彦四郎の中国生活

中国滞在記

湖西―北陸路―越前海岸を行く❹―湖北から若狭街道「鯖街道」を走り京の出町柳へ至る

2018-07-26 12:15:19 | 滞在記

 敦賀の街から国道8号線に琵琶湖方面に向かう。疋田の交差点から「塩津街道」(国道8号線)の「深坂峠」を越えると滋賀県となる。そして塩津地区で車を右折して国道303号線を走り「大浦地区(大浦浜)」へ。ここから海津大崎を経て海津湊に至る県道557号の奥琵琶湖の景色はとても美しい。竹生島を見ながら、ずっと桜並木が続く道でもある。

 海津地区の昔からの道を行くと、金ぴかの家があった。門も塀も全て金ぴかに塗られている家だった。その家の前で写真を撮ろうと車を停めていると、その家の向かいの理髪店のおばあさんが出てきた。「これは個人のお宅ですか?」と聞いてみると、「そうです。湖に゜面した裏のほうも、金ですわ」と話していた。しばらく湖沿いに行くと、「今津浜松並木」がずっと続いていた。ここは「白砂青松100選」に選ばれている松並木らしい。

 このあたりから、琵琶湖沿いには南下せずに、山間の若狭街道を通って「朽木地区」に向かう。「朽木」が近づく頃、「鯖街道を歩く」という人達の一団と出会った。炎天下の中、20人ほどが若狭街道「別名・鯖街道」を歩いていた。一行の前には5km間隔ぐらいで先行している「救護車」が待ち構えていた。救護車の人の話によると、一行はこの日の朝8時に福井県の小浜を出発し、「熊川宿」を通過し、朽木や京都の大原、出町柳を目指しているのだという。そして、この日の泊まりは鯖街道沿いの「梅の木」地区の旅館だとのこと。鯖街道の「小浜―熊川―朽木―梅の木―大原―出町柳」の「鯖街道」の距離は80km以上はあるという。

 朽木地区の入口には「鯖街道 朽木宿」と書かれていた。安曇川の中流域が流れ、水は清らかだ。この朽木には、かって「朽木本陣」などもあった歴史的にも知られた場所だ。ここにある「興聖寺」には「足利庭園」がある。室町時代に京を逃れた第13代将軍「足利義輝」か゛一時暮らした場所でもあった。

 ◆―「鯖街道」―

 「鯖街道」は、いくつかある。この日に、小浜から朽木を経て京都の出町柳に至る「鯖街道」ルートがその代表的なものだ。他には最短ルートとしての「小浜―木地山峠―久多―花背―鞍馬―出町柳」の「鯖街道」ルートがあった。このコースは18里で72km。峠を越えるのがきついルートだったという。

 「西の鯖街道」というルートがある。これは、「小浜―名田庄―堀越峠―美山―京北―京見峠―出町柳」のコースと「高浜―山坂峠―堀越峠―美山―京北―京見峠―出町柳」というコースがあった。「鯖街道」は全部で5つのコースがあったとされている。早朝に小浜や高浜を出発した鯖を運ぶ人たちは、その日の夜も眠らずに歩きとおし、翌日の朝に京都の出町柳に到着したようだ。若狭の浜を出発する時には「塩をふった鯖」は、出町柳に着くころには「塩が鯖になじんで」食べ頃になったと言われている。

 この「鯖街道」の道には、何軒かの「鯖寿司」の販売店があった。小浜や高浜、敦賀などの若狭湾沿岸は昔より鯖がよくとれる海である。ここ若狭湾周辺では焼き鯖などもよく売られているが、京都の「錦市場」の魚屋さんでも「焼き鯖」が今も売られているので、よく買いに行く。

 若桜街道「鯖街道」を南下し京都市方面に向かう。街道には「安曇川」が流れる。琵琶湖にそそぐ安曇川の中流域の川原は美しい。桑野橋(大野地区)から見る安曇川に、炎天下の中、跳び込みたくなる。葛川や梅の木という地区を通りすぎ、途中峠を越えると京の「大原地区」に至る。

 大原地区には人に知られていないが「阿弥陀寺」という寺がある。山門がちょっと中国風の風情のある寺だ。大原地区を高野川が流れている。清流だ。ここから八瀬を経て出町柳に至る。出町柳からほど近い銀閣寺の周辺に住んでいる娘の家に行き、敦賀の「日本海市場」で買ってきた「ホッケやアジの一夜干し」をお土産に渡した。夕方に自宅に戻った。

 

 

 

 

 


湖西―北陸路―越前海岸を行く❷人道の歴史と「敦賀港」:杉原千畝の「命のビザ」とユダヤ難民

2018-07-25 07:10:58 | 滞在記

 国道8号線を越前海岸沿いに敦賀に向かうと、海に突き出た「金ケ崎」のこんもりとした崎が見えてきた。敦賀新港に着くとそこは「日本海フェリー(敦賀―北海道)の埠頭や大きなセメント工場などがある。さらに金ケ崎の下に造られた「金ケ崎トンネル」をくぐると、「敦賀本港」に至る。中世の鎌倉時代末期から戦国時代の末期まで、この敦賀港から見える「金ケ崎城」、そして山続きの「手筒山城」は戦乱の歴史をもった山城でもあった。

 ここ敦賀は、京都府の舞鶴と並び、「日本海防衛」の基地でもある。海上保安庁所属の「えちぜん」や「ほたか」などの巡視船の艦艇が何隻も停泊していた。

 日本三大松原である「気比の松原」が港のすぐ近くまでせまる「敦賀港」と敦賀の街、敦賀半島の立石岬ちかくにある「水島」は、「日本海のハワイ」とも言われる紺碧の海が広がり、敦賀半島には美しい海岸線が広がっている。この半島にはカモシカも生息している。敦賀港の一角には赤レンガの建物群が残っていて、今は喫茶店やレストランとして利用されているようだった。旧・敦賀駅港の駅舎の建物があり、そこは「敦賀港駅鉄道資料館」として、敦賀港の歴史が詳しく説明されていた。(無料)

  1902年から1941年にかけて、敦賀はヨーロッパとの交通の拠点の港だった。この当時、客船を利用してヨーロッパのパリやロンドンやベルリンに行くと1カ月あまりを要した。夏目漱石も森鴎外などの明治期の人達は1カ月以上をかけてヨーロッパに到着していた。しかし、東京―敦賀―ウラジオストク(ロシア)―モスクワ(ロシア)―ヨーロッパ各地の航路・鉄道を利用すると2週間あまりだった。与謝野晶子などもこの2週間路線を利用している。

 東京―敦賀港駅間は、特急列車(直行便)も運用されていた。1910年には駐日ロシア領事館が敦賀に置かれた。この東京とヨーロッパを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が運行され、名実ともに「東洋の波止場」として敦賀は繁栄していた。「夢はヨーロッパへ」「日本海中心時代来る」の時代でもあった。1920年から22年には、「ロシア革命」などの影響のためシベリアで孤児となった多くの孤児たち(763人)が日本赤十字の援助のもと、ここ敦賀に上陸をした。

  「人道の港―敦賀ムゼウム」という建物があった。ムゼウムとはポーランド語で「資料館・博物館」という意味だ。「命のバトン―杉原千畝の"命のビザ"を繋いだ人々」「手に入れた自由と平和」「覚悟の決断」「苦慮、煩悶の揚句、私はついに人道・博愛第一という結論を得た」などの言葉が写真などとともに展示されていた。杉原千畝の「命のビザ」を手に、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人難民約6000人が、1940年から41年に敦賀港に上陸したのも、この港だった。

◆①ナチスドイツの侵攻により当時のドイツに併合されたポーランドなどの国々では、そこにいたユダヤ系の人々は捕えられ強制収容所に送られ多くが殺害されていた。ナチスの魔の手を逃れるために、ユダヤの人々は小国リトアニアなどに逃れた。しかし、そこにもナチスの手は伸びてきた。当時のロシアのスターリンなども、ユダヤ系の人々に対してはナチスと同じような扱いをし、多くはシベリア送りの強制労働に駆り出していた。このため、このリトアニアに逃れていたユダヤの人々は、シベリア横断鉄道に乗り、東アジアのウラジオストクまで行き日本に渡り、日本からアメリカなどの国に亡命をする方法しか残されていなかった。

◆②1940年7月18日、ユダヤ人難民たちはリトアニアの日本領事館に日本通過ビザを求めて押し寄せた。しかし、日本に電報で問い合わせた杉原に、当時の日本外務省はビザ発給を許可しなかった。杉原は何日も悩み苦しんだ末に、日本の外務省の方針に背いてビザ発給を決断した。ソビエト政府にも、通行の許可を約束させた。ビザを手に入れたユダヤ人難民は、シベリア鉄道の道中でも所持品の強奪や強制連行という憂き目にあった人も多くあった。そうした過酷な運命に翻弄されながらも、約6000人ものユダヤ人難民が日本の敦賀にたどり着くことができた。まさに「命のビザ」であった。そして、日本からアメリカなどに亡命して行った。

◆③1945年、日本は敗戦。杉原は当時の外務省の方針に背いたことから、外交官の職や外務省を「罷免」されることととなる。2年間もの間、ヨーロッパやロシアなどの「収容所」に家族とともに隔離され、ようやく日本に帰国した。その後、得意のロシア語などを使って貿易関連の仕事などに従事し、1886年に亡くなった。(イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」が贈られた。また、日本政府も杉原に対しての「名誉回復」措置を発表している。)

  この「敦賀ムゼウム」はJTBが運営をしており、年末年始以外は年中無給、無料である。『杉原千畝物語』を買って読んだ。杉原の妻と長男の共著だが、とても優れた「児童向け」の著書だった。この日、どこかの小学生たちの団体が見学に来ていた。

 

 


湖西(西近江路)―北陸路―越前海岸を行く❷―故郷・河野村の海岸(越前海岸)や川

2018-07-24 06:45:49 | 滞在記

  7月20日(金)、午後6時頃に、国道8号線の「道の駅・河野」に到着した。ここからは敦賀湾が一望できる。夕日があと1時間くらいで落ちてくるだろうか。(写真左より、①敦賀市方面を見る②敦賀半島方面を見る③夕日の方面は鳥取・島根、そして韓国や北朝鮮がある④越前岬方面を見る―この方角にロシアのウラジオストクがある)

 故郷の河野村(現:福井県南越前町河野地区)に初めてコンビニエンスストアーができていた。ファミリーマートだが、このファミマはとても建物が大きかった。普通のファミマの3倍くらいある。駐車場もただっ広い。中に入ってみると、野菜や肉などのスーパー的な商品も置かれていた。スーパー兼コンビニという感じだった。

 21日(土)の早朝5時半ころ港に行ってみた。河野地区には3つの漁港がある。糠漁港と甲楽城漁港と河野漁港だ。私が生まれ育ったのは「糠漁港」がある漁村の集落。戸数は230軒くらい。今朝の「定置網」の水揚げが始まっていた。漁港に干されていた梅干しがきれいだった。

 河野小学校と河野中学校が同じ敷地に建てられている。日本海を真正面に見ることができる高台にある学校。二宮金次郎像や北前船のレリーフ。「頑張れ!河野パイレーツ―第23回高野山旗全国学童軟式野球大会 7/27〜7/31」と書かれた横断幕が学校の入口に掲げられていた。選手の名前や背番号が書かれた幟(のぼり)も並べられていた。これは、新しくできたコンビニにも ずらっと立てられていた。この大会は小学生の甲子園みたいなものなのだろうか?

  午前9時すぎに実家の家を出て、一路京都方面に向かうことに。新しくできたコンビニの近くに、「北前船の館群」がある。北海道や東北、北陸、関西を結ぶ海運「北前船」。明治期が終わるころまで、日本海海運の主役であった。ここ河野地区には、「北前船船主」の館が立ち並ぶ。右近家・中村家・刀禰家などの館群だ。右近家は「東京海上火災保険」の創業者の家。背後の山には洋館も建つ。

 この洋館の背後の山にはかって「河野城」があった。典型的な戦国時代の小さな山城のつくりだが、戦国末期の時代に織田信長が越前一向一揆勢力を亡ぼすために「越前国」に侵攻した際の防衛拠点の一つとして築かれた。信長軍の武将・羽柴秀吉軍がこの浜に上陸し、この城を攻撃・陥落させた。そして、越前一向一揆軍の主力が立て籠もる今庄地区を武生を経由して背後から攻撃した。この一連の戦いで、一向一揆軍は4〜6万人が殺されたとされる。この河野城には「城の曲輪」が見て取れる。

 ここ河野海水浴場はとても景色がよい。小さいが河野川が海水浴場内に流れ込んでいるので、海水に浸かった体を川に入ってきれいにできる。シャワーが必要ない海水浴場だ。暑い暑い日本列島だが、この海もたくさんの人がこれから訪れる。

 中国のお土産をもって、この河野川の上流で「渓流釣り」を営業している、中学時代からの親友に会いに行った。「また来るわ」と言って「渓流荘」を後にした。渓流には「合歓木(ねむのき)の花」が咲いていた。

 

 


湖西(西近江路)―北陸路―越前海岸を行く❶―湖西の水城跡「大溝城」や白鬚神社のあたり―

2018-07-23 16:14:26 | 滞在記

 7月20日(金)の午後、京都から故郷・福井県越前海岸の家に帰るため、琵琶湖の湖西の道(161号線)をひたすら走る。琵琶湖と湖西の山々が最も狭くなる地区がある。そしてここには、「滋賀県で最も古い歴史を持つ大社」と言われる「白鬚(しらひげ)神社」がある。琵琶湖の中に水上の鳥居があり、最近では中国や台湾からここを訪れる訪日客もけっこう多い。JRを利用して近江高島駅まで到着し、歩いて20分ほどのこの神社の鳥居を見に来るのだ。この日も中国系らしい人たちが何グループか来ていた。酷暑の中 わざわざこんなところまで、本当にご苦労さんだと思う。

 この「JR近江高島駅」の近くに「大溝城(おおみぞじょう)」の跡があり、天守曲輪や天守台などの石垣が当時のまま残されている。この城は琵琶湖の内湖を城郭の縄張りに取り込んだ水城であった。今も城跡の周辺に内湖である「乙女池」がある。1578年に織田信長が甥の織田信澄に築城させたもので、縄張り設計は、同じく水城を坂本に築いた明智光秀と伝わる。

 この城には後に、浅井三姉妹の次女「お初」が夫となった京極高次と新婚時代に住んだ城でもあった。この大溝城から白鬚神社に至るまでの約3kmの道は、琵琶湖と山々の間が最も狭くなり、すぐに山々が琵琶湖に迫っている地区である。このため、この地区には古代より交通の関門・要衝の地ちとして山城が築城された。戦国時代にはここの要衝をおさえ、高島の地を支配する拠点としての「打下(うちおろし)城」が築かれた。5年ほど前にこの山城に登ってみたが、標高は379mの山頂を中心としたかなり大規模な山城だった。沢には細い川が流れ落ち、飲み水はここで確保することができる山城だった。少し石垣部分も残っていた。

 歴史好き・山城好きにはたまらない「幻の城」がある。城の名前は「水尾城(みおのき)」、古代の飛鳥時代に築かれた朝鮮式の山城だった。日本書紀にはこの城のことが記載されていて、壬申の乱(672年)の際に落城をしたことも記されている。歴史専門家や歴史愛好家などが地元の人を中心に長年の調査をしてきているようだが、いまだもってその所在地が特定されていない「幻の城」となっている。琵琶湖に山々が最も迫っている区間は約3kmあり、このどこに城跡を示す石垣群の跡はまだ発見されていない。

◆日本の古代山城―飛鳥時代の663年、「中国の唐と朝鮮の新羅」連合軍VS「日本(倭国)と百済と任那(日本の領土となっていた)」連合軍が戦った「白村江(はくすきえ)」の戦いで日本との連合軍は敗退した。その後すぐに百済や任那は滅亡した。このため、日本は、664年以降、日本への侵攻に備えて多くの山城を九州北部や瀬戸内海沿岸に築城をした。

 これらの築城では、日本に逃れてきた百済国の人々の技術を用いたため、「朝鮮式山城」が多く造られた。その特徴は、山全体を石垣で囲むという山城だった。現存が確認されているもので約30ほどが日本には残っている。(九州大宰府の山城「大野城」や岡山県の「鬼ノ城」など)  最近では、大阪府と奈良県の境に横たわる生駒山系にある「高安城」の石垣群が山中の斜面より発見されニュースとなったことがある。

◆この頃、国際情勢(東アジア)の変化を受けて、都が飛鳥の地から琵琶湖南岸の大津に移された。大津京である。この地の防衛のために新たに築城されたのが「水尾城」だった。672年に起きた壬申の乱の時、大津京に迫った大軍により、この城は陥落したと日本書紀は記している。(※上記写真は、福井と滋賀の県境近い「道の駅」より撮影。琵琶湖に突き出ている山々の先端部があたりが「水尾城」や「大溝城」のあるあたり。)

 


京都・比叡山麓「八瀬」の渓流―ベトナムからの留学生たちがたくさん来ていた

2018-07-23 06:09:13 | 滞在記

◆前号のブログで、「閩江大学の学生たちが京都に遊びに来た」という記事を書きました。15日の午前10時半にJR京都駅で待ち合わせをしました。その際、6人の学生一人一人が中国から持ってきていた土産が入った紙袋を渡されました。そして、アルパカの大きなぬいぐるみ人形も中国で買って先生への土産として持ってきましたと渡されました。

 この日の京都は38度の高温でした。私はこのお土産荷物を両手に持ちながら、自分の鞄は背中に背負って、一日の京都案内をすることとなりました。学生たちも気の毒がって、かわるがわるこのお土産荷物を持ってもくれました。汗の流れが止まらない暑い暑い一日でしたが、この荷物は無事に家に持って帰ることができていました。翌日、妻が「何が入っているの?」と聞いてきたので、一つ一つのお土産を見て見ました。お菓子や飾り物、日用品など8点ほどが入っていました。ぬいぐるみは何故か、パンダじゃなくて南米のアルパカというところが不思議でもありました。これは、1才9カ月の娘の子供(孫)にあげました。(※ちょうど上にバカバカ乗れる)

 中国の大学生たちを京都案内した翌日の16日(月)、この日は「海の日」での祝日で祇園祭りの宵山となっていた。四条通は歩行者天国となり、日本人や外国人の浴衣姿が百花繚乱、日本人も中国人も韓国人もこの浴衣を着ると、とても女性美が輝く、アジアの美という感じがする。この日も京都は38度以上の猛烈な暑さ。高瀬川沿いにある喫煙所に行き、川の中に入って煙草を吸った。近くの居酒屋には「日本代表サッカー」のユニフォーム横断幕に「戦いの狼煙を上げろ!」と書かれていた。この居酒屋はサッカーW杯の試合を中継していて、盛り上がっていた店なのだろう。京都・丸善書店に行く。

 京都の比叡山の麓にある「八瀬」。ここは、東洋一のケーブルカー乗り場があり比叡山まではロープウェイを乗り継いでのぼれる駅がある。また、京阪出町柳駅から「京福鉄道―八瀬線・鞍馬線」の八瀬駅があり、とても便利なところだ。この時期、比叡山の山頂まで行ってもほとんど涼しくはなく暑いだけ。最も涼しくて最高なのが、この八瀬駅周辺の渓流だ。ここはとても京都市内から近くて、電車でこれるので便利でもあり、最高に涼しくて冷たい渓流がある。

 祇園祭りの「前祭り」で山鉾巡行が行われた17日(火)の午前、ここ八瀬の渓流に娘と孫と3人で行った。娘の家がある銀閣寺付近から車で15分ほとで八瀬に到着した。この渓流の川原は水量も多くとても水も冷たく気持ちがいい場所だ。平日の午前とあって、人も少なかった。午前10時頃は私達だけだった。30分ほどすると小さな子供達をそれぞれ連れたママ友3人がやってきた。

 そして、大勢の若い人たち20人ほど男女もやってきた。そこに行ってみると、ベトナムからの留学生たちだった。バーべーキューをしていて、食材は「肉や野菜」がものすごく用意してきていた。その様子を見ていたら、「おにいさん、おにいさん、食べに来て食べに来て」と愛想よく笑顔で呼び止められた。このへんの愛想よさはさすが微笑みの国ベトナムだと感じる。中国人の見知らぬ初対面の人に対するものすごい冷淡さ・無視さとは真反対の国民性のように思う。「じゃ、後でまた来ます」と言って、娘や孫のいる方に行った。

 30分ほど後に、ベトナム人学生たちの方に行くと、すぐに声をかけられて、紙皿に大量の「肉やチーズや焼き鳥」などを2皿盛られた。おそらく昨今、京都市内や大阪でもベトナム人留学生が急増し、「ベトナム人向け」の食材店ができているのだろう、バーベキューの肉や焼き鳥やチーズは、日本のものとは違っていた。とても唐辛子がきいた独特の香辛料と香りがきいたものだった。孫は焼き鳥を手に取り食べようとしたが、これはやめさせた。泳ぎによし、バーベキューによし、交通の便も京都市内からよく、連日10日以上も38度〜40度の気温が続く京都でもお勧めの場所だ。

 18日(水)の午後4時から、映画ジェラシック・ワールド(パート4)を、京都市内の映画館で妻とともに見に行った。3D映画だった。とても面白かった。たくさんの種類の恐竜が映画にはでていたが、この映画に出ているほとんどの種類の恐竜のフィギヤとそれぞれの骨や歯や卵やなどは、アメリカやモンゴルでの恐竜発掘調査に何回も行った際に日本の自宅に持ち帰ったものがいまでも部屋に並んでいるなあと出演恐竜が身近に感じられた。