哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

機会均等の原則

2008年03月31日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

たしかに、階級制度の時代の身分差別も、現代の性差別も、人種差別も、差別はまったくけしからんことです。しかし、いわゆる現代の格差による不幸の問題とは違って、それら差別による不幸は、差別される個人の努力によって解消ないし緩和されるべきだ、と思われることはない。そのために、身分差別による不幸は個人的努力の対象にはならない。つまり、個人としては、あきらめるしかなかった。あえて言えば、あきらめやすかった、ともいえる。昔は、よくないことですが、身分を知れ、分相応に生きろ、という教育がありました。それぞれの身分に甘んじて生きれば、それなりの幸福を得られる、という教育があった。また昔は、偉大な宗教があり、死後の平和や死後の平等を教えさとすことで、迷える魂は救済されました。

昔の階級格差と違って、現代の格差は、そうはいかないでしょう。機会均等の原則が広く認められている。生まれながらの身分差別は許されない。それはあきらめるべきではない、とされる。一方、個人の努力の結果で生じる格差は、暗黙に認められ、むしろ奨励されている。個人どうしは、それぞれの人生の幸福を競って競争する。市場経済が、その上になりたち、会社が成り立ち、学校が成り立ち、官僚組織が成り立ち、消費生活が成り立っている。それが現代社会の繁栄を支えていると認められているからです。

拝読サイト:知識と知恵と学力と

拝読サイト:国家の品格批判

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格差をつけられた側の責任

2008年03月30日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

Bou_lat 現代の格差として、この国で問題とされているのは、年収、資産、雇用形態、たとえば大企業に正社員として採用されるかどうか、経営者として成功するかどうか、などのようです。これらの格差は、本人の努力によってなんとかなる、あるいはなったはずのもの、とされている。格差をつけられた側の責任であって、格差をつける側の責任とは思われていませんね。選抜試験をする側、年収を決める側、賃金を支払う側、採用する側、人事評価をする側、経営者に投資や融資を与える側、などの責任とはされない。格差は原則として、個人間での自由競争で決まる、とされている。ここが昔の身分差別とはっきり違う点です。

階級社会に生きる人々は、人生の最大の幸福と不幸が生まれながら決定されていて、個人の努力とは関係がないという(現代人から見れば)巨大な不条理の中に毎日を生きていたわけです。現代でもフェミニストの見解では、性差別が昔の階級制度と同じくらいの不条理をもたらしているとされています。

拝読サイト:「格差社会はかぼちゃの次に大事なものなのです」

拝読サイト:江戸時代とは:6

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階級制度、格差

2008年03月29日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

冗談ではなくて、近年はこの国でも、そういう屈折した自我意識の近辺に近づいている人の数は増えているらしい。現代では、マスコミや携帯電話、インターネットなどの口コミが競って、格差の実態など、面白い話を伝えるので、人々の羨望や嫉妬、優越感や劣等感が煽られている面もあるのでしょう。社会と自分との関係の認識のしかたから生じる、このような、現代に顕著な不幸感がある。これらを和らげる社会的な仕組みがあるとよいのでしょうが、私たちが住む現代社会では、あまりうまくいっていないようです。

昔は階級制度という仕組みがあり、それがよかったとはいえませんが、とにかく格差はあきらめやすかった。身分は生まれながらのもので、個人の努力で変わるものではなかった。現代でも性別や人種は生まれながらのものとされている。差別をなくす社会的活動に努力することはあっても、個人が自分の性別や人種を変えようと個々に努力することはありません。性別や人種による差別に個人が苦しんだとしても、それはその人の責任ではなく、むしろ差別を維持する社会の責任とされる。差別される側の責任ではなくて、差別する側の責任と思われているわけです。同じように、昔の身分差別も、身分が低い人の責任ではなく、逆に差別を維持する上層階級の責任と思われていた。そのため、個人が自分の身分を変えるために努力することはなくて、政治的に革命が起きるわけです。

拝読サイト:不朽の名作!!

拝読サイト:アメリカ合衆国では人種差別と性差別のどちらが強いか

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幻の部族、錯覚の自分

2008年03月28日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

Bou_flight もし、自分の人生を不幸だと思う人が人口の半分よりずっと多いとすれば、その人たちの多くは、自分が幻の部族仲間に属している、と錯覚しているのでしょう。そういう錯覚を持ってしまったら、それはもう、しかたがないことです。自分が属していると錯覚している幻の部族の、その底辺のあたりに位置する不幸な自分を自らさげすみ哀れんで、すねた人生を生きるしかありませんね。

筆者も、若い頃成功法のハウツー本をまじめに読まなかったためか、あまり出世できませんでした。学生時代の友人たちはみな相応に偉くなっています。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買いきて妻としたしむ(一九〇九年 石川啄木 『一握の砂』)」というような文学的気分や、「しみじみ飲めばしみじみと(一九七九年 作詞 阿久悠 作曲 浜圭介 唄 八代亜紀『舟歌)とかの、演歌的気分を味わえる特権に恵まれています。まあ、人生なかなか思ったようにはうまくいかない。だれでも病弱になったり年寄りになったりすれば、身体の具合が悪いとか、周りの人が冷たくするとか、いくらでもひがむ理由は見つかる。ひがめばひがむほど、世の中からますます相手にされなくなります。しかし、自嘲や自己憐憫も麻薬のような味があって、怖い。どこまでもひがんでいく悪循環のあぶなさを伴う。口を開けば、辛らつな皮肉屋になっている。仲間や社会の悪口を言い続ける。そのくらいならたいした害もありませんが、自分より弱い者を見つけていじめる、地下鉄に爆弾をしかける、というふうに、どこまでもおかしくなっていく怖さもある。困ったものです。

拝読サイト:しみ~(part54スレ)

拝読サイト:「サボタージュ」(1936年/イギリス/76分)

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無敵のDNA

2008年03月27日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

村中の仲間が、全員、宝くじで一億円ずつ当たってしまった村があるとします。一人だけ九千万円しか当たらなかった人は、我が身のあまりの不幸を恨んで自殺してしまう。現代の自殺には、そういう傾向がかなりあるかもしれません。

しかし、宝くじに当たる前は全員が同じように年収二百万円くらいだったこの村は、ひいおじいさんの世代には年収が一万円以下だったことを、みんな忘れているのです。しかも、当時、十分に食料があったのはこの村だけで、周辺の村の人々はみんな飢え死にしてしまった時代があったことも、すっかり忘れられているのです。

甲子園に出場して一回戦で敗退しても、青春の美しい思い出になります。しかし、甲子園に出るまでのいくたの県内試合を勝ち抜いたことを、一つも覚えていないとしたら、一度だけ戦って自分は負けた、という記憶を一生悔やみ続ける屈折した人生になるかもしれません。全国四千五百校のうち優勝した一校だけが幸福になり、他の学校は全部不幸になるためにこのゲームがあるのでしょうか?

現代に生きる私たちは、全員が、生物として数千万回の命がけの試合を一度も負けずに連戦連勝して生き残った無敵のチャンピオンです。それは祖父母以前の記憶が消えると共に忘れてしまっただけです。それを幸福といわずして、どこに幸福があるのでしょうか?

拝読サイト:26000万円の宝くじが当たった男性、マクドナルドの仕事が恋しくて復職

拝読サイト:神奈川県全滅

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