彦四郎の中国生活

中国滞在記

近隣住民の憩いの場に毎日集まる中国人たちの暮らしは、なかなかいい光景だなあ❷気温34度に!!

2019-03-21 08:51:53 | 滞在記

 3月19日(火)、この日は担当授業がない日だったので、2カ月半ぶりくらいに市内中心地に買い物に行った。バスに乗り茶亭公園で下車し公園内を歩いた。池の畔の建物廊下で憩う老年の人たち。いつもここに来て知り合いたちと時を過ごすのだろう。都会の中心地のオアシスのような公園内にはいろいろな花が咲いている。日本の茶の湯でよく生けられる「侘助(わびすけ)」に似た椿(つばき)の薄桃色の花。

 春分の日間近なのに紅葉している樹木もけっこうある。

 桜の花が咲いていたので驚いた。日本の枝垂桜のような色で薄桃色の桜の木が満開になっていた。桜の木は全部で6本あったが、まだそんなに大きな木になってはいない。ここに桜の木があることを初めて知った。隣の場所ではクラッシックダンスをおじさん・おばさん・老年の人たちが30人ほどで楽しんでいた。老年の人たちのこのような踊り・ダンス文化は中国全土で根付いている。

 かなり大きなカジュマル(榕樹)の下では、賭けトランプを楽しむ人たちのグループが5つほどあった。それを眺める人たちが周りを囲む。池のそばでもトランプをするグループが3つ。ここ茶亭公園の池にはカワセミが住んでいる。この日は、5人ほどの望遠カメラをもった人たちがシャッターチャンスを狙っていた。池の中に蓮の茎が残っている。ここにカワセミがやってきてしばらく停まっていた。綺麗な小さい宝石のような鳥だった。初めてカワセミをこの目で見た。

 この日、公園から近い場所にあるフランス系大型スーパー「カルフール」などに行き、3種類のジャムや髪のコンデショナーなどを買ったり、プリンターのインクを買ってアパートに戻った。

 翌日の3月20日(水)、この日は気温がとても高くなり、最高気温が33度となってしまった。午前中の大学での授業を終えて、午後2時すぎにアパートで直接に日光が当たる場所に温度計をおいたら37度を記録していた。今日21日は「春分の日」、天気予報を見たら、最高気温は昨日より暑い34度となっていた。直接に太陽の光が当たるところは40度ちかくになるのだろうか。暑いが、5月・6月・7月ほどまだ湿気がそれほど多くはない。明日はまた、気温が下がり最高気温が20度ほどになる予報だ。

 亜熱帯の福建省・福州の町。中国の人々は、都会でもいろいろな人間関係の繋がりを広げて、人生のそれぞれの時期を楽しんでいるようにもみえる光景がいたるところで目に入ってくる。

 

 


近隣住民の憩いの場に毎日集まる中国人たちの暮らしは、なかなかいい光景だなあ❶

2019-03-20 21:10:28 | 滞在記

 アパート近くの福建師範大学構内にある行きつけの「コピーや製本」をする店に向かった。棕櫚(シュロ)の並木ごしに体育館が見える。福建師範大学倉山キャンパスの大門を入ると、大学構内は近隣の住民の姿も多い。

 福建師範大学が1907年にこの地に創立されたが、1990年代からこの近辺にも住宅地が広がり多くの人が暮らし始めた。大学の芝生のある運動場は近隣住民の憩いの場所である。夕方の4時半ころに大学構内の運動場周辺に行くと、学校帰りの小学校低学年の女の子たちが遊んでいた。それを見守るおばあさんたち。小さい孫を乳母車に乗せて談笑するおばあちゃんたち。若い恋人たちの様子は初々しい。

 夕方4時半頃、運動場にはいろいろな年齢の人たちがもう集まり始めていた。サッカーを楽しんでいる中年の人たちに交じって、アフリカ系の大柄な男性がいっしょにサッカーを楽しんでいた。おそらく福建師範大学への語学留学生なのだろう。どれぐらいの技能があるのだろうとしばらく見ていたが、周りの中国の人たちと同じレベルだった。2013年ころから「一帯一路」政策の一環として、アフリカ系の語学留学生が中国の大学では急増している。閩江大学の場合でもアフリカ系語学留学生をよくみかける。

 運動場のトラックをひたすら歩いている人たちもあれば走っている人たちも。砂場の場所には小さい子が遊ぶのを見守っている子供連れのおじいさん・おばあさんが多い。子供のちょっとした遊び用具を近くで売る人もいる。小学校低学年の子供たちが遊ぶ姿も多い。中国は長年の「一人っ子政策」で子供が少ないというイメージはあるかも知りないがそんなことはない。日本の町中などの10倍くらいの子供の数をいつも目にするし、とにかく、若い人も中年も老年の人も、それぞれの年齢層の人があふれるくらい多い。

 ちよっとした広場や公園などには、いつもたくさんの人が集まって、いろいろな過ごし方をしている中国。広場ダンス、音楽、武芸、太極拳、広場カラオケ合唱、散歩、子供の子守、トランプやマージャン、日がな一日にいつもの場所に集まって過ごす老年の人たちなどなど。中国の人たちにとって、自宅と違った場所にいつもの仲間と集まって人生の一コマを楽しみ合うという文化が中国には根付いている。なかなかいい光景だなあといつも感じる。日本には少なくなってしまった人々の暮らし方だ。

 運動場を後にして、なだらかな大学構内の坂をのぼると、福建師範大学に勤めていたころからの行きつけのコピー屋さんがある。「日本文化論」や「日本近現代文学論」などの授業で学生に配布する資料をコピーするために、今も このコピー屋に通う。大学構内に多い楠(クスノキ)の大木の新緑が美しい。苔むした大木には栗鼠(りす)が住んでいる。頼んだコピーが仕上がるまで、近くにある外国語学部のある建物に行ってみた。ベンチに腰掛けた女子学生が本を読んでいた。

 コピーが終わった後、コピー屋の隣にある「理髪店」でだいぶ伸びた髪を切ってもらうことにした。初めてこの散髪屋に入った。「髪を適当に切って」とだけ告げたら、バリカンを使って、頭の両側面の髪をあっという間に刈りあげられてしまった。側面は坊主頭の5分刈りであり、頭の上の髪を多く残した。その結果、完璧な「中国人男性」の典型的な髪型が出来上がってしまった。料金は25元(約400円)で、顔剃りはない。刈る・切る以外の顔剃りも後部の剃りもないのが中国風散髪店。

 午後6時頃、授業を終えた学生たちが寮に戻って行く。中国古代衣装を着た女子学生が二人歩いていた。図書館への階段を登って行くと、胸像の横にて一人の女子学生がたたずんでいた。運動場の近くにある木に登って、小学低学年の女の子たちが遊んでいた。カメラを向けたらにっこりと笑ってくれた。

 大学構内を取り囲む塀の向こうには、100軒余りの小さな店が小路に並ぶ「学生街」の通りがあるのでちょっと覗いてみた。

 大学構内から自分のアパートのある方面を見ると夕日がさしていた。アパート近くの路上で、タケノコや蕨(わらび)が売られていたいたので、この日は蕨を買った。蕨料理の作り方でのあく抜きの方法は、「灰」や「米糠」を少し入れて抜くという方法は知っていたが、あいにく「灰」も「米糠」はない。どうしたらいいんだろう。このことを妻にメールすると、「灰や米糠が無ければ、沸騰した湯に塩を少し入れて20分間ほど湯がいて、一晩ほど水に漬けて、水を絞って、醤油と鰹節で食べます」という方法がありますと返信があったので、さっそくやってみた。

 翌日の夕方、中国では鰹節パックが売られていないので、半分は醤油だけで食べ、半分は醤油と味醂とダシで煮込んだ。煮込んだ蕨はやはり美味しくなかった。醤油だけをかけた蕨の方がやはりうまかった。鰹節があればもっといいのだが。

 

 

 

 

 

 


3年以上営業が続くことの方が少ない中国の店舗・会社❸—信用重視の日本とはかなり違う商道

2019-03-18 09:28:46 | 滞在記

 日本の江戸時代、日本三大商人といえば「大阪商人・伊勢商人・近江商人」。当時、これらの商人グループの仲間(ギルド的商人組合)に加入していれば、全国どこでもその商い人は信用されたと言われている。2017年の8月に、滋賀県日野町にある「日野商人資料館」に行った。日野商人は近江商人の一つの地域グループであった。資料館の建物は当時の日野商人の商家。日本では、安土桃山時代期から経済成長(GDP)が高まり、とりわけ江戸中期からは富裕商人階級であるブルジョワジー層が形成されはじめ、江戸文化がさまざまな形で花咲いた。

 資料館のパンフレットには、当時の商人・商家のことが記されていた。「仁・義・礼・智の心が信用を産む」「日野商人の家訓—小恵み十ケ条—〇社会奉仕の実践を〇小口のお得意ほど大切に〇一攫千金をねらうな〇偽装をするな〇薄利多売の商いを〇‥‥」「三方よし—売り手よし、買い手よし、三方よし」  日本では長年、このような「商道」が定着していた国だった。そして現在まで、「信用第一」の伝統は生きているが、ここ10年間あまり「偽装」等を大企業や店舗などでも社会問題となることも増えてきている。2004年頃から始まった小泉内閣による諸政策(非正規雇用の拡大政策など)により、日本のモノづくり・信用第一社会伝統はかなり破壊されてきているように思う。

 一方の中国だが、高度経済成長の頂点に達した2010年ころまでは、「安かろう悪かろう」の商品が多く作られて世界の工場とも言われてきた。しかし、2010年以降は「量より質」が求められもする時代にと変化が始まった。2012年ころから中国の雑誌などでも「日本の匠(たくみ)・技術の心」などが特集として組まれ売られるようになった。日本の伝統技術だけでなく中小工場での技術の質の高さなども取り上げられていた。

 中国の経営者たちも2010年を境として、「このままの、お金お金、お金がもうかるかどうかだけが経営の1・2・3だ」という考え方に虚しさを感じる人が少なからず出てきたようだ。2012年頃から中国の書店では、京セラ会長の稲盛和夫さんの書籍が平積みでおかれるようになり始め、その後も中国全土で稲盛さんの書籍がベストセラーとなっていった。中国国内での稲盛さんの講演会には多くの人が参加し会場は超満員となったと伝わる。近江商人の教えにあるような商道(人としての道)を説く稲盛さんの話を聞き、まずは「二方よし(経営者よし、従業員よし)」を実践し始めた人もあるとテレビで放映・紹介もされていた。

 ❶—中国の歴史と企業文化―

 4000年の歴史をもつ中国は、各王朝の皇帝が統一国家を成立させ、一元的に権力構造のもと全国支配を行い、そして反乱による国家の分裂、そして統一を延々と繰り返してきた巨大国家だ。現在は中国共産党の一元支配下にある。この歴史の中で、いわゆるブルジョワジー階層がなかなか育たなかった歴史でもあった。国家や高級役人によるブルジョワ(金持ち商人)層に対する徹底的な収奪の歴史でもあったからだ。いわれなき罪をなすり付けられ、全財産を没収されるということは日常茶飯事だった。そして役人たちは私服を肥やした。

 だから中国の商人たちは、いかに短期間に儲けるかに全精力をかたむける商道風潮文化が続いたのではないかとも思われる。長期的な信用獲得などは二の次三の次となる。この構図は、現代中国でも基本的な変化は変わらないが、2010年ころから高まった民衆からの汚職構造への不満、中国共産党への不満を抑えるために、「政敵を葬り、かつ、民衆からの支持を得る」ために「腐敗撲滅」闘争を始めたのは2012年に発足した習近平政権だった。だが、このような習政権の政策の中でも、中国の国有企業では支払いを引き延ばすほど優秀な経理担当者だとされる。国有企業の方が民間企業より地位が上だから約束を守る必要はないし、「信用を失う」という概念も希薄だと言われている。

 中国以上に儒教の「権力の上下関係」思想の部分の影響を濃厚に受け継いでいるといわれる朝鮮半島。中国でも韓国でも、相手の地位が自分より上なのか下なのかということに異常にこだわる。権力が上のものが何をやっても「しかたがない(没法子・メイファーズ)」の世界でもある。法律よりも権力関係に重きが置かれるので、いわゆる日本や欧米を中心とする「西洋的契約概念」がとても弱いようだ。

 ❷―中国は「関係(グアンシー)」の社会といわれる―

 グアンシーは幇(ほう)を結んだ相手との密接な人間関係のことで、これが中国人の生き方を強く規定している。「グワンシー」は人間関係を「自己人(ズーシーレン)と「外人(ワイレン)」に2分することだ。自己人とは、信用できる相手としての家族や血縁、情誼(じょうぎ)を結んだ親密な友人たちのことだ。それに対して外人は文字通り「自己人外の人」であり、信用できることもあるが概ね裏切られることを前提とした人たちのことだ。中国人は外人に対しては、どのような場面でも冷淡な対応をする場合が多い。これは飲食店に限らずどんな商店でも客に対しては同じような対応をする。「お客様は神様です」の日本の商業道とはまったく逆的な対応である。客は単なる儲けの対象にすぎない。

 中国人の行動文法では、裏切ることで得をする機会を得た時に、それを躊躇なく実行することを道徳的な悪と考えることは希薄だ。中国では大学を卒業して就職をした場合、2年以内の転職率は50%をはるかに超える。よりよい条件や給料の職場があれば転職するのはあたりまえの世界でもある。大学の学生たちに「会社を選択する場合の第一に重要なこと」について聞いたことがあるが、給料を第一とする学生が最も多かった。

◆❶と❷に関しては、外人としての6年間の中国生活でいやというほど味わった。生活の中での買い物、バスに乗る、そして大学での仕事における人間関係において。例えば、バスでは運転手は小さな権力者なので、横柄な態度をとる。城官とよばれる地域・地区の警察の下請け組織の人達も横柄な態度をする小さな権力者。中国では、その場その場で、権力的に相手が上か下かを瞬時判断して行動する習慣が浸透した社会でもあるように思う。「幇」を重要視するグアンシー社会は、権力や政府や王朝というものを信用せず、仲間内で助け合い生き延びてきた中国の人々の生き方であると思う。日本と比較してよし悪しの問題では決してない。

◆以上の❶❷ようなことを考え合わせると、中国における会社や店舗が「3年以上続く方が少ない」という理由のようなものがうすうす分かりかけてくる。

 

 

 


3年以上営業が続くことの方が少ない中国の店舗・会社❷—世界で200年以上続く会社・店舗は

2019-03-17 22:34:39 | 滞在記

 今、私が住む団地の入り口付近には、11軒の食堂(店舗)が並ぶ。ここ2年間で、11軒中10軒の店が廃業した。そのうちの1軒は「カツ丼」や「寿司」などの日本食を出す店だったので、時々、そこに行って食べることもあった。そしてその10軒の店舗は改装されて新しい経営者による食堂(店舗)に入れ替わった。

 新しくできた店は、いずれも以前の店よりも 現代的で清潔な感じはする。中国社会の急速な変化の中で、「薄暗く汚いイメージ」のある食堂やレストランは客から敬遠される傾向があるようにも思う。

 このあたりの食堂は、付近に住む団地住民の人ばかりではなく、福建師範大学など学校も多いので、若い人の利用もけっこう多い。

 私が暮らすアパートの1km圏内の店舗をこの3年間近く眺めてきているが、半数をはるかに超えるさまざまな店舗が廃業し、新しい店舗に様変わりしている。それにしても、店の営業が3年以上続く店舗が少ない中国社会には驚かされる。店(店舗)が客を大切にするようなコミュニケーション、商品や品質、料理の味に対する客の信用をつかむというような、つまり店を大事にする・客を大事にするというような考えがこの社会にはあまり感じられない、これが6年間の私の中国生活での実感だ。(※もちろん割合的には少ないが、そのような店ばかりではないのだが‥)

 大学で担当している「日本文化論」の講義の中でも、「日本の信用文化・匠(たくみ)技術文化」として取り扱うのに2017年に発表された次のような資料がある。「世界で200年以上続く会社や店舗」に関する報告書である。それによれば、世界には約5500の「200年以上続く店舗や会社」があり、その53%の3000余りが日本にあるという。世界各国内訳は次の通りである。

 1位日本53%、2位ドイツ19%、3位4位 オーストリア4% スイス4%、5位6位フランス3% イタリア3%、7位8位 アメリカ1%  中国1%。アメリカの歴史は浅いので1%という数字は納得できるが、4000年以上もの歴史が長い中国が1%というのは意外だ。中国で200年以上続く会社や店舗は4つある。1660年創業の漢方薬店舗の「同仁堂」。清の時代の創業で、北京の故宮(紫禁城)内にも店舗があるが、現在では、中国全土に連鎖店(チェーン店)が展開されている。あと3つのうち2つも漢方薬店舗(製造と販売)で、1つは「青龍刀」を製造販売する店舗である。

 

 


3年以上営業が続くことの方が少ない中国の店舗・会社❶—街の店舗の早すぎる推移を目にして

2019-03-16 12:48:46 | 滞在記

 近年の中国では1年間の間に起業する会社(公司)が年間1000万を超えると言われているが、起業後3年間以上営業が続くものは少なく、そのほとんどが倒産・廃業、「会社・店舗の屍の山が累々の社会」とも言われている。中国人は日本人のように慎重に行動を起こさない。日本人の場合は、会社を興す場合でも店舗を構える場合でも、それなりの調査や計画をたてて起業する。しかし、中国人の場合は、「思い立ったが吉日、失敗をおそれずに、とにかくやってみよう」精神で、起業にいたるスピードはとても早い。このため倒産や廃業も早い。「屍」をこえて、すぐに そこに新しいもの続く社会でもある。

 私が中国に住んで6年余りになる。住まいは今のところが3箇所目のアパートとなる。3箇所ともにその周辺の店舗や会社の移り変わりの早さには驚かされることの連続だった。3年ほど前から住んでいる今のアパートは、約3万人あまりが暮らす「蘭天新天地」という名前の団地にある。この団地には100軒あまりの店舗があるが、その移り変わりも激しい。

 団地入口の大通りの交差点から、ゆるいゆるい坂道を歩きアパートに向かう。右手に見える塀には、さまざまなスローガンや標語が貼られている。団地入口のこのあたりは毎日、農民工(出稼ぎ)の人たちが昼休み時間や夕方に集まって少額の賭けトランプを楽しむ場所だ。路上で野菜や果物などを売る人たちもいる。「国学文化」のことを説明している壁絵が10枚ほど壁塀に貼られていもいる。左側は10軒ほどの「食堂」が並ぶ。

 トラックや小型三輪自動車で果物を売る人も数台が毎日来る。おばあさんと小学4年生くらいの男の子(孫)が手を繋いで歩いている。木の下では、50〜60代のおじいちゃんが1才に満たない孫を抱いてたたずんでいる。保育園がない中国では、祖父母が子育ての主力となるため、日本とくらべものにならないくらい祖父母と孫の絆は強い。日本の1950・60年代を描いた映画「ALWAYS」でもよく出てきたダイハツミゼット型の三輪バイク自動車は、中国では今も多く運転されている。

 中国南部にある福建省あたりは、年間を通じて果物が豊富で、しかも安い。アパートのある棟に向かう人の通りの多い四つ角の場所にはそれぞれの角、15m以内に果物店が4軒もある。それぞれの店の名前は「豪果縁」「河馬水果」「百果園」「鮮豊水果」。果物店舗のある角に果物を売る夫婦が毎日 露店を出す。中国語で「水果」は果物(くだもの)」のこと。

 このあたりには1年前ほどまでには2軒の果物店があったが、それぞれ廃業して、新しく果実店が出来始めた。需要から考えて2軒までが営業が成り立つ限界だろうと思うが、さらに店舗が増えて4軒目が1カ月前に営業を始めた。あと数か月くらいしたらどこかの店舗が店をたたむだろう。日本人なら、すでに2軒の果物店がある場所に3軒目や4軒目の店舗を営業は考えないだろうが、中国人の発想はちょっと違うようだ。

 ちょっとした大きさのスーパーがあるので、生活には便利な場所だ。高層のアパートが立ち並ぶ。どの部屋にも鉄格子がある。団地の隣には中国・清時代1907年創立の福建師範大学の倉山校区(キャンパス)が広がっている。

 ダイハツミゼット型の赤い三輪バイク自動車が 懐かしく可愛らしい。

◆中国の土地はすべて国有—1949年の中華人民共和国の成立以降、広大な中国国内の土地はすべて国有地である。したがって、住宅も会社も店舗もすべて、「土地借地権」制度となる。アパートや住宅などの「借地権」は70年、私立の幼稚園や学校など公的な施設は60年、会社や店舗は50年が借地権の期間となる。(※どちらが60年と50年なのかだったかは、ちょっと自信がない) 人々が店舗を他の人に売る場合、その「店舗建物」とともに「借地権」を売ることとなる。このことが、店舗や会社、そして住宅の転売がとても多い一つの要因ともなっている。また、中国では行政により頻繁に起こされる「有無を言わせない強制立ち退き」はこのような土地制度の下にあることにもよるかと思う。