哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

地獄など存在しないとしても・・・

2007年02月08日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena25 しかしながら、抽象概念を表す言語の基底になっているそれらの錯覚は、脳神経系における内部だけでの情報処理でしかありません。脳神経回路の内部の記憶、すなわち神経細胞連結部(シナプスという)の微視的な物質状態として存在するだけで、脳の外側の物質世界の中には具体的な対応物を見つけられるものではありません。それなのにこれらの抽象概念は、なぜ存在感が強いのか? 

これら脳内だけで作られる錯覚の存在感が強いのは、それが脳の感情回路に結びつく仕組みになっているからでしょう。感情を揺すぶられると人間は(哺乳動物は)興奮し、ホルモン物質を分泌し、体中の筋肉を使って夢中で努力します。「自分の命がなくなる!」、あるいは「地獄に落ちる!」と思うと、その人は極限までがんばるでしょう。そして結果的に危ないところを生き残り、その後子を産んだりもできます。そういう人々の集団は生存率が高まり繁殖率が高まって、子孫が繁栄するでしょう。

それが錯覚であろうとも、「自分の命」あるいは「地獄」などという物質的な実体が脳神経回路の外には存在しないとしても、そういう類の錯覚を大脳皮質で作り出し、その神経活動を感情回路に導いて存在感と恐怖感、期待感を発生させ、仲間とその感情を共感することでそれを共有し、集団行動に結びつける脳の機能は、人間が生き残り子孫を残すためにとても役に立つのです。そのような機能を持つ脳神経回路を作り出すDNA配列(ゲノムという)が、あるいはそれに伴った文化とともにそれが、子孫に伝わり、その種族は増殖していくわけです。そうすることが人類の繁殖に有利だったから、と言えます。

逆にいえば、感情に直結して人間を自己保存と繁殖に有利な集団行動に駆り立てることができたから、物質に対応しない錯覚を作りだし共感する脳のDNA表現(遺伝子型、ゲノタイプ、英語発音はジェノタイプ)は増殖し、現生人類である私たちの身体に備わっているのです。

(サブテーマ「言葉は錯覚からできている」おわり ご愛読感謝)

既出稿まとめ

(次回からはサブテーマ「人間はなぜ哲学をするのか」 乞うご愛読)

拝読ブログ:論理哲学論考に行く前に

コメント

素朴心理学と言語の起源

2007年02月07日 | 2言葉は錯覚からできている

仲間の行動を予測するために人間は他人の心の動きを読む方法、つまり欲望や信念という心理的概念を使う素朴心理学を組み立てて利用するようになった、と述べる現代哲学者がいます(一九九一年 ダニエル・デネット『リアルパターン』)。これは拙稿の見解に近い考えですが、少し違います。すなわち拙稿では、人間のこの予測機能は、素朴心理学を学習する以前に、仲間の運動の認知により誘発される無意識の自発運動共鳴により生得的に備わっている、と考えます(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』にこの点は近い。その予想の存在感から(次に述べるように)言語が発生した後、仲間どうしで錯覚の存在感を言葉で語り合うために、後から素朴心理学が作られたのでしょう。

共有できた錯覚をうまく利用して、仲間どうし互いの行動を予測し合えるようになった(現代人の祖先である)人類の集団は、緊密な相互協力の能力を発展させ、それによって、狩猟採集生活での、他の人類集団との生存競争を上手に勝ち抜いていったのでしょう。そして、その錯覚製造機構を進化させ、存在感を持って錯覚を感じ取り、仲間と共感し、その錯覚の経験を共有して記憶し、それを信頼性のある(権威がある)言葉として固定し、脳の中でその記憶を巧みに操れる子孫を増やしていきました。つまり、原始時代の集団生活の中で、たまたま人間の脳内に発生した錯覚が、仲間と共有されることで集団生活に利用され、発声運動として固定され、さらに世代を超えて伝えられ、集団の記憶として蓄積されたものが、今私たちが話している言語です。

拝読ブログ:心の哲学の説明を試しに書いてみました

コメント

言語を持たない動物と人間の違い

2007年02月06日 | 2言葉は錯覚からできている

そうしているうちに、「命」、「心」、「自分」・・・など、仲間と共感できるこれらの錯覚を表わす言葉は、より大きな集団に共有され、社会習慣や権威による信頼感を伴って、集団の記憶として安定的に固定されていきます。大きな人間集団が、共通の言語として、その錯覚を生成する感情回路と運動回路の神経活動を集団的に記憶し、共感を通じて共有することで、その錯覚の存在感はゆるぎないものとなります。

言語を持たない動物は、たとえ錯覚を作れたとしても、それを仲間との間で共有し頻繁に再現することで集団として記憶を共有する言語として固定できないため、錯覚の記憶を維持できないでしょう。その理由で、動物は目の前の物質以外の観念を保持することができないのです。ところが人間は、集団としてそれらの錯覚の記憶を共有し、言葉を使って頻繁に再生することで、脳内で形成する錯覚に伴う仮想運動と感情を安定的に記憶し保持し、必要な場面で再生する能力を発展させ、さらにその神経活動の作り方を若い世代に伝えることができます。

その結果、人間は仲間どうし相互理解できる。つまり、互いに互いの行動を予測することができるようになりました。

拝読ブログ:日々思うこと : うむ機械

コメント

錯覚の共感=相互理解

2007年02月05日 | 2言葉は錯覚からできている

脳のこの錯覚製造機構は生活に便利で不可欠なものです。これがなくては高度な知的活動は不可能です。そうして生活に便利な錯覚を作る脳の能力が、遺伝によって増殖し、その使い方が人類の文化として私たち子孫に伝えられていったのです。

「命」、「心」、「自分」、「他人」、「個人」など、特に人間関係を操作するときに使う抽象概念を表わす錯覚が、生活に関係のない物質の存在感よりもずっと強い存在感を持ち、私たちの感情に響くのも、そういう脳神経系(の回路構造)を持つことが、緊密な社会生活を営む人類の生存に有益だったからです。

人間関係に関するこういう錯覚を感じる機構は、もともと霊長類の脳に備わっている神経回路から発展したのでしょう。猿などが仲間との集団活動の中で運動や感情の共鳴を起こす神経機構の発展形だろう、と考えられます。

人間は仲間が自分と同じように持つ錯覚の感覚を、周辺の状況とお互いの身体の動きや叫びや視線表情として、目や耳で互いに感知し合い、互いの脳の感情回路と運動回路を共鳴させることで、仲間どうしの共通体験として記憶します。脳のこの仕組みを使って人類は相互理解し、緊密な共同生活を営み、共有できる錯覚を作り出す神経活動の個体間共鳴を音声で表現する言語を作っていったのでしょう。集団に共有され、言葉として固定された錯覚は、連想によっていつでも記憶から再生でき、目の前に現れる現象ではなくても、その錯覚に伴う感情回路と運動回路の神経活動を再現できます。

つまり、運動と知覚の経験に伴って脳内で次々と錯覚を作り出し、それに存在感を感じ、その存在感を仲間と共感し、それを表情や発声などの身体運動として表現し、さらに言語としてそれを固定することで、仲間との緊密な協力関係を維持していく動物として、人類は二百万年間の生存競争を勝ち抜いてきたのです。

拝読ブログ:欺瞞と幻想の先にあるものとは?

コメント

圧縮変換された錯覚の記憶=世界像

2007年02月04日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena24_1 要するに人間の脳は、五感で感知した感覚データ(哲学用語にもなっているが、筆者の用法では単に感覚器官から中枢神経系へ送信される信号のこと。data=ラテン語で「与えられたもの」)の入力情報を、記憶してあるシミュレーションなど脳の内部情報と組み合わせて現実にうまく対応する錯覚を作り出し、それを目の前の物質世界の存在感として感じ取っています。同時に錯覚の組み合わせによって、物質に対応しない錯覚も作ってしまいます。さらに、それを仲間どうしで共感し、運動や表情や発声を使って共鳴し、その記憶を共有することで、錯覚を言葉として固定させていきます。

それらの過程を繰り返して、脳では次々と抽象的な錯覚が製造され、それは再生できるようにデータ圧縮を受けて記憶に定着されます。記憶から再生された信号は、外界から受けた直接の感覚データとは違う、圧縮された錯覚情報に変換されています。逆に言えば、錯覚を使うことでデータ圧縮と再生の効率がよくなります。この仕組みによって、進化した現生人類の脳では、それら圧縮変換された蓄積データ、つまり錯覚の記憶でできている脳内の世界像、に直接得た感覚データを埋めこんで使うことで、直接の感覚データを断片的に逐次リアルタイムで処理するよりもはるかに能率よく、(実用の観点から)再現性のよい、使いやすく実用的な世界の法則を獲得できるのです。つまり人間は、遺伝と学習によって形成した脳神経系の錯覚発生機構の回路構造として、生活空間である世界の法則(の断片を実用的に変換したもの)を身体の内部に取り込んでいる、といえます。

拝読ブログ:情報源と情報量

コメント