哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人間さえ操作できれば

2006年12月31日 | 2言葉は錯覚からできている

当たるも八卦、当たらぬも八卦というような占いはいつの時代でも人気があります。物質世界の法則とはうまく繋がらないかもしれなくても、人間どうし皆が分かったような気になって、その理論を信じられればそれは普及していくのです。言葉で言われたお話と現実との関係がよく分からなくても、権威と多数意見という重み付けを頼りに言葉を信じることによって人間は動くのです。そのお話あるいは理論が世界の法則をきちんと表わしていなくても、人間は言葉を信じて動く。そういうものが人間と言葉の関係です。人間の脳はそれができるように進化し、その結果、このやり方で人々は身の回りの現象や人間行動を、正確ではなくても実用的な程度には理解し、大方は当たるくらいに予測しているのです。

特に文明社会では、人間さえ操作できればとてもうまく生きていける。言葉で語られる理論が物質世界の法則とはうまく合わなくても、うまく人間を操作できてそれを使って大部分の人がうまく生きていければ、社会は大体うまく動いていく。それで、文明社会では、もっぱらそのために言葉が使われるようになります。そうして社会はますます発展し、人間どうしが互いに語り合って協力できるようになっていきます。そうなれば社会は複雑に分業化し、効率化し、専門集団が発展し、ついには技術を発展させ、その結果最後に、逆説的なようですが、立派な科学を作り出すのです。

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「自分」というのはどの物質?

2006年12月30日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena14_1 「心」というのはどの物質のどういう状態なのか? 「自分」というのはどの物質のどういう状態なのか? よく分かりませんね。目では見えないし手で触ることもできないからです。

それでもこれらの言葉に基づいた理論は組み合わされていろいろな信仰や世界観を作り出し、種々の宗教、種々のイデオロギーを発展させることになります。癌の民間療法などもそれでしょう。なんとかいう植物、または動物の身体の一部分を煎じて飲めばよく効く、というのです。マイナスイオンが身体に良い、と偉そうな人たちが繰り返しそう言えば、多くの人々はそれを信じます。それは根拠のないお話に過ぎない。しかし権威ありそうな人がそれを言えば、そして多くの人がその話を信じれば、もう間違いないと思えるのです。

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言葉とは何者なのか

2006年12月30日 | 2言葉は錯覚からできている

こうして言語技術を鍛えられた西洋の知識人たちが使う概念と論理は言葉の信頼感を高めました。言語技術に優れた人々が社会の指導層となり、法律や儀式や制度や書式を作りました。印刷術が発明されて大量の複写が可能となりました。同時に役所や裁判所、学校や教科書や辞典など言葉の使い方を精密に管理する社会的な装置が作られていったのです。それらの装置に言葉の信頼感は担保されて、言葉は話し手や聞き手の人体から離れて客観的に存在できるようになり、ますます信頼され、使いやすく便利になっていきました。

その結果、西洋の人々は何事も言葉で解決しようとするようになりました。それら明瞭な言葉の使用は、宗教、法律、商業、科学、工学の基礎を固め、ルネッサンス以降、西洋文明の大発展を支えました。

しかしそれらのおおもとになっている言葉そのものに関しては、うまく基礎を固めることはできませんでした。言葉とは何か、人間はいまだに理解できない。言葉そのものが何者なのか分からないのに、それを組み合わせて立派な理論が作られる。

もともと言葉だけで作られる理論は、数学のように論理の形式だけは明瞭で完璧ですが、物質世界のどこに正しく当てはまるのか当てはまらないのか、検証のしようがありません。言葉だけで作られる架空の世界の中では、言葉どうしの関係はどこまでも精密に明瞭になれるのですが、その世界と目に見える現実の物質世界との関係はいつまでも曖昧なままで、結局はしっかり繋がりません。

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上流家庭の子供達はラテン語で会話

2006年12月29日 | 2言葉は錯覚からできている

それだけ重要なものとなった言葉という技術を、子供たちにはぜひとも身につけさせなければなりません。そこで西洋社会では、言葉の使いこなし方を教える哲学が基礎的な教養とされ教育の基本になったのです。

哲学者は教育者として職業を得、ギリシア・ローマの言語と古典哲学を教養として若者に教えました。大学の教師となり、あるいは上流家庭に住み込んで子供達にギリシア語ラテン語を教えました。

コギトエルゴスム(考えるから私があります)」

「コギトエルゴエド(考えるから食べます)」

「コギトスメレポトゥム(飲み物をいただこうと思います)」

というふうに、家庭でも子供達はラテン語で会話させられました。何か言う前にコギト(私が思うのだが)という言葉をつける訓練です。読者のお子さん、あるいはお孫さんが二歳くらいだったら、こういう言い方を教え込みましょう。「ワタシガオモウノダケド、ワンワンがいる」とか、「ワタシガオモウノダケド、ワタシがいる」などとしゃべる二歳児は、保育園で、自意識を持つ天才幼児と評判になるでしょう。

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数学と兄弟関係にある西洋哲学

2006年12月28日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena13_1完璧な形式論理で武装してはいても、実は裏側に作ってあるそういう運動感覚的な錯覚に支えられて数学はできているのです。現代の言語学者は、「算数はいくつかの身体運動、つまり前進と収集と組み上げ、という運動から作られている」(二〇〇〇年 ジョージ・レイコフ数学はどこから来るか:身体である心はどのように数学を存在させているか』)と述べています。数学は美しい抽象の衣をまとってはいても、実は人間の肉から生まれたその正体を最後まで隠すことはできません。

数学と兄弟関係にある西洋哲学も、このいわば数学的方法を駆使して次々と美しい理論を作っていきました。論理に優れた西洋の天才的な哲学者たちの努力のおかげで、このやり方は相当な成功を収めたようです。人間が使う言葉の意味は紛れもなく明快に感じられるようになり、誰がいつそれをしゃべっても書いても印刷しても、同じ意味を表すもの、と信頼できるようになったのです。

言葉は、聖書憲法のように、それ自体、紙の上に文字として並んでいるだけで人間を動かし社会を動かすもの、と思われるようになったのです。西洋の文化では文字で書かれた言葉は絶対的です。たとえば、『ヴェニスの商人ウィリアム・シェイクスピア一五九七年)』。異教徒のシャイロックの悪意を見抜いていても、ポーシャが扮した裁判官は署名された契約書の文面を一字一句、字句どおり実行するしかなかったのです。

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