哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

世界の分節化→

2009年08月31日 | xx私はなぜ息をするのか

このことは、「トイレに行く」という言語表現で端的にあらわされています。しかしながらここで重要なことは、言語表現以前に(X,トイレに行く)というシミュレーションが(日本語が分かる限り)だれの身体にも共有されている、ということです。このシミュレーションは人間の意識的運動を導く世界の分節化のひとつになっている。席を立ってトイレに行く。階段を降りてトイレに行く。トイレのドアを開ける。・・・。

トイレに行くことは、人によってわずかずつ違う運動様式になるし、それもいろいろな細かい運動を連ねて実行するかなり複雑な行動ですが、人間Xがだれであっても、どのような仕方でそれらの運動を実行するにしても一かたまりのシミュレーションで表現される。人間の身体を持っていれば、(日本語が分かる限り)トイレに行くというシミュレーションの意味は、だれでも自分の身体の動き方によってよく知っている。そのシミュレーションを拙稿では(X,トイレに行く)という記号で表しています。(X、Y)という形のシミュレーションを使うことで人間のする運動はすべて表現できます。そのように人間の意識的運動が分節化されているからです。

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身体を使って

2009年08月30日 | xx私はなぜ息をするのか

Erteg

ようするに、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識が(X,トイレに行く)という物事の捉え方を裏から支えている。物事の裏にあるこの知識によってXの行為が予測できるからこの行為は認知される。

人間ならだれもが、(X,トイレに行く)というシミュレーションを、Xに成り代わって自分の身体を使って簡単に実行できる。トイレの場所が違っていても、トイレの形が違っていても、男子用でも女子用でも、このシミュレーションは実用上だいたい同じ内容を表現している、といってよいからです。

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人間はトイレに行く

2009年08月29日 | xx私はなぜ息をするのか

人間に関しては、(人間のA君、トイレに行く) という行為一般について私たちだれもが共通の知識を持っている。つまり、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識です。

ロボットに関しては、私たちにこういう共通の知識はない。私たちはロボットではないから、ロボットがトイレに行くとするとどういう気持ちなのか、何をしたくてトイレへ行く気になるのか、さっぱり分からない。それは私たちがロボットの身体を持っていないからです。だから、(X,トイレに行く)という表現はXがロボットの場合には使えない。意味がある表現になっていない。

(ロボットのA君、トイレに行く)。

この表現は、私たちだれもが共通に分かるような意味を持っていないからです。

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何をしにトイレに行くのか?

2009年08月28日 | xx私はなぜ息をするのか

Ertef

(A君、トイレに行く)という場合、A君は人間です。ロボットではありません。仮にロボットの場合、(ロボットのA君、トイレに行く)となりますが、こうなるとこの後どういうことになるのか、予測はむずかしい。特殊なロボットなら別ですが、ふつうロボットはトイレには用がない。ロボットが何をしにトイレに行ったのか? だれもが首をひねってしまうでしょう。つまりこの場合、予測を共有することができない。

では話を元に戻して、やはりA君は人間であるとする。そうすると、(A君、トイレに行く)という事態のその後の予測は簡単になる。私たちのだれもが、A君は何をしにトイレに行くのか、よく分かる。そしてA君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、となりますね。しかし、A君がロボットなのか人間なのかで、なぜ予測が違ってくるのでしょうか?

それは私たちがロボットの身体を持っていなくて、人間の身体を持っているからです。

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予測の一致

2009年08月27日 | xx私はなぜ息をするのか

もちろん、予測はコンテキストに依存する。特殊なコンテキストでは、事態は違ってきます。たとえば、食中毒が疑われている場合、(A君、トイレに行く)という事態は深刻な予測につながります。まあ、ここでは、そういう特殊なコンテキストではなく、ふつうの場面を想像してください。

(A君、トイレに行く)という事態に際して、ふつう私たち全員が、A君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測をする。私たちはなぜそういう予測をするのでしょうか?

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