彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都大学など、国立大学の「自由と自治」をなくす国の方針に抗して❷―その経過と吉田寮・タテカン問題―立命館民主主義とは

2024-02-24 12:17:42 | 滞在記

 京都大学の伝統的な学風「自由と自治」の一つの象徴ともなってきた大学構内とその周囲の立て看板(タテカン)での学生たちの表現や主張。岩波新書風の『立て看板の歴史』(立て看板研究会著)と書かれたタテカンもユニーク。「合格祈願は吉田神社へ」と書かれたさりげないタテカン。2018年5月の大学当局によるタテカン強制撤去に対して抗議した学生たちに対し、2019年には12名の学生に対する処分を行った(内3名は無期停学)。

 「京大の"タテカン規制"一部学生が洗濯風ー"京大ヲ 洗濯致シ 候―で対抗」とテレビ報道。かって坂本龍馬が姉に送った手紙に書かれていた一文「日本ヲ 今一度 洗濯致シ候」をもじつたタテカン。「何が景観条例だ 俺が景観だ」と書かれた三高い学生風の絵が描かれたタテカンなどなど‥。

■『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)などの著書を著しているジャーナリストの田中圭太郎氏による「キャンパス内の名物も撤去され‥京都大学で起こる"ガバナンス改革"の残念すぎる結果」と題されたネット記事(2024年2月14日閲覧)。「なぜ、いま、この京都大学の伝統的な学風である自由・自治が踏みにじられてきたのか」ということについて、次の①~⑥ように書かれている。

 ①京都大学の変質はいつから始まったのか。ひとつの起点になったと考えられるのは、2013年の総長(学長)選考だ。それは、国による国立大学の「ガバナンス改革」と呼ばれるものが進められた時期と重なる。

 ②国立大学はかって、総長や学長などのトップは教職員による投票結果に基づいて、最高意思決定機関だった評議会が指名していた。評議会は、教授会で選ばれた教員や学部長などで構成された。それが小泉政権下で実施された国立大学法人化によって、この仕組みは変更される。教職員による投票は意向投票に格下げされて、選考会議がトップを決める機関となった。これがガバナンス改革の第一段階と言っていいだろう。

 ③第二段階は、第二次安倍政権下の2014年に実行に移された。国立大学法人法が改正され、トップの選考方法自体も選考会議が決められるようになる。さらに、同じくこの年に改正された学校教育法では、教授会の権限が、総長や学長の諮問機関に格下げされた。トップの権限が強化されたうえ、選考会議のメンバーの多くは、トップ自身が指名する。その気になれば、トップが教職員の意見を聞かずに、大学を運営できるようになったのだ。

 ④2013年当時、京都大学総長だった松本紘氏の任期は、翌2014年9月末までだった。次期総長の選考について話し合っていた総長選考会議で問題が起きる。教職員による意向投票を廃止して、総長選考会議の議決のみで新たな総長を選出することや、松本氏の任期延長を可能にする議案が提出されたことが明らかになったのだ。これに対して教員や学生は強く抗議した。強い反発を受けて任期の延長は議決されなかったものの、教職員による「意向投票」は、「意向調査」というより軽い位置づけに改められた。あくまで、総長選考会議が主体となって総長を決める体制ができあがってしまった。松本氏の後任として、2014年10月から総長を務めたのが山極氏だった。吉田寮の訴訟が起きたのは、山極氏が総長を務めた時期だ。

 ⑤さらに、山極氏の次の総長選挙を巡ってまた問題が起きる。総長選考には6人の候補者が立ち、任意の投票である意向調査が実施された。一位は2014年から副学長に就任して、山極氏とともに学内運営に携わっていた湊長博氏だった。しかし、得票率は37%に留まった。過去の総長選考では、意向投票で誰も過半数を獲得していない場合は、獲得票の多い上位二名で決選投票が行われてきた。にもかかわらず、総長選考会議は決選投票を行わずに、湊氏を総長に選出した。この決定に対し、教職員や学生から異議を唱える声があがった。

 ⑥総長選考が行われていた時期に、教員有志や大学院生らは「自由の学風にふさわしい京大総長を求める会」を結成していた。会では6人の候補者に吉田寮の学生に対する提訴などについての質問状を送ったが、回答があったのは三人だけで、湊氏は無回答だった。総長がこうした問題に無関心だと、学生担当理事の「暴走」を許すことになってしまうおそれがあると、教職員らは感じていた。‥‥。

■前前前号(2月21日付)のブログの中で、「山極壽一氏が総長に選出される過程で、教職員や学生たちにも責任がある」と書きました。この年の総長選考を巡って、教職員への「意向調査」が行われた際、その意向調査の結果、第一位を獲得したのが山極氏だったのかと思います。その「意向調査」において、学生や教職員は山極氏の人物像を見誤たのかと思います。そして、最終的に「総長選考会議」で山極氏が次期総長(6年間)に決まった経過がありました。

 2018年5月、大学当局(山極壽一学長)によって強制撤去された。それに抗議する京都大学の学生たちや教職員たち。京都市内での「タテカン強制撤去反対」のデモも行われた。「自由はどこへ!? 今、京大で何が起きているのか!?」と題されたビラ。

 そして、2021年4月に入り、京都大学(教)職員組合は「撤去されたのは憲法が保障する表現の自由の侵害にあたる」などとして、大学側と京都市に対し、京都地裁に提訴した。訴状には、「京都大学吉田キャンパス周辺の歩道は遅くとも、学生運動が盛んになつた1960年代からタテカンが掲げられてきた。芸術・文化関連の催しや講演会の告知、サークル紹介など多様さで知られ、"自由の学風を象徴する京大の名物とされてきた」と述べられている。この裁判(京都大学タテカン訴訟)は、2024年1月に第8回口頭弁論が行われ継続中だ。「京大出身の弁護士約140人 撤去の見直しを求めて声明文を提出」のテレビ報道もされた。(京都大学当局は、大学周囲のタテカンだけでなく、大学構内のタテカンまで規制し始めた。教職員組合が長年掲示していた場所の看板なども撤去されてしまうという経過があった。)

―2018年タテカン撤去、2019年吉田寮旧館在住立ち退き提訴の京都大学学長(総長):山極壽一氏(現在72歳)―

 現在の肩書は、「ゴリラ研究の第一人者・日本学術会議前会長・京都大学前総長(学長)・総合地球環境学研究所所長」と書かれている。京都大学総長を2020年に6年間の任期を終えたあと(70歳)、天下りで就任したのが京都にある国立総合地球環境学研究所の所長職。(この研究所は広大な敷地で、森に囲まれたとても立派な研究所だ。)国家の文部科学省行政の意向にそった京都大学の伝統的な「自治・自由」学風に対する抑制や日本学術会議会長としての「6人の任命拒否」問題への貢献、これまでのゴリラ研究学などが評価もされ、現職に就任したのかとも推測される。京都大学のタテカンの一つに、「"サル化"する京都大学―自治の学風から順位の学風へ/個人の利益と効率を優先するサル(社会)的序列学風でいいのか!」と書かれ、京都大学100周年時計台記念館の上で吠えるゴリラの絵が描かれていた。

 2020年10月から京都大学総長に就任した湊長博氏。タテカン訴訟が京都地裁で継続審議されている中だが、朝日新聞デジタルのネット記事に、永井啓子氏がタテカンへの考えを湊氏に聞いた記事が掲載されていた。

 ―「京大の自由な校風を表す一つにタテカン文化があったとの声がありますが」との永井氏の問いかけに湊氏は、「この時代、SNSもあるし、‥‥ああいうタテカンに自由のシンボルとしての価値があると言われても、のめません」「タテカン訴訟の論点そのものがわかりません」との返答だった。まあ、残念な、この人も山極氏と同様な感覚の中で生きている人物なのだろう。このような人物が、日本を代表する国立大学の学長でもある。2026年の学長退職後の天下り先も彼の念頭には強くあるのだろうか‥。

 京都市には30余りの大学があり学生の街と言われるが、「京都大学(国立)・同志社大学(私立)・立命館大学(私立)」は、京都三大大学とも呼ばれる。京都大学が2014年以降、急速に「自治・自由」の学風が壊されていく中、立命館大学は「自治」の伝統を今も大切にしている大学だ。特に学長(総長)選考にあたっては、日本で最も「民主的な学長選考」規定をもっている大学かと思われる。

 その大学学長選考規定は1949年に作られ、そしてその規定に基づく選挙で初代の学長(総長)に選出されたのが末川博氏だった。(※末川博氏は1933年の京大瀧川事件(思想弾圧事件)に抗議して京都帝国大学法学部教員を辞職していた。) この「総長公選制度」(学長選考)は、一般に「立命館民主主義」と呼ばれる大学運営の一つとなっている。4年に一度実施され、2024年現在の総長である仲谷善雄氏は、末川氏から数えて10人目の学長。「総長公選制度」の規定は2005年、2014年に改訂され現在に至っているが、その公選制度とは、「①まず、411人の学長選挙での選挙人を、学生・教職員・卒業生OB代表・学生の父母代表などが選び(各学部や学科などで学生全員の投票で選挙人などが選ばれる)、②411人の選挙人による投票で学長(総長)が選出される」という仕組みだ。

 「立命館民主主義」と呼ばれるもう一つが「全学協議会制度」。これも4年に一度開催される。立命館大学の将来の姿や運営方針を考えるときに、提案された原案を元に、大学を構成する学生や教員・職員が参加して精査していく制度である。

 日本全国の国立大学の非民主的運営が、2004年の大学法人化(準民営化)以降から横行するようになり、久しいが、京都大学の学生や教職員たちはそれでもなお、そのことに根強く抗議活動を続けている稀有な大学とも言えるだろう。また、日本の私立大学の多くは、日本大学の前・田中理事長の支配体制を巡る問題などにみられるように、理事会と理事長の権限が強大で、学長は単なる理事会(理事長)が推薦する人にすぎず、その権限は少ない。もちろん立命館大学にも理事会と理事長は存在するが、上記のような「立命館民主主義」制度で選ばれた学長の権限の方が強い。

■長々と、四回にわたって、「京都大学の吉田寮訴訟問題やタテカン訴訟問題」「大学の民主的運営の崩壊」などについてこの間書いてきた。それは、この4年間余りの世界情勢の変化の中で「ロシアによるウクライナ侵略」などが起き、ロシアやウクライナを巡る双方の支持国が、「独裁非民主主義国家VS民主主義国家」の対立という一面をもち、民主主義の世界的な退潮も指摘されてもいる中だからだ。また、2020年のアメリカ大統領選挙を巡っては、トランプ氏の支持者たちによる連邦議会襲撃・占拠という事件もおきた。

  日本は「民主主義国家」の一員として世界からは思われている。それは私もそう思うが、しかし、この大学の学問の府での、民主主義の崩壊は、「民主主義国家」としての日本の中で憂うべきことだ。京都大学の吉田寮訴訟やタテカン訴訟などは、世界の流れからして、とてもとても小さな事象なのだが、でも、小さな出来事でも一つ一つの積み重ねが真の「民主主義国家」になることができる道でもある。

 10年間余り中国という国に暮らし、改めて、「自由・民主」「報道の自由・表現の自由」「民主主義という制度の大切さ」を痛感する10年間ともなった。だから「日本共産党の党内非民主的運営、党首公選制の必要性、民主集中制の廃止」などに関するブログ記事も最近、改めて掲載している。

 

 

 

 


京都大学の「自由と自治」の象徴の一つだったタテカン文化➊―「京大はんのタテカンはおもろいどすわ」と市民からも親しまれたタテカンだったが‥

2024-02-23 07:17:26 | 滞在記

 京都大学から「自由と自治」を弱め、強権的に学生や教職員を管理する事象(2015年頃から全国の国立大学で強まる)は、吉田寮旧館居住寮生への立ち退き訴訟問題の他にもう一つ大きな事象がある。それは立て看板(タテカン)禁止だ。2018年5月に京都大学本部構内の周囲の石垣に立てかけられていた多くのタテカンの強制撤去に踏み切った。

 立て看板はタテカンの愛称で、京都大学の吉田キャンパスやその周辺に数多く設置されていた。1960年代にはすでに多くのタテカンが大学構内(キャンパス)の外構や構内に提示され、京都大学の文化として、大学の学生や教職員だけでなく、京都市民の多くからも親しまれてきた。タテカンは、学生による一種の表現活動であり、それを学内外の多くの人たちにアピールする表現手段であった。だからタテカンは京大名物とも言われてきていた。(※百万遍交差点付近を中心とした東大路通りや今出川通り、東一条通りの大学正門付近までが特にタテカンが多かった。京都の人たちも、このタテカンを眺めることにより、今、学生たちが何を考え、何に興味を持っているのかの一端を知った。このタテカンは一人の学生でも自由に置くこともできた。)

※上記写真右―1945年以降の戦後間もないころの京大正門付近に掲げられたタテカン。次のような文章が書かれている。

―願―神様だったあなたの手で 我々の先輩は戦場に殺されました。もう絶対に神様になるのはやめてください。「わだつみの声」を叫ばせないでください。 京都大学学生一同

 私は1970年代の初頭ころから京都で大学生活を送ることになったのだが、この京都大学のタテカンを日頃から眺めていると、多種多様なタテカンがあり、そのユニークさやユーモア、まじめさなどに関心もさせられてきた。それが2018年の5月まで続いた。京都大学付近を通る時の楽しみの一つでもあったのが、この京都大学の脈々と続いたタテカン文化でもあった。

※上記写真左から、➀京大はおもろい。②京都大学アニメーション同好会 ③11月祭に向けた各種発表のタテカン ④「あぶないから はいっては いけません! 入学禁止」と書かれたタテカン ⑤11月祭 本部講演:中坊・鳥越の大きなタテカン ⑥東一条通りの各種タテカン

※上記写真左から、➀➁京大入試の受験生向けタテカン ③東大寺の金剛力士像の巨大タテカン ④ノーベル賞の朝永振一郎やシン・ゴジラなどのタテカン ⑤山仕事サークル「杉良太郎」などのタテカン ⑥東一条通りから吉田神社にかけてのタテカン群

※上記写真左から、➀「折田彦一先生さま 京大に自由の学風を築きましたが 平成の終わりと同時に無くなってしまいました。どうか皆さんで京大に自由を取り戻してください。」と書かれたタテカンと折田先生像 ②「近頃 京大に流行るもの‥」との文章は、鴨長明の『方丈記』の文章っぽい ③東大路通りの各種タテカン ⑤「何をしましょう? 数学の替え玉?‥」と書かれた文字は意味不明だが、おそらく受験生向けのタテカンかな ⑥「マルクス生誕200年 今、なぜ『資本論』が読まれているのか‥」と書かれたタテカン

※上記写真左から、②正門付近の「コレがオレたちの景観 タテカン カエシテ」と書かれたタテカン ③「景観条例でタテカン撤去しろは すべて詐欺です―タテカン文化 死にたまふことなかれ 与謝野晶子―」と、サングラス姿の与謝野晶子が描かれたタテカン ⑤「非常勤講師 5年でクビにするな!」と正門前に掲げられたタテカン ⑥「85%がタテカン規制に反対」と書かれたタテカン 

※上記写真左から、⑥2020年の京都大学学長選挙を巡る国政選挙風の立候補者タテカン ➀②各種タテカン ③「祝!ノーベル医学生理学賞受賞! 本庶佑先生!京大の誇り!」と書かれたタテカン。このタテカンもすぐに撤去された。 ④「京都学生狂奏祭 熊野寮」と書かれたタテカン ⑤「時間は あんなにあったのに」と意味不明のことがれたタテカン 

※上記写真、①~⑥ 百万遍交差点(東大路通りと今出川通りが交差)付近のタテカン各種

※上記写真、③「ATM  A(あたしの)  T(立て看を)  M(見ろ!!)」と書かれたタテカン ④「祝 京都造形芸術大学、京都芸術大学に改名! 」「次は、京都芸術大学から京都大学へ改名を目指せ」「その間に、京都大学は東京大学に改名します」◆おそらく、東京大学の「自由・自治」のなさと、京大の「自治・自由」の喪失事象をもじったものかと思う。

 2018年の5月のタテカン強制撤去以降、学生たちはゲリラ的に数多くのタテカンを立ててもいたが、大学当局からすぐに撤去されるというイタチごっこもくりかえされ現在に至っている。2018年5月以降、京都大学という大学をみるたびに寂しい気持ちになるのは、私だけでなく多くの市民たちもそうだろうかと思う。あれから6年近くが経過した。

 昨日2月22日の午後、京都大学のある百万遍周辺を歩く。タテカンが一枚もない光景は、やはりかっての「自由と自治」の京都大学らしい魅力を感じない。とても残念なことだ。タテカンに関する裁判が現在、京都地裁で進行中だが、この裁判でも大学側を訴えた京都大学(教)職員組合が勝利してほしいと願う。

 

 


京都大学「吉田寮」(旧館)寮生立ち退き訴訟の京都地裁判決❷「自由と自治」の学風が、2015年以降後退したことが問われる判決となった

2024-02-22 09:28:56 | 滞在記

 

 2019年、京都大学吉田寮の旧館在住の寮生たち(45人)への立ち退きを京都地裁に提訴した京都大学当局(学長・山極壽一氏)。その後、京都地裁では15回に及ぶ法廷での口頭弁論が行われ、2023年からは2回の証人尋問が行われた。そして、2024年2月16日、いよいよ京都地裁のこの裁判の判決が下されることとなった。

 2019年当時、吉田寮旧館に在籍する寮生は45人だったが、その後、大学を卒業するなどしていき、旧館に暮らす寮生は減少、この2024年2月に旧館に暮らす寮生は17人となっていた。「(吉田寮の)食堂はカルチャースポット 築111年 変化し続ける京大吉田寮」と題されたネット記事。「京大はには 何故変人が多いのか? そして‥ 何故、変人を推奨かるのか? その秘密に迫る」と題されたネット記事などなど‥。

 この2月に入り、京都大学の吉田寮や京都大学本部構内の百周年時計台記念館の大樟(おおくす)の木の前には、16日の判決日に向けた大きな立て看板などが置かれ始めた。そして判決の2月16日を迎えた。

 2月16日判決日の翌日、2月17日付朝日新聞には、「学生らの居住認める―京大吉田寮明け渡し訴訟・京都地裁判決"大学の請求棄却"―寮生"合意形成を"」「学生運営 続く自治文化―京大吉田寮訴訟、居住認める判決―人間教育の場・元寮生が"大学は対話重視"」の見出し記事が掲載された。また、2月19日付同紙には、「京大吉田寮 自治守り、対話再開を」と題された社説が掲載された。 

 2月17日付京都新聞には、「京大吉田寮、一部勝訴 京都地裁判決 14人の居住認める」「京大吉田寮訴訟 寮生一部の勝訴―学生自治、認められた 入居者・支持者に歓喜の輪 "大学は話し合いの再開を"」の見出し記事が掲載されていた。

 京都地裁での判決が下り、地裁前は寮生たちや支持者たち、たくさんの報道陣に沸き返っていた。寮生側「勝訴」と書かれた縦長の模造紙に、地裁前は歓喜に包まれた。(旧館在籍17人のうち、14人[8割]の在籍が今後も認められた判決)

 その後、寮生側弁護団の会見。夜には、京都大学本部構内の文学部大教室での裁判報告集会が行われ、多くの学生たちや教職員、一般市民たちで大教室は埋まっていた。

―2月19日付朝日新聞社説「京大吉田寮 (大学は)自治守り、対話再開を」―

■この社説のほぼ全文(中略も一部)を下記に紹介します。この「京都大学・吉田寮訴訟問題」に関する、とても大切なポイントがこの社説には掲載されていました。

 学生たちが守ろうとし、大学に求めてきたのは「自治と対話」だ。その価値を明確に認め、大学側の姿勢を厳しく戒めた司法の判断である。京都大学は控訴せず、学生との話し合いを再開するべきだ。‥‥(中略)‥‥裁判で問われたのは、大学当局の姿勢だ。吉田寮の運営にあたっては、1971年以降、寮自治会と確約書を随時交わし、「学生と話し合うことなく、一方的な決定を行わない」としてきた。‥‥(中略)‥‥(大学当局が)約束に反して強硬手段に出たことを、地裁は重くみた。

 さらに判決は「在寮生らは、自治会による自主運営に大きな意味を見出して入寮した」と指摘した。多様で濃密な人間関係を築ける学生寮の貴重さを認め、代替宿舎ではかなわない学生自治を評価したと言える。

 京大では、大学周辺の立て看板(タテカン)をめぐっても争いが続く。京都市が17年に景観などを理由に撤去を指導し、大学側が応じたことに対し、京大教職員組合が「表現の自由の侵害だ」として市と大学当局を訴えた裁判だ。今回の判決を機に、京大の伝統である「自由の学風」に照らし、改めて省みてほしい。

 学生寮を閉じる動きは各地で相次ぐ。東大の駒場寮をはじめ、東北大や金沢大でも寮生らの反対を押し切って廃寮になった。04年の国立大学の法人化以降‥‥(中略)‥‥。

 自主自律を重んじ、個性豊かな人材を送り出す。それこそが大学が期待される役割である。管理を強め、強権を振りかざすのでは、自治を守るべき学府の自己否定につながりかねないと知るべきだ。

 

 

 

 

 

 

 


日本三大・大学自治寮の一つ、京都大学「吉田寮」(旧館)の寮生立ち退き訴訟の京都地裁判決➊―「吉田寮」とは、そして京都大学の「自由」の校風が問われる判決となった

2024-02-21 06:42:32 | 滞在記

 私は2022年10月19・20・24日付のブログ「彦四郎の中国生活」で、「日本三大:大学自治寮①京都大学"熊野寮""吉田寮"、北海道大学"恵迪寮"―バンカラ伝統も」と題した記事を3回にわたって掲載した。その回のブログで、「日本全国の大学の学生寮の中で、現在もなお学生(寮生)たちによる寮の自治運営の伝統が残る(守られている)大学寮が三つ、日本にはある。この三つともに、今なお、バンカラ的雰囲気や一種のアホさ、バンカラ的雰囲気のカオス的濃厚さ、そして汚さでも、伝統的に保たれている学生寮である」と書いた。

 この京都大学と北海道大学の三つの寮ともに、さまざまな考えや趣味や学問、感性をもつ学生たちが日常的に交わり、かなり濃厚な人間関係をもつことができ、お互いに影響し学び合い、幅広い一般教養や人間形成が行われるという、大学教育の中でもとても重要な要素を機能させているのが、この三つの寮の特徴だろうかと思う。そうした意味で、この三つの大学寮は、現在の日本の大学教育の中で、稀有(けう)な、守られるべき自治伝統を辛うじて残す学生寮でもある。

 そのうちの一つ京都大学の吉田寮の旧館は、1913年(大正2年)に建てられているので111年の歴史をもち、現存する大学寮としては日本最古の歴史的建造物となっている。(※1945年以降の戦後、この旧館の建物は改修され現在に至っている。)

 現在、京都大学には主に5つの学生寮がある。最も寮生が多いのが「熊野寮」(400人余り[内:女学生は80人余り]/個室はなく全て4~6人部屋)。次いで「吉田寮」(新館に100人余り/旧館に20名弱で合計120人余り)、他に「女子寮」(30人余り/全て個室)や「室町寮」(大学院生寮)や「外国からの留学生寮」などとなっている。

 京都大学は、日本で2番目に創設された帝国大学である京都帝国大学(1897年[明治30年])の流れを汲み、精神的な基盤として「自由の学風」を謳(うた)っている。1933年(昭和8年)、京都大学法学部の瀧川幸辰教授が国家からの弾圧で休職させられたことに抗議して、法学部の31人の教授全員が辞表を出し、さらに法学部の副手(准教授)たちも全員が辞表提出、法学部の全ての学生たちが自主退学をして大学を去る(他学部の学生たちも、かなりの学生が抗議の意志を表すために退学している。)という思想弾圧事件(瀧川事件/京大事件とも呼ばれる)が起きた。(当時の学長は辞職に追い込まれた) 

 日本が軍国主義化していく歴史の中の象徴的な思想弾圧事件でもあった。そんな「自由」(表現の自由)ということを希求する学風が京都大学という大学だった。そして、その学風は、1945年からの戦後になり、さらに脈々と教職員や学生たちに受け継がれて続けてきていた。そんな京都大学の「自由の学風」が大きく変えられ始めたのが2014年に山極壽一氏が学長に就任したころからだった。

■―「自由な」イメージと高校3年生が思う大学ランキング(2022年)のリクルート調査—全国1位は京都大学

 この調査では、関東・東海・関西の各エリアの高校3年生を対象に、「自由なイメージの大学は?」という質問で行われた。全国的には、1位京都大学、2位早稲田大学。他に、慶応大学、東京大学、青山学院大学、立命館大学が、各エリアの3位以内に入っている。

 2022年10月19日付のこのブログでは次のように(次の①②)書いた。(■は今回、初めて書く。)

➀特に、その「自由と自治」が大きく変わってきたのが2015年頃からだ。当時、京都大学の第26代学長(総長)だったのは、霊長類学者として名高い山極壽一氏(70)だった。彼は2014年から2020年までの7年間、京大の学長だったが、このような「自由や自治」といったことには関心がないようで、京都大学の周辺に置かれた多種多様な「立て看板」の撤去にも(行政の求めに応じて)踏み切った。(2018年)  多くの京都市民からは「京大はんらしゅうて、いい光景(立て看板)やは」と惜しまれた立て看板だったのだが‥。(強制撤去に踏み切った。そして、京都大学らしい「多種多様さを認める自由さ」「表現の自由」の象徴的な多くの立て看板の光景は失われた。)

 ➁さらに彼は、京大学長を兼ねながら、日本学術会議の会長職ともなった、だが、「自由や自治」に関心のない山極氏の会長時代の2020年、「6名の任命拒否」を管内閣は行った。これに対する抗議も、山極氏はほとんどしてこなかった。山極氏の後任の梶田会長(ノーベル賞受賞者)は、この任命拒否問題の撤回を岸田内閣に真摯(しんし)に要求している。山極氏は、2021年に京都大学を退官し、現在、天下り先として、京都の(岩倉地区にある広大で立派な)「総合地球環境研究所」の所長になっている。まあ、京都大学の(125年余りの)歴代学長の中で、最も「大学の自由と自治」に無関心な、京都大学(の学長)にふさわしくない人物だったと、私は思っている。

■2014年に山極氏が学長選挙で選ばれた当時、京都大学の構内(本部吉田キャンパス)を歩くと、この学長選挙の看板や、ポスターやビラがよく貼られていた。「権力欲の少ない自由なイメージの高名な学者」という感じで、山極氏を推す学生たちや教職員たちが作ったものだった。そのイメージ宣伝効果もあり、山極氏がそういう意味では、「山極壽一氏という人物を完全に見誤り」、山極氏を推した多くの学生や教職員たちにも大きな責任があるとは思うのだが‥。京大の歴史上ではかなり大きな、「山極寿一氏とは実際のところ"自由と自治について"どのように考えている人物なのか」を、ほとんど考えられなかった学生・教職員の判断の大きな誤りかと思われる。(1952年2月生まれの山極氏は2024年2月現在は72歳)

■吉田寮(旧館)の寮生全員立ち退き訴訟を2019年に京都地方裁判所に、寮の自治会との話し合いもほとんどなく、一方的に訴訟を起こした当時の京都大学総長(学長)もまた、この山極壽一氏だった。

 

 

 

 

 


光る君へ―紫式部の越前から京への旅路をたどって、今庄宿・木ノ芽峠・敦賀・深坂越えから琵琶湖西岸へ

2024-02-18 11:37:34 | 滞在記

 「越前から始まる恋物語」と題したイベントが3月16日(土)に、越前たけふ市の文化センターで開催される。イベントの内容は、日舞・お芝居・バレエ・紙芝居・剣詩舞・吟詠・民謡・茶会などなど。この日は、北陸新幹線の金沢―敦賀間の延伸ルートの開業日で、この越前市の新幹線駅名は「越前たけふ駅」となっている。(※平成の市町村合併により、「武生(たけふ)市」という地名から「越前市」に変更された。歴史ある「武生」という名前への愛着は地元ではとても強く、新幹線駅名は「越前たけふ駅」となったようだ。)   2月23日には「紫ゆかりの館」だけでなく、「大河ドラマ館」も越前市にオープンする予定だ。

 11日(日)、紫式部公園や紫ゆかりの館を訪れたあと、午後5時から市内のコメダ珈琲館にて友人の山本君、彼の知り合いの藤木さんと1時間余り会って話した。午後6時に藤木さんに別れを告げて、山本君とともに市内の「ろくべえ」という居酒屋にて友人の松本君と合流。乾杯のあと、2時間ほどお互いの近況などのいろいな話をした。そして、私は武生駅前のビジネスホテルに戻った。この夜、少し雪が降り始めてきていた。

 「越前市グルメMAP」には、平安時代の衣装を着た男女たち(紫式部・藤原道長・清少納言・藤原彰子・安倍晴明)
のイラストが描かれていた。武生(越前市)名物の「越前おろしそば」の28店舗、「ボルガライス」の11店舗などが紹介されている。「越前へ通じる道」と題された企画展(1/26~3/24)が越前市武生公会堂記念館で開催されていた。これは、紫式部・源氏物語関連企画展。この企画展について、「越前市で北陸道の歴史企画展」と題して、テレビで報道がされていた。

 1996年に行った紫式部たちの越前下向のようすについての写真も展示されているようだ。この日、京都に戻る道すがら、1000年以上前に式部たちがたどった越前―京の都への道や場所にも立ち止まりながら行くことにしようと思った。

■「紫式部・安倍晴明 ゆかりの地 ふくい平安めぐり」と題されたパンフレットには、安倍晴明ゆかりの地のことも書かれている。私も、福井県南越前町の実家から京都に戻るときに、たまに通る道である「敦賀➡若狭の小浜市から➡京都府と福井県の県境にある堀越峠越え」。この堀越峠の若狭側の麓にある名田庄村が晴明ゆかりの地だ。そこには、晴明を始祖とする土御門家の子孫や系譜の人たちが、今も陰陽道の数々の儀式を脈々と受け継いでいて、「暦会館」もある。集落の高いところにある「天社土御門神道 天社宮」は安倍晴明を祀る本殿や土御門(安倍)家墓所や安倍晴明の墓と伝えられる墓もある。(土御門家一族は、1467年から11年間も続いた京都での「応仁の乱」の戦乱を避けるため、京都から周山街道を通り、ここに一族が移り住み定住したとされている。)

  2月12日(月)午前10時頃、JR武生駅前のビジネスホテルを出て、越前武生から日野川沿いに南越前町南条地区を進む。中国に戻る前に故郷の海をもう一度見ておきたかったので、ホノケ山トンネルから南越前町河野地区にある「道の駅 河野」へ。眼下に敦賀湾、そして若狭湾から丹後半島や鳥取県の但馬海岸あたりまでが遠望できた。ここから北方の方角には、ロシアのウラジオストックがある。

 再びホノケ山トンネルから南条地区に戻る。紫式部一行も通ったとされる湯尾峠がある。奈良時代から北陸道の峠としてあった標高は低い峠。かってここには、交通の要衝地でもあったので山城が築かれていた(湯尾城) し、日野川対岸の杣山(そまやま)には、南北朝(室町時代初期)の戦いの舞台の一つともなった険峻な山城、杣山城もある。

 昨夜に降った雪は、南越前町今庄地区まで行くと、かなりの降雪量となっていた。江戸時代に特に発展した今庄宿は、今もその伝統的な家屋が多く残る歴史的保存地区だ。(源平合戦の時代から築かれた山城である燧ケ城がある。)ここも式部一行は通っている。日野川沿いに北陸路最大の難所の一つとされる「木ノ芽峠」(標高628m)に向かう。(もう一つの北陸路の難所は、富山[越中]と新潟[越後]の国境にある"親知らず子知らず") 

 木ノ芽峠の麓にある板取宿は白雪に覆われていた。この宿は江戸時代にできた宿で、式部一行がここを通った時には宿はなかった。

 木ノ芽峠の麓周辺から、昨夜に降った積雪がまだ融けず道路もかなりの雪が残る。昨夜の雪は想定していなかったので、ノーマルタイヤでの運転なので慎重にゆっくりと走る。峠の途中まで来ると、石川県と岐阜県にまたがる霊峰・白山(2702m)が神々しいまでの白い嶺となって遠望できた。式部も越前国府からこの光景を見たのだろう。

 木ノ芽峠の中腹から再び山麓に戻り、木ノ芽トンネルを通り敦賀に向かう。(※式部たちが京都と越前を行き来した996年当時、敦賀から越前国府のある越前武生に至るには二つのルートがあった。一つはこの木ノ芽峠越え、そしてもうひとつは、より海岸線のルートをとる奈良時代からある山中峠越えである。式部一行がどちらのルートをとったのかはあきらかになっていないようだ。)

 平安時代には、日本海を航海してきた中国人(宋人)たちの公館があった敦賀。この敦賀の港町は、日本からヨーロッパに行く時の日本の出発点となった町で、例えば夏目漱石などもイギリスのロンドンに留学する際に、この港からロシアのウラジオストックに船で渡り、大陸横断シベリア鉄道経由でヨーロッパに向かった。そして、第二次世界大戦中は、ナチスドイツの迫害を逃れた約6000人のユダヤ人たちが、この敦賀に大陸経由で到着している。このように、古代・中世・近世・近代まで、日本海ルートでの重要な港町だったのが敦賀という町だった。

 この敦賀から、滋賀県(近江)と福井県(越前)の国境には、二つのルートがあった。一つは西近江路と呼ばれる山中峠越えルート、そしてもう一つは大浦・塩津路とも呼ばれる深坂峠越えだ。いずれも、このルートは、越前敦賀の疋田という交通の要衝地で合流する。(疋田にはたびたびの落城悲話ののこる疋壇城の古城がある。)  式部一行は深坂峠越えを通ったことがわかっている。

■今回、ちょっと寄り道して、滋賀県の高島市マキノ町の方に行ってみた。この辺りの周囲の山々も積雪で白く輝いていた。

■マキノ町のメタセコイヤ並木と周囲の冠雪した山々の光景。

■996年に、越前国の国主となった父・藤原為時に同行し、越前国府のあった越前市(武生)に下向した紫式部。父の藤原為時は漢学者として著名であり、そのことも、越前国内の敦賀に大使館(宋人館)をもつ彼らとの折衝に必要な人材とされたのも一つの理由だったようだ。

 京の都から越前国府までの道のりは、京都➡(逢坂峠)➡大津(打出浜)➡[船にて分乗し琵琶湖西岸沿いに航行]➡(途中に寄港/三尾崎にて上陸し宿泊など)➡再び船に分乗し琵琶湖北岸の塩津に上陸➡5里半越えといわれる、けっこう厳しい山道の深坂(みさか)峠を越えて越前国の疋田に至る。そして、敦賀➡(「木ノ芽峠」越え又は「山中峠」越え)➡今庄➡湯尾峠➡南条➡越前国府。この京都から越前までの下向の日数は5日間を要しているようだ。50人余りの一行は、歓待なども受けながら途中4泊をして越前国府に到着したと考えられている。この下向は996年の夏の季節だった。

 紫式部は、結婚のために1年余りの越前での生活を終えて、京都に戻ることとなるのだが、この時の越前国府➡京都のでの旅の日数は4日間とされている。

 この2月18日付の京都民報紙には、「后の私設秘書 紫式部―沈思する月―④越前への赴任/心は都に残したまま琵琶湖を渡る」と題された記事(野口孝子筆)が掲載されていた。 その記事の中で、「‥‥‥式部は、"三尾の海に 綱引く民の 手間もなく 立ち居につけて 都恋しも"と一首詠んだ。三尾の浜辺で、網を引く漁師たちの見慣れぬ立ち居を見ていると、都が恋しくなる、というもの。‥‥(中略)‥‥深坂峠で一行の荷を運ぶ人夫たちが"いつも通っている山道だがやっぱりきついなあ」と、ぼそぼそと愚痴をこぼしている。それを聞いた式部は、"知りぬらむ 往来(いきき)に慣らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと」と詠んだ。人夫さん、人生と言うものはこの峠のように本当につらい(=からい)ものだと知っているでしょう。私の人生もつらいものです、と。身分の差を越えて、人のつらさに寄り添う式部の感性が感じられる。‥‥(中略)‥‥。」と書かれていた。

 その三尾の崎付近には、近江(滋賀)最古の神社とされる「白髭(しらひげ)神社」(865年創建とされる)がある。その三尾の崎付近からさらに北に行くところにある三尾の浜には見事な松並木が延々と続く。式部たちはここに下船し一泊し、再び船に乗り竹生島を眺めながら塩津の浜にて船を降りたのだろう。その三尾の浜は、昨夜の積雪で白くなっていた。はるか向こうに竹生島も見える。

 琵琶湖西岸の道路を大津に向かう湖西道路を行く。大津から琵琶湖の水が流れ出る瀬田川(宇治川になる)のそばに、紫式部が『源氏物語』の着想を得たと伝わる石山寺がある。

■2月16日から、京阪電車の坂本―石山線で、「光る君へ」ラッピング列車の運行が開始された。(2025年1月まで)  また、福井鉄道の武生―福井線でも2月10日から「光る君へ」のラッピング電車運行が開始されている。(NHK大河ドラマ「麒麟がくる」2020年度[明智光秀の生涯を描く]でも、この坂本―石山線でラッピング電車が運行された。)