哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

「する」とは何か? end

2011年09月21日 | xx6「する」とは何か

「~する」という図式の言語を使って語り合っている限り、私たちの科学も哲学も世間話もすべての議論は、私たちの身体のつくりに依存した人類限りのこの現実世界の内部でしか通じない、と言わざるを得ないでしょう。

私たち人間は、物体が加速されるとき(たとえばリンゴが落ちるとき)、あるいは物事が変化するとき、それを感じ取るのに、「~する」という図式の言語を使う。その物が私たちの仲間であるがごとく、その物がその内部に私たちと同じ感情を発生しているがごとく、その物が意図をもってその運動を加速しているがごとく、私たちの身体は感じ取る。

「する」とは何か? それは私たち人間にとってのすべてである、といえます。

(26 「する」とは何か? end 

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人類固有の科学

2011年09月20日 | xx6「する」とは何か

Godwardj 私たち人類は(拙稿の見解によれば)、人類固有の身体反応が作り出す現実を運動共鳴により共有していて、その内部で生き、その内部で語り合い、その内部で死んでいく。科学が描く物質世界は、人類が感じ取る現実の推移を予測する理論の一つではあるが、それは結局は、人類固有の身体反応の上に作られた理論であって人類を超えて普遍的なものとはいえない。したがって物質世界が実在するかどうかに関しては、私たち人類の身体が、それ(物質世界)が実在するかのごとく反応する、という以外には根拠がない(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )と言わざるを得ません。

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それ以外に現実はない

2011年09月19日 | xx6「する」とは何か

そうであれば、「リンゴが落下する」という言葉で表される世界、つまり何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界、が私たちにとっての現実であって、物理方程式の積分によって展開される科学理論の世界は、現実の背景に現れる影のようなものでしょう。

科学が描く物理方程式は現実を予測するための理論の一つではあっても、私たちが感じ取る現実そのものとはいえません。私たちの感じ取っている世界は、何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界です。たとえそれが拙稿の見解(拙稿19章私はここにいる」 )に述べるように、私たちの身体の反応が作り出す、いわば作られる現実ではあっても、私たちの身体にとってはそれ以外に現実はない、と言うべきでしょう。

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予測→行動→現実

2011年09月18日 | xx6「する」とは何か

Godwardh 私たちは予測にまず言葉を使います。リンゴが落下するとき「リンゴが落下する」と言って、それが地面と衝突して傷つくことを予測します。それは物理方程式を積分することで予測できる物質現象ではあっても、私たちは積分計算などせずに、目や耳で見聞きし自分の身体がそのときどう反応するかを知れば、リンゴが落下してその結果どうなるかが分かります。

それを言語で「リンゴが落下する」と語ることでその結果を予測できます。仲間の皆が「リンゴが落下する」という言葉の意味を分かっていると思うことで、私たちはリンゴが落下することが分かる。その予測を使って私たちは行動する。そう行動することが私たちの生活を作り、それが私たちの現実を作っている、といえます。

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何かをするということ

2011年09月17日 | xx6「する」とは何か

そういう予測のために私たちは物質現象に関心があるのであって、科学理論を完璧化するために物質現象について知りたいと思っているのではありません。

一部の科学者を除いては、私たち人間は、今後私たちが影響を受けると予測される何かが何かをするということにだけ興味がある。そのために科学も利用するし、科学ではない占いや皆のうわさや直感、霊感などなどいろいろな予測を使って毎日の生活に役立てています。

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