彦四郎の中国生活

中国滞在記

結納、留学生のアパート探しと契約—今日、急きょ 中国への赴任・渡航をすることになった—

2016-08-28 06:35:50 | 滞在記

 8月22日(月)の友引の日に、息子の「結納式」が行われた。結婚式の予定は10月16日(日)。最近では、「結納式」をとりおこなうことは少なくなり、結婚にあたって結納式を行うのは10組中2組くらい(20%)のようだ。
 7月24日(日)に、息子と結婚してくれることになった人の両親と初めて会った際の話し合いによって、結納式をすることになった。その後、「結納・結婚」に関する本などを購入し、結納式の流れや必要な結納品についてのことを初めて勉強をした。8月上旬より、京都市内の老舗「松屋結納店」に何度が足を運び、結納式に必要なの品々を準備していった。お盆で福井県に帰省する前に、ほぼその準備が整った。
 8月22日の朝、大きな風呂敷に「結納品」を包み、自宅を出た。結納式の後、お酒が入った会食・歓談となるので 車で行くことができないので、バスや電車を乗り継いで 京阪出町柳駅に着いた。ここで息子と待ち合わせをしていた。そして、京福叡山電鉄のローカルな電車に乗って「岩倉駅」に着く。
 相手方の伊佐家に着いた。14代以上続く岩倉の旧家だけに、家というものに格式と伝統が感じられる。なかなか風情のある屋敷うちだった。周囲は水田も多い。比叡山が家の門の正面方向に見える。

 11時から始まった「結納式」の流れは、11時半頃に終了した。初めての結納式の経験だったので、口上がちゃんと言えるかどうか不安もあったので 少し緊張した。式終了後、伊佐家のおじいさん(娘さんの祖父)が挨拶をしてくれた。元高校の生物学の教員だったようで、非常に品のある人柄が感じられる人だった。
 式後の食事会のために、中華料理の出張料理人2人が伊佐家に来た。12時頃から午後2時半ころまで、式後の宴席が行われた。

 足や腰の不自由なおじいちゃんは、畳に座ることが難しいので、母屋の台所に料理人たちと話しながら過ごしていた。生物に関する話などをしたが 私も生物学が大好きなので けっこう話し込んだ。おじいちゃんが、今は亡くなった妻と中国に旅行した際に、「ほれ込んだので、即決で買ってきた」らしい、中国の戸だな家具。立派なものだった。よくこれが日本に運べたものだと思った。中には、これもまた立派な中国の陶磁器などの美術品が多数入っていた。
 午後3時ころ、岩倉の伊佐家を後にして、自宅に午後5時ころに戻った。酒が入っていたので、身体が熱い。気温も37度という日だったので、水風呂に入り、浴室から上がって 即 熟睡を始めたようだった。無事「結納」の式を終えることができて安堵した。

 8月24日(水)の夜、祇園の路地にある「山口大亭」という大衆食堂・居酒屋に十数年ぶりに入った。ここは、学生時代、アルバイトのお金が入って すこし懐が温かくなった時、よくきた店だった。メニューは当時とほとんど変わらない。この日 注文したのは、「①鉄火めし②イワシの丸干し③日本酒の小瓶」。学生時代もよくこの組み合わせだった。酒は半分余ったので持ち帰った。

 今年の6月に、中国福建省福州市にある閩江大学を卒業した学生(李順鋒 君)が、立命館大学大学院の入学試験(海外在住のままの入学試験)に合格したので、8月上旬より アパート探しを始めていた。そして、ようやく 昨日の8月27日に正式契約を「アパート不動産会社(店)」と結ぶことができた。これもまた、ここに至るまで かなり大変だった。
 アパートの1か月の家賃は、水道代・諸共益費・インターネット代を込みで39000円と手ごろな値段。なによりも、窓からの景色が良かったので ここに決めた。李君は9月中旬に初来日する予定である。これも、ようやくここまで決まって、安堵した。彼の合格発表後、第一次入学手続き、第二次入学手続きや お金の振り込みなども 非常に大変で苦労も多かっただけに、ぎりぎりセーフで 中国渡航までに 入学準備が完了して 責任が果たせて 本当に安堵した。
 27日の午後、李君のアパート正式契約後、昨年の9月から立命館大学の大学院生となっていた林さん(※李君の1年先輩)とも会った。

 今日8月28日に、中国に渡航・赴任することが 急きょ決まったのは、数日前の8月24日(水)だった。日本側派遣元の「日中交流センター」の中国大学教員派遣事業の担当者が7月1日より 交代した。このため、再び赴任することになった「閩江(びんこう)大学」の担当者との 赴任時期に関する確認がセンターの方でも あいまいになってしまい、私の渡航時期か゜「①8月末➡②9月10日頃➡③9月中旬」と二転三転 変化した。おそらく、9月中旬の渡航指示になるだろうと思っていた。
 それが 急転一過、今日になってしまった。渡航準備までに3日間しかなかったので、大急ぎで大きな渡航荷物を準備しながら、李君のアパートの件に対応したり、林さんと会ったりという3日間だった。
 
 それでは、中国に再び行ってきます。日本は、台風の影響もあり ようやく少し気温が下がってきたのですが、中国福州は35度前後の日々が10月末まて゜続きそうです。まずは、新しいアパートに入り、何もないところから 生活用品を買い調え 生活環境を作るところから始めて行きます。苦労しそうです。



 





お盆帰省でのこと❷—15日「京北町山国庄」、16日「大文字の送り火」大雨の中、点火できるのか—

2016-08-27 21:50:29 | 滞在記

 お盆での「帰省」の続編です。
 8月15日の午前中、福井県の実家の仏壇を片付けたり、墓に再び参ったりする。「ご先祖様、そして お父さん・お母さん・おじいちゃん・おばあちゃん、安らかに眠って下さい。私たち家族や私の親しい知り合いを守ってください。また、来ます。」と別れを告げた。
 昼前に実家を出発し、妻の故郷である「京都府の京北町」に向かって、出発する。実家の第二の母や息子たちに別れを告げる。途中、敦賀の日本海側最大の規模(66店舗)の「日本海市場」に立ち寄り、娘婿の山田君の実家(滋賀県東近江市)に海産物を買って送ったり、妻の故郷の人たちへの土産の海産物をたくさん買い込む。
 福井県敦賀市から若狭路を ひたすら小浜市に向かう。小浜市から名田庄村をめざして走る。この何十年間、福井県の名田庄村から京都府の美山町に至るルートとして、福井県・京都府の県境にある「堀越峠」を通っていたが、今回は初めて 「五波峠」という山道を通って行くことにした。はたして、無事に美山町に着けるのだろうか心配もあった。もし、危険ならば 引き返すつもりだった。しばらく走ると、名田庄村の小さな町営の「道の駅」的な建物があったので、立ち寄って 「ここから五波峠越えで美山町に行けますか?」と店の人に聞いてみた。「ああ、行けますよ。」との話だったので、少し安心して峠に向かった。「栃(とち)ノ木」の実が大きくなっていた。
 かなり細い山道のカーブの連続だったが、そんなに危険な場所も少なく、「五波峠」に着いた。福井県と京都府の県境のこの峠、ブナの木の林がみられた。近畿地方では、ブナの木が見られるところは、珍しい。このあたりがブナの林の「南限」なのだろうか。

 峠からの山道を下りきると、「田歌」の集落。そして、日本海に流れる「由良川」の源流域が見られる。さらに源流域に行くと「芦生(あしゅう)」の原生林に至る場所だ。源流を中流域に向かうと「美山かやぶきの里(美山町北集落)」がある。しばらく、ここで休憩。

 15日の夕方近くに、京都府京北町に着く。妻の姉の家に立ち寄る。その後妻の実家がある、近くの京北町山国庄に着いた。夜、天童山に「山」の字が浮かぶ。「山国庄」の「山」の字だ。なにか、「大文字の送り火」的な感じがする。ここは、木を燃やすのではなく、「電気の明かり」で 大きな「山」の字を---。「月と山」。

 そして、20〜30発あまりの花火が打ち上げられた。妻の兄は、盆踊りの「篠笛」の担当として出かけて行った。

 16日の午前10時頃、妻の家の「墓参り」に、妻と私と、そして妻の母とともに行く。山の斜面に作られた、村を一望できる 見晴らしのいい場所に何十基もの墓が並ぶ。それぞれの墓にかざられていた花々は、夜のうちに鹿にほとんどが食べられていた。毎年 このお盆の時期にかざられる花は鹿に食べつくされる。
 16日の夕方、京都の自宅に戻り1時間あまり休憩。その後バスや電車に乗って、15日に 借家から新居に引っ越した娘の家に行く。ここの小さなベランダからは、午後八時に点火さける「大文字」がよく見えるはずだった。京阪電車の終点「出町柳」に着く。午後6時半、出町柳周辺の鴨川のあたりは、大勢の「大文字送り火」を見る人で河原の堤防は埋め尽くされていた。

 娘の新居に午後7時に到着。ビールを飲みながら、料理を食べて、午後8時の点火を待つ。ところが、午後7時半ころから雨が降り始めた。7時40分ころには、本格的な土砂降り状態となってきた。
 こんな激しい土砂降りの中、はたして 「大」の文字の点火はするのだろうか。いや、点火できるのだろうか。昭和19年(1944年)、太平洋戦争のさなか、アメリカ軍の空襲に対する警戒のため、夜に火をかがす「大文字の送り火」は、昼に「大勢の人々が白い法被を着て大の字を表現」した以外、台風の襲来で 一度中止となった以外、かなりの悪天候でも 点火されてきた歴史を持つ。
 おそらく、点火させるだろうと思っていたら、午後8時に ほそぼそとした火であったが、なんとか 点火をした「大」の字らしきものを見ることができた。続いて、「右大文字から 妙➡法➡左大文字➡舟形」が点火されたようだった。(※京都テレビでの実況中継)

 学生時代には、「銀閣寺」に隣接するアパート(※現在は、銀閣寺境内の売店の場所になっている。)に下宿していたことがある。このアパートの大家さんが、「大文字保存会」の会長さんだったので、学生時代にこの送り火の手伝いをしたことがあった(※6月下旬から、送り火用の眞木(薪)を運ぶ。)
 今年も、先祖の霊を送る「大文字送り火」が終わり、私の「お盆」も終わった。






お盆帰省でのこと❶—命がけのはめとなった恐ろしい道を下るも、途中で見たすごい日本海の夕日—

2016-08-23 17:25:41 | 滞在記

 お盆で故郷に帰省していた8月14日の昼過ぎに、息子と婚約者が 京都から車で家(福井県南条郡南越前町糠)に来た。私の実家は、漁村である。かっては、福井県南条郡河野村糠という地名だった。平成の市町村大合併の時期に、南条町と今庄町と河野村の3町村が合併して「南越前町」となっている。
 さて、14日の午後5時半頃に海岸線の村はずれにある従兄弟の家に行こうと思った。(10月16日挙式予定の息子の結婚式への参加依頼のため) 時間の余裕が 少しあったので、逆方向の山間部の林道を経由して ぐるっと大回りをして行くことにした。半分は ほぼ初めての道だった。まず目指したのは「杉山・神土」という集落だった。ここには、私が小学生だったころ「糠小学校神土分校」という分校があった。
 ものすごい僻地らしい「杉山集落」と「神土集落」の子どもたちが、この分校に通っていた。この分校の5・6年生は「4月~10月」の時期だけ、本校の 私が通学した「糠小学校」に 歩いて通学していた。かなりの距離を毎日通学しているようだったが、今まで この「杉山・神土地区」には行ったことがなかった。かなり道も良くなったと聞いたので行くこととなった。
 小さな谷川沿いに かなりの山道を走ると「杉山」「神土」を示す小さな標識に出くわした。「杉山」方面を、さらに細い山道を登って行く。行っても行っても集落に到着しなかった。こんな山の上に集落があるのかなと不安になった。そしてついに集落が見えた。車のメーターを見ると、本校の糠小学校の跡地から約8km以上もあった。
 集落の外れに、男性が一人いたので、「この集落から牛房ケ平の集落に行けますか?」と聞いてみた。「ああ、三叉路を右に行けば行けると思います。」とのこと。「思います。」は少し不安だが--。この男性と話していたら、なんと 私の小学校の同級生だった。名前は山田君。あの「神土分校」から来ていた同級生の一人だった。なんでも、中学校は 河野中学校まではあまりに遠いので、隣の町「越前町」の「白崎中学校」にこの分校の学生は通学していたようだった。彼は長い間 家族同伴でアメリカに赴任していたようだった。この限界集落に一人住む母親(90才)の介護のために、最近 福井県に戻り 農耕と介護の生活をしていると言っていた。
  
 杉山の集落から日本海が見えた。ほぼ45度くらいの傾斜の断崖のような山の下には日本海が迫っていた。なぜこのような場所に集落ができて人が住み始めたのだろうか 不思議に思える場所だった。ここから神土の集落に行ってみた。かなり遠い距離があった。この集落は「廃村」となっていた。分校がおそらくあったと思われる少し広い場所があった。
 再び杉山集落に戻り、今の母(義母)の故郷「牛房ケ平」の集落を目指した。ここもかなり細い道が続く。途中に分岐路があり、「牛房ケ平」の標識の方に向かった。徐々に断崖のような山を下って行く山道だったが、徐々に恐怖を感じてきた。

 今まで車で通った道の中で、最も危険で恐ろしい道だった。軽自動車がようやく走れる下り坂道とカーブの連続で、少し運転を間違えたら 崖を転がり落ちるような道だった。当然 バックで戻ることもできない。枯れ葉が道に積り、スリップしそうになった。来たことにかなり後悔をしたが、始まらない。草が道路にまで生い茂り、ここ数年は車が通ったことはないようだった。この道の様子を写真に撮るよゆうなどまったくなかった。
 そのうち、時刻は夕方の7時ころとなった。もうすぐ日が暮れそうな時刻だ。怖ろしい山道から見る日本海の夕日がきれいだった。細心の注意を払って、少しずつ道を下って行った。

 ついにお墓が道のあたりに見え始めた。「よかった!!!!!!集落が近い。」そしてようやく けっこう広くて安全な道に到達した。その先には「牛房ケ平」の集落が見えた。集落から山の方を見上げた。この山の急な坂を下りて来たのかと改めて安堵した。

 牛房ケ平の集落から海岸沿いの国道まで下りる道も、これはまたこれで大変危険な道で、夜は絶対に車での通行は難しいが、さっきの山道より数倍安全な道だった。
 ここからの 日本海に沈む夕日を写真に撮った。すごい日本海の夕日だった。海の上を走る太陽の光の帯の中に 小さな漁船が浮かんでいた。
 夕闇が迫り始めた7時半頃に、従兄の家「旅館・料理店」に着いた。さっきの道の話をしたら、「だれも通らない道をよく無事に下りて来たもんだな。」と感心された。あの山の道路は、「日本海の夕日」を撮影するのに絶好のポイントとして、ひそかに有名な場所でもあると教えてくれた。しかし、もう二度と行かないだろうと思う。今 思い出しても 怖い体験だった。 









旧北陸本線 廃線跡を行く❷—北陸路の最大難所、「親不知断崖」と「今庄山塊・河野断崖」—

2016-08-23 11:45:28 | 滞在記

 「山中信号所跡」は、この「杉津機関区」の最高高所。ここを過ぎると、廃線跡地は下りになっていった。「大桐」という集落が見えてきた。この集落の附近に「北陸新幹線・新北陸トンネル」を作っている工事事務所の建物群が見える。「もう、新しい新幹線用のトンネル工事が始まっているんだ----。」と驚いた。北陸新幹線の金沢—福井—敦賀までのルートは決定していて、工事が始まっているが、敦賀—大阪間のルートは まだ未決定の段階だ。
 「大桐」集落のはずれに「万葉の道べ」という看板があった。古代奈良時代の最古の道は、「中山峠」を冷えてから ここを通っていたのだろう。そして、さらに行くと「大桐駅跡」のプラットホームがあった。

 さらに今庄方面に向かうと、現在の本陸本線「南今庄駅」に着く。小さな田舎の無人駅だ。ここのすぐ近くに「北陸トンネル」の入り口があった。この北陸トンネル(※特急列車で通過するのに10分以上かかる。)が、昭和37年に開通したため、日本一の鉄道難所といわれた「杉津機関区」は廃線となった。明治29年(1898年)開通から、昭和37年(1962年)廃線までの64年間。廃線後、今年で55年あまりが経過したことになる。「南今庄駅」付近を 現代の「特急サンダーバード」が通過していった。そして、同じ地域を 十年後に 「新幹線」が走ることとなる。振り返ってみれば、私の人生にとっても隔世の感がある。新幹線がここを初めて通るころ、私の人生も黄昏となっているはずだ。いや、その日まで生きているだろうか。

 「南今庄」から「今庄」の町に着く。ここは、古代からの相当長い歴史をもつ「宿場町」である。今でも 当時の宿場町の様子がかなり残されているし、「歴史的保存」の取り組みがなされてもいる。『福井県敦賀市・南越前町を巡る「近代化遺産周遊ガイドブック」』という冊子を見ると、この「旧北陸本線廃線跡」のことがかなり詳しく説明されている。これによれば、D51型機関車は、「杉津機関区の隧道(トンネル)の大きさに合わせて設計された。」ようだ。

 「杉津機関区」が営業されていた当時、「今庄駅」と「敦賀駅」は、難所の「機関区」を通過するための準備のため、かなり長い停車時間があったようだ。このため、駅での立ち食いそば店や駅弁屋を かなり利用する乗客も多かったようである。古写真を見ると、棚田と敦賀湾の間を走る「D51列車」が見える。私が幼い日に見た風景も この景色だったような気がする。
 この地区を走る「D51型機関車➡特急雷鳥➡特急サンダーバード、そして これから10年後の北陸新幹線W7系車両」という本陸本線や北陸新幹線の 私の一生とリンクする列車の歴史。

 古来、平城京(奈良)や平安京(京都)から、琵琶湖の近江路(湖西路・湖東路)を経て、越前(福井)・加賀(石川)・越中(富山)を日本海沿いに通過し、越後(新潟)の糸魚川・直江津や新潟に至る北陸路。その北陸路には2か所の難関の場所があった。それは、新潟県の「親知らず・子知らず(親不知・子不知)の断崖」と ここ「今庄山塊・河野断崖」である。
 敦賀から府中(旧 武生市)(現 越前市)までの間にある、今庄山塊や河野断崖。これに阻まれているため、高い峠を越えて 歴史的にいくつかの道が切り拓かれた。①奈良時代の「山中峠ルート」(敦賀➡(小舟・海路)で「杉津」まで行き➡山中峠を越えて今庄に至る) ②平安時代〜中世時代の「木ノ芽峠ルート」(敦賀➡新保➡木ノ芽峠から今庄に至る陸路) ③近世(安土桃山時代)〜近世・近代(明治前期)の「栃ノ木峠ルート(※戦国武将の柴田勝家が造らせた北国街道—滋賀県木之本町➡栃ノ木峠➡今庄) ④近世(安土桃山時代)〜近世・近代(明治後期)の「西街道」(敦賀➡海路・北前船➡河野浦➡馬借街道➡府中)の4つの難関突破ルートである。
 特に最も長く使われてきた③の「木ノ芽峠」越は、有名な歴史的人物も通ったようだ。(※木曽義仲・紫式部・源義経・芭蕉など) そして、歴史上 戦乱の場所として この峠を巡る戦い歴史も多く残された。それを物語る いくつかの「古城(山城)」の跡を見ることができる場所でもある。
 この日、夕方の6時頃 今庄から越前市(府中・旧武生市)に着く。そして大型スーパーマーケットで買い物をして、南越前町の海岸にある村(糠)の実家に到着。すぐに お寺に「先祖の霊」を迎えに行ったが、あいにく住職のお坊さん(※一人暮らし)は出かけていて留守。翌朝の早朝5時に寺に再び行って、霊を実家の仏壇に運べることとなった。
 ◆現在、この「今庄山塊・河野断崖」の地域には、次の道路や鉄道が通っている。①「北陸高速道路」(※「旧 杉津機関区と半分は隣接している。)②「国道8号線」③「JR北陸本線」。この3つが基幹道路・線路である。他に、④国道365号線(※北国街道・栃ノ木峠ルートとほぼ同じ) ⑤国道476号線(※④と合流する。木ノ芽峠ルートとほぼ同じ。)
そして将来、⑥北陸新幹線の開通となる。 今も昔も 日本の交通の要衝の一つとなっているのが 福井県南条郡南越前町今庄—福井県敦賀市の間の山々という場所だろうか。








旧北陸本線 廃線跡を行く❷—初めてD51機関車が登場した「杉津機関区」とスイッチバック運行—

2016-08-23 07:36:21 | 滞在記

 「曽路地谷隧道399m」を抜けると、再び日本海が見えてきた。この付近は、「旧 杉津駅」があったところだ。当時は、この駅からは「大きな棚田群」と「半島と海」が臨め、日本海に沈む夕日との風景が とてつもなく美しかったようだ。前号で紹介した、「10月9日に実施予定の旅行ツアー」は、ここ近くの杉津PAで大型観光バスを下りて、山道を少し登り ツアー客はこの場所に来るようだ。
 ⑤「第一観音寺隧道82m」が見えてきた。続いて⑥「第二観音寺隧道310m」、そして⑦「曲谷隧道260m」が ほぼ連続して続く。レンガが苔むしている。なかなか趣のあるレンガトンネル群の連続。

 「曲谷隧道」の手前で休憩。再び敦賀半島と日本海が見えてきた。「曲谷隧道」を抜ける。そして、次に⑧「芦谷隧道(223m)」。この隧道を抜けて、山の方を見上げる。「今庄に続く山塊」が高くそびえている。次のトンネルが⑨「伊良谷隧道(467m)」。トンネル内部には「避難所」のくぼみ。人2〜3人が、へばりついて ようやく避難できるほどの狭さのくぼみだ。

 トンネルとして最も長い⑩「中山隧道(1194m)」が見えてきた。このトンネルの上には「中山峠」という古代奈良時代の古道跡があるようだ。敦賀—今庄間の 最も古い古道の峠。このトンネルの中は、かなり長いためか、トンネル内の冷気とトンネル外の熱気との差が大きいために「霧」が発生していた。まことに、不気味な雰囲気がある 怖くて長いトンネルだった。
 トンネルを抜けると、「中山信号所跡(中山スイッチバック)」があった。敦賀駅(海抜8m)と中山信号所(海抜265m)の高低差が大きいため、スイッチバックというジグザグの運行方法をしていたようだ。このような場所(信号所)は、他に 敦賀に近い「深山信号所」と「葉原信号所」があったようだ。
 スイッチバック走行方式を使いながら、12のトンネル群を抜けていくD51機関車鉄道が この「杉津線」だった。当然、トンネルに入ると、D51から吐き出される黒煙をさけるため、列車の窓が閉められることとなっていた。