彦四郎の中国生活

中国滞在記

木枯らし吹き始め、今年最後の紅葉も見納め—1回生との特別講座—沢田研二さんの実家が‥

2021-12-15 04:54:14 | 滞在記

 一昨日は、この冬一番の寒気団が日本列島を覆ってきていたようで、京都でも木枯らしが一日中吹いていて、まだ残っている紅葉の葉っぱも風にかなり飛ばされていた。私の家のモミジも、風で次々と道路一面に散っていき、それを掃き集めるのが大変だった。日本海側は雪が積もりそうだ。秋が終わり、冬の季節が到来した日本列島。もうすぐ冬至となる。

 12月になっても、まだ紅葉が美しいところがあった。孫の寛太とよく行く京都の真如堂の、朱色の門の前の、大木の楓(かえで)の紅葉は12月上旬が盛りとなっていた。4月から9月頃までは、青モミジが美しかったこの楓は、8カ月間の間、夏は木陰をつくってくれて、私と寛太はここでよく過ごしていた。12月14日、孫の寛太を連れて行くと、この門の前の紅葉も多くが落葉していた。

 京都哲学の道周辺にも、時々、ベビーカーの孫の寛太と散歩に出かけていたが、11月下旬頃、沢田研二さんの実家の建物を初めて見た。1960年代後半から70年代はじめのころ、日本の音楽界はグループ・サウンズ(G・S)の全盛期だった。多くのG・Sグループの中でも、「ザ・タイガース」は有名なグループの一つだった。私もこのグループの歌曲「モナリザの微笑み」や「花の首飾り」などは好きだ。そのグループのボーカルが沢田研二さんだった。

 「沢田研二の実家は哲学の道にあるそうや。小さな家らしいで‥。出身中学は岡崎中学らしい‥」と初めて聞いたのは、1970年代前半の頃の学生時代。このころは、銀閣寺の隣に下宿していたので、哲学の道は私の生活道路だった。ある日、哲学の道沿いに「沢田」と表札のある小さな家を見つけた。小さな、このあたりにはどこにでもあるような普通の家だった。以来、ここが沢田研二さんの実家だとずっと思い続けてきた。5年ほど前にこのあたりを歩いていたら、その家は取り壊されて、新しい家が建ち、表札は沢田ではなかった。

 沢田研二さんの実家は、近くの別のところにあると知ったのはつい最近のこと。11月下旬、孫と哲学の道に散歩がてら、その実家というものがある道を通ることにした。場所は今出川通りと白川通りの交差点を少し南にくだった所にあるガソリンスタンドの前の、哲学の道に向かう道路沿い。表札は「沢田」ではなく「澤田」となっている。沢田研二さんの本名は「澤田研二」と書くそうだ。今は沢田研二さんの兄の家族がこの家に住んでいるのかもしれない。家の前からは大文字山がよく見える。

 この家は、1960年代末から70年代中頃にかけては、沢田研二(ジュリー)ファンの若い女性や中高生たちの聖地となっていたようで、京都に修学旅行に来た女子高校生で、銀閣寺近くの沢田研二のこの実家を一目見に来た者が、けっこういたらしい。彼女らにとって、修学旅行の最大の目的は「ジュリーの実家を見ること。もし、ラッキーなことに、ジュリーの家族(両親・兄・妹)の誰かの姿を見かけ、話すことができれば‥最高の修学旅行となる」だったようだ。

 沢田研二さんは、ここから近い錦林第三小学校、岡崎中学校を経て、京都府立鴨沂(おうき)高校に進学している。そして、この高校を中退して、音楽活動を行うこととなった。今年2021年に公開された映画「キネマの神様」に出演していた。彼は1948年生まれで現在73歳となる。「ぼちぼち現役」である。ザ・タイガースは1971年に解散し、その後の沢田研二さんはソロシンガーとして活動、1975年には双子のザ・ピーナツの伊藤エミさん(当時34歳)と結婚。(沢田は当時27歳)   この年、「時の過ぎゆくままに」が大ヒット曲となる。77年の「勝手にしやがれ」も大ヒットとなる。
 1982年公開の映画「男はつらいよ」で田中裕子さんと共演、その後、二人は不倫関係となる。この時、伊藤エミさんとの間には幼い息子が一人いた。1987年に伊藤さんと沢田さんは離婚、伊藤さんへの慰謝料は18億円。一人息子は当時8歳。1989年には田中裕子さんと結婚している。2012年に伊藤さんが亡くなった。2012年~13年、元ザ・タイガースのメンバーたちによる全国コンサートツアーの最終日に、生き別れとなっていた息子さんがコンサート会場を訪れ、25年ぶりの再会となった。2018年に、「会場の客の入りが6000人では少ない」ことを理由に沢田研二コンサートの出演を急きょキャンセルしたことは物議をかました。

 冬の木枯らしで冷え込んできた季節だが、まだ山々の紅葉は美しさが残る。私の自宅からも見える石清水八幡宮のある男山の紅葉がまだ残る。山麓にある馬場サッカー練習公園の横を車で通ると、小学生のチームだけでなく、懐かしいチームが練習をしていた。チームの名前は「四十雀(しじゅうがら)」。私が40代後半から50代のはじめにかけて所属していた地域チーム「セロリA」と、地域リーグでよく対戦したチームだった。「四十雀」の知っている数人と話をした。現在、チーム加入者が増加し、40代から70代まで40人余りが所属しているとのこと。最高齢は74歳から76歳の人も数名いるとのことだった。

 12月11日(土)、男山山麓にある神應寺にいき、今年最後の紅葉のようすを見にいった。

 参道周囲の楓(かえで)の大木の木々は、今が盛りと紅葉をしていた。

 12月8日(水)の午後、大学側からの突然の要請で、閩江大学日本語学科1回生との、講座を行うこととなった。1回生たちは日本語のひらがな・カタカナや簡単な会話構文を学習した程度で、日本語会話はまだほとんどの学生ができない。こんな学生たちとのオンラインでの講座はかなり難しい。そこで、2回生の日本語能力の高い学生にも参加してもらい通訳を依頼した。また、大阪大学大学院に留学している任さんにも自宅に来てもらい講座内容を分担してもらった。任さんの講座テーマは「日本での留学生活」について。バイトのことや習っている生け花などについても説明していた。(45分間)

 私のテーマは「日本の"京都"という町―その魅力とは」。2014年と2020年には「世界の観光都市人気ランキングNO1」となった京都市。この町の魅力について、6つの視点から多くの写真パネルも使いながら説明をした。(45分間)

 この日の夕方、自宅から徒歩1~2分ほどの焼き鳥居酒屋「よしべ」で、任さんと乾杯をした。自宅のモミジの紅葉がとても美しかったが、12月12日・13日の寒波にともなう木枯らしで、ほとんどが落葉した。