彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国の茶①中国最大の茶の産地:福建省―緑茶と紅茶―

2015-06-29 14:41:32 | 滞在記

 福建省の省都「福州」には、「茶館」がたいへん多い。福建省は中国最大のお茶の生産地である。そして、その歴史も長い。

 日本でもよく知られている「烏龍茶(ウーロン茶)」は、ここ福建省のお茶でもある。私はジャスミン茶が好きだが、この茶の生産の中心も福建省だ。茉莉花(ジャスミン)は、香りのいい白く可愛い花を咲かせる。1週間ほど前から開花し始めた。また、中国最高級のお茶「武夷岩茶」は、福州の約250Km西北方面にある世界遺産「武夷山脈」で造られる高山茶である。ここ武夷は、発酵茶の代表「紅茶」発祥の地でもある。
 中国のお茶は、その種類も多種多様だが、日本のお茶に比べて味の薄いものが多いようだ。日本のお茶と中国のお茶を比較すると次の一言になるだろうか。つまり、「中国茶は香りを楽しみ、日本茶は味を楽しむ。」ということにあるように思う。
 中国茶も日本茶も、もともとは同じ植物(ツバキ科の樹木)の葉から作られている。それでは、作り方の何が違うのか? 茶葉というのは、摘み取った後はどんどん酸化・発酵が進んでいく。日本茶は茶葉を「蒸す」ことで発酵を抑えるのに対し、中国茶は茶葉を「炒る」ことで発酵を抑える。この製法の違いによって、「日本茶と中国茶では香りも風味も味わいも大きく変わってくる」ようだ。日本茶は「旨み」を味わうことを重視しているのに対し、中国茶は「香り」を楽しむことに重点がおかれている。日本茶のように蒸して作られると味がよく出、中国茶のように炒って作られると上品な香りがよく立つという。

 「茶」は古くから、絹や陶磁器と並んで中国の主力輸出品だった。そして、福建省は茶の最大生産地であり、海外への輸出港でもあった。なぜ、この福建省がそのような場所となったのだろうか。それは、茶の生産に適した地理・地形・気候を有していたからである。
 良い茶ができる土地の条件は4つあると言われている。適度な「温度・土壌・森林・霧」である。適度な温度とは「昼夜の寒暖の差が大きいこと」、土壌とは「栄養分に富み水はけがよいこと」、森林とは「森林のオゾンによって紫外線をさえぎる作用があること」、霧とは「強い日射しをさえぎる作用がある」の4つである。日本茶は、だいたい標高100~200mの場所で生産されているが、中国ではさらに高い高地で作られる場合が多いようだ。

 ここ福建省は、中国の沿海の省のなかで最も山地が多く、大小の河川も多い。良い茶の生産地に適した場所が多く、海の港も多いことが、「中国最大の生産地」になった理由かと思う。ちなみに、紅茶の発祥も福建省の武夷だそうだ。
 「紅茶」がどのように誕生したかについて、「中国からイギリスに緑茶を船で運ぶ際、赤道を通過する途中、湿度と温度が高くなり発酵して紅茶になった。」という有名な話がある。この話は俗説で間違いのようだ。紅茶誕生の真説は次のようである。「1600年代の武夷地方において、各農家が緑茶葉を納屋に広げていたところ、軍隊が長期間その納屋などに長期間駐屯してしまった。その軍隊が去った後に残された茶葉は発酵が進み、すでに緑茶ではなくなっていた。しかし、農家の人々はそれを捨てずに製茶し、雨期でも燃えやすい松の木で乾燥させ、泉州の茶商人の所に持って行きオランダに輸出された。翌年、オランダからこの今までなかったタイプのお茶の特注が入り、またたくまにヨーロッパ諸国に広まった。」


 

中国のシルクロード戦略とアジア・中東・アフリカからの留学生の急増―AIIBをめぐって―

2015-06-27 04:15:14 | 滞在記

 最近、「インド洋周辺のアジア・中東・アフリカ」からの留学生の姿をよくみかけるようになった。2013年~2014年には、その数は少なかったが、2015年になってから急に増えてきている。大学正門(南門)近くにある会館(大学の宿泊ホテル楼)に居住し、授業がある教室楼に通っている。
 「Hello!What coutry are you from ?」と何人かに聞くと、スリランカ(セイロン)・インドネシアなどのインド洋周辺の国や中東、アフリカからの留学生たちだ。留学期間は3か月~6か月と、短期らしい。留学の学部は、主に「理工系」である。近くにある福建医科大学でも、留学生の姿が急増してきている。

 10年ほど前から、中国はアフリカ諸国へ大規模な経済的結びつき戦略を進めてきていたが、習近平政権成立後、より大規模な世界戦略をもって世界政治・世界経済の中心になろうとしている。国民への宣伝として、「中国的梦(中国の夢)」というポスターがよく見られる。これが、中国の「新シルクロード戦略」(中国名:「丝绸之路经济带和21世纪海上丝绸之路」➡「一带一路」)である。これは、2013年の習近平政権成立後に提唱され、2015年に入り具体化が加速し始めた。この戦略構想実現の核となるのが「AIIB(アジアインフラ投資銀行)」の設立である。
 (※一帯とは、陸路を通じての①中国から中央アジア・ロシアを経てヨーロッパに至る経済的結びつきルート②中国から中央アジア・西アジアを経てペルシャ湾、地中海に至る経済的結びつきルート➂中国から東南アジア、南アジア、インド洋に至る経済的結びつきルート)(※一路とは、海路を通じての①中国の沿海の港から南シナ海を経てインド洋や中東・アフリカ・ヨーロッパに至る経済的結びつきルート②中国の沿海の港から南シナ海を経て南太平洋に至る経済的結びつきルート)

 この構想実現ための中国での重点の拠点省に指定されたのが、陸路新シルクロードが「新疆ウイグル自治区」であり、海路新シルクロードが「福建省」である。福建省の福州港・泉州港などは、マルコポーロの「東方見聞録」によると「海のシルクロード」の時代の中国の海の拠点だった。再び重要な省となっていくのだろう。福州では、地下鉄の建設や港湾の整備などが急ピッチで進められている。また、福州市内では「海のシルクロード展」なども開催された。

 アジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立とその参加国の拡大は、世界史の転換を象徴する出来事かもしれない。第二次世界大戦後、初めてアメリカ以外の国が主導する金融の枠組みが作られたからだ。また、AIIBの設立と拡大は、アジアの中心が日本から中国に移行したことを象徴的に表した出来事でもある。日本人が考えている以上に、アジアの人々は中国主導の世界を受け入れっつあるように思える。
 2015年になってから、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシアなどのG8の国々やオースとラリア・韓国・インドなどがAIIBへの参加を表明し、現在50ケ国以上の国が参加を決めている。(※中国が参加を認めない国は、北朝鮮のみ)
 この世界の動きの中で、参加をしていないのは、主要国としてはアメリカ・カナダ・日本の三国である。この状況に対する日本外交について、日本の新聞などの論調は次のとおりだった。①朝日新聞「世界の趨勢に遅れをとっている。」②赤旗「世界とアジアの大きな動きをとらえていない。アメリカの顔色ばかりをうかがっている。」➂産経新聞「先進国として参加を拒否する理由はない。」④民主党岡田代表「G7の半数以上が参加表明の状況で、なぜ参加しないのか。アメリカが参加しなくても、日本単独で参加すべき。」
 この問題は、日本の外交の最も大きな問題だと国民的にも受け止める必要があるだろうと思う。いままで、日米が主導してきたアジア開発銀行(ADB)ではまかないきれない増大するアジアにおけるインフラ整備のためのニーズ。このニーズをてこにして、中国国内の沿海部と内陸部の経済格差の解消問題、中国の経済成長の停滞問題なども解決できる中国の一石二鳥的な壮大な戦略には「舌を巻かされる。」思いだ。

 1980年代にNHKの番組で足かけ9年の歳月をかけて2つの特別長編ドキュメンタリー番組が作られた。「シルクロード」と「海のシルクロード」である。最近、「海のシルクロード(全12集)」を見る機会があった。これによると、海の要衝である「マラッカ海峡」を抜けるルートの他に、マレーシァ半島のタイ国領地である「クラ地峡(マレー半島で最も狭い地域)」を陸路越えして南シナ海とインド洋を船や物や人を運ぶルートがあったというのだ。このクラ地峡の「インド洋に至る川―陸路(約20Km)―南シナ海に至る川」を使った運送路だったらしい。陸路の約20キロは「象」に小舟や荷物を運ばせたようだ。
 この川と陸路を大規模に掘削して、大運河を造る計画が始まった。タイを貫く「クラ大運河建設計画」に、中国の企業が名乗りをあげ、建設の具体化が始まった。アメリカ軍を中心とした対中国マラッカ海峡封鎖の場合に備えるねらいももっている計画だとも言われている。
 東シナ海や南シナ海の島々を巡る、「尖閣諸島」「南沙諸島」「西沙諸島」などの領有問題。日本、フィリピン、ベトナムと中国との政治問題となっている。なぜこれらの島々を巡る領有を中国がこだわるのか。中国の「シルクロード戦略」に絡んでいることが見えてもくる。
 中国の中央テレビでは、今年の6月になって「日本への警戒や批判」が再び増え始めてきている。新安保法案を巡る自民党安倍政権への批判、安倍首相の「南沙列島問題発言」への警戒、日本とフィリピンの合同演習に対する警戒・批判などがその報道内容である。







中国:「端午節」―粽(ちまき)とドラゴンボート・レース―

2015-06-22 16:49:26 | 滞在記
 
 一昨日の6月20日(土)は、中国の伝統的行事(祝日)である「端午節」だった。この日は、中国全土で「粽(ちまき)」が食べられ、各地の河川ではドラゴンボートのレースが行われた。
 1949年の「中華人民共和国」成立以前からの伝統的行事で、現在 国民の祝日となっているのは、1月~2月の時期の「春節」(新年の正月)、4月上旬の「清明節」(先祖供養の日)、5月~6月の「端午節」、9月上旬の「中秋節」(月を愛でる日)の4つである。(※中国の祝日は、毎年12月中旬頃に来年度の祝日の日が決定される。昨年度の「端午節」は5月下旬だった。)
 日本では「端午の節句」は5月5日(子供の日)だが、中国の「端午節」は子供の日とは関係がないようだ。「端午節」の由来は「屈原」という人を偲ぶ日から来ている。戦国時代(紀元前4~3世紀)の「楚(そ)」の国の政治家であった屈原(くつげん)は、正義感の強さと愛国心で多くの人望を集めた人だった。しかし、同僚の陰謀で地位を追われ、不遇な日々を送ることになった。中国古典文学の名作「楚辞」の「離騒」は、屈原が国を憂い、その想いが届かず世を儚んでいる心情が詠われているが、まさにその詩のように、屈原は楚の将来を儚んで旧暦5月5日に入水自殺してしまった。
 人々は屈原の遺体を探すために川に船を出すが遺体は見つからず、屈原の体が川の中で魚の餌になるのは忍びないと考えた人々が、船から太鼓を叩くなど大きな音を立てて魚を追い払ったり、川に粽をまいたりした。
 そのようにして人々は屈原を偲んで、命日に川に船を出したり粽を作るという習慣が生まれ、それがドラゴンボートレースとして発展し、今日に至っている。

 「福州のドラゴンボートレースは、どこの川でやるのだろう?」「何時から始まるのだろう?」とはっきりと知らなかった。そこで、端午節の朝、宿舎のある旧キャンパスの門衛さんに聞いてみたが、あまり要を得た説明をしてもらえなかった。いつも散歩している宿舎近くの河川公園沿いの川でおそらくやるのだろうと思い8時頃に行ってみた。いつもは出ない露店もちらほらあったので、「間違いなくここだ。」と思った。子供連れの見学の人々が多いからか、風船なとも売られていた。日本の風船キャラクターとしては、「ドラえもん・ウルトラマン・キティちゃん」などがあった。しかし、10時になっても始まる様子がなかったので、宿舎に戻った。

 1時間あまり昼寝をした後の2時半ころ、宿舎の部屋に「太鼓やドラ、爆竹」の音が聞こえてきた。「ああ、ドラゴンボートレースが始まったのだ!」と思い、河川公園の方に行ってみた。大勢の見学者で溢れていた。

 川面を見ると50艚ほどのボートがあった。ボートの大きさや規格は決まっていないようだ。また、人数も決まっていないボートレースのようだ。ボートの先頭には龍(ドラゴン)の彫り物がある。

 ボートの上には、櫂(かい)を漕ぐ漕ぎ手の他に、船の舵(かじ)を操作する人、ドラを鳴らす人、太鼓を打つ人、そして船の先頭で爆竹を空中にて破裂させて音を出す人がいた。漕ぎ手の人達の肩や胸は、日ごろの練習で筋肉が盛り上がっていた。

 レースは、午後4時半頃に終わった。この河川公園を地元としている船以外は、陸に上げられてトラックで運ばれていった。朝の8時頃から見かけた露店の子供向け商品は、かなり売れたようだった。小さい女の子が母親に叱られ泣いていた。露店の商品をねだりまくったようだ。母親のしかり方もすざましい。近くに人がいようがいまいがお構いなしなのが、中国の一般的な母親のしかり方。なだめすかすことはあまりなく、機関銃のように大声で罵倒されながら叱られる。このように叱られると、子供は「ごめんなさい。」を言うチャンスがもちにくい。自己弁護しか心理的にしたくなくなるとも思う。中国人が「謝罪表現」をめったにしない背景がここにもあるのかなと思ったりもした。

 河川公園の一角の中国風休憩所の建物では、「二胡・ギター・バイオリン・笛・金・アコーディオン」の楽器からから構成されている演奏グループの生演奏による歌唱が行われていた。歌唱する人は、演奏グループのレパートリー曲から選んで注文し、歌っていた。
 毎週、土・日・月曜日は3日連続授業がないので、旧キャンパスの宿舎で、孤独を我慢する生活を過ごすことも多いのだが、この日は「端午節行事」で少し心楽しむ。(※6月20日(土)は端午節で祝日。21日(日)、22(月)も休みで3連休となった中国だが、振替出勤(学校も会社も)が6月27日(土)となっている。)
 端午節の前日、福州に実家がある学生の一人から粽(ちまき)をもらった。中国の粽は一つが大きいので、一つ食べるとかなり腹が満たされる。端午節の日、朝一つ、昼一つ、夕食に一つ食べた。粽は、三角形のおにぎりのようなもち米の中に、肉などさまざまな具が入っている。家庭によって粽に個性がある。食べると美味しい。日本人の食感にも合う。昨年は、学生たちから合計18個もの粽を土産にもらった。食べるのに一週間を要し、粽に飽き飽きした。明日は、授業があるので、故郷に帰っていた学生達が「先生、我が家の粽です。どうぞ。」と持って来るのだろうか。(※粽を包む笹の葉から浸み出す成分が、腐敗を防ぐ防腐成分となり、保存食となる。1週間経っても腐らずカビも生じない。また、もち米なので、普通の米のように硬くなりにくい。)
 先週の水曜日の早朝から続いていた、おそらく何かの食中毒による下痢と腹痛が、ようやく今日の昼ごろに、かなり回復したようだ。(完全回復ではないが) 長かった。いつも夕方になると飲みたくなる、一日の最大の楽しみビールもこの間は飲みたくもなかったし、食欲もほとんどわかなかった。今日も夕方になってきたが、まだ、ビールに対する欲求は薄いなあ。(食中毒からの回復度80%程度かな)



不思議な「綿の木」―6月中旬の気候・樹木・花・果実―

2015-06-20 18:33:15 | 滞在記

 不思議な木がある。最近わかったのだが、「綿の木」という名前。名前のごとく「綿」ができる樹木なのだ。私の宿舎のある旧キャンパスに4本の大木がある。新キャンパスの研究室がある福万楼にも1本ある。市内でも何か所で見たことがあった。幹には太い針状の突起がついている。

 数日前の風がある日、宿舎近くの河川公園を夕方散歩していると、大きな綿雪が降るように木から綿が大量に降っていた。木から落ちている実を見ると、茶色く熟した実は、中に20余りの種があった。一つの種に一塊の綿があった。落ちてきた一つ一つの綿を見ると、それぞれに一つの種が入っていた。
 普通、「綿の木」といえば、人間の高さくらいの綿の木のイメージだった。この「高い綿の木」は、インドネシアなどの熱帯地域に多い「綿の木」らしい。綿を触ってみると、今まで日本で見たことのある綿よりも軽い棉だった。この綿で衣服が作れると思った。このような棉の木があるなんて驚いた。

 福州の6月中旬は、蒸し暑い日々の連続だった。気温は毎日35度以上まで上がり、40度の日もあった。夕方ころにスコールのような雨もよく降った。とにかく湿度が異常に高くて暑い。食パンなども湿気のために、買って3日目になると「カビ」が生えてくる。食べものに要注意の気候が続いた。4日前の深夜12時頃、目が覚めたら「すざましい下痢が始まった。」きりきりとした腹痛が断続的にくる。この夜は一睡もせずに、朝7時にバスで大学の授業に向かった。
 下痢は、今朝まで続いた。腹痛は昨日からなくなったが、おそらく食中毒だったのだろう。何が悪かったのかはっきりわからない。
 2~3日前から、初めてセミが鳴き始めた。もう、梅雨明けなんだろうか。パパイヤの果実が大きくなってきた。あと1か月ほどで、黄色く熟すだろうと思う。

 宿舎近くの河川公園を朝夕散歩すると、年配の人達が集まって雑談やおしゃべりを楽しんでいる人が多い中国社会。地方大都市である福州では、高く立派な最近の高層マンション地域ではこのような様子は少ないが、10年以上前に建てられた住居地域の公園では、このような様子がよくみられる。お年寄りにとっては、日本の都市よりも生活が豊かなのではないだろうかと感じる。

 福州の街路樹には、「マンゴー」の樹木も多い。6月中旬には、実も少し大きくなってきた。8月上旬ごろには、黄色く熟してくるだろうと思う。マンゴ-の氷フラッペはとても美味しい。幸せな気分が味わえる一品だ。

 河川公園の蓮池の蓮が花を開いて、満開にちかくなってきた。中国は蓮が似合う国だなぁ。














6月7日、四回生たちが卒業していった:「卒業論文」発表会―中国滞在2年間、一つの区切りかな―

2015-06-15 05:43:49 | 滞在記

 ここ福州は、梅雨明けが近いのかもしれない。「しとしとと」降るかと思えば、「ザアザア、ピカ、ドドッ」と降ったりする雨が少なくなってきた。気温は連日35度を超える暑さになってきたが、やや湿気が少なくなり、本格的な夏近しを感じる。宿舎近くには、7~8本の「泰山木(たいざんぼく)」の大木が繁っている。次々に白い花(抱葉に似た)が開花し、部屋までその匂い(芳醇で香しく、高貴)が 微かに漂ってくる。中国生活の孤独感や疲れをかすかに癒してくれもする香りだ。

 6月7日(日)、4回生たち40人が大学を卒業していった。この日は、「卒業論文」の発表会が午前9時から始まった。8時半ころには、4回生全員が、控えの教室に集まっていた。久しぶりの再会だった。彼らは私にとって、2013年9月4日、初めて中国の大学で授業に臨んだ時の学生たちだ。
 1月中旬から、故郷や企業実習の都市に行っていた4回生たちは、久しぶりに大学に数日前に戻っていた。(※中国の大学では、4回生の後期は授業がない。この期間、ゼミ担当教員と連絡を取り合い卒業論文を作成したり、企業実習を2か月間あまり経験する。この企業実習の証明書がないと卒業できない。大学院進学を希望する学生は、この証明書の代わりに「ビザなど、大学院進学に向けて準備中」の証明書提出を求められる。)

 「本科卒業論文」発表は、一人10分間程度。2つの教室会場で発表が行われた。5分間あまりの発表のあと、5分程度の教員と発表学生との質疑応答。「卒業論文」冊子は、中国語で書かれているし、発表や質疑応答も中国語だ。ただ、論文の最初に「日本語」で論文概要が書かれているので、何が書かれているのかはほぼわかった。ちなみに、「卒業論文のテーマ」は次の通りである。(※私なりに日本語訳にすると)
 ①「日本語の反論、拒否、断り行為表現の中での、礼節的表現」②「と・ば・たら・なら用法の表現の違い」➂「日本語の禁忌表現」④「日本語の授受動詞と中国語への翻訳の問題」⑤「日本語と中国語における量詞の対比研究」⑥「中国語の(存在文)の意味的考察」⑦「日本語のことわざと中国語への翻訳の研究」⑧「試論 現代日本女性」⑨「中日両国、結婚の現状の比較研究」⑩「宮崎駿の作品における精神」⑪「中日民族の禁忌の対比研究」⑫「日本料理にみられる、日本人の価値観と自然観」⑬「日本の漫画アニメーションに見られる日本人の精神」⑭「発明と創造にみられる日本人の精神」⑮「日中同形異義語」⑯「日本語と曖昧表現」⑰「人間関係における謝罪・感謝表現の中日対照」⑱「(いる・ある)と(ている・てある)の関係性論」⑲「(そうだ・ようだ・らしい)の異同論」⑳「(あらかじめ)と(まえもって)の異同論」

 21、「小説:『一人日和』にみられる日本女性の恋愛・結婚観」22、「島田庄司作品の本格派推理小説論」23、「村上春樹作品における比喩表現論」24、「星新一作品の中の人間性を探る」25、「川端康成の『伊豆の踊子』『雪国』における女性形象」26、「贈答における中日比較」27、「衣服における日本人の細やかな思想」28、「日本人の曖昧表現から以心伝心という言葉の日本人を探る」29、「2013年流行語と日中翻訳」30、「東京の地下鉄網設計と日本人の綿密思想」31、「熟語における中日語への相互翻訳論」32、「日本の漫画アニメーションの発展様式と中国の漫画アニメーションへの影響」33、「中日の感情表現語の違いの研究」34、「日本語中国人学習者の(ている・てある)の習得状況調査」35、「会話において不安定―日本語の人称代名詞表現」36、「日本の若者言葉の変化と発展」37、「日本の少子化問題と中国の一人っ子政策」38、「外来語の増加と日本語への影響」39、「日本語の典型的な使役動詞と成立条件」40、「中国語と日本語の時制に関する比較研究」
 以上、40人の卒業論文。3回生も10名あまりが発表会を聞きに来ていた。40人の発表者の中から、優秀論文3人が選考され、その中から最優秀論文が1編選ばれたが、その選ばれ方には疑問を感じた。

 ※卒業生たちが卒業服に身を包み記念撮影。なお、大学全体の卒業式は、各学部・学科の優秀卒業生だけが参加して6月25日頃にとりおこなわれる予定だ。

 「午後6時すぎから東門の店で、日本語学科卒業生のお別れ宴会をします。ぜひ来てください。」と連絡が入った。行ってみた。36人余りが参加していた。

 一人一人と、個別に「乾杯」したので、小さな中国式コップでビールを100杯ばかり飲んだ。彼らの多くとは再び会うことはもうないだろう。再び会うだろうと思うのは10名~15名くらいの学生たちだけだろうかとも思う。彼らの中から4名は、日本の大学院を目指して7月から留学生活のため来日することになっている。支援をしていきたいと思う。
 私が、2013年9月に中国の大学に初めて赴任して、初めて授業をした学生たちとこの日別れた。2年間あまりの歳月が過ぎて、中国での大学教員生活も一つの区切りがきたと思った。