彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国福建省「泉州(刺桐城)」に行く❶―かっては「世界三大港の一つ」だった古都

2017-02-28 22:33:18 | 滞在記

 2月25日(土)の早朝から、福州から南方に新幹線で1時間15分ほどで到着できる「泉州」に行った。朝の7時頃アパートを出て、タクシーに乗って「福州駅」に向かう。乗ったタクシーがすごかった。通常は福州駅まで30分間ほどかかるが、このタクシーの運転手はバンバンとばした。時々、携帯電話を片手に誰かと会話しながら、信号がほとんどない環状線道路を、ちょっとした隙間があれば、スピードをあまり落とさずに ぐいぐいと走るから怖ろしい。ぶつかった場合を想定して身構えながら乗っていたら、18分ほどで駅に到着した。

 おかげで、新幹線の待ち時間は1時間30分ほどあった。氷雨が降る天気でとても寒い朝。新幹線乗り場のプラットホームには、新幹線の乗務員たちが並んでいた。

 泉州駅に午前10時頃に到着。龍岩大学(福建省龍岩市の公立大学)の日本人教員の鶴田さんとこの駅で待ち合わせをして会うこととなっていた。鶴田さんの教えている学生(1回生)の蔣さん(※泉州が地元で、たまたまこの日 実家に戻っていたので、案内をかってでてくれたようだ)が出迎えてくれた。蔣さんの従兄弟が車で 今日宿泊するビジネスホテルまで送ってくれた。雨が冷たい日なのでありがたい。

 ホテルに荷物を置いて、市内に向かう。市内には「綿の木」が少し紅葉し始め赤い花が咲いていた。まずは、鶴田さんが事前に調べていた「有名なB級グルメ」の店で「好成財牛排館」という食堂に行き昼食をとった。とても美味しい店だった。特に、中国粽(ちまき)のようなものが美味しかった。食事後、近くの「関帝廟」というところに行った。三国志の英雄の「関羽」を神として祀っている廟だ。もう一人の中国人の英雄「岳飛」(宋の時代の将軍)も祀られ、「関岳廟」となっていた。この二人は、中国人にとって最も敬愛する歴史上の人物。テレビドラマや映画でも多く取り上げられている。屋根の装飾が美しい。この「関帝廟」は、全国各地のいたるところにあり、多くの人々の信仰を集めている。

 「関岳廟」の中に入ると、真剣にお祈りをしている人たちでにぎわっていた。お供え物を持って来ていて、祭壇に置く人が多くみられた。このお供え物は、しばらく祭壇においてから持ち帰るところが日本と違うなと思った。日本でいう「おみくじ」のようなものも多くの人がもらっていた。(選んだ細長い竹に番号が書かれていて、その番号の札をもらう。)

 近くにあるイスラム教寺院の「清浄寺」に行く。この寺院は中国北宋時代の1009年(日本の平安時代)に創建され、中国最古のイスラム建築の一つという。門の上は「望月台」というものになっていて、この上で新月を眺め、断食の時期を決めていたという。門を入ると、真上の天井は「蓮の花」の形を表わしているらしい。入場料は3元(40円くらい)。

 かっての海のシルクロード(陶磁器の道)の起点(中国)となっていた「泉州」は、当時は「世界三大港湾都市」と言われ、エジプトのアレキサンドリアと並び、世界最大の港であった。この港湾都市に東南アジア・インド、遠くはアラブやペルシャからイスラム商人たちが訪れ住まっていた。また、ヨーロッパからも商人たちが来ていた。イタリア人「マルコポーロ」がこの港から1292年(元の時代)にイタリアに戻るため旅立ったことは『東方見聞録』にも記載されている。

 上の写真は、寺院の内部。円柱の柱が残っている場所は礼拝堂のあった場所(奉天壇)で、かっては天井があったが崩れてしまい今はもうない。イスラム教のコーランを刻んだ石版が何か所かに残っていた。中国風の木造建物の礼拝堂(明善堂)もあった。

 この港湾都市には、唐の時代の742年には2万3806人、758年には3万3800人、820年には3万5571人、宋時代になると1103年—1106年間に20万1406人、1241年—52年間には25万5758人が居住していたようである。

 新しい、現代の礼拝堂の建物があった。礼拝の時刻は 月によって違うようだ。

 亜熱帯のオレンジの花の植物が家の建物の外壁にも這っていた。建物の装飾がイスラムの雰囲気を醸し出していた。寺院の後ろは水路が流れていた。

 この「泉州市」は、人口は約700万人で福建省の省都「福州市」とほぼ同じ。別名「刺桐城」や「鯉城」。「刺桐」とは「ディゴ」のことで、沖縄の県花となつている花である。春から夏に「赤い花」を咲かす。この花の木が多いのでこの別名がつけられた。唐や宋や元の時代、ヨーロッパ人たちからは「ザイトン」(刺桐の木)と呼ばれた街だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1980年代・中国語版:映画『絶唱』の小さな冊子を見つける❸

2017-02-24 23:47:47 | 滞在記

 今放送しているテレビドラマでは、『下剋上受験』(阿部サダヲ主演)と『就活家族』(三浦友和主演)が面白い。日本に帰国していた期間、録画をしながら毎回見ていた。特に、『就活家族』は、就活の話を身につまされる思いもしながら視聴している。三浦友和さんは、学年は1つ上だが、私と同じ年に生まれている。1974年に『伊豆の踊子』に山口百恵の相手役としてデビュー、その翌年の75年『絶唱』、76年に『春琴抄』、80年に『古都』に山口百恵とともに主演している。また、「赤い疑惑シリーズ」のテレビドラマに70年代後半より これも山口百恵とともに出演してきた。80年に、山口百恵と三浦友和は結婚した。

 ―三浦友和― 1952年1月生まれ、山梨県塩山市出身。父は巡査(警察官)。小学3年の時、東京に転居。都立「日野高校」の同級生に「忌野清志郎」がいる。忌野の「才能のない奴は大学に行け!」という言葉に衝撃を受け、自分も音楽で食べていけるんじゃないかと勘違いしてしまい、当時 大学進学率97%の進学校にいたにもかかわらず、大学受験をせず、人生が変わってしまったと三浦は語っている。―

 中国の1980年代前半、中国の人々は 男性は山口百恵を熱烈に恋し、女性は 高倉健に憧れた。今の40代後半から60才前半の年齢層の人たちである。この当時、男も女も高倉健にかぶれ、男は高倉健のように無口を装い、女は無口な男に憧れたといわれている。おしゃべりな男は もてなかった中国の一時代だったようだ。

 三浦友和さんは、50代以降 いろいろなドラマや映画に出演し、若い時とまた違った魅力をもち活躍を続けている。同年代としても励まされる。

 さて、話は変わるが、2月19日(日)、露店市で映画『絶唱』の小冊子を見つけて買った日。露店市を後にして、市内の中心地にある「カルフール」というフランス系のスーパーマーケットに行き、桃やパイナップルの缶詰を大量に買って、バスでアパートの近くに帰る。アパートの近くの小さな公園の机(ベンチ)に、中国将棋やオセロやマージャンが常設されている。若い女子学生たちが麻雀やオセロをして楽しんでいた。

 アパートの建物がある棟の下の共同ゴミ箱には、布団や毛布が棄てられ、そこが暖かいので 五匹の野良犬の子犬たちが、遊びながら過ごしていた。中国は野良犬天国で そこら中に 犬が自由に徘徊している。私は、中国に来る2013年までは犬がとても苦手というか怖かったのだが、今は 慣れてきてしまって 犬が足元を通り過ぎても全然気にしなくなってしまった。

 

 

  


1980年代・中国語版:映画『絶唱』の小さな冊子を見つける❷

2017-02-24 22:47:45 | 滞在記

 『絶唱』は、舟木一夫と和泉雅子の主演で1960年代後半に公開された。そして、1975年に、三浦・山口の主演で再び公開されることとなる。私の中学・高校の青春時代といえば舟木一夫を切り離すことができない。彼は31本の映画に主演しているようだが、実は 私の中学生時代に 私の地元の集落の福井県越前海岸で映画のロケをしたことがあった。映画の題名は『夕笛』。舟木一夫・松原智恵子主演だった。

 1967年の中学3年の夏休み、高校受験を翌春に控えている生徒たち全員は「夏の補習授業」に出なければいけなかった。学年120人の内、定時制高校受験者を含めて100人ほどがその対象だった。ところが、人気絶頂の舟木と松原が 補習のある日に なんと地元でロケがあるという。なんでも、初めて二人が出会う場面の撮影らしいという噂が一週間ほど前から村々に広まっていた。

 そのロケ場面とは、「大学の夏休みで大学(旧制高校)の仲間と網元の実家に帰っていた舟木たちが海岸の岩場に行くと、若い女性の浴衣が 岩場の陰に置かれている。どうやら、ここに浴衣(着物)を脱いで 海の沖まで泳いでいった若い女性がいるようだ。男たちは、岩場に隠れて 若い女が岸に泳ぎ帰るのを 息をひそめて待っている。そこへ 全裸の若い女が 海から上がり 急ぎ岩場の陰に置いた着物に走り寄る」という場面の撮影だというではないか。

 当日、夏の補習授業に行ったのは数名の真面目な女の子だけで、他はみんな撮影現場に来ていたようだ。大人たちも仕事を休み、遠巻きに撮影現場を取り囲んでいた。狭い海岸に鈴なりの数百人はいたのではないだろうか。なにせ、生の舟木一夫が見れるというし、松原智恵子のヌードが見れるということで 現場の興奮はなみなみならぬ雰囲気があった。

 舟木に対して黄色い悲鳴を上げる人もいたが、撮影スタッフから「みなさん!撮影の邪魔になるので しゃべらないでください!!」の拡声器の声で、現場は 再び静寂につつまれていた。しかし、松原千恵子の姿を見ることはできなかった。ヌードになるということで、代役の女性があてられたらしい。しかも、ヌードはヌードでも肌の色をした薄いタイツをまとっていたようだという話も伝わってきて、私も含めて中学生の男子たちも がっかりしたのを 今でも覚えている。この映画はこの年の9月23日に公開された。映画の主題歌「夕笛」の作詞は西城八十、作曲は つい最近亡くなった舟橋徹さんだった。

 我らが青春時代のアイドル、この舟木一夫さんのプロフィールはおおまかには次のような次第だ。

 ―舟木一夫― 1944年生まれで、今年72才となる。愛知県一宮の出身。高校2年生の時、友達と一緒に名古屋で行われた「松島アキラショー」行った際、ステージの松島アキラが『湖愁』を誰か一緒にステージで歌いませんかという観客への呼びかけに、隣に座っていた高校の仲間が勢いよく手を挙げ、舟木をステージに連れて行く。舟木の歌う様子を見ていた「週刊明星」の記者が、堀プロダクションに連絡をとったことがきっかけとなり、1963年に「高校3年生」でデビュー。デビューの時に着ていた学生服は、舟木の高校時代に学校で着ていた学生服だったという。

 1970・71・72年に自殺未遂を起こし、73年より1年以上の心身のための休養をとる。その後十数年、不遇の時代を過ごすこととなる。デビュー30周年となる1993年に、「中高年のアイドル」として再びカムバックし、2000年代に入り座長公演なども行い現在に至っているようだ。よくがんばってきたなあ。


1980年代・中国語版:映画『絶唱』の小さな冊子を見つける❶

2017-02-24 21:31:55 | 滞在記

 2月24日(金)、今日も朝から一日中寒さに震える。氷雨が降り続く。今日は、10時30分から始まる授業があるので、8時前にアパートを出る。大学方面行のバスに乗って途中のバス停で乗り換えのために降りる。けっこう激しい雨が降っているので、バイクタクシーはいないだろうと、バス停に降りたら、一台のバイクが停まっていた。「今日のこんな天気は、バイクはやばいやろ」と一瞬考えたが、体が自然とバイクに向かってしまった。

 案の定、まるで冷蔵庫の冷凍室に10分間以上入っていたような感じで、バイクに乗っていた。頭の先から足の先まで凍えて、靴の中にも水が入り靴下もびしょびしょになった。大学研究室の電気ストーブで急ぎ靴下を乾かし、授業に向かった。午後2時からの授業が4時前に終わり帰宅の途に就く。金曜日とあって、市内にくりだす学生たちで、バス内は自由に体を動かせないほどのすし詰め満員。

 2月19日(日)、午前中に気分転換に露店市に向かう。露店市の近くの公園に、たくさんの人が集まっているので何だろうと思い行ってみた。「犬・猫・ニワトリや鳩」などを売り買いする市がたっていた。父と一緒に猫を買う20代前半の若い女性の姿もあった。

 現在、中国の東南部(浙江省・福建省・広東省)は「鳥インフルエンザ」が流行している。李克強首相が感染予防の政府声明を出すほどの事態となっている。300人以上の感染が確認され、100人近くが死亡している。私も気をつけなければならない。

 露店市の ある古本露店で一冊の豆冊子を見つけた。1982年出版の 日本映画『絶唱』の冊子だった。値段は5元(約80円)。この冊子がなかなか面白い。

 この小冊子は全部で161ページ。小さな豆単英語のような冊子で、160の映画の場面の白黒写真と その場面の簡潔な説明がある。主演は三浦友和と山口百恵。私はこの『絶唱』という映画を今まで見たことがなかったのだが、映画のストーリーは この冊子を見たら ほぼわかった。

 映画の舞台は山陽地方の岡山県津山地方。因習と身分の違いから愛し合う二人が「結婚」を許されない。それに抗して 家を出て細々と一緒に暮らし始める二人。太平洋戦争での召集令状が順吉に来て南方の戦場に赴き二人が引き裂かれる。病気(肺病・結核)を患い死の床で愛する人の帰国を待ち続ける小雪。終戦となり、日本に帰国できた順吉が故郷に急ぎ戻ると 帰りを待ち続けた小雪が息を引き取る。死体の小雪に白無垢の花嫁衣裳を着せ、親族を集め結婚式をとりおこなう順吉。ようやく二人は夫婦となることができた。

 

 この映画は、1975年に日本で公開されたものだが、それから7年後の1982年に改革開放路線に舵をきった中国で公開された。今の中国人で40才後半以降の人々は この映画を熱烈な思いで 多くの人々が連日映画館に押し掛けたという。このため、このような小冊子も出版されたようだ。

 映画館に足を運べない地方の人は、この冊子をみんなで回し読みをしたのだろうか。しかし、この冊子を見たら強烈に映画そのものを見たくなる。 舟木一夫がこの映画の主題歌をうたっていたが、「-----なぜ死んだ、あ!あ!! 小雪」という歌詞とメロディは今も覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雨の日のオートバイ・タクシーに乗る―可愛い孫を同乗している運転手のバイクでの3人乗り―

2017-02-24 06:06:06 | 滞在記

  大学構内のバナナの実がかなり大きくなってきていた。まだ実は緑色だが、あと2カ月くらいしたら食べられるようになりそうだ。亜熱帯地方特有のオレンジ色の花も咲いている。この季節、福州は、冬と春と初夏の天気が行ったり来たりしている。

 今週の火曜日(21日)からは寒い。気温は10度以上上がらず、ずっと氷雨が降っている。22日(水)、早朝に大学方面行のバスに乗っていたら、バス内のテレビで「金正男氏暗殺事件」に関するテレビニュースが報道されていた。報道規制のため、おそらくこの日までテレビでの報道はなされていなかったと思う。「金正男」という名前は出されず、「北朝鮮国籍の男」と短く報道されていた。

 この22日、大学方面行のバスを途中のバス停で降りて、いつものように大学までバイクタクシーを拾って大学に行こうとしたが、雨のためバイクはバス停に一台もいなかった。しかたなく、大学の北門まで行くバスを待っていたら、バイクタクシーが通りかかったので手をあげた。「閩江大学の南門まで行きたい」というと、「乗って」という。このバイク、3才くらいのおかっぱ髪の可愛らしい女の子が運転手の前に乗っていた。孫だろうか。雨の中、3人乗りで大学に向かう。

 23日(木)、この日も一日中冷たい氷雨。午後からの授業のため、乗り継ぎのバス停でバイクに乗って大学に向かう。雨の日はバイクの上に傘が設置される。この傘、上から見たら「前方後円墳」のような長方形の形をしている。特に激しい横殴りの雨でなかったら、雨がかからないのが不思議だ。よくできている。10分ほど走って、大学までの料金は15元(約240円)。10分間、冷たい氷雨の中、バイクに乗っていると頭から足先まで体が芯から冷えてくる。

 大学に着いて針葉樹林のある場所を歩く。冬枯れの樹林と氷雨が寒々しい。研究室のある建物の近くでトラックが停まっていて、何か引っ越しのようなことをやっていた。使われているトラックはかなり旧式の年代物だが、このトラックは現代でも 中国各地で多く走っている。エンジンが丸見えのトラックだが、なにか「ほっと、郷愁をそそられる」トラックだ。この日の1回生の「新大学日語1」の授業に、中国人同僚の譚先生が参観に訪れてくれた。

 夜にアパートに帰り、中国のインターネットサイトを眺めていたら、「韓国新体操の美しき妖精」という記事が掲載されていた。この新体操選手の名前は「孫延在(Son  Yeon  jae)・ソン ヨンジェ」。最近の世界選手権でも個人総合4位に入っているらしい。彼女は通称「国民の姪(めい)」とか「体操界のキム・ヨナ」とか呼ばれているらしい。2020年の東京オリンピックで見てみたいものだ。トランポリンの棒を頭の上に置いた姿がとても素敵だ。