彦四郎の中国生活

中国滞在記

南公園 かっての福建省行政府があったところは、現在は古(いにしえ)の建物や庭園が再現されている

2024-05-05 06:56:18 | 滞在記

 福建省福州市内のほぼ中心的な地区にある「南公園」に久しぶりに行ってみたのは、この4月中旬の頃だった。2013年の9月に初めてここに来た時から2018年頃までは、この公園の周囲には広大な古街があった地区であった。この古街の迷路のような散策は、私にとって、住民の生活感が溢れる魅力的な場所でもあった。しかし、福州市当局により、この古街は強制的な立ち退きが告げられ、おそらく2~3万人の住民は2018年12月中旬までの立ち退きを迫られた。

 その後、2019年になり、古街の建物はあらかた取り壊され更地となり、高層マンションなどの建設が始まっていた。この当時(2018年)の「南公園」は、現在の公園面積の半分くらいで、大きな公園内の池の水は腐臭が漂うところだった。

 2020年1月から新型コロナウィルス感染パンデミック問題が起き、2023年3月に3年ぶりに日本から福建省福州に戻った。そして、ここ「南公園」に行ってみると、公園は見事なまでに伝統的な建築物や橋、池と庭園が再現された場所となっていた。池の水も浄化され美しくなり、公園も2倍以上の広さとなり、市民の憩いの場となっていた。

 公園の入り口にある大門の近くに石碑があり、この公園の歴史が中国語で刻まれ記されている。それによると、かってここは中国の清の時代から1937年までは福建省政府の行政府があったところだった。

 上記写真、左から三枚目は1928年当時の福州市内、四枚目と五枚目は福州に進軍する日本軍や日本海軍水兵士。

 しかし、1937年に日中戦争が始まると、当時、日本の統治下にあった台湾から最も近い福建省には日本軍が進駐し、福州も日本軍の占領下となった。その時、この福建省政府の行政府も破壊されたと記されていた。その後、第二次世界大戦が終わり日本が敗戦国となった。そして、長い年月を経て、この旧福建省行政府跡地は「南公園」として大門や池や庭園なども造られた。だが、私が初めてこの公園を訪れた頃は、かなり荒廃感のある公園でもあった。

 現在の「南公園」は、なかなか素晴らしいところとなっている。入口の朱塗りの大門を入ると、行政府の建物が再現されている。美しい民族衣装をまとった若い女性たちの露店なども数店。私は、中年の男性の露店で、夏休みに日本に帰る際の孫たちの土産に可愛らしいウサギを頭につけるものを買った。

 公園内の池の周囲には見事に庭園が造られている。中国風の石橋も風情がある。

 4月中旬のこの時期、何箇所かに八重桜が開花していた。

 ハイビスカスも美しく開花。私が勤める閩江大学の付属高校の生徒たちが10人ほど、女性教員に引率されて見学に来ていたので、「私は閩江大学の教員です。日本から来ています」と話しかけると、「オオーッ!」との歓声が上がった。

 この日、南公園から市内バスに乗り、昼頃にアパート近くの「師範大学前」で下車。いつも通うパン店でパンなどを買ってアパート方面に向かい始めると、2台の大型バスが近づき停車した。バスから、腰に赤い布を巻いた、たくさんの人たちが下りてきて、赤い提灯なども降ろされた。それに先立ち、葬儀専門の白い軍服風の楽団が並んでいていた。楽団の若い二人の女性は赤い軍服衣装。

 これから亡くなった人が住んでいて、今、遺体がある団地アパートまで葬列の行進が始まるようだった。おびただしい爆竹が数分間鳴らされ始めた。そして、音楽隊を先頭に50人余りの葬列が行進していった。爆竹🧨と楽団は中国の葬儀では一般的なことだ。

 4月中旬に、私のアパートに立派で高価な中国茶が郵送されてきた。中国福建省は、歴史的にも世界で最も有名な茶の産地であり、茶文化の世界の中心的なところの一つ。世界の人々が愛飲する、緑茶、紅茶、烏龍茶、ジャスミン茶などの発祥の地でもある。特に、福建省内の世界遺産の一つである武夷山で採れる岩茶(がんちゃ)は、世界最高級の茶ともされている。

 郵送されてきた茶は、この岩茶からつくられた「大紅袍」と呼ばれる烏龍茶だった。茶器と茶が入った木造りの箱もなかなか素晴らしいものだった。閩江大学を卒業し、京都の立命館大学大学院(修士課程)に進み、現在は広島大学大学院(博士課程)に留学している林簫銘さんの両親(福州在住)から贈られてきたものだった。この夏に日本に一時帰国する際に、持って帰ろうと思っている。

 

 

 


コメントを投稿