彦四郎の中国生活

中国滞在記

近江の紅葉の名刹、百済寺と永源寺を歩く—滋賀県永源寺町で、孫の1歳誕生日を祝う

2021-12-12 09:00:03 | 滞在記

 高い山々には初冠雪があり、晩秋もおしせまった11月28日(日)、滋賀県の東近江市に妻とともにでかけることとなった。娘の3人目の子供・寛太の1歳の誕生日を、娘の夫の実家で祝うこととなったためだ。その実家は、東近江市の永源寺町にある。鈴鹿山脈の山々が近くには連なる。この鈴鹿山系の山裾(やますそ)には、紅葉の名所ともなっている湖東三山の古刹(百済寺・金剛輪寺・光明寺)や永源寺がある。

 京都と実家のある福井県を往復する際に滋賀県をいつも通る道すがら、滋賀(近江)の湖東地方や湖西地方のさまざまなところに立ち寄って来た。この近江で、紅葉が素晴らしいなあと思ったところは何箇所もあるが、そのベスト3をあげるとしたら、滋賀県木之本町にある"鶏足寺(けいそくじ)"と、この日に行くこととなった"百済寺"と"永源寺(えいげんじ)"かと思う。

 永源寺町のその実家に行く前に、そこからほど近いところにある百済寺と永源寺に行くことにした。何度が行っている百済寺だが、ここはいつ来ても"見事なり"の一言に尽きる名刹だ。惚れ惚れする寺院。映画や時代劇ドラマでもこの古刹は撮影場所ともなっている。

 午前9時すぎに百済寺に着く。ちなみに、ここ百済寺(ひゃくさいじ)は、百済寺(くだらでら)とは読まない。寺の入り口にある赤門に入り、長い参道をしばらく行く。まだ、この参道のあたりは紅葉していない木々が多い。おそらく12月上旬ころには一気に紅葉がすすむかと思われた。

 ものすごく長い参道の坂道を進むと、かなりの紅葉が見られてくる。参道の石畳の道は紅葉の落ち葉に覆われていた。

 緩(ゆる)い坂道の参道を登り表門近くの参道を見る。ここが紅葉の盛りには、最も紅葉と参道の石畳のコントラストが素晴らしいところだが、まだ紅葉が始まったばかりだった。12月7〜8日頃にはさぞや美しかろう。この参道から表門をくぐれば本坊の建物に、参道をさらに登れば仁王門や本堂に至る。このあたりの紅葉も見事なのだろうが、今回は行かずに、次の永源寺に向かう。

 百済寺から永源寺に向かう途中で鈴鹿山系の山々を見ると、紅葉が盛りとなっていて美しい。琵琶湖方面を見ると、観音寺城や安土城のある山越しに、初冠雪で白くなっている湖西の比良山系の山々が見えてきた。

 永源寺はものすごくたくさんの人が訪れていた。久々の活気なのだろうか、参道に至るまでの土産物店や露店なども元気に店を開いていた。観光バスから降りてきた人たちをバスガイドが引率している姿もみられた。「永源寺と湖東三山巡りのツアー」がこの時期に行われているようだ。永源寺の参道の石段を登る途中、たくさんの石仏群が見られる。

 永源寺の総門あたりから大木の楓(かえで)やモミジの紅葉が目に入ってくる。鈴鹿山系の山々が薄っすらと初冠雪をしていた。早朝にはかなり白く見え、紅葉と初冠雪の光景が美しかっただろう。山門が見えてきた。紅葉の大木はさらに密になる。ここの山門は禅宗寺院の特徴をよく表している、見事な山門(三門)だ。

  本堂のちかくに鐘楼が建つ。本堂は茅葺的・檜皮葺的(かやぶき的・ひわだぶき的)屋根が印象的。達磨(だるま)大師の絵があった。ここ永源寺は禅宗の一派である臨済宗の寺院。1361年に創建されている。

 まあ、春の「青モミジ」、秋の「紅葉」の見事な古刹だと思う。ここ永源寺も百済寺も、室町時代に起きた応仁の乱(1467年~1478年)以降、度重なる火災や兵火に包まれて、その伽藍のほとんどが焼失している。永源寺は、1492年と1563年、そして1573年だ。そして、百済寺は、1498年と1503年、そして1573年だ。1573年には、織田信長の軍勢による焼き討ちだった。この二つの寺院は、近江守護だった佐々木氏とその末裔である戦国大名の六角氏とのつながりが深く、二つの寺院は寺院城郭でもあり、僧兵たちもいた。その後、この二つの寺院は再興されて今に至る。

 永源寺や百済寺から車で15分ほどのところにある娘の夫の実家にて、孫の寛太1歳の誕生を祝う。とうとう、2〜3歩ならよちよち歩きができるようになってきていた。お仏壇には、大きな誕生祝い餅が置かれていた。1歳を祝う「1」と書かれた数字のある冠をかぶせられた寛太。この1年間、この孫の成長を見続けることができたのは、コロナパンデミックで日本滞在が長引くなかでの僥倖(ぎょうこう)「意味:思いがけない幸い/偶然得る幸い]だった。

 百済寺の創建は606年の飛鳥時代とされている。推古天皇や聖徳太子の時代でもあった。この頃、朝鮮半島の歴史は、高句麗国・新羅国・百済(ひゃくさい/くだら)国の三国と、中国の唐王朝、そして日本(倭国)との間を巡って動乱の時代でもあった。日本では天皇以上に権力のあった蘇我氏が滅亡させられ、その後の大化の改新へと続く時代。660年には、唐・新羅の連合軍によって百済国は滅亡。その百済国の再興を支援した日本(倭国)と百済復興軍は、白村江(はくそんこう)の戦い[663年]で唐・新羅連合軍に敗れることとなる。そして、668年には高句麗も滅亡。

 (※日本の大和朝廷は370年前後に朝鮮半島に影響力を及ぼすために大軍を送り、小国ながら今の釜山(ぷさん)を中心とした朝鮮半島南部に「任那(みまな)」国ができた。そして、その国に「任那倭(日本)府」をおいた。その任那国は562年に滅亡した。)

 百済国再興ならず、百済国からたくさんの百済人が日本(倭国)に亡命してきた。彼等から、大陸の優れた技術や政治制度などを日本は学ぶこととなり、これまでの諸豪族の連合体だった日本(倭国)は、亡命百済人たち力を吸収しながら大化の改新をすすめ、中央集権的な国家制度へと変貌をとげていくこととなる。

 亡命百済人たちは、山城(京都)や近江(滋賀)、難波(大阪)などの畿内の地に土地を与えられ、集団で暮らすようにもなっていった。近江の百済寺は、この寺号からみても、この寺は東近江地方に暮らした渡来系氏族の氏寺として創建された可能性が高い。石垣づくりで有名な湖西坂本の「穴太衆」も、もともとはこの渡来系民族がルーツだ。また、「三方よし(売り手・買い手・世間)」の近江商人も、そのルーツは渡来系民族にあるという説もある。(※百済寺は、平安時代になってからは天台宗の寺院となる。) 今の大津市にはかって「近江大津京」の都が、その南東の信楽町には「近江紫香楽宮」があった。大化の改新で活躍した中大兄皇子(のちの天智天皇)がここに都を遷都したのは、この百済人たちの存在があるとも言われている。

 最近出版された『白村江』(荒山徹著)を読んでみた。とても面白く、優れた歴史小説であると思った。ベストセラーになったのもうなづける。東アジアの激動の時代、大化の改新、朝鮮半島の動乱の時代を歴史背景に描いた大作だった。