彦四郎の中国生活

中国滞在記

「青天を衝け」❸渋沢栄一、京都ゆかりの地を訪ねる➁―そして、「もう一人の渋沢」

2021-12-20 07:33:35 | 滞在記

 昨日12月19日(日)と最終回の12月26日(日)の60分拡大版をもって終了するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。渋沢栄一とともに、ほとんどの生涯を共に歩んだのが、栄一の従兄(いとこ)にあたる渋沢喜作だった。このドラマは高良健吾演じる喜作の存在はとても大きかった。1838年生まれの喜作(1838-1912)は栄一の2歳年上。

 共に一ツ橋慶喜に仕える武士身分となるのだが、1867年に栄一がパリ万国博覧会の日本使節団の一員として渡仏(2年間滞在)する頃から、二人の運命は大きく変わっていく。1866年12月に徳川幕府第15代将軍となっていた慶喜の側近として、喜作は特に軍事面での重職の一人として任にあたることとなる。

 栄一が渡仏中の1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まる。いわゆる戊辰戦争の始まりである。喜作はこの戦いに参加しているが、幕府軍が敗退する。江戸に戻った喜作は、幕府軍の再起を期しての江戸を本拠としての徹底抗戦を慶喜にも働きかけるが、慶喜は恭順への姿勢を崩さなかった。そのような状況の中、薩摩・長州・土佐軍を中核とした討幕軍が江戸に迫り、江戸城の明け渡しが3月に決定した。(徳川幕府の崩壊)

 渋沢喜助(※武士身分名は渋沢成一郎)は、上野の寛永寺に謹慎している慶喜を守るため、「上野彰義隊」を結成して、その頭取となった。慶喜の謹慎先が水戸に移ることが決まり、喜作は彰義隊の水戸移動を主張。副頭取の天野八郎は上野での徹底抗戦を主張し、意見が分かれ、喜作は彰義隊を脱隊した。その後、討幕軍と彰義隊の戦いが上野で始まり、上野彰義隊は戦いに敗れた。喜作は関東で有志らとともに「振武隊」を新たに結成し、討幕軍と戦うも敗北を重ねた。その後、「振武隊」と「上野彰義隊」の生き残りが合流して新たな「彰義隊」を結成しその頭となる。そして、旧幕臣の榎本艦隊(幕府艦隊)に合流し同年8月頃に北海道の函館に渡った。

 函館戦争ともいわれる戦いは1869年の5月頃まで続いた。この戦いには新選組の土方歳三らも参加し、戦死している。戦いの終結後、新政府軍の捕縛から逃れ潜伏していたが、6月に自首・投降した。そして、1871年まで監獄に収監されていたが、渋沢栄一が身元引受人となり監獄から出所した。パリに渡航して2年後の1869年に栄一は日本に戻っていた。1867年から71年までのこの4年間で二人の運命は大きく変わっていた。「青天を衝け」では、二人の再会を描く。「俺の気持ちがお前に分かるか!‥」と栄一に詰め寄る喜作の場面だった。

 その後、喜作は栄一の推挙で大蔵省に勤めることとなる。富岡製糸工場などが設立された北関東だが、喜作は養蚕産業発展のためにイタリアやフランスに出張し養蚕業界を視察している。栄一が大蔵省を辞めるとともに、喜作も大蔵省を辞め、栄一とともに民間実業界の道に進むこととなる。1912年に死去した。「青天を衝け」の中で、この節を曲げない無骨者の渋沢喜作というこの人物が、私にはとても共感できる人物だった。その喜作は、昨日放映の「青天を衝け」でとうとう亡くなった。享年74歳、一途(いちず)な人柄の、「もう一人の渋沢」の死だった。

 2021年がもうすぐ終わろうとしているが、京都の「霊山歴史館」では3月から9月まで「渋沢栄一が生きた幕末」という特別展(前期と後期)が開催されていた。

 500余りの企業や銀行やホテルなどを設立した渋沢栄一は、「日本近代資本主義の父」と言われる。ノーベル賞候補にもなった渋沢栄一は、「日本福祉事業の創始者」とも言われている。

 栄一が1887年に設立した京都織物の建物の一部は、今も現存している。それは京都大学の構内にある。この京都織物株式会社は洋式織物の生産のための設備を備えた会社だった。

 鴨川に架かる丸太町橋と出町橋の間に架かる橋が「荒神橋」だ。その橋を京都大学方面に渡ると、鴨川に沿っている川端通となる。その通りに「京都大学アジア・アフリカ地域研究所」の建物があり、旧京都織物の現存建築は、その研究所建物群の一角にある。

 現在は「京都大学東南アジア地域研究所」の図書館となっている建物だ。

 赤レンガ造りの建物には蔦(つた)が這い、建物そばの楓(かえで)の大木は、「青モミジ」の季節も「紅葉」の季節も美しい。

 京都ホテル(現  京都ホテルオークラ)は、1888年に渋沢栄一が発起人となって完成したホテルだ。その2年後の1890年には、東京に帝国ホテルを開業している。1000年以上、日本の首都だった京都に、外国人が宿泊することを念頭においた本格的なホテルだった。

 その京都ホテルオークラには、「SINCE1888」の文字が書かれていた。今年、京都ホテルオークラ内のロビーエントランス上の2階廊下には、「渋沢栄一展示」コーナーが置かれていた。

 渋沢栄一はまた、京都の同志社大学(1920年創立)の創立にも関わっている。東京にある経済・経営学の名門「一ツ橋大学」(国立)も1920年の創立。渋沢栄はが創立者の一人だ。大学名は一ツ橋慶喜に敬意を表してつけられのではないだろうか。

 大阪と京都、滋賀県の大津を結ぶ京阪電鉄。この電鉄会社の創立者の筆頭に名を連ねた渋沢栄一。社名は「京阪電気鉄道株式会社」で1910年から運輸が開始された。この路線で最も工事が難しかった地区は、木津川と宇治川と桂川の三川が合流する場所。木津川と宇治川の二つの川に架かる陸橋が造られた。

 私の自宅からも近いこの陸橋。朱色に塗られた陸橋を走る京阪電車の写真を撮りに、若い「撮り鉄」たちがここによく来ている。

 ■前号ブログで、新選組が「西本願寺を1985年より本営とした」と記しましたが、1865年の間違いです。また、「この舞台に栄一や喜作も従軍している」と記しましたが、「この部隊に栄一や喜作も従軍している」の間違いです。訂正します。