彦四郎の中国生活

中国滞在記

5か月後に卒業を迎える4回生たち―それぞれの故郷に帰り、卒業論文作成・就職活動・留学準備―

2015-01-29 02:45:57 | 滞在記

 1月24日(土)から3月8日(日)までの約1か月半、2月19日の「春節」をはさんで、大学は「冬季休業」に入った。私が担当していた前期授業や前期末試験も、1月22日(木)の2回生の「会話・口頭試験」を最後に修了した。そして、1月23日(金)に、担当4科目の膨大な成績資料(1・2・3回生)を大学に提出し終えた。
 成績資料を提出するために1月23日(金)の午後、大学に行った。北門にあるバス停は、故郷に帰る学生で溢れていた。

 1月22日(木)の朝、4回生の学生から、「先生の期末試験終了予定後の4時半頃から、4回生の記念撮影をするので来てください。」との連絡が入った。試験終了後に行ってみたら、たくさんの4回生たちが集まっていた。懐かしい顔ばかりだ。林先生や曾先生も来ていた。(日本語学科の教員は、常勤・非常勤を含めて10人がいる。)
 彼ら4回生は、後期の授業はない。これから、それぞれの故郷に戻り(最も遠い学生は東北地方の吉林省)、卒業論文を作成しながら、就職活動をしたりする。このうち、4人の学生は日本の大学院留学準備をする予定だ。たまに故郷から大学に戻ったりして、5か月後の卒業式(6月下旬)までを過ごすことになるのだろう。(寮の部屋は7月上旬まで使える。)

 今の4回生たちは、私が2013年9月に初めて中国の大学に赴任して、「中国の大学生ってどんな学生達なんだろう---。」と緊張しながら初めて(9月4日)授業をした学生たちだ。彼らとは、いろいろな思いでがある。いろいなことを教え、そして教えてもらった。

 中国の大学生の就職活動は、日本の大学生の就職活動とは少し違っている。日本では、卒業するまでにほとんどの学生は、就職や大学院などへの進学が決まっている。しかし、中国では、卒業時に就職先が決まっているのは25%~30%ぐらいである。卒業してから半年後までに、ほとんどの学生の就職活動が終り、就職先が決まるようだ。だから、4回生たちにとって、これからが本格的な就職・進学活動期に入って来ることになるようだ。








土楼群(世界遺産)のある地方都市「福建省:龍岩」に行ってみた―龍岩大学―

2015-01-24 07:54:40 | 滞在記

 福建省は、それほど広い省ではない。それでも、日本の「九州・四国・中国」地方を合わせた面積をもつ広さがある省だ。
 先週の金曜日(16日)に、中国の新幹線に乗り、「福州➡泉州➡アモイ(厦門)➡樟州➡龍岩」と経由して3時間、世界遺産「土楼群」のある街「龍岩(りゅうがん)」に行った。何回か新幹線を利用しているが、初めて1等車(軟座:席のシートが良質で、二等車の硬座よりややゆったりした空間がある。)に乗った。料金は、片道145元(約2600円)。2等車ならば、120元(約2200円)。中国の新幹線は、長距離バスより料金が安いのが特徴だ。
 今回の「龍岩」への旅は、世界遺産の「土楼群」には行かず、「龍岩大学」に勤める日本人教員を訪ね、大学の見学をすることとした。(※「龍岩」には、土楼群の他に、もう一か所とても行きたいところがある。龍岩駅から在来線に乗って北西へ2時間あまりの「長汀」という町にある「長汀古城」だ。) そして、「龍岩」の街の散策。新幹線の車中からは、小さな円形の土楼が一つ見えた。龍岩駅に、龍岩大学の鶴田さんが迎えに来てくれていた。

 駅からバスに乗り、市内を通過して30分間余りで、街の郊外にある「龍岩大学」に着いた。低い山々に囲まれた、適度な大きさの盆地の街だ。街の標高は500メートルはあるという。大学の学生数は約1万人の国公立大学。緩やかな丘陵地にあり、けっこう広々とした敷地がある大学だった。さっそく、宿泊する大学内のホテルに案内してもらった。簡素で小奇麗な部屋だった。建物は、「土楼」をイメージした円形型だった。

 ホテルに荷物を置いて、大学構内を案内してもらった。かなり広い。図書館には「客家(はっか)」研究所があった。「客家」とは、この地方を中心に、かなり古くから住んでいる人々の呼称で、土楼群などにも住んでいる人々である。国外で様々な経済活動を行い、中国華僑の中心的な存在でもある。

 日本語学科が授業に使っている建物の教室に行く。優秀で奨学金を受けている学生の写真などが廊下に掲示されていた。中国の証明写真の背景の色は3種類あるようだ。「赤・青・白」。この中でも、赤の背景が非常に多い。夕方の5時頃、丘陵地にある大学は、夕焼けの色に染まって来た。大学食堂で夕食を食べた。私の勤める閩江大学の食堂より、とても美味しくて食べやすい。

 夕方から夜にかけて、鶴田さんの「外国人教員宿舎」に行った。とても素敵な教員住宅だった。適度に年数を経ている2階建住宅だ。一階に「リビングルーム・ダイニング・台所・水房と個室」があり、階段を登って2階には2つの個室と広いベランダがあった。周りを木々に囲まれている。「龍岩名産」のピーナツなどを食べながらビールや高麗酒を飲み、いろいろな話をした。このピーナツが極めて美味しい。食べ始めたら止まらないぐらい美味い。少し、ニンニクも入っている味付けをしているらしい。日本のお土産で持って帰ったら驚きのうまさといって喜ばれるだろうな。体験したことのない美味しさだった。
 鶴田さんは、日本の大学で中国関係の学科を専攻し、その後 台湾の大学に留学していた経歴をもつ30才代半ばの独身。この「龍岩大学」で5年間の教員キャリア歴がある。中国語がかなりできるだけに、一人旅もよくしているようだ。特に、「貴州省」の少数民族を訪れる旅には何度も行っているようで、さまざまな映像などを見せてもらった。夜9時頃、ベランダからは、「天の川」をはじめとして、昴星団など多くの星々が良く見えた。

 翌日の土曜日(17日)に、朝食を食べた後、「龍岩」市内の中心部にバスで向かった。市内中心部は川が流れていた。水もきれいだ。
市内に行く途中のバスが、バス営業所の中にある洗車場に立ち寄った。実際に乗客として乗車しながら洗車される体験を初めてした。

 鶴田さんが、「中・長距離バス」の営業所に案内してくれた。「土楼群」や「長汀」にもここからバスで行ける。次回に来るときは、一人でも「土楼群」や「長汀」に行けるだろうか。ちなみに、中国の「中・長距離」バスに乗車する時は、新幹線と同様に、荷物のX線検査が行われる。
 市内には、「龍岩ピーナツ」がいたるところで大量に販売されていた。

 市の中心部に小高い丘がある。ここに、中国革命で戦没した共産党員の慰霊碑があった。丘全体が公園となっていて散策する家族連れも多い。また、「中国革命記念館」(博物館)が立派に作られていた。

 この「龍岩」は、中国共産党革命の発祥地の一つらしい。中国共産党が設立されて、第一回目の「共産党大会」がこの町の古田という場所で行われた。当時、中国共産党の根拠地であり毛沢東らもここに住んでいた。
 帰りの新幹線に乗った。「龍岩」から「厦門(アモイ)」までの車窓から、たくさんのバナナ畑が続いていた。夕方の6時半、福州に到着した。






 








ディープ(deep)な生業(なりわい)に生きる人達(一族)

2015-01-18 12:22:11 | 滞在記

  宿舎の近くで毎週末の土日に数千件の露店市が行われている。先週に出かけてみたら、新しくできた河川公園の広場にたくさんの人だかりができていた。音楽もかかっている。「何だろう?」と行ってみると、雑技のようなものをやっていた。人垣の後ろから覗(のぞ)いてみると、大人の女性が両足で長い梯子(はしご)を支え、その梯子の上で小学生(4年生ぐらいかな)の女の子が曲芸をしていた。

  それが終わると、「猿の曲芸」。小さな自転車に乗ったり、竹馬をしたり。

 そして、それを見ている人達。中国では時々見かけるが、パジャマを着ている女性の姿も。猿の曲芸が終わると、今度は違う曲芸が続く。これは いったい何の「曲芸団」だろうと思いながら見ていた。観客からお金を集めている気配もない。子供・大人が総勢20人あまりの「団」だ。なんとなく、一族郎党でやっているように思う。

 見始めて30分~40分が経った頃だろうか、大きな青いポリタンクが舞台に運ばれてきた。そして、その前で男性が椅子に座った。立ち上がった男性の両肩・両腕を、他の男性2人がかりで、回転させた。「肩の関節」は大丈夫だろうか。座らされた男性の両肩に、青いポリタンクから汲まれた液体が塗られ始めた。マッサージをするように塗られていた。あの液体は何だろう? しばらくすると、ポリタンクの中から大蛇が出され始めた。

 大蛇に続いて、様々な種類の蛇が30匹余り引き出され、ワニや大きな亀まで出されてきた。そして、いろいろな植物。大きな霊芝もあった。

 観客に赤いパンフレットが配られ始めた。「骨痛追風酒」(雑技団専用)と書かれている。ここで、ようやく分かった。この薬酒を売るためにさまざまな芸をして人を集めていたんだということが。「この薬酒を買う人は手を挙げて!一本10元(200円)!」と呼びかけると、沢山の人が手を挙げている。お金を出しながら、手をあげている。

 ポリタンクから汲まれた「こげ茶色」の液体を小さな入れ物に入れて、手が挙がっている人たちに向かって走っていく団の大人や子供たち。おそらく、50本~70本は売れたのではないだろうか。なかには、3~4本買っている人もいる。50本が売れたとして500元(1万円)の収入だ。それにしても、飛ぶように よく売れていた。

 その場を後にして、露店を周っていたら、12時ごろに「団」の人達が別の場所に移動するのだろうか、沢山の荷物を持ちながら通り過ぎて行った。午後は、違う場所で商売をするのだろう。中国各地を転々と旅をしながら、「芸」をしながら「薬酒」を売り歩くこの一族郎党の人達。まあ、なんと「ディープ(deep:深い)な生業(なりわい)、世界に生きている人達」なんだろうと思った。
 宿舎に帰ってから、渡された「赤いパンフレット」を詳しく読んでみた。効用は、「頭痛・関節痛・頸椎の病気・あらゆる炎症・肌の傷・手足の麻痺・痒み・打撲・……。」など多くのことが記されていた。材料として、「7種類の蛇・タツノオトシゴ・亀・ワニ・霊芝・など」「多くの種類の薬草」を「50度以上の酒」に漬けて作ることが書かれていた。「買えばよかったな…。」と思った。
 製造元は、河南省南陽市の「長城武術雑技学校」と記されていた。河南省から来たのだろうか。














「中国社会主義の核心」とは、いったい何だろう…。—貧富の差、そして障害をもつ乞食の存在―

2015-01-14 06:04:22 | 滞在記

 街や村の公的な建物の塀には、よく「中国社会主義の核心」に関する大型ポスターが掲示されている。また、小さなポスターを町中で目にする場合もよくある。そこには、核心の具体的な内容として「富国・民主・文明・平等・敬愛・和諧・敬業・法治・自由…。」などのスローガンが掲げられている。そして、中国政府も、それなりの努力もしているのだろうと思うのだが…。
 「中国社会主義の核心とは、何なんだろう。この国の歴史はどのようになっていくのだろう。中国国民の生活は、今後どのように変化していくのだろう。」と、中国に住み始めていろいろな実情を見るにつけ思わされる。その一つが「身体に大きな障害をもつ」乞食たちの存在である。

 大きな都会の、人が多く集まり通行する商業地域や市(いち)の場に、よく「乞食」をしている人を見かける。「(上の写真は、左より①片足が半分しかなく、全身にやけどを負った男性。②と➂両手・両足が半分しかなく、背中で移動している男性。その後を、片足のない女性が一緒に行動している。(夫と妻?)④顔面に障害や病気をもつ女性が布団に横たわり、横に男性がいる。(母親と息子?))」
 このような人たちの存在を目にすると、「社会主義の核心」とは、この国では何なんだろうと考えさせられる。
 社会主義の制度の核心は、いろいろな面があるとは思うが、私が思うに「社会主義の核心」における最も大事なことの一つには、このような重度の身体障害を持つ人の生活を「国で・国民全体で」支えることにあると思うのだが……。「社会主義の核心」として、まずもって優先的に取り組まれるべきことだと思うのだが…。

 多くの人が通行する「陸橋」。一つの橋に3組の「母と小さな子供」の乞食(物乞い)。本当の母子関係ではないかもしれない。一つの「生きるための生業」として、共同してやっているのかもしれないとは思う。しかし、このような「生業」は、本当はだれもがやりたくはないだろうな……と思う。(※マイクをもち、カラオケで歌を歌う障害をもつ乞食(物乞い)の人もよく目にする。) 
 日本であれば、「社会福祉制度」でこれらの人々の生活をある程度保障し、なんとか「国」全体で支えているのだろうが、中国での「社会福祉制度」は、いったいどうなっているのだろうと考えさせられてしまう実情を目にする。国の予算の数パーセントを使えば、これらの人々の生活を支えることは、現代中国ではそれほど難しいことではないと思うのだが、なぜそうならないのだろう。
 このことについて、ある学生と話したことがある。「中国では人口がものすごく多いので、そのような障害を持つ人の数も多い。だから、その人達を支えようとしてもお金が足りないからです。」と、戸惑いながらも一気に学生は言った。「日本概況」の授業をしても思ったことだが、中国の学問・学術分野はいろいろ発展し、ある分野は日本を超えてきている。しかし、「この国をどう作っていくのかという様々な立場からの『社会科学』分野の本当の発達」の遅れを特に感じる。

 中国政府としても、「平等」の実現のため 努力をしている。習近平体制になってからの「汚職や職権乱用摘発」の加速はその中心政策となっている。公務員の飲食を公費で使うことの自粛も、浸透しっつあるようだ。昨年度まで行われていた「福建省外国人教師研修会(4泊5日)」なども、今年度は実施されなかった。(※省の教育庁によって、実施しているところもある。)
このような、政府の政策にもかかわらず、特に「都市と農村の経済格差」は広がる一方のようだ。統計では、この10年間で格差がさらに広がってきている。なかなか難しい生活・経済の問題が横たわる国、中国。

 中国の都市の夜景はネオンが瞬く。一般の人々が暮らす「高層住宅」にも色とりどりのネオン芸術が施されている景観がよく見られる。きらびやかな世界。一昨年の12月に、私の家族が中国に初めて来た時、高層住居の多さに驚いていた。それらの住宅は、安い物件でも200万元(4000万円)以上はする。平均賃金が日本よりかなり安い中国においては、日本円にして1億円以上の住宅購入の感覚となるのだろうか。(もちろん、ローン返済という形での購入が多い。)
[※中国では、土地の私有は認められない。都市の土地は国有、農村の土地は農民による集団所有と憲法で規定されている。いずれにしても、基本的には「国有」である。ただ、都市では「土地使用権」という形で土地の取引きがなされている。具体的には、①「土地使用権」は永久的なものではなく、「期限付きの土地使用権」である。②国家が「土地使用権を払下げる」場合には、その最長使用権期間わ用途別に規定している。(1、住宅➡70年 2、工場➡50年 3、商業・観光・娯楽➡40年 4、その他➡50年)]
この規定により住宅は、「終の棲家」というより、「投機」の対象として売買されることが、一般的に多く行われている。

(※私の宿舎横にある。中所得者のアパート。貸アパートではなく、購入したアパート。➡中国では、貸アパートに住むことは、貧乏で恥ずかしいことという感覚があるようだ。)

(※宿舎近くにある、中の下の所得者層・低所得者層などのアパートや住まい。)
都市の中にも、歴然とした経済格差を住居に見ることができるのも中国だ。立派な高層住宅の隣に低所得者層の住居が並ぶ街並みが、いたるところで見られる。そして、圧倒的に多い「中所得層・中の下所得者・低所得者」の人々は、「子供の教育」に熱心に取組み働き続ける。
 なんとか子供を大学に入れて、金持ちの「高層住宅」に住める大人とするために身を粉にして働く人々も多いのだろう。父親や母親が、道を歩きながら子供に語りかけることもあるだろうな。「息子よ、あのきれいな高い建物に、おまえは将来住みたいだろう。…そのためには、勉強を頑張って大学に行かねば ならないんだよ。勉強は一生懸命にな。がんばれ…。そのためには、お父さんやお母さんは、何だってして おまえのためにがんばるよ。」と。
 このことは悲しいことでも何でもない。親にとって、「何のために働くのか。」がはっきり目的化されているからだ。だから、苦しくても頑張れるし、心の張りもあるのだろうと思う。自分のため、自己実現のために働くという風潮の強い「日本」。一方で中国は、「親のためにも働く、大学に行ってお金を儲けて、親に恩返しをする。」「子供の将来のために、自分を犠牲にしても頑張って働く。」という考えが強く残る社会。3度訪問したフィリピンの国では、「家族のために働く」という風潮はすごく強かった。そして、国民の幸福度は、90%以上が「幸福」と答えていた国だった。
 おそらく、「幸福度」調査をしたら、日本より中国の方が高くなるかもしれないとも思う。人は「家族のために働く」ということが最も幸せな働き方なのかもしれない。









日本人論と中国人論をめぐって―「親しき仲にも礼儀ありの国と親しき仲では礼儀はいらぬの国」―

2015-01-12 11:38:27 | 滞在記

 「日本概況」⑦⑧(最終回)の報告になる。
 日本人論・中国人論の本は、日本の大型書店に行けばかなりの本が書棚に並んでいる。特に、「中国人論」についての本は多い。またよく売れるようだ。私も この1年間で20冊あまり読んだ。そして中国で1年半あまり生活していて、「なるほど、そうだよな。」と納得できるものや、中国人を理解するための本質をしてきしてくれる本もあった。一方、「中国人」を悪く書けば売れるだろう式の本も多い。中国人には、現代の日本人にはあまり見られない「美徳的な優れた行動(バスに乗っていて、年配者やお年寄り、小さな子をつれた母親や父親などが来たら、ほとんどの人が席を譲る。)」を堅持している面もあるのだが、「悪く書けば売れるだろう式」の本には、これらの事実は1行も書かれていない。
 中国という外国で1年以上生活していると、日本人や日本社会の良さも見えてきたし、また、悪いところというか物足りない所というか、そんなところも見えてくる。そんな私の思いを話しながら、一方では中国での1年間以上の生活体験をふりかえって、「中国人や中国社会の良さや問題点」なども、学生に語る。学生が時折うなずきながら 聞いてくれてもいる。

 学生達と大学の食堂や近隣の学生街、福州市内の「日本料理居酒屋」などで飲食もして親交を深めたりもしている。また、中国語の聴解が難しいので、複数の学生に生活に関することを頼んだりもして、なんとか中国で暮らしている。「故郷に帰ったら、母が先生に食べてもらうように作りました。」と言って 学生の寮からはかなり遠い私の宿舎を訪ねて来る学生も先日あった。何度か故郷の家にも逗留させてもらって、家族同然の扱いを受けてきた学生の家族もある。
 1年半の中国生活というスパンしかないが、「日本人と中国人」が付き合う上で、最も重要な「相互理解」すべきことは何だろう。それは次のことなのかも知れないと思うようになった。日本人は、「親しき仲にも礼儀あり。」の世界。それに対して中国人は、「親しき仲には、礼儀はいらぬ。」の世界だということだ。ここに、日本人と中国人が深く付き合う際の、人間関係における最も困難な面があるように思える。

 先日、中国のインターネットを通じて日本のドラマスぺシャル「坂之上の雲」(司馬遼太郎原作)を視た。この物語は、明治期の日本社会・日本人を描いたものだ。愛媛県松山藩の下級武士の家に生まれた秋山兄弟と中級武士の家に生まれた正岡子規。(秋山好古は陸軍騎兵隊の創始者・その弟は日露戦争時のロシア・バルチック艦隊との日本海海戦時の参謀・正岡は俳句の明治期中興の人) 明治維新で武士階級は消滅した。松山の教育庁の役人として奉職することができた父に、当時16才だった秋山好古が「東京か大阪の学費無償の学校に行かしてほしい。」と家で懇願する場面があった。その時、父はこう言った。「親しき家族の仲なればこそ、公私の区別はつけねばならぬ。私は教育庁の公人だ。教育庁か゛斡旋する内地留学について、親子だからといって家でそのような話を二人でするわけにはいかぬ。相談があるなら、明日 教育庁に来なさい。他の希望者同様に対応いたす。」
 現代の日本人は、このような親子の接し方はほとんどなくなってきているとは思うが、しかし その深流は脈々と日本人に受け継がれてきていると思う。「親しき仲にも礼儀あり。」の対人関係観は。日本人は、家族の間でも、「ありがとう。」「ごめん。」等の一言の感謝・謝罪表現をよくする民族だ。これに対して中国人は、「親しき仲には礼儀はいらぬ。水臭い。」という対人関係観をもつようだ。
 「謝罪表現をするのは(表情で)いいが、言葉に出すな。言葉に出すということは、親しい仲・関係になっていないことを表している。」という対人関係観だ。言語外の態度で表せばよいという。私も、謝罪・感謝表現をした際に、相手が不機嫌になってしまったことが何度かある。
 また、親しくなった中国人と付き合う場合に、相手に「すみません。」の一言が即座に出るだろうと期待する場面も多々多い。一言言ってくれれば、それでいい。しかし、これがなかなか出てこない。不愉快な気持ちになったりもする。「ありがとう。」の言葉も同様だ。つまり、中国人との付き合いは親しくなってからが最も難しくなってくるのかも知れない。
 大学などで、日中の言語対照研究論文は けっこう多く出されている。私は、今までに50余りの論文を読んだとは思うが、その中で、『謝罪の日中対照研究―家族には謝らない中国語話者の家族観―』と『日本語と中国語における謝罪表現の対照研究―家族と親友間の異なりに注目して』(論文の著者は、いずれも 趙翻 氏) は、このような謝罪表現の日中の大きな相違の一面を研究している論文だ。これによると、子供が親に「ごめん。」「ごめんなさい。」を言葉で表現することは、非常に少ないことがわかる。このことを、授業中に学生達にも「本当なのか?」と聞いてみた。学生達は、ほぼ全員が「本当だ。そうだよ。」と答えていた。
 日中の(日本人・中国人)相互理解とは、頭では双方の民族的特性の一面を理解できるとしても、現実的な人間関係の場面においては感覚的に受け入れがたいものも大きく存在していると、この頃 ようやく思い始める。人間が他民族を理解するということの難しがわかってきた。

 講義「日本概況」の授業を終えるにあたって学生達に、「日本について、そして日本人や日本語について学び研究する時の必読書」として何冊かの書籍を紹介した。①『水と緑の国、日本』(富山和子)②『ウチとソトの言語文化学―文法を文化で切る』(牧野成一)
➂『風土』(和辻哲郎)④『日本語教室』(金田一春彦)⑤『日本文化史』(家永三郎)⑥『日本人と中国人のコミュニケーション』『日本語の「配慮表現」に関する研究』(いずれも 彭 飛著)
これらの本は、中国に持ってきている。学生に読んでほしい。