彦四郎の中国生活

中国滞在記

コロナ禍下、ぼちぼちだが、友人たちと集まったり、一杯飲みを―石不思議大発見展(京都)、開催さる

2020-10-24 06:49:38 | 滞在記

 世界的にも長引くコロナ禍。ヨーロッパでは再びの第二次感染拡大が爆発的に起きているようで、アメリカ、南米、インドなどでの感染拡大はいまだ猛威をふるい、世界の感染者数も4000万人を超えた。中国ではこの10月に入り山東省の青島市で感染クラスターが発生し、市民1100万人全員のPCR検査がなんと1週間の短期間で行われた。

 来年7月からの開催を目指している東京オリンピックの実施がより厳しくなってきているようだ。「人類がコロナを克服する大会」として実施されれば喜びなのだが‥。IOC(国際オリンピック委員会)では、東京2032年開催の案も出始めているとの報道も。今後のコロナに対するより有効なワクチンの開発と人類の多くへの接種が期待される。

 2022年の2月に予定されている「冬季北京オリンピック」の開催予定日まであと470日あまりになってきている。北京市内と隣接する河北省の張家口市が会場となる。張家口は万里の長城(八達嶺)があるところだ。来年の東京オリンピックが中止されて、冬季北京オリンピックが予定通り実施となった場合、「人類コロナ克服の象徴的なオリンピック」が、皮肉にも感染拡大が始まった中国で開催されるはこびになるかもしれない。これにより中国共産党習近平指導部の国民からの求心力がさらに強まるかと思う。

 ただ、世界の160余りの人権団体からIOCに「中国でのオリンピック開催の再考」が要請されてもいるし、イギリスは香港・ウイグルでの人権問題を念頭に、外相が「オリンピック参加をボイコットする可能性も」と発表している。

 日本のコロナ禍もまだまだ感染が続く。昨日10月23日の朝日新聞報道では、国内の感染者総数は9万5364人となっていた。22日一日の国内感染確認者数が617人なので、11月上旬には10万人の感染者数を超えるだろう。

 コロナ禍が日本でも広がり始めた2月からすでに8カ月間が経った。この間、親しい知人や友人たちと気軽に会うことはとてもとても少なくなった「WITH コロナ」の社会。そんな社会の閉塞感の中だが、ぼちぼちではあるが友人たちと会ったり、一杯飲みをしたりも最近になり ほんの少しずつだが実現できたりもしているこの頃だ。

 閩江大学の卒業生で、この4月から大阪大学大学院で学び始めた任天楽君と、9月29日に京都祇園の老舗居酒屋「山口大亭」で久しぶりに会って乾杯をした。任君の大学院での専攻は「言語文化研究科」。京都の生け花の流派である「池ノ坊」の生け花教室に参加してもいるようで、自分が生けたものをスマホ写真で何作か見せてくれた。彼の故郷は北京に近い山西省。

 私の友人の一人に理科教育のエキスパートの野村治さんがいる。理科教育の著作や教材の開発などもとても多い人だ。小学校教員を退職後、京都大学で学びながら、さまざまな活動をしてきている。その一つが、京都府京田辺市の山間地「天王」で1年ほど前から始めた「ポレポレランド」の活動。農地を地元の人から借り受けて、野菜づくりや自然体験、種々のイベントなどを、このコロナ渦の中、毎月行っている。会員は小さな子供たちから大人も含めて200人くらいいるらしい。

 10月8日の午後、台風通過により、あいにくの雨が続くこの日、ポレポレランドの「近況を語ろう会」が地元の人の家屋を借りて行われた。午前中の大学のオンライン授業を終えて、私もポレポレランドの集まりに初めて参加したが、懐かしい人たちに会うことができた。

 コロナ禍下でなかなか会って一杯飲みができていなかった友人の鈴木達夫さんや小林義元さんと、10月18日(日)にほんと久しぶりに京都伏見の大手筋商店街の居酒屋「満ん○」で再会した。午後4時半頃から午後8時半すぎまでの4時間、いろいろな話をしながらの一杯飲みだった。

 毎年10月に開催され続けてきた「京都ミネラルショー 石不思議大発見展」がこの10月10日(土)~12日(月)の3日間、京都岡崎の京都市勧業館・みやこめっせを会場に開催された。(益富地学会館主催)  第32回目の開催となる。私は11日(日)にここに行った。会場入り口で体温検査を受け、首に架ける健康的参加許可証明となるものをもらい、住所氏名連絡先を記帳して、会場に入る。今年、会場で開店しているブース(店舗)の間隔や密をさけるための工夫が行われ、会場も1階と3階の2会場と広くとられた。参加ブースは約200店舗。

 店舗の90%以上は、宝石となる石の展示即売。さまざまな石や加工された宝飾石がところ狭しと並ぶ。来場している人たちは若い女性客がとても多いのがこの展示会の特徴だ。この日、たくさんの人が来場していた。鉱物・化石・地学などの学術的な展示コーナーや講演もある。

 鉱物の中で私がもっとも興味関心があるのは日本産の翡翠(ひすい)。翡翠は最近、「日本の国石」になった。もちろん化石の店舗にも顔を出す。「KASEKIYA」という店で売られていた翼竜のフィギヤがとても素晴らしいできだったので買うことになった。

 京都市内の三条河原町に店舗のある「クリスタル・ワールド」のブースをのぞくと、映画ジェラシックパークⅢに登場した恐竜「スピノサウルス」の大きなカギ爪と関節が展示されていた。大きな歯も展示されている。なかなかすごい。ブースの担当者に「この化石はどこで発掘されたものですか」と聞くと、「モロッコです」とのこと。

 2〜3時間ほど会場をまわっていたが、コロナ禍下、感染クラスターを予防しながら、例年とほぼ同じ規模、ほぼ同じ企画内容での開催に頭がさがる。

 11日のこの日、京都勧業館のある岡崎公園の平安神宮一帯で、これも恒例の「京都学生祭典」が開催されていた。こちらは、例年の開催内容とは異なり、「オンライン発信」をメインとしたものとなった。午前11時〜午後8時まで、ここ平安神宮会場を中心に、民舞などが演舞され全国実況発信されていた。学生祭典は今年で第18回となる。

 自宅に帰り、買って帰った翼竜のフィギィアと、2002年の夏 モンゴルゴビ砂漠で発掘して、モンゴル科学アカデミーの許可を得て日本に持ち帰った翼竜の卵化石を並べてみた。あと、十字架の形をした真珠は珍しいので、ミネラルショーで1000円ほどで買った。(※十字の核をもとにして養殖された真珠。中国で養殖されたもののようだ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の秋すすむ―八年ぶりに日本の秋の移ろいを眺めながら、日々を過ごしている

2020-10-23 05:50:21 | 滞在記

 中国の大学に赴任してもう8年目に入っているので、日本の秋の移ろいを日々感じることは久しくできていなかった。今年1月、中国から広まった新型コロナウイルスの世界的感染拡大が、10カ月間を経た今日まで終息の兆しが見えない中、日本に滞在し毎週時間割通りに中国の大学生たちに向けてのオンライン授業の継続となっている。このため、今年はおよそ8年ぶりに日本の秋の移ろいを眺めて暮らしている。

 雨ばかりで記録的な降水量の7月、35度以上が連日続いた記録的な猛暑の8月、そして9月10日ころから一転して、例年になく涼しい9月。この9月の涼しさや、10月に入ってからの寒さの早期到来のためか、日本各地の山々の紅葉が例年より1週間あまり早くなっているようだ。

 10月になり、20年ほど前までの涼しい10月に戻ったような日本。9月中旬ころからの曼殊沙華(彼岸花)の赤い花の開花から始まった日本の秋の季節。秋特有の「おぼろ雲」も出始めた9月下旬。秋の花「萩(はぎ)」が満開を迎えていた。京都出町柳の鴨川べりにある萩の寺「常林寺」の萩も、ススキとともに白や赤の花が満開となっていた。

 一昨日の10月21日、この寺の境内を見ると、もうすでに春先に開花する木蓮か木瓜(ぼけ)の花の蕾(つぼみ)ができていた。庭で剪定作業をしていた庭師さんに「あの木の蕾は木蓮ですか木瓜(ぼけ)ですか」と聞くと、「白木蓮(はくもくれん)ですわ」とのこと。「春先の3月上旬に開花する木蓮が冬越しに備え始め、そして4カ月も先の開花にそなえて蕾をもうつけているのか」と感じ入った。「来年の3月、日本は、そして世界はどうなっているのだろうか。そして私は‥‥。おそらく、中国に行って大学の教室で授業をしている可能性が大きいかな‥‥。中国の大学構内で白木蓮を眺めているかな‥‥。」と思いながら木蓮の木を眺めた。

 10月中旬になり、朝・夕の冷え込みが大きくなってきた。秋の快晴となる天気予報の日の早朝には、私が暮らす京都の自宅周辺も、町がすっぽりと朝霧に包まれるようになってきた。木津川・桂川・宇治川の三川合流地にあるので時々、町は朝霧に包まれる。放射冷却現象によるこの朝霧の発生も、11月になってからだったが、40年来この町に住んでいるが、今年はかなり早いようにも思える。久しぶりに兵庫県北部の丹波山地にある「雲海に包まれた竹田城を見に行くたいなあ」と思った。

 10月中旬になり、我が家の富有柿の葉や柿の実も色付き始めている。スズメバチが10匹あまり来て、熟した柿をついばみ食べていた。そして、金木犀(きんもくせい)が花を咲かせ高貴な香りを漂わせていた。本格的な秋の到来を感じた。鉢植えの萩の白い花がたくさん咲いた。近くの農家の人からコスモスをもらい玄関に生ける。

 我が家のある住宅街を散歩すると、「菊」や「フジバカマ」、そして、「花梨(かりん)」や「紫式部」の実が色づいていた。住宅街の家々には金木犀の木々が多く、住宅街に香りが漂う。日本の秋だなあと感じる。亜熱帯地方の中国・福建省の閩江大学の構内にも多く生育している亜熱帯・熱帯系の大きな葉っぱのタロイモを見かけ、かの地を思い出す。

 金木犀の樹木は中国の閩江大学の構内にも7〜8本あり、9月下旬ころに開花し香りを漂わせる。ちなみに中国の金木犀や銀木犀の花は日本のものより小さい。小さな花はアルコール度数が50度と高い「白酒(バイジュー)」の中に入れられ「桂花酒」として飲まれている。(※金木犀や銀木犀は中国語では「桂花」と呼ばれる。「桂花酒」はほのかに金木犀の香りがする。)

 我が家の近くにある一軒の家は、10m以上にわたる生垣全体にアケビ蔓(つる)を見事に這わせている。6月ごろからたくさんの小さなアケビの実ができ始め、10月中旬になると大きくなり紫色や白色に熟し始めている。近くの水田や畑の農地にはコスモスが満開に。

 一カ月ほど前の9月27日、娘や孫たちや妻とともに「栗拾い」に行った。行先は滋賀県高島市マキノ町にあるマキノ高原。福井県の実家への行き来によく通る場所で、有名なメタセコイヤ並み木のそばに観光農園地「マキノ果樹園」がある。芋ほり・栗拾い・ブドウ狩り・ブルーベリー狩り・サクランボ狩り・りんご狩りなどできる。

 秋のごちそう・栗ご飯をつくるためにたくさんの大栗を拾った。栗は私の家のお隣さんにもおすそわけ。

 この日は天気が不安定で、黒い雲が断続的に上空を行き来し、突然の小雨に降られたりもした。大きな木の下でビニールシートを広げてのおにぎりお弁当。突然の雨に、大きな木の下で雨宿りをする人たちの姿も。9月下旬の日本での秋の一日だった。

◆亜熱帯や熱帯の地方以上に、温帯気候が国土の多くを占める日本の植物の植生はとても種類が多く豊かだ。それに比べて亜熱帯や熱帯地方は常緑樹がほとんどを占め、季節的にも植生的にも単調だ。亜寒帯のロシアや日本の北海道なども植生的には温帯に比べて単調だが、秋にその多くを占める針葉樹林が紅葉し、単調ゆえの紅葉の美しさがある。

 

 

 

 


40歳までのことが謎とされる明智光秀が、初めて文献に記されていた「湖北の田中城での籠城」の地に行く

2020-10-19 13:11:57 | 滞在記

 10月4日、敦賀「金ケ崎城」を訪れて京都に向かう。敦賀の疋田というところで、道は大きく2つに分岐する。左を行けば昔の北陸道(国道8号線)などを通り滋賀県の湖北「木ノ本」「塩津」などあたりに至る。右に行けば161号線、昔の山中峠越えの道で湖北の「海津」に至る。いずれも奈良時代頃からの街道だ。ここ疋田は古代の時代は「愛発(あらち)」と呼ばれ、古代の三大関所(不破の関[関ヶ原]、鈴鹿の関、愛発の関)の一つだった関所があったとされている交通の要衝。そしていくたびの落城悲話が残る「疋田城」の城址がある。

 湖北の海津からここ疋田までの峠道は「七里半道」とかっては呼ばれてもいた30kmあまりの峠の道。その山中峠の近くに「愛発 山中区」の看板が。1207年に越後に流罪となった親鸞がこの地に泊まり越後に護送されていったことを記す石碑がたてられている。「江戸時代には宿駅となり、番所や高札場が設置されていた。享保12年(1727年)には、46戸で200人近い人が住み、問屋も10軒ほどある宿駅であった。」と書かれていた。

 谷川が流れ、かっての家屋や屋敷の跡を物語る石垣が苔むしていた。一軒だけ廃屋が残っている。この地区を奥まで歩いて行くと、野原となっている平地もけっこう広く、50戸数の家屋がかってあったことが納得できた。

 谷川沿いに歩くとアケビが実をつけていた。

 琵琶湖の湖北、滋賀県安曇川町の山々の山麓地に「田中城」という古城がある。近くを京都と滋賀にまたがる丹波山地を水源とする安曇川が流れ、琵琶湖に注ぎ込む。この地は今は高島市という行政区になっている広大な穀倉地帯。ここにはかって高嶋七党と呼ばれる豪族たちが戦国時代にそれぞれの居城・居館を構えていた。最近できたのか、真新しく大きな田中城の説明看板がたてられていた。

 1500年代の半ばになると、この地に勢力を伸ばし始めた湖北の戦国大名・浅井氏への帰属を巡って七家は二分されることとなる。この七家の一つが田中氏だった。田中氏一族は浅井氏への帰属ではなく、朽木に逃れた5年間余り朽木氏に支えられていた13代将軍足利義輝などとのつながりが深かったようで、足利将軍家への支持を旨としていたので浅井氏の勢力とは対立していたらしいことが最近、ある文献が発見され分かってきた。

 平成26年(2014年)、熊本県で『米田家文書』の紙背文書には、「―右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也‥‥」(右の一部は、明智十兵衛尉[光秀]が高嶋郡の田中城へ籠城していた折りに教えてもらった‥‥)。この記録は『針薬方(しんやくほう)』、つまり医学に関する内容の奥義書で、米田貞能が書いたもの。「永禄九年十月二十日(1566年10月20日)の日付が記されていた。明智十兵衛がここ田中城にて、浅井勢又は三好勢の包囲に対して共に籠城していた、その最中、越前朝倉氏領国の薬とされるセイソ散などを紹介されたことが記されていた。

 ちなみに「紙背文書」とは、紙が貴重だった昔は、手紙などが書かれた紙の裏面にまたぜんぜん違う文書を書いたりして、紙を再利用していた文書のこと。そんな再利用紙を使って書かれた文書を後世の歴史研究なんかでふとひっくり返してみると、思わぬ記録が見つかることがある。これが「紙背文書」といわれるもの。

 永禄九年(1566年)といえば、明智光秀の年齢は39歳のすでに壮年、もしくは老年にさしかかり始めた年齢。美濃の明智城落城の地から越前国に逃れて10年がたとうとしていた時期だ。すでに足利義輝は前年の1565年に京都で三好一族や松永久秀らの軍勢によって殺されていたが、義輝の弟の足利義昭や将軍家の直臣・細川藤孝らと光秀はなんらかのつながりを持ち始め、ここ田中城に籠城していたと考えられる。ここは越前とも近く、越前の丸岡に妻子や郎党を残しながら、この地に来ていた可能性は高い。謎に包まれていた光秀が初めて文書に記された記録文書の発見だった。その田中城址を初めて訪れた。

 そして、こののち、越前朝倉氏に仕官することがようやくかない、越前一乗谷にほど近い東大味という集落に屋敷を与えられ暮らすことになったのであろうか。

 織田信長が10万の軍勢を動員して1570年に第一次越前国朝倉氏への侵攻の際に、京都から大津、そして琵琶湖に面した湖西道を通過、近江今津からここ田中城に至り一泊している。その後、九里半道とも呼ばれた安曇川沿いの道を通過し若狭の熊川や佐柿国吉城を経て敦賀の金ケ崎・天筒城を落城させ、「金ケ崎の退き口」の危機に陥った。

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」や「米田家文書」の発見により注目されるようになった「田中城」。NHKBSプレミアムで毎週放映されている「英雄たちの選択」の磯田道史氏は、フジテレビの「所ジャパン」という1時間番組に出演。「明智光秀はなぜ信長を裏切った?最新古文書から本能寺の変(秘)新事実」(2020年4月13日放映)で、磯田氏は「古文書には光秀が薬の作り方などを教えたと記されていた。光秀が籠城した田中城はしょぼい城だと思っていたら上がってみたら凄い城だった。各所に防衛のための仕掛けがある。敵が登ってこれないように人工的に急斜面をつくる切岸や、土を盛った人工の壁の土塁、敵を見張ったり狼煙を上げる場所や巨大な堀切など、私は城址を巡って興奮した」と言っていた。

 その田中城に向かう。地元の人たちが最近設置したかと思われる城址案内の標識や、城の縄張り図を印刷したものなどが途中置かれていた。田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、中世の山城で天守台があったと推定される曲輪(本丸曲輪)の標高は220m。今、城の大手道の入り口付近の住宅がある麓からの比高は60mほど。城域の縄張り図を見ると、かなり大きな山城であることがわかる。大手道わきに彼岸花が満開となっていた。地蔵が道端に何体か置かれていた。すぐにけっこう広い曲輪が何段にもわたってつくられているのが目に入ってくる。城道を登る。

 うっすらと汗が出始めるころ、見張所跡の看板が。その周囲にも曲輪群が広がる。大きな曲輪がいつくも続き、周りを土塁が囲む。

 曲輪と曲輪を防御のために遮断する堀切が見える。「松蓋寺」跡への矢印看板が。石段を登って行くと大きなお堂があった。田中城が中世期に築かれる以前、この地は古代の山岳寺院・松蓋寺が建てられていた。そして、廃寺になった所に田中氏が城郭を構えたものと考えられている。

 城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなどの防御施設の遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことが歩いていてわかってくる。本丸曲輪に向かう。本丸曲輪からは、高島郡が一望に見渡せた。田中城は比高わずか60mながら、眼下に西近江街道(湖西道)から湖北の琵琶湖方面を見下ろし、西は朽木街道(別名・鯖街道)も扼す絶好の立地にあることがわかる。

 本丸曲輪の背後の場所方面に行く。傾斜70度あまりの急峻な切岸が続く。そしてこの城で最も大きな堀切があった。そこには土で作られた「土橋」もあった。堀切から主郭方面を見上げると急峻な切岸が迫っていた。

 田中城の山を下って麓に下りた。10月に入っていたため、心配していたダニにはやられずにすんだようだ。

 この田中城は、その後、浅井氏や朝倉氏によって落城しその支配下におかれたが、1573年には信長軍によって落城、志賀郡一帯の支配を認められた明智光秀の勢力下に入った。その後、高島郡の要衝地に大溝城と城下が新しくつくられ、この田中城は終焉を迎えた。

◆ここ高嶋郡(高嶋市)には打下城という大きな山城や丘陵台地に広がる清水山城、琵琶湖の湖水を取り込んだ大溝城などがある。大溝城は京極高次と妻のお江が暮らした城でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 


敦賀「金ケ崎城」―史上2度にわたりその舞台となった城址―光秀も殿軍として信長最大の危機にあたる

2020-10-17 08:08:22 | 滞在記

 福井県敦賀市の敦賀湾に面した「金ケ崎城」。ここから故郷の実家まで約30分間。京都から実家の往復時に今まで数限りなくこの城址の麓を行き来してきたが、いつでも行けるという思いからか、行くことを残したい気持ちからか、今までこの城址には行ったことがなかった。この10月4日、実家への帰省から京都に戻る途中、ついにこの城址に行ってみることとなった。

 金ケ崎城が日本の歴史上特によく知られるのは、南北朝期と戦国期の二度である。一度目が、延元元年(1336年)にあった「金ケ崎の戦い」。後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞や足利尊氏たちによる軍事行動により鎌倉幕府が滅亡する。(1333年)。その後、後醍醐天皇による「建武の新政」が行われるが、この新政は2年ほどで崩壊する。足利尊氏を中心とした勢力が京都を占拠、後醍醐天皇は比叡山に逃れ、その後 吉野に落ち延び南朝を設立、ここに半世紀あまりの「南北朝時代」が始まった。そして1336年、足利尊氏は室町幕府を開く(※室町幕府の成立は尊氏が征夷大将軍に任じられた1338年との2説あり)。(北朝)

 天皇(南朝)方を支持する新田義貞たちは、天皇の子である2人の親王を擁して北陸方面へ向かう。そして、敦賀の金ケ崎城に1336年の10月から数千の軍勢で籠城、6万とも云われる足利軍と対峙、厳寒の冬を越しての翌年1337年の3月までの半年間の籠城戦となる。しかし、兵糧尽きて餓えに苦しみ、ついに落城した。この時、義貞の子・新田義顕(18歳)や尊良親王(27歳)や城兵たち300余人は城に火を放ち自害した。もう一人の恒良親王(当時13歳)は、敦賀気比宮の宮司の子息らの手引きで天皇継承の証の神器を携え小舟で敦賀湾岸の蕪木崎までのがれ洞窟に潜むが、足利軍によって捕らえられ京都に護送、幽閉され1338年に毒殺された。

 義貞は籠城戦末期の頃、包囲された城を抜け出し、木の芽峠を越えて南朝方のもう一つの拠点となっていた瓜生氏の居城・杣山城(現南越前町)に入り、5千の援軍とともに落城迫る金ケ崎城に向かうが、城に近いところでの足利軍との戦いに敗れ、杣山城へと退却していった。その後の1338年に義貞たちは金ケ崎城の奪還に成功し、越前国での緒戦に勝利しはじめるが、この年、敵との不慮の遭遇戦の中で義貞は討ち死にする。彼の死により北陸方面での南朝方勢力は衰退していった。明智光秀が美濃国から逃れ10年間あまり暮らしたとされる越前丸岡の「称念寺」門前。ここの寺に近くの藤島で死んだ義貞の墓がある。

   明治23年に建立され、尊良・恒良親王を祀る「金崎宮」や「金ケ崎城址」のある山を見上げる。金ケ崎城の背後のより高い峰続きの山に「天筒山城址」がある。天筒山城はこの金ケ崎城を足利軍が攻略するために陣城を築いたところだ。その後、世は移り、戦国時代となる。越前を支配した朝倉氏により1500年代半ばにこの天筒山一帯に金ケ崎城の付城として天筒山城が築城され、二つの城が一体となってより防御力が増した城郭群となった。ちなみに三方を海に囲まれた金ケ崎城の最高所・月見御殿跡(本丸曲輪)は海抜86m、天筒山城の本丸曲輪のあった場所は海抜171mと90m余り高い。 

 二度目は、有名な「金ケ崎の退き口」である。元亀元年(1570年)4月、越前国の朝倉義景攻撃のため織田信長は10万ほどの大軍勢をもってこの金ケ崎・天筒山両城を攻撃。まずは天筒山の南東方面から城攻めを行い、朝倉一族の朝倉義紀の4000余りが籠る中、猛攻を加え天筒山を攻略する。次いで金ケ崎城落城に迫る。義紀の軍勢は早急な援軍かなわずとみて、朝倉氏の本拠地に向け城を落ち延びていった。

 金ケ崎城を落城させ、そして木の芽峠の隘路を越えて大軍が越前国に討ち入ろうとしたその時、信長の妹・お市の方が嫁いでいて信長と同盟関係にあり、かつ、朝倉氏とも長年の同盟関係にあった東・北近江の戦国大名・浅井長政が軍事行動を起こし、織田軍の背後から信長軍に襲い掛かろうとしてきた。敦賀の地で朝倉軍と浅井軍に挟まれて挟撃される形勢となった織田軍は窮地に陥り、いち早くその全軍壊滅的危機を察した信長は、なりふり構わずに全軍の逃走撤退態勢をとる。

 この時、織田軍の殿(しんがり)軍として、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の軍勢が殿軍の中核となり、落城させた金ケ崎城に立て籠もり残る。城域に織田軍の幟旗を林立させ、織田軍が城に籠っていると見せかけながら、金ケ崎城を徐々に退いていった。追撃する朝倉軍と迫りくる浅井軍。この撤退戦で、徳川家康軍や明智光秀軍、荒木村重軍なども殿軍として活躍している。織田信長最大の危機とされる「金ケ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦である。信長の大軍は、敦賀の西方にある若狭の佐柿国吉城を経て、敵対する可能性もあった朽木氏を味方につけ鯖街道(朽木街道)をぬけて京都に撤退していった。

 金ケ崎城はほぼ三方向が海に囲まれている城だった。付城の天筒山城も西と北はほぼ海に囲まれていた。東側は広大な湿地帯。織田軍は南東や南方の方向から大軍を投入し攻略したのだった。かなりの難攻不落的な城郭群だったことが古図や航空写真を見るとよくわかる。現在は城の周囲の海の多くは埋め立てられて、敦賀港や敦賀セメント工場北陸電力発電所などの敷地となっている。

 金ケ崎宮及び金ケ崎城に向かう。城域への登り口付近には、御影石づくのの巨大な説明石が立てられていて、金ケ崎城の由来や金ケ崎退き口の戦いなどのことが書かれていた。この城が歴史上の舞台となった2度の戦役で、この地で戦った新田義貞・足利尊氏・織田信長・徳川家康・豊臣秀吉・明智光秀・浅井長政らの家紋なども記されていた。「信長・家康・秀吉・光秀」の四役そろい踏みの地となった。

 『奥の細道』の旅の途中にここ敦賀に立ち寄った松尾芭蕉は多くの句をここで残している。ここ金ケ崎にて、「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んだ。南北朝時代の戦いで、戦いに敗れた新田軍の陣鐘が海に沈み、後に海士に潜らせ探させたが、鐘の竜頭が海底の泥に埋まって引き上げることができなかった。芭蕉は宿の主人からこの話を聞き、金ケ崎城の本丸曲輪である月見御殿での武将たちの月見の光景を想いながら詠んだ一句である。

 歴史上の舞台となったこの城は国の史跡ともなっている。

 金ケ崎城の大手道の石段を登る。「金ケ崎の退き口」「麒麟がくる」などの幟旗が立つ。金ケ崎宮の鳥居や社殿が見えてきた。この金ケ崎宮の創立は明治に入ってからだ。日清・日露戦争がおきた時代、皇国史観が広がってきた影響もあり、敦賀の人たちの熱烈なる請願によって明治26年(1893年)に金崎宮は2親王を祭神として建立された。そして、満州国の設立、日中戦争へと至る過程の昭和9年(1934年)には金ケ崎城・金ケ崎宮は国史跡となる。

 境内には「恋みくじ」なる大きな看板があった。昨今は「恋の神社」ともなっているようだ。その由来は、後醍醐天皇の第一皇子とされる尊良親王が金ケ崎城に在陣中、この地の娘と恋仲になったことによるものらしい。若いカップルの恋愛成就のための参拝の姿があった。

 「金ケ崎の退き口」や織田信長と敦賀についての大きな説明看板。これを見ると、信長は敦賀に3度来ていることがわかる。一度目は1570年の越前侵攻と金ケ崎の退き口の年、二度目は1573年8月の第二次越前朝倉侵攻。この侵攻により朝倉氏は滅亡する。三度目は1575年の越前一向一揆との戦いの際だ。木の芽峠を最前線として城塞群を築いた一向宗勢力を攻略し越前に侵攻、大掃討戦を行い数万のジェノサイド(大量殺戮)を行った。

 「越前五名城御朱印巡り」のポスター。一乗谷城・丸岡城・金ケ崎城・佐柿国吉城・越前大野城の5つ。1000を超える城巡りをした経験から城をみるに、私なりの越前五名城は、丸岡城・越前大野城・佐柿国吉城・玄蕃尾城(敦賀、滋賀県との県境尾根の山中)・疋田城(敦賀)となる。あと、金ケ崎城・小浜城・杣山城(南越前町)・一乗谷城・後瀬山城(小浜)を加えて越前十名城となる。なかでも、戦国期の雰囲気が濃厚なかっての国宝・丸岡城天守、土の城としての遺構が山中に戦国期そのままの形でほぼ完全に残っていて、400年以上の時を経て1980年代にその存在が確認され、現在は国史跡となっている玄蕃尾城の二つは秀逸だ。

 金ケ崎宮の境内に「絹掛神社」という社(やしろ)があった。社の由来には、「1897年建立。尊良親王に殉じて、新田義顕以下132名の武士が自刃した。その132名が祭神として祀られる。籠城5カ月、糧食全く尽き果てての壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」と記されていた。

 城の中枢部に向かう坂道、かなり急な絶壁沿いの城道が続く。途中、「尊良親王自刃の地」と記された石碑のある場所があった。大きな窪地が石碑の周辺に広がる。ここで132名の人たちが一堂に会して自刃したのだろうか。さらに登ると「激戦の地・戦没者の石碑」が見えてきた。一の曲輪(本丸曲輪)に着く。

 本丸曲輪内に「月見御殿跡地」の看板や石碑が。ここから敦賀湾や敦賀半島、越前海岸が一望に臨める。わたしの故郷の家がある漁村あたりも遠望できる。眼下は86mの高さがある絶壁。下に小さな岩礁の岩があり、岩の上に松が見える。「絹掛の松」と呼ばれる松の木が今も葉を繁らせ生きている。恒良親王が小舟で城を落ち延びる時、絹の着物は目立つのでこの松に衣装を掛け捨てたとの伝承のある松の木。落ち延びた先の蕪木の洞窟付近の海岸もここから見える。

 本丸曲輪から少し下ると「三の城戸」跡地、さらに下ると「二の城戸」跡地。曲輪と曲輪の間には防御のための「堀切」が見える。そしてこの付近は、水が湧き出る処があったとされる水場跡や米などの糧道の倉庫などもあったとされている。

 そして更に下ると「一の城戸」跡地があった。この付近にこの城最大の見どころでもある大きなU字形の「堀切」があった。天筒山方面からの尾根伝いに攻め寄せる敵を防御するための場所である。ここで相当の激戦が繰り広げられたのであろう。本丸曲輪や二の曲輪、三の曲輪をこのあたりから見上げると傾斜は50度以上はある。一の城戸からは天筒山城址に至る急な山道が続く。

 金ケ崎城について『太平記』には、「かの城の有様、三方は海によつて岸高く、厳なめらかなり」とあり、この城が南北朝当時、天然の要害地であったことが記されている。

 一の城戸付近の堀切を下から見上げながら麓に下る。南北朝の時代からもあったである照葉樹の大木の根がむき出しになりながらも元気に樹生していた。

 2020年2月号の雑誌『サライ』には、「半島をゆく―敦賀の地政学」と題して特集記事が組まれていた。歴史作家の安部龍太郎氏や歴史学者の藤田達生氏らがこの歴史の舞台であった金ケ崎城を訪れて記事にしている。「海運の要衝に位置し、京都にも近い越前・敦賀。大陸との関係も深く、南北朝の争い、織田信長の天下統一戦線など多くの歴史の舞台となった。その歴史の地を巡る。」と表題に書かれた特集記事。また、2020年10月号の雑誌『一個人』でもここ金ケ崎城のことが掲載されていた。

 ちなみに安部龍太郎は、南北朝時代の歴史小説としては『義貞の旗』や『道誉と正成』を書いていて、とてもすばらしい書籍かと思う。(※新田義貞、佐々木道誉と楠木正成に関する両書籍。)

 私の故郷の家から車で10分ほどの所に「下長谷の洞窟」がある。ここはかって恒良親王が金ケ崎城より小舟で逃れ、隠れ潜んだとの伝承が残る洞窟。かっては蕪木(かぶらき)と呼ばれた漁村の集落はずれの洞窟だが、現在は甲楽城(かぶらき)と呼ばれる。この洞窟の上の小山には村社の「二ノ宮神社」があり、恒良・尊良の二親王(宮)が祭神として現在も祀られている。

 

 

 

 

 

 


明智城落城、そして美濃・越前の国境山岳地帯を越えての逃避行―越前大野の里芋、古刹・宝慶寺

2020-10-11 10:11:07 | 滞在記

 可児市の明智城址を午後2時半ころに出発し、福井県と岐阜県の県境(美濃・越前の国境)の油坂峠に向かう。1556年、明智城の落城とともに城から落ち延びて、越前と美濃の国境の山岳地帯を越えての逃避行。光秀29歳の時で、妻や明智城主だった明智光安の嫡男・光満らも共に越前に落ち延びたと考えられている。美濃からどのルートを通って越前に逃れたのかは定かではない。

 当時も今も、美濃(岐阜)から越前(福井県嶺北地方)にぬける道は二つある。一つは関市から長良川の渓谷・渓流沿いの郡上街道と越前街道をぬけ、美濃国の白鳥に至り、そこから「油坂峠」を越えて越前に入り、九頭竜川沿いに越前大野に至る道だ。この「油坂峠」は白鳥の町から九十九折(つづらおり)の峠道が、これでもかこれでもかと延々と続く難所。20年ほど前にここをオートバイで通ったが閉口した峠道だった。白鳥の町から峠の上まで高低差は500m以上はゆうにあるだろうか。峠付近には、大日ケ岳(1709m)や毘沙門岳(1366m)、平家岳(1442m)がそびえる。

 もう一つは、関市から武儀川沿いに根尾村に至り、さらに延々としたいくつものいくつもの峠を越え、美濃と越前の国境にある能郷白山(1617m)の山頂に近い尾根伝いの九十九折りの難所である「温井峠」を越えて、さらに越前国の大野に至る真名川沿いのいくつもの峠道を歩き越前大野に至る道だ。このルートは、現在でもかなり危険なため車の通行はほぼない。冠山(1257m)なども近くにあり、私が高校時代に越前市(武生市)で下宿生活を過ごした部屋からは、12月~3月までは、この山々の真っ白な峰々の雪が見えたものだった。(※グーグルアースの地図でこの道を見ても、この道がとても危険であることが瞬時にわかる。もし車で通るとしたら 天気の良い日に半日以上をかけて ゆっくりと進むべき道。)

 江戸時代初期に書かれた『明智軍記』には、光秀たちは油坂峠を越えて越前に逃れたと書かれている。今回は、午後7時頃までに福井県の実家ののある南越前町まで到着しなければならない事情もあり、明智城から高速道路(東海環状道路⇨東海北陸自動車道路)を使って、郡上八幡を通り白鳥まで走り続けた。白鳥到着は午後4時前ころとなっていた。高速道を下りて一般道へ。ここからいよいよ難所の油坂峠となる。

 司馬遼太郎の『街道をゆく4 郡上・白川街道ほか』には、「美濃国は、北方は山波をかさねている。その山襞を削るようにして長良川が奔り、上流へゆくほど隠国(こもりく)の観が深い。」「郡上から北行する街道は、越前街道とよばれている。越前街道は白鳥村で左へ折れる。」などと書かれている。

 明智城が落城したのは、『明智軍記』によれば、九月下旬となっている。可児市の明智城に行ってみて、3千もの義龍軍がこの台地状の城を包囲していたのだが、この城から落ち延びるのはかなり難しいことがわかる。おそらく、城兵が光秀たちを落ち延びさせる目的のためにも、夜間に最後の突撃をし、混乱する包囲軍のすきをついて光秀たちの脱出をはからせたのかとも思われる。そして、義龍軍の本拠地に近づいてしまう根尾村から「温井峠」に至る険しいルートではなく、郡上から白鳥、そして「油坂峠」を越えて越前に逃れたのではないかと思う。

 今では高速道路を使えば1時間半ほどで白鳥に着くが、当時であれば、可児⇨関⇨郡上八幡⇨白鳥までは主に長良川渓谷沿いの険阻な道があったはずで、ゆうに5〜6日あまりを要したのではないだろうかと、20年前にバイクで走った時の道を想い浮かべ思った。

 20年前とは油坂峠を越える道の状況が様変わりしていた。白鳥の町から天空にループ橋ができていて、そこを通って一気に標高をかけあがったことができるようになっていた。通行無料と書かれていた。この道は最近までは油坂峠を越えるための有料道路だったようだ。一気に標高をこの道で登り、そして長大な油坂トンネルが掘られていて、ここを抜けると福井県に到達できた。白鳥の町から油坂峠まで30〜40分間ほどの九十九折の峠道を覚悟していたが、15分間ほどで通り抜けてしまった。

 光秀たち一行も、ここ油坂峠に着いて美濃の山々を振り返り、追っ手から逃れた安堵と美濃を離れる辛さ惜別の思いに誰もがかられたことかと思う。福井県に入り、九頭竜川上流域の渓谷に沿った道をゆるやかに下り始める。左手には九頭竜ダム建設にともなってできた九頭竜湖が延々と続く。ひたすら走り続け、九頭竜峡谷を抜けると、大野盆地の広がりが見え始めた。時刻は午後5時頃となっていた。光秀たちがここを通ったであろう10月上旬、季節は暑くもなく寒くもなかっただろうが、白鳥村からこの大野盆地の入り口に到着するのには、険阻な渓谷沿いの道を通ったはずで、おそらく4〜5日はかかったであろう。

 そして、光秀たちはここから大河となった九頭竜川の中流域に沿って勝山の地に至り、さらに九頭竜川の下流域にある福井(越前)平野の丸岡にたどり着いたはずだ。大野から丸岡まではおそらく歩きやすい道が続いていたはずだが、それでも2〜3日はかかる。明智城から越前丸岡まで、およそ2週間あまりを要した逃避行だったかと想像される。

 九頭竜渓谷から大野盆地に入った入り口付近の美濃街道(※この街道は越前では逆に「美濃街道」と呼ばれる。現在の白鳥―大野間の国道158号線)沿いに「里芋(さといも)」の直売所が数軒並んでいた。「あの里芋の販売所だ!」と気づいた。あの里芋とは、ここ大野市の上庄地区で栽培され収穫される里芋。福井県と石川県にまたがる手取層群での恐竜発掘調査で親しくなった勝山市在住の恐竜学研究者(福井県勝山市職員)の旭さんから、毎年年末になるとダンボールに入れられた里芋が送られてきた。「上庄里芋」と書かれていた。

 この里芋を煮っころがしにして調理したら、今までの里芋の概念が変わってしまった。世にこんなおいしい里芋があったのかという驚きであった。旭さんが亡くなってしまい10年ほど前からはこの里芋を食べることはできなくなっていた。その里芋が目の前にあった。日本一の里芋という感がするこの里芋を、自宅用だけでなく、近所や知り合いにも食べてもらおうとたくさん買った。

 しばらく行くと、また販売所があった。ここでもたくさん買って車に積んだ。「直売所―上庄さといも―身が締まって煮崩れしない ねっとりとした食感、大野の里芋は有名だけど その中でも新庄地区でつくられる里芋は特別なんです」と書かれていた。この大野の里芋は室町時代前期から栽培が始まり、九頭竜川と真名川が運んだ土壌には鉄分も多く、朝と昼の寒暖差がとても大きいこの地で育つ里芋は「日本一素晴らしい」とされ、全国各地から注文を受け、すぐに売り切れてしまうようだ。とにかくここの里芋を食べると里芋の概念が変わってしまうことは請け合いだ。

 大野盆地はこの季節、ソバの畑が広大に広がり、白い花が美しかった。また、秋のコスモスが美しかった。さて、時刻はもう午後5時をゆうに過ぎていた。日暮れが近い。どの道を通って南越前町に行こうか。最短距離の峠道を通ることにした。いままで通ったことのない道だ。まだ夕闇に完全に包まるまでに1時間弱はある。

 実は、司馬遼太郎の『街道をゆく 18  越前の諸道』を読み、大野市の山間にある「宝慶寺」に立ち寄ってみたいと以前から思っていた。その古刹は、大野から池田町に抜ける山間の道(現・県道34号線)沿いにある。この山間の峠道を通っていくことにした。行き方を里芋販売所のおばさんにも聞いておいた。ソバ畑が広がる平地を走り山間地に入るがなかなか遠い。薄暗くなり始めてきた。車にナビはないので地図が頼りだ。

 里芋販売所から30分ほどで「宝慶寺」の石碑が道端に見えた。「宝慶寺ご案内」の古びた大きな看板が。狭い山門をくぐり参道を車で登る。ほどなく駐車場があり、ここで車を降りて、大木の杉並木の参道を歩く。小さな山門が突然見えてきた。

 大きな山門も見え始め、視界が広がる。境内に入ると、さらに大きく、歴史ある古刹という感のする山門が見えてきた

 山門に向かう、数人の修行・禅寺袈裟を着た修行僧の坊さんたちが山門をくぐり本堂や厨に向かう姿があった。

 『街道をゆく 越前の諸道』にて司馬遼太郎は、「鎌倉期に入宋してかの地の禅宗を歴訪し、日本に帰って曹洞禅をひらいた僧道元(1200~53)が、晩年、越前に永平寺をつくった。道元のまわりに寂円(1207~99)という中国僧がいた。道元が宋の天童山で修行しているとき、その風を慕って弟子になり、道元の帰国後、あとを追って日本に来、師のの永平寺時代もつねにその身辺にいた。」 

 道元の死後、大伽藍へと変化し俗化する永平寺の経営に、「寂円は、これに反対した。かれはひたすら道元の風をしたい、大野の山中に入り、十八年間、石の上で座り続けたという。この禅風を、ひとびとは、"孤危険峻"とよんで怖れ、近づかず、参学する者もほとんどなかったといわれる。晩年、山中に一寺をたてた。」と書いている。ここがその一寺、「宝慶寺」だ。ほとんど名前の知られていない曹洞宗の禅寺だが、全国にあまたある曹洞宗の修行道場としての地位は永平寺に次いで高いという。

 この寺を足早にあとにして、峠に至るカーブ連続道をひたすら走り登る。峠からは渓流沿いの山道を車で延々と走り続ける。突然に視界に大きく立派な滝が現れた。この滝の付近だけ道が石畳で舗装もされていた。「こんなところに滝が!」と驚いた。山道は薄暗くなり始めていた。「龍双ケ滝―日本の滝100選」と書かれていた。地図を見ると、この峠の山道の道程はまだ半分ほどだった。真っ暗闇になるまでにこの道を抜けたいと思いひたすら走る。午後6時すぎに池田町に着き、給油する。

 ここからは、暗くて地図も見えなくなり、ほぼ勘に頼って越前市(武生市)の市街に到着した。ここからは地図がなくても勝手知ったる道路。午後7時半ころに母が一人暮らしで帰りを待つ南越前町の自宅に無事着くことができた。

 明智城落城から越前に落ち延びる光秀たちのルートをたどり、少しだけその逃避行の困難さ、大変さを垣間見ることができたような気がする。

※前号のブログで、「規模的には恵那市の明智(長山)城と同じくらいのものかと思う。」と記しましたが、恵那市ではなく可児市の間違いです。訂正します。