THINKING LIVE シンキングライブ

シンキングライブは経済情報サイト
矢野雅雄が運営しています。

牧野伸顕は大久保利通の次男、貞明皇后のpartner、三笠宮の父親説、昭和天皇の反長州支援者?

2015年06月25日 06時26分12秒 | thinklive

*暗殺された大久保利通の2男が、牧野シンケンとして、大正末期、昭和を通じて、昭和天皇を内相、宮内相として補弼した、

*山県有朋は昭和天皇の皇后候補が薩摩系であることに脅威を感じ。色盲の遺伝質を持つとして反対運動を展開した、これにタイして、大正天皇の貞明皇后は福島藩の家系で、維新時の長州藩の福島攻略への遺恨があり、田中光顕がそれを支援、日本の天皇右翼を動員した、頭山満はピストル懐に山県邸を訪問、皇太子妃に反対するとは天皇の御心に反する、この場で射殺する、と、脅迫、反対運動の根っこをおし潰した、皇太子はこれに感激、頭山満に感謝の手紙を送っている、終生の友人と記す、婚礼の大典の3日間も頭山満にフルの招待状を送っている、牧野から光顕への依頼があったとボクは見ている、

*光顕は元来、脱藩土佐人だが、龍馬暗殺の実行隊長であった、龍馬暗殺は英国公使や、土佐藩の後藤象二郎、岩崎弥太郎?ほか土佐閥、薩摩の西郷の了解を得るなど、巨大な暗殺勢力が控えていた、

 *牧野シンケン、1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた(幼名は伸熊)。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1863年に吉之丞が新潟で戦死したため名字が牧野のまま大久保家で育った。

1871年明治4年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、1874年に帰国し開成学校(後の東京帝国大学)に入学する。1880年(明治13年)、東京大学を中退して外務省入省[2]ロンドン大使館に赴任し、法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。帰国後、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、[3]福井県知事茨城県知事文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任した。太政官権小書記官時代、伊藤博文に随行し北京にて伊藤と李鴻章との駆け引きを肌で感じたという[4]。オーストリア公使時代には、日本とギリシアとの通商条約締結、ロシアとの戦争を見越した情報宣伝操作、第1次大戦後の君主国の動向の調査などがある。ヨーロッパにおいて、黄禍論の広まりを防ごうとした。また彼は、イギリス王室外交の有効性を指摘している[5]

第1次西園寺内閣文部大臣を務めた際、1907年11月4日に外交官時代の功績によって男爵を授けられた。文部大臣時代の功績として義務教育の年限を4年から延長して6年としたこと(1907年)と文部省から1万円を支出して、美術展覧会・文展が開かれることがある(1907年)。第2次西園寺内閣農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣外務大臣となる。山本権兵衛三浦梧楼から山県閥への牽制として当初宮内大臣への就任を打診されたが、政府と宮中の長官を薩摩人が占めることに誤解を抱かれるとの懸念から辞退している。

この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。1914年大正3年)3月31日、貴族院勅選議員に任じられる[6]

1921年(大正10年)、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老松方正義(仏ロスチャイルド系と親しく、その支援を受けて、日銀を創立した、英、仏、米で絶大の信頼があった、日銀設立には岩崎家が深く関わる、)が後継選択を行い、2月19日に親任式が行われ、牧野が宮内大臣に就任することとなった。しかし、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。宮相就任後、牧野は元老と内大臣との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる[7]。宮相になった翌年、山県が亡くなり、元老は松方と西園寺のみとなり、両者とも病臥することが多くなった。

1925年(大正14年)、内大臣に転じ、1935年(昭和10年)まで在任。牧野は常侍輔弼という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった[8]。牧野は内大臣就任直後、同年4月9日伯爵に陞爵する。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績による[8]

15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。後任の内大臣に湯浅倉平を推薦し、健康がすぐれず、また、就任以来15年になるので人心を新たにすることを退任の理由とした。

1936年(昭和11年)、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫である麻生和子吉田茂の娘)の機転によって窮地を脱した。直前に田中光顕からの通報があったの説がある、ボクはそれをとる、



最新の画像もっと見る

コメントを投稿