彦四郎の中国生活

中国滞在記

寧夏回族自治区「銀川」へ行く❻―「旧市街」を歩く―見事な「承天寺塔」を見上げる

2017-06-24 15:06:29 | 滞在記

◆前号のブログでイスラム教寺院「銀川南関清大寺」を紹介しました。少し説明を補足します。「この寺院は明朝末期の1600年ころに建立され400年以上の歴史を持ちます。しかし、十年動乱(※文化大革命の動乱)の際に、寺院は破壊しつくされました。1980年代初頭、中国共産党政府の宗教容認政策への変更にともない1982年に再建されました。」と入場チケットに書かれていました。

 午後2時ころになっていた。午前9時前から歩き始めて5時間あまりが経っているので、かなり疲れてきていた。駱駝に乗る老人の像が道沿いにあった。赤い衣装を身にまとった女性が歩いている。「BRT」と書かれたバス停がある。この街のバス停はみんなこんな駅で、バスが走る車線は他の車が原則入ることはできない。(左折や右折時以外は)  だからバスの渋滞がないようだ。けっこう暑い気温だが湿気がなくさらっとしている空気。木陰に入れば少し涼しい。街にはゴミも少なく、けたたましい騒音も少ない。白い花が咲いていた。夏の花「合歓木(ねむの木)」の花が咲いていた。ここは、夏の季節なんだ。

 私が住む福州の「ごちゃごちゃした雰囲気や騒音、半年間ものすざましい高温多湿、落ち着きのなさを感じる街の様子」とは、まったく違った街。街に品性を感じる。福州とは違って、人もおだやかで、ゆったりしている。けっこう親切だ。中国も地方や都市によって 人々の様子も人情もかなり違うなと思った。ひとくくりに「中国人は」「中国とは」とは言えないと改めて思った。

 「承天寺塔総合市場」というものがあったので、市場に入ってみた。午後の昼寝時なので、客も店の人もほとんどいなかった。市場の入り口の路上では、「桑の実・ブドウ・桃」などが売られていた。桃がおいしそうだ。

 承天寺の塔が見えてきた。三輪バイク軽トラックの荷台で昼寝をしている人の姿。塔を見る。見事な塔だ。寺の塀に沿って「石の露店」が100軒ほど並んでいた。翡翠などの宝石や巨大な硯(すずり)石なども売られている。中国の人は石が大好きだ。

 寺に入る。とても品格のある寺院だ。なんかここの空気が違うようにも感じた。寺の由来が書かれた石碑を見る。この寺院は、ここ銀川に「西夏(せいか)王朝」の都があった時代の1050年に創建されたと書かれている。王朝の寺だったようだ。塔を見上げる。「見事」!! (※「西夏王朝」➡1038年~1227年の189年間続いた王朝。現在の「寧夏回族自治区・甘粛省」一帯を支配に治めていた。楼蘭や敦煌あたりのシルクロードも支配下におく。蒙古のジンギスカーンによって攻め滅ぼされ、王朝は滅亡した。)

  境内には黄色い花を咲かせた樹木があった。「山桃」と書かれたプレートの桃の木が小さい実をつけてた。朱塗りの建物が美しい。芸術的な美しさを感じる境内だ。

 塔の裏側に行く。ここから見上げる塔はまた一段と見事。この銀川の街の街路樹として一番多い種類の大木があった。名前は「刺槐(スーファイ)」と書かれている。アカシアの樹木の一種で、春先には花を咲かせるようだ。ここの塔の管理をしている女性と少し話した。なかなか親切でチャーミングなお姉さんだった。

 寺院を出ると、もう3時すぎ。北方民族大学の正門で目黒さんと会う約束の時刻の4時半まであと1時間半。時間もないし歩き疲れたので、寺の前でタクシーを拾ってホテルに戻る。ホテルの横には、「寧夏回族自治区区政府」があったので、タクシー内より写真を撮る。ホテルに戻りシャワーを浴びて着替えた。

◆次号に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


寧夏回族自治区「銀川」へ行く❺―「旧市街」を歩く―イスラム寺院と周辺の店

2017-06-24 12:38:25 | 滞在記

 銀川の街をぶらぶらと南の方にある「南門」に向かう。南門に着き門をみたら、なにか北京の天安門のミニチュア版というイメージだ。毛沢東の肖像写真が飾られている。南門の広場で子供がおじいちゃんと一緒に「ドローン」をしていた。まだあまり上手に操縦ができないようで、どこに飛んでいくか危なっかしい。新疆ウイグル自治区特産の「ナンに似た食べ物」が売られていた。イスラム系の人々の主食のようだ。

 手相占いをするおじさん。少し歩くと「回民第一小学」があった。時刻は11時半ごろとなり、2時間半ほどの昼休みが始まり自宅に戻る生徒を迎えに来た大人の人たちも門の前に大勢いた。イスラム帽子をかぶったおじいちゃんも孫を迎えに来たのだろう。門前には、おもちゃを売る露店があり、小学生たちが買っていた。この小学校には、珍しく制服(ジャージ)がある。制服の色は、この街のイスラム寺院の色と同じ緑色だ。中国特有の赤い布を首に巻いている。

 この街から「銀川河東国際空港」行きの空港バスが発着するホテルが見えてきた。明日、ここからバスに乗って空港に行く予定なので、確認に行く。街の交差点のいたるところに若い人が、「志願者」(ボランティア)として立っている。この街の大学生たちなのだろうか。街を西に向かいイスラム寺院を目指す。寺院が見えてきた。寺院に入る。文化大革命は宗教を徹底弾圧したが、その時期が終わって6年後の1982年にこの寺院は新しく造られたようだ。

 自治区の首府「銀川市」の人口は約170万人くらいで、そのうちの10%の17万人くらいが「回教徒(イスラム教徒)―ムスリム」のようだ。ちなみに、寧夏回族自治区の人口は約800万人で、私が住む福建省福州市の人口とほぼ同じくらいだ。一日に何回かの礼拝の時間が記されていた。

 イスラム寺院の名前は「銀川南関清真大寺」となっていた。寺院の周辺には、イスラム系の商品を売る店や食べもの店が多くあった。「羊肉の料理店」にはムスリムの衣装を着た店員の姿も。衣装店に入った。イスラム女性が頭を飾るものを2つ買った。特産の「クコ」を売る店も多い。羊肉のバーベキューを焼く台があった。賑わう夕方から夜に焼くのだろう。石炭が置かれていたのでこれを使うようだ。

  果物を売る小さな店。露店移動販売では、スイカや桃が売られていた。午後1時を過ぎていた。お腹が空いたので、「餅子点」と書かれた小さな売店で1元(16円)のナンのようなものを1つ買う。食べらがら歩き始めると、「うわーー!!うわわわわあ!」と泣き叫ぶ若い女性が突然に食堂(店)から飛び出してきた。家族の母のような人たちが店に戻るように説得し、店に戻って行った。何があったのだろう。それにしても、この国では、「女性の感情表現がストレート」ですざましいなあと思う場面によく遭遇する。この街の赤い三輪タクシーが客待ちをしていた。

 次に行きたい承天寺塔に向かいながら街を歩く。おばあさんが何かを売っていた。靴下などが並べられていたが、その中に このおばあさんが手作りをしているという 小さな布製の靴がいくつかあった。その中に とてもいいものが1つあったので、買うことにした。孫の「栞(しおり)」[生後8カ月]に似合うかもしれないと思った。値段は35元(約560円)となった。

◆次号に続く

 

 

 

 

 

 

 


寧夏回族自治区「銀川」へ行く❹―「旧市街」を歩く―みごとな「鼓楼」や「楼閣」

2017-06-24 08:34:29 | 滞在記

 

 銀川に来て3日目の19日(月)、この日は、北方民族大学の目黒さんは大学の試験実施などの仕事のため出勤。私は一人で銀川の旧市街をぶらぶらと歩きながら見て廻ることにした。夕方に目黒さんや学生たちと食事をする予定となる。

 ホテルでの朝食をとり、午前9時頃に旧市街に向かう。西門とよばれる場所に、女性と鳥のアーチのような塔があった。しばらく行くと、小さな公園に「都察院旧跡」と書かれたプレート。明や清の時代に寧夏地方の行政府がここにあったようだ。本を持つ清楚な女性の像が立っている。

 騎馬像が街角にあった。だれの像だろう。何の説明もない。近くにいた30代くらいの男性に聞いてみたが知らないという。ひょっともしたら「張騫(ちょうけん)」の像かもしれないと思った。

 ◆―「張騫」―司馬遷の『史記』に書かれている「シルクロードルートのパイオニア」―前漢時代のBC139年、武帝の命令により西域に派遣される。派遣の目的は、敵対している「匈奴(蒙古)」を挟み撃ちにするために西域の国「大月氏」に同盟を持ちかけることだった。張騫は、100人あまりの従者を従えて西域をめざして長安を出発したが、途中で匈奴に捕えられ10年間もの間 捕虜生活をしいられる。この間、妻を与えられ子供もなした。

 匈奴の内紛の機会に妻子や従者とともに脱出し、目的を果たすため西域に向かう。現在のウズベキスタンのタシケントあたりを中心とする「大月氏」に着き、武帝からの「同盟案」を話すが拒絶される。中国への帰路は、チベットのラサを経由して中国に入り、長安に戻る。この時、生き延びて長安に戻れたのは「張騫」と従者1人、そして妻子だけだった。この張騫の13年間に及ぶ冒険的な旅が、こののちシルクロードの交易ルートの開拓につながった。

 寧夏特産の「拘杞(ジョウチー)」(※日本名は「クコ」)がたくさん並んでいた。寧夏のクコは中国国内で一番有名なようだ。粒がとても大きい。日本にいる留学生たちへのお土産として2袋を買った。

 街を東にさらに向かうと「鼓楼」が見えた。「おお!見事な鼓楼だ。」360度、どこから見ても見事だ。どんな建物なのか知らなかっただけに、見事さに感心する。鼓楼の上に数十羽の燕(ツバメ)が旋回していた。ここをねぐらにしているのかもしれない。この銀川は冬は零下15度〜20度くらいになるので、より暖かい国にツバメは移動し越冬し春先に子ツバメが誕生するが、ひょっともしたらこのツバメたちも日本に来るのかもしれないと思った。この鼓楼のそばに「新華書店」という名の本屋があった。(中国は書店が非常に少ない)  店内に入る。なかなかいい書店だ。

 銀川という地方都市の一番大きな書店のようだ。驚いたことに、ここにも東野圭吾のコーナーが、広いスペースをとって設置されていた。この書店で最も場所をとっているコーナーだった。この4〜5年、東野圭吾は中国で最も読まれている作家(中国人作家・外国人作家の中で)だと思う。習近平主席の本のコーナーの下は、渡辺淳一の本が並べられていた。

 鼓楼からさらに東に行くと とても立派な門のような建物があった。「玉皇閣」という建物だった。明時代に造営されたようだ。建物の横をイスラムの帽子をかぶった若い女性とボーイフレンドが歩いていた。おばあさんたちが、近隣の公園にいた。一人は大きな声で歌を歌っている。10人ほどの白衣を着た男性がいる。肩をもんだりするマッサージ師たちだった。路上に椅子を設置し、「青空マッサージ」の商売をしていた。

 「玉皇閣」ちかくに、寺のような建物があった。しかし、寺ではない。前に池があり、池の前でダンスの練習をおばさんたちがしている。しばらく眺めていたが、まあ、のんびりしたムードのダンス練習だった。年齢は55才〜65才という感じかな。建物の天井、極彩色があざやか。

 街を南に向かう。イスラムのベールをかぶったおばあさん、イスラムの寺院もあった。緑色がきれいだ。寧夏でよく採れる果物が売られていた。桃・ブドウ・レイシ・サクランボ。街の並木が強い太陽の陽射しを和らげてくれる。

◆次号に続く