彦四郎の中国生活

中国滞在記

朝の「中国語学習散歩」―光明港河川公園の東方面を歩く。帰路は雨に打たれる。―

2015-05-31 16:48:09 | 滞在記

 5月31日(日曜日)、明日から6月になる。大学の夏休み開始まで、後期は1か月半を残すだけとなった。来月中にほぼ授業は終わり、その後に期末試験や成績処理が待ち受けることになる。
 中国語の学習を継続的に独学している。周りは中国語の世界だが、中国語の語学学習はなかなか難しい。発音、特に「四声」が非常に難しい。中国語ができないと、中国での「生活の困難ははかりしれない。」とつくづく思う。なんとか生きていくことはできるが……。
 大学の授業がない「月・土・日」は、朝に2~3時間の「中国語学習散歩」をしている。事前に紙にメモした単語や文を繰り返し覚えたりしながら散歩をする。今日は、宿舎近くの「光明港河川公園の東方面のコース」を歩いた。片道1時間、往復2時間のコースだ。日曜日なので公園には人の数も多い。色づき始めた紫陽花(アジサイ)を見つける。これから色をつけていく花もある。日本が懐かしい。ここ福州には「アジサイ」は少ない。アジサイは、雨の多い日本に適した「日本の花」といってもよいのかも知れない。近くで「ダンス」をしている大勢の人達。黄色い花が群生している。この花は日本でもよく見る花だ。何という名前だろう。
 
 単語に時々目をやりながら歩いていると「二胡」の音がする。カラオケと二胡に合わせて歌を歌う人たち。「ジャスミン」の白い花が開花し始めていた。また、「青紫」や「ピンク」の色をした、同じ種類の花がある。何という名前だろう。

 しばらく行くと池が2つ並んでいる。大きい池は、蓮でいっぱいだ。蓮も開花期を迎えた。近くで、少し大きな羽子を足で蹴り上げるスポーツ(遊び)をしている人達がいた。しばらく見ている。これは、フィリピンでも見たことがある。

 さらに東に進むと、太極拳をする人がいた。近くには夏の花「グラジオラス」。この花は、「花屋」でも売られ中国人には好まれている。豪華に見えるからだろうか。
 再開発のために、古い住居は立ち退かされ、広大な空き地となっている場所までくると、新しいマンション住居などがいくつも建築中だ。ここでは、農村部から出てきた「農民工」が働いていた。近くには、農民工の人達のバラック建物が見られる。この梅雨の時期、雨漏りがしそうだな。

 このあたりは、まだ公園の造成中。川辺の歩道沿いに柳の木を植えている人達。このおじさんやおばさんたちも農村からの出稼ぎだ。公園の東端近くまで来ると人も少なくなってきた。子供2人をつけた夫婦づれに会う。夫も妻も、仕事で日焼けした顔。農民工の家族だろうか。
 近くに、「林氏祖先碑」が立っていた。一見、日本のお墓のようだ。碑の前には、石で造られた「獅子と龍」。碑文を読むと、「881年に、この地を都とした閩国の王の重臣である林氏の一族の碑」と刻まれていた。ここに林氏一族の屋敷がかってあったのだろうか。2011年建立とあった。

 さらに行くと、閩江の支流にかかる「古い橋」や「寺」が見えて来る。寺の近くには、「孫文」像があった。この荒れ果てた場所になぜ「孫文像」があるのだろう。中国辛亥革命から100周年にあたる2011年に建立されたようだ。この像を作るために寄付をした人達の名前が書かれていた。華僑の関係者が多い。再開発で古い建物が壊され、荒れ果てた地になっているこの場所は、かって福建華僑の人達が大勢住んでいた場所なのかも知れない。

 6月の端午節に、この地区の人達が出場する「ドラゴンボートレース」のボートを修繕していた。板の継ぎ目から水が漏れてこないように、膠(にかわ)を新しく隙間に入れ込んでいた。
 寺のような建物の敷地には、今日は日曜日なので大勢の人が来ていた。信者の人達のお参りだ。爆竹を激しく鳴らしたり、音曲を演奏したり。ごちそうも作られていた。昼には、集まった人達が酒宴になるのだろうか。この寺は、「将軍廟」という名前だった。かなり歴史のある建物だ。中に入ってみた。三国志の「関羽」や「仏像」、「天女」などさまざまな御神体が祀られていた。道教の寺院だと思う。建立資金の人達の名前を見ると「華僑」という文字が名前と共に書かれている人が多かった。

 この「将軍廟」(寺)の周りは、巨大なカジュマルの木々に覆われている。三本の大木が、年月を経て くっついて(合体)している場所もある。この木はすごいなぁ。「将軍廟」の隣にある、大きな寺院は「観音閣」と呼ばれる別の寺院だった。真新しい「観音」が祀られていた。
 道教は、中国では最も信仰・信者の多い宗教のようだが、日本の仏教や神道と比較してみるのも面白いと思った。共通点もかなりある。道教は、日本人が「寺と神社」を合わせて身近に信仰しているように、「仏教の要素」と「いろいろ祀られている信仰の対象」を併せ持った宗教ではないかと思える。違いは何だろう。「いろいろ祀られている信仰の対象」が、中国ではより具体的であるのに比べ、日本では「山」や「木」や「海」などの自然的な対象が多いということだろうか。
 かなり多くの道教寺院に行く機会が これまでにあったが、「道教」は、かなり現生利益(げんせいりやく)的な面が強いと思われる。それだけに、今も信者の信仰心や共同体意識は強いものがあるのかな。

 この道教寺院群の近くに古い石橋が架かっている。けっこう長い石橋が架かっているということは、当時はこの一帯が重要な場所だったということでもある。おそらく華僑の活動中心だったのだろうか。今は、使用されていない石橋に上がってみた。「遠東橋」「農業學大賽」と繁体字で橋に大きく刻まれていた。(※「街の遠く東にある橋」「農業は大賽の地に学べ」という意味か。) 少なくても中国に1950年代簡体字が作られる以前の橋であることが分かる。

 「さあ、ここからアパートに戻ろう。来るまでに学習してきた中国語を復習しながら歩こう。」と思っていたら、ぽつぽつと弱い雨が落ちてきた。10分ほど歩くと、本降りになってきた。携帯電話とデジタルカメラと中国語メモ用紙だけは濡らさないようにしながら、雨に打たれた。傘を持ってきていなかったのだ。木の陰で雨宿りしたり、屋根のあるベンチで休んだり、時々中国語メモを見たりしながら帰路についた。屋根施設のある場所では、雨宿りする人や、ダンスや踊りを練習している人達もあった。
 

 






"衝撃だな…"年間20万人の行方不明児~中国・多発する誘拐~ ―映画「失孤(shi gu)」―

2015-05-30 06:27:16 | 滞在記

 昨夜は、すごい蒸し暑い熱帯夜だったので、クーラーをつけて眠る。今朝4時に起きる。窓を見ると、水滴でガラス窓が完全に白くなっている。外はすごい湿気なのだろう。外の気温を見ると30度だった。外は弱いサウナ状態。
 福州の5月下旬。タチ葵の花が咲き、水蓮や蓮の花の開花が始まった。水色の爽やかな色を付けた樹木花(藍花楹)も見られる。福州は日本の近畿地方より、季節が1か月ほど早く経過していくようだ。梅雨は5月中旬~6月中旬まで続く。

 3月中旬に北京に行った際、街角で「映画:『失孤』;劉徳華(りゅう・どぅふぁ)[アンディ・ラウ]主演」を宣伝するポースターが貼られていた。アンディ・ラウといえは中国を代表する大人気俳優の一人なのだが、私もファンだ。現代ものや歴史もののアクション映画に出演することが多い彼だが、この映画では「農民」。15年前に誘拐された我が子を、バイクに乗って全国で探し続ける農民を演じている。顔はすすけて黒ずみ、無精髭のまま、服も薄汚れていて、地面にしゃがんでラーメンをすする。バイクの後ろに「我が子の写真をプリントした旗を2枚」立てているので、人々は「彼は誘拐された我が子を探している人だ。」と すぐにわかる。お金のない彼は、みんなの好意で旅を続けている。
 この映画は、3月中旬から4月中旬までの1か月間にわたり中国各地で上映され、大人気を博した。私は、中国のインターネットから、この映画の一部分や映画撮影の記録などを見ることができた。担当している学生達で、映画館に見に行った割合も多かった。映画は実話をもとにした映画のようだ。

 誘拐された子どもを探し続ける「ウェーブサイト」が中国には多く存在する。おびただしい数の子どもがサイトに掲載されている。(このウエーブサイトに誘拐された我が子を登録するには、登録料金が必要)。探し出すための情報などを提供すると、「お金」が支払われるので、お金を稼ぐためのビジネスも堂々と成立している。
 今、中国で子ども誘拐が大きな社会問題となっている。行方不明になる子どもは、年間20万人(1日約550人)といわれ、犯罪組織に誘拐され、農村部に労働の担い手や後継ぎとして売られるケースや、都市部の裕福な家庭に買われるケースが多いとみられる。農村部では老後の社会保障がぜい弱で、老後の支え手として子どもを買うのだという。また、アメリカなどの海外に巧妙な手段で売られる場合もあるという。中国では、お金を出せば「役人が、身分に関する証明書など、いろいろなものを偽造してくれる実態」があることは、私も知っている。誘拐された子どもを買って、書類上「我が子」とすることは、それほど難しくない社会なのだと思う。(※①男児の場合は3万元[約60万円]、女児の場合は2万元(約40万円)の値段が現在の売買相場らしい。中国での年間収入平均が2万元程度なので、一人誘拐して売れば1年間の収入分となる。※②誘拐された子どもを買った側の罰則規定は事実上ない。)

 この誘拐多発の最大の原因は、1980年から実施し始めた「一人っ子政策」だと言われている。一人しか産めないなら男の子を望むのが中国人の考え。なぜなら、子どもは自分の老後を看てくれるためにいると考えているからだ。女の子は嫁いで他の家庭の構成員となり、その夫の家庭を支えていくという慣わしは、20~30年ほど前の日本とあまり変わらない。「一人っ子政策」の実施以降、農村では女の子が生まれると遺棄してしまうケースも多くあったようだ。このため、「農村では男の子が生まれるまで子供を産んでよい。」というふうに政策が変更されてきた。それでも出産に関しては男尊女卑的な傾向は都市部でも根強く、懐妊すると胎児の性別を鑑定してもらい、女の子なら堕胎するケースも多いようだ。
 その結果、2015年1月に発表された2014年度における中国新生児の男女比率は、「男児:女児=115.9:100」という偏りが見られる。特別な操作をしなければ、世界平均では「男児:女児=105:100」であるという。中国の農村によっては、男の子ばかりの地域もあり、一人っ子政策が招いた男女構成のゆがみは、「女の子を誘拐する誘因」と、「男の子を誘拐する誘因」の両方を生んでいるようだ。

 映画「失孤」の冒頭場面は、福州。私の宿舎から歩いて20分あまりで行くことができる「解放大橋」のたもとが、いきなり映し出されてくる。
 閩江にかかるこの橋の向こうの小さな中州には、立派な洋館の建物がある。一人の女性が、道行く人々に「チラシ」を必死に配っている場面だった。「チラシ」の中身は、「誘拐された我が子の写真」。
 実はこの女性の実話モデルがいる。葉さん(59才)という名前の人だ。彼女は17年間、福州を中心に子どもを探し続けた。1993年、子どもを誘拐された。1995年になって、児童売買の仲介業者の家をようやく見つけたという。だが、警察当局が重い腰を上げたのは、葉さんが何年も訴え続けてからだった。2000年、犯人3人が最大3年の禁固刑を言い渡された。その10年後の2010年に、警察は葉さんの息子の存在場所を見つけた。17年間の歳月。しかし、再会した息子は、彼女を抱きしめることもしなかった。一年間一緒に暮らした後、突然彼女の前から姿を消した。現在、葉さんは福州市内を中心に、ホームレス生活をしながら、自分と同じように子どもが誘拐された親たちの支援を行っている。

 上記の写真は、最近、「子ども誘拐」で逮捕された犯罪人たち。左二枚の写真の犯罪人たちのグループは、雲南省で1年間たらずの間に223人もの赤ちゃんを誘拐していて売買した。51歳の農婦・蔣開枝を主犯とする36人(28人が女で8人が男。最も若いのは20歳で、最高年齢は68歳。多くは、辺境な田舎から出てきた親戚で構成されていた。) 最近は、誘拐犯罪に対する罰則が重くなり、主犯の蔣被告に死刑判決が下された。右の写真は、鉄道で誘拐した子どもたちを運んでいる際に逮捕されたグループである。
 日本やアメリカでは、誘拐された子どもの発見率は99%にのぼる。しかし、中国では0.1%だという。年間20万人にものぼる「子ども誘拐」の実態がようやく大きな社会問題として認知され始めてきた中国社会。誘拐されても犯人がつかまりにくく、野放し状態になっていた。
 中国には、戸籍のない流動人口が約2.67億人いるという。世界第十番目の人口をもつ日本の2倍以上の人口である。戸籍をもたない人の子どももまた戸籍がない。多くは農村部から都市部に出稼ぎにきて、そのまま長年居ついた「農民工」たちの家族である。彼らは、戸籍がないために社会福祉を受けられないのだが、子供を就学させることも困難をともなう。
 この戸籍のない人口の多さは、誘拐された子どもたちの捜索を困難にさせている。住民票のない子どもの中から失踪児童を探し出すことはできず、約3億人もの流動人口がいれば、毎年20万人の子どもが誘拐されても捜しようがないという現実のため、警察もその捜索に本腰を入れられないという状況かと思われる。
 中国の小学校では、子どもたちの下校時刻になると、正門の周辺にはおびただしい数の人が集まる。主に、低学年の子どもを迎えにきた親や祖父母たちだ。誘拐の多発の現実には、親や祖父母たちも他人事ではいられない。
 映画「失孤」の大ヒットが、「誘拐事件」の減少に少しでもつながればと思う。





宿舎近辺にある地区の子どもたち―チャンバラ・かくれんぼ―

2015-05-29 19:23:05 | 滞在記

 今日5月29日、午前中いっぱいの授業を終え、学生たちと食堂で食べ、研究室に戻り昼寝をした。「梅雨の晴れ間」、とにかく蒸し暑いの一言につきる一日だった。気温は午後には38度、夕刻になっても35度。「蒸し暑い」は、中国語では「闷热(メンルォー)」と書き発音する。心が悶絶(もんぜつ)するような熱気という意味が感じられる単語だが、そんな一日だった。

 インターネットが不通になり始めた日の翌日の5月14日(木)。授業がない日だったので、午前中、長い散歩にでかけた。台江街まで行き、宿舎に戻る途中、川向うの小さな丘のようになっている盛り土の上で子どもたちが遊んでいる姿が見えた。盛り土の丘の上の周りが布で囲まれているので、てっきり「隠れ家」を作って遊んでいるのだろうと思った。面白そうなので、小さな橋を渡って行ってみた。
 ここは貧民街的な地区である。かなり広いエリアにこの貧民街は広がっている。何度かこの地区の中を散策したことがあるが、迷路のようになっている住宅地。庶民の生活が息づいている面白いエリアである。
 行ってみたら、おじいさんのような人に子どもたちが怒られて、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めたところだった。小さな盛り土丘の上は、そのおじいさんが「畑を造り野菜を育てていた」場所だったのだ。
 怒られた子どもたちは、すぐにチャンバラごっこを始めていた。小学校の低学年~中学年の子どもたち数名が実に活発に遊びまくっていた。「一番小さな赤い服を着た子供×ほかの子どもたち」という感じでチャンバラごつこをしていた。小さい子は、泣きながら戦っていた。しばらく様子を見ていたが、「いじめ」という感じではない。このようにして、悔しさを乗り越えてたくましく育っていくのだろうなと思った。

 写真を撮っているのに気がついた子どもたちが、私の方に集まって来た。撮った写真を見せてと言っているので、見せてあげたら笑顔で笑っていた。

 チャンバラに飽きた子どもたちは、蓆(むしろ)を穴の上に置いただけの「落とし穴」づくりを始めていた。近くの空き地には、この地区のおじさんやおばさんたちが、荒れ地を利用した野菜の畑を世話していた。

 この地区一帯は、都市の環境美化政策のため、川の沿岸を東西4キロあまりにわたって河川公園を両岸に作成中だ。そのため、川沿いの古い建物は、全て取り壊された。取り壊された空き地が公園に造成されるまでの期間、畑を作っているようだ。

 別の場所では、畑の植物を利用して「かくれんぼ」をしていた。しばらく様子を見ていたが、日本のかくれんぼとまったく同じだった。鬼になる子は、日本では目をつむって「1・2・3・4-----29・30」ぐらい数えるが、中国では「イー・アル・サン・スウ-------・アルスージョウ・サンスー」と数えていた。

 川の方を眺めていると、6月の「端午節」に行われる、福州ドラゴンボート大会に向けて練習している船が通過して行った。







 

猛暑日から梅雨に入って2週間、インターネット配線不通―種田山頭火と3回生「書作」の授業―

2015-05-28 06:13:38 | 滞在記

 5月7日に日本から福州に戻ってからの10日間あまり、猛烈な暑さが続いた。連日35度から40度あまりの気温とすごい湿気。大学の構内では、日傘の花が開いていた。夜になっても気温は下がらず、強烈な蒸し暑さの日々。しかし、5月14日から雨が連日降り続くようになった。福州の梅雨入りだった。
 雨が降っても気温があまり下がらず、30度以上の蒸し暑さが続いたが、5月16日に物凄い大雨(市内の道路がいたるところで川となった)が降り、いくぶん涼しくなった。そして今日も、雨の日々が続いている。
 梅雨に入った5月14日から突然、インターネットができなくなった。さっそく大学の「外事課」の鄭さんに連絡を取り、状況を説明し回復処置の依頼をした。調査の結果、宿舎までのインターネット配線に不具合があることが判明した。すぐに配線修理をしてくれるだろうと思っていたが、一週間、十日が経ってもインターネット配線会社の人が来てくれなかった。鄭さんも連日、会社に「早く修復処置に行ってほしい。」と連絡してくれていたのだが、なかなか来ない。「2~3人が困っている程度の、すぐに直るような小さな修理は後まわし。」にされることもある。これも中国社会の一面だと思った。
 ようやく昨日、配線修理に来てくれた。ちょうどインターネットができなくなって2週間が経過していた。「なんでこんな簡単な修理に2週間も来てくれなかったの!!」と思いながら、修理工員の兄ちゃんに「謝謝、謝謝。」と一言。宿舎の古いテレビは、3か月前から故障で映らなくなってしまっている。インターネットを通じて、インターネット配信の録画ドラマを見たり、ブログを作ったり、仕事に利用したり、諸連絡を取り合ったりしていたが、これらが全てできなかった辛い2週間だった。幸いに、5月上旬に日本に一時帰国した際、「ドラマ三国志 DVD全48巻」を購入し中国に持ち帰っていたので、連日これを視聴することだけはできた。1巻に2話があるので、全部で96話もある。一日に平均3話〜4話を視聴していたので、30巻(60話)までを2週間で視聴してしまった。すばらしい超大河テレビドラマに仕上がっている作品だと思った。

 梅雨に入り、たまに見ることができるアジサイが色づきはじめ、ハイビスカスの花が開花してきたこの時期、3回生の「書写」の授業で漂泊の俳人「種田山頭火」について紹介をした。
 2月の冬休み、日本に帰国した時、四国の松山市に行った。その際、山頭火終焉の地「一草庵」に立ち寄った。この時「松山 山頭火の会」の人からたくさんの「句集短冊」をいただいた。「これを大学の授業で使わせてもらいます。」と約して、庵を後にした。中国での一人暮らし、山頭火や尾崎方哉の句の心境が身に染みてわかってきたこの頃。

 授業では30分あまりの時間を使って、山頭火の人となりを紹介し、いくつかの句を紹介することから始めた。

 その後、短冊の句を紹介し、気に入った句を学生に選んでもらい、その短冊をあげた。そして、学生は自分の選んだ句を読み、句についての感想を述べあった。

 五月に入り、「刺桐(さしきり)」という、赤い亜熱帯の木の花が開花した。この刺桐の花は、福州の南方にある福建省泉州市(歴史的な港湾都市)にとても多いので、泉州の街は別名「刺桐城」とも呼ばれている。

 宿舎のある旧キャンパスには、「泰山木(たいさんぼく)」の木が多くある。この木に咲く白い大きな花の香しい清楚な匂いが、宿舎の部屋まで流れて来る。「綿木」と呼ばれ、この季節に綿のような花を咲かせる大木も数本ある。








日本の里山(農村)と棚田・水田―滋賀県大津市仰木地区―「森と水の豊かな国、日本。」―

2015-05-12 05:41:22 | 滞在記

 日本滞在6日間の中日(なかび)にあたる5月4日、滋賀県大津市仰木地区に行ってきた。ここは20年来毎年、年に5~6回は来ている所だ。比叡山の東側山麓のゆるやかな傾斜地が琵琶湖まで広がっている。

 中国の棚田や集落(農村)と日本の棚田や里山(農村)との違いを実感してみたいと思った。何かがすごく違うのだが、それは何だろう。言葉に表すとすると どうなるのだろうか-------。

 まず棚田や里山(集落)の周りに広がる山々の森の様相が違うと改めて思った。周りを海に囲まれ雨が多く、温帯気候で四季がはっきりしていてる日本の森は、とても豊かな森なのだ。森が深い、深い森なのだ。温帯気候だけに樹木の種類も多く変化に富んでいる。だから森林が蓄える保水量が多い。棚田や水田、里山や集落が森に包まれている安心感をもたせる風景がある。また、集落の家々の色は、屋根は灰色、建物も黒っぽい木々の色となっていて、周りの自然に溶け込んでいるように思える。
 一方、中国の農村の周りに広がる山々の森の様相はどうだろうか。日本に比べて降水量が少なく、亜熱帯の気候のため樹木の種類が温帯に比べて少ない中国南部の森は、山々の森に深さがないと思う。単調な森なのだ。地肌が見えているところも多い中国の山々。集落の建物は、赤っぽい茶色のレンガ造りかコンクリート造りの家々が多い。建物の造りはやや雑で大雑把な感じを受ける。ちょっと周りの自然と溶け合っていない印象を受ける。(※最近、立方形のコンクリートで造られた建物が増え始めたようだ。)
 次に、水田一枚一枚の様子が違うと感じる。日本の水田の方が、丁寧な作りなのだ。特に畦(あぜ)の作りが違う。中国の水田は、雑な感じである。このあたりの違いは、国民性の違いかと思う。中国は「大雑把」な作りで、「とにかく稲ができればいいのだ。」というような大陸的なおおらかさがある感じと言っていいのかもしれない。

 日本の村々には必ず神社がある。また、田圃の近くには小さな祠(ほこら)があったりもする日本の田園地区。森や自然の中には神々が宿るという日本の歴史的・伝統的な信仰心は、今も日本人の中に息づいているのだろうと思う。「木を切っては植え、木を切っては植え」続けてきた日本列島の森。だから、まだ豊かな森が残されている。「山に行けば森がある。」
 一方の中国では、この考えや信仰心はあまり無いようで、森の木が切られたら再び植えるということが少なく、地肌ばかりの山々も多いようだ。(※中国福建省は、中国の省の中では森林面積の割合が最も多い省である。)

 たまたま行った5月4日、「仰木祭」(別名「泥田祭」)が開催されていた。前日の3日から始まっているらしい。都会に出ている地区の出身者たちもこの日には家族と共に故郷に帰ってくるらしい。集落周辺の水田を見ていた時、村の方から太鼓の音が聞こえたので行ってみたらこの祭に出会えた。この「仰木祭」は、初めて見る祭だった。
 水田に水を張り終えた5月上旬、「今年の稲の豊作を神に祈り奉納する。」という祭だという。なにか、地区の大人や老人、子供や若者が一体となってこの祭を作り上げ、楽しんでい印象を受けた。
 日本の誇るべきもの、「森と水の豊かな国、日本。」の一光景が、人々の暮らしと共に ここにはあった。