二個のリンゴの一つを選んでください」と言われたあなたは、一個を手に取る。「なぜ、それを選んだのですか?」、「こっちのほうが、色がきれいだから」とあなたは答えます。実は、右手に近いほうを選んだだけだ、ということは実験を繰り返すことで分かっているのです(この実験例は一九九六年 ピーター・カルーサーズ心の理論の理論(シミュレーションと自己知識)既出』)。それなのに、あなたは尤もらしい理由を言って、本当に自分がそう思っている、と思っている。錯覚によって自分が自分にだまされている。けれども、いったん、言葉でそれを自分の欲望だと言ってしまうと、もう、ぜひそうしたくなる。それが、あなたの欲望、意思というものなのです。

【より鮮明な実験例が、分離脳患者の認知実験で挙げられています。左右の大脳の連絡が切断された患者の左視野(右脳だけにつながる)に「歩け」と書いたカードを見せると、彼は歩いて部屋から出ましたが、そのとき「なぜ、歩き出したのですか?」と聞いたところ、「ああ、コーラを飲みたくなったから取りに出るところですよ」と答えた(一九九五年 マイケル・ガッザニガ『意識と左右脳』)。言語を発生する左の大脳は、身体運動の結果だけを見て他人の行動の要因を推測する場合と同じ方法で自分の行動の要因を推測した。この実験で重要な点は、この患者がまったく支障なく、また支障の自覚なく、社交や仕事などふつうの生活をしていることです。つまり、左右分断のない正常な脳を持つ私たちも同じように、こういうような自己の行動の結果だけから推測する自己の欲望の、解釈による自覚、という仕方を使って毎日を生きている、ということを、この実験は示唆しているわけです】

結局、動物の行動も人間の行動も、進化の結果できあがった神経回路ネットワークの複雑な物質的過程によって現れる現象です。将来いずれの時代にか、科学によってその全貌は詳細に、物質現象として解明されるでしょう。それはまだまだ先です。私たちは、DNAもたんぱく質も知らずに「カエルの子はカエルだよな。あっはっは」と言っていた江戸時代の人々と同じように、「人間は欲望で行動するのだよ。あははは」と、おおらかに言い合っているだけなのです。

(サブテーマ: 欲望はなぜあるのか end

(次回からは、サブテーマ: 苦痛はなぜあるのか)

拝読ブログ:カエルの子はカエル!?

拝読ブログ:2つの脳内ネットワークの成長過程

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昆虫のランチ

2007年09月12日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereaulamour_au_papillon  結局、人間のランチも、動物が目の前の食べ物に食いつくこととあまり変わらない。アリがミミズに食いつくとか、アリ地獄がアリに食いつくとか。私たちは素朴に、昆虫などの脳のどこかに欲望という神秘的なものがあって、それに駆動されて運動神経が動くのだろう、と思っています。しかし昆虫の神経系は、コンピュータでシミュレーションできるような機械的なアルゴリズムで動いていることが分かっています。食べ物の刺激に対応して機械的に反応して、食いつき運動が起こるのです。

人間の場合、脳内で回転するシミュレーションが作る仮想の(ラーメン屋での)食事風景の連想に対応して、昆虫の採餌運動と同じ反射神経による(仮想運動の)食いつきが起こるのです。たぶん、人間のこの神経系は、もともとは、誰かがおいしそうにラーメンを食べているところを見て脳の中でその運動をまねる、という神経機構から進化したのでしょう。ラーメン屋の案内板を見ることで、シミュレーションの仮想運動が起こる。その仮想運動からの連想に導かれて、私たちはラーメン屋に向かうのです。クモが蚊を網で捉えて食べるのとあまり変わらない。見事な仕組みで餌を採りますが、単純な反射が、進化の結果、複雑な連鎖として組み合わされて洗練された動きをつくりだしているのです。それを見て、人間は本能だとか欲望だとか見なして理解しようとする。

そういう理解は実用的です。人類の生活に役立つものの見方です。人間は欲望から意図をつくって、それで行動する。そういう見方は実用的で記憶しやすい。この見方に慣れ親しんでくると、自分の内部にその欲望が実在する、と感じるようになる。それが、私たちの感じる自分の欲望です。それは錯覚ですが、しかし、その錯覚は便利で使いやすい。言葉を使って、それについて人と話せる。欲望という言葉、「私はそれをしたい」という言葉、などを使えば、だれと話をしてもそれでうまく通じる。独り言を言って自分で自分の行動を理解し、目的を思い出し脇道にそれないで、最初の目標にたどり着くことができる。それで、私たちはこういう見方をしっかりと身につけ、それをうまく表現する言語体系を持っているのです。一般的にいえば、言葉は仮想運動を形成する連鎖の過程として生成される、といえる。この点に関して、概念は行為に直結している、という考えが、現代哲学では提唱されています(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』既出)。

拝読ブログ:多女王のアリは交尾回数が少ない

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シミュレーション→運動実行

2007年09月11日 | x欲望はなぜあるのか

人間も他の動物と同じように、目や耳や嗅覚で感じる感覚刺激に応じて、反射的に身体が動く。人間の場合、直接の感覚刺激に対しても反射的に運動が起こるが、同時に(たぶん別系統の脳神経系の働きで)記憶からの連想によって作られるシミュレーションに対して反射的に運動が起こる,という特徴がある。つまり、(拙稿の見解では)人間は、目の前の光景ばかりでなく頭の中で想像した世界の構造、知識、記憶、予測などが与える現実感と存在感に反応して身体が動く。そして、こちらの運動を自分の意思でした計画行動として記憶しています。

たとえば、ビルのエントランスロビーに飲食店の案内パネルが並んでいます。ラーメンがいいかな、カレーかな? 自分がラーメンを食べている場面とカレーを食べている場面とを無意識のうちに想像して比較します。これは、過去の経験から造られた記憶と知識から作られるシミュレーションです。それらを思い出しながら、考える。どちらか、さっと決まるときもあれば、うーん、どっちが食べたいか自分でも分らない、というときもある。脳でシミュレーションが回転している。ラーメンを食べている場面のシミュレーションでは、その経験が感情とともに感じ取れます。カレーの場面に比べて、ラーメンのほうが実現して欲しいという感じがする。それでラーメン屋さんのほうへ歩いていくわけです。さらに、自分ばかりでなく人間はだれも、こういう経験をしているだろうな、と想像できる。それでこういう場合、「ラーメンを食べたいという欲望がある」という言い方をすることにしたのです。

拝読ブログ:中間まであと11日、学校祭まであと…何日なワケょ??

拝読ブログ:本郷亭でラーメンを食す

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殺人の意図の存在問題

2007年09月10日 | x欲望はなぜあるのか
Bouguereau_dante_and_virgil_in_hell

 夜、部屋に帰ってきて、スィッチを押すと明かりがつく。この場合、スイッチを押したのは明かりをつけたいからです。明かりをつけるという意図があった、といえます。では、スイッチが壊れていて明かりがつかなかったら? この場合も明かりをつけるという意図はあったのか? ふつう、あった、と思えますね。

 では、実はスイッチが壊れているのを知っていて、それを知らんぷりして明かりをつけるふりをするためにスイッチを押したのだったら? この場合、明かりをつける意図はなかった、といえますね。

 私はその壊れたスイッチを押しながら客人を部屋に案内します。明かりがつかないうちにその部屋に入った客人は、そこにあった見えないガラスケースを蹴飛ばしてしまい、ケースから放り出されたコブラに咬まれて死んでしまいました。私は殺人の意図を持っていたといえるのでしょうか?スイッチが壊れていることを知っていたか知らなかったか、知っていて忘れてしまったか、忘れたふりをしたのか。だれの目にも見えない心の中の、信念の違いによって、殺人の意図が存在したかどうかが決まる、ということになる。

 まあ、スイッチを押すという単純な運動もそれに関する意図とか欲望とか信念とかは、他人の目に見えず、なんとも分かりにくいものです。それでも、意図という概念で殺人罪になったりならなかったりするわけです。スイッチを押すという運動が、世界をどう変化させるかの脳内シミュレーションの予想が違うと、意図や欲望はそれに応じて違ってくるはずだ、という理論を、人間は持っているからです。社会生活では、それが大問題となるのですね。

しかし、(拙稿の見解のように)私たちの身体の奥から湧き起こる欲望、意思、あるいは意図などというふしぎな何かが身体の運動を起こすわけではない、と考えれば問題はなくなる。そういうものは錯覚ということになるわけです。なぜそういう錯覚が存在するのか? 人間が、他人と自分の行動を上手に予測し、互いに言葉で説明しあって共感し協力し、また長く記憶して経験として役立てるために便利だったから、人間行動を記述するためのそういう錯覚が作られ、「欲望」、「意思」、という言葉で名づけられた。そして皆で、自分たち人間には欲望がある、意思がある、と言い合うことで、それらがあることになったのです。

欲望はなぜあるのか? 言い換えれば、欲望という理論を、なぜ私たち人間が持っているのか? (拙稿の見解によれば)これがその答えです。

拝読ブログ:「確定的な殺意ない」…同性愛殺人で弁護側の主張

拝読ブログ:殺人未遂はやりすぎだが、同情の余地はある。 

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間違った理論

2007年09月09日 | x欲望はなぜあるのか

さて、拙稿の見解では、欲望、意思、あるいは意図など、常識では人間の行動の源泉とされているものは、実際にはこの世界には存在しない。そういうものが、動物や人間の脳の中にある、と思い込むのは錯覚です。動物は、感覚刺激が変化することに対応して反射的に運動する。人間は、それに加えて、脳内の記憶からシミュレーションを映し出して仮想運動を形成し、それに対応して反射的に運動する。

人がある行動をするのは、そうしようと思うからだ、つまり意思があるからだ、と私たちは常識で考えますが、(拙稿の見解では)これは間違った理論です。

このことは、よく考えてみれば、簡単に分かります。たとえば、次のように話をつめていくと、変なことになってしまうのですね。

まず、手を挙げてみてください。では、質問します。

「なぜ、手を上げたのですか?」

「手を上げたのは、手を上げようと思ったからです」

「なぜ、手を上げようと思ったのですか?」

「手を上げようと思ったのは、手を上げようと思おうと思ったからです」

「なぜ、手を上げようと思おうと思ったのですか?」

「手を上げようと思おうと思ったのは、手を上げようと思おうと思おうと思ったからです」

・・・・

と無限の問答(一九四九年 ギルバート・ライル『心の概念』)が続いてしまうわけですね。

拝読ブログ:歯医者の「痛かったら手を挙げて」に迫る

拝読ブログ:心の概念 レポート

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