「土堡」内部の中心に一族の「祠」(ほこら)が置かれている。最も重要な場所だ。特にこの祠がある建物は、木彫りの飾りなど装飾に工夫がされていた。柱の礎石にも、石の彫刻(象など)が施されていた。白い紙に書かれた「ここを共同で当番制で管理している人の名前」は全て「陳」という姓の人だったから、この「土堡」(どほ)は陳という姓の一族なのだろう。一族の末裔の一人のおじいさんが、ここについていろいろと熱心に説明し案内してくれた。
「土堡」内部の上階に上がる。景色がよく見える。中階部分に「生活に必要な水」を貯めておく場所があった。雨水や山からの水を少しづつここに貯めておくようだ。ここのとなりは台所。土で作られたかまどがある。このような台所の部屋が3つあった。ここには100人ほどの規模の一族が住んでいたのだろうか。一族内のそれぞれの家族が寝る小さな部屋がかなりの数作られていた。
薄暗い部屋に1家族5〜6人が寝泊まりしていたのだろうか。部屋の壁には「毛主席万歳!」の標語が書かれたものや「毛沢東と林彪」の文化大革命当時の写真が当時のまま貼られていた。おそらく、林彪が中国共産党NO.2だった1970年ころの写真だろう。他にも、「陳○○同志 党員証明書」も貼られていた。中国の伝統服を来た女性の絵写真も貼られていた。当時、このような服装は「反革命的」と批判もされていたように聞くが、やはり 伝統的なものの良さも分かっていた人だったのだろう。(文化大革命が中止された1976年以降に貼られたのかもしれない) ここは、少なくても1980年ころまでは、一族が暮らしていた「土堡」のようだ。
案内の陳さんが、当時の農機具が置かれている場所に案内し、その使い方を教えてくれた。日本の昔の農機具とほぼ同じようなものだった。この場所を襲ってきた族(敵)に対して、鉄砲を打ち込むための穴(狭間・はざま)が 建物の外壁にはいたるところに設けられていた。この「茂荊堡」(もけいほ)は、清時代の1882年(光緒8年)に造られたと説明石碑に記されていた。当時、世情は乱れ この福建省までは 弱体化した清国の治安も行き届かない時代で、盗賊集団が 中国全土に跋扈(ばっこ)していた時代でもあった。
「土楼(どろう)トゥ・ロウ」にしても「土堡(どほ)トゥ・バオ」にしても、中国の中原(中国中部)から戦乱や粛清を逃れた人々が、一族を率いてこの福建省にたどり着いた「客家」と呼ばれる人たちが造ったものだと言われている。この「茂荊堡」という名前の「荊(けい)」は、昔 「魏呉蜀」の3国時代の「呉」の国の別名だ。(荊州といわれ、現在の浙江省杭州から蘇州・南京一帯あたりで、中国の水郷地帯) 「荊州が茂る堡」と、懐かしい荊州の地を偲ぶためにつけられた可能性もあるかと思った。門の前で(防衛のため門はこの1箇所しかない) 村の陳さん2人との写真を撮ってもらった。
土堡を出て、向かいの小高い丘の上に登って全景を見る。なかなか立派な「土堡塁」だ。全景をバックに林さんと友人の写真を撮る。ここから、麓の「村」が見えた。
麓の村に戻り、陳さんたちに別れを告げた。麓の村は、今では この「茂荊堡」に住んでいた一族がたくさん住んでいる村のようだった。午後11時前頃、また1時間ほどかけて尤渓の町に戻ることになった。途中から車の中で眠ったようで、目覚めたら町に着いていた。時刻は12時前。町の食堂で昼食となった。12時半頃、荷物のカバンが置いてあるホテルに行ってもらう。1時ころ新幹線の「尤渓駅」(尤渓火車駅)に着き、林さんたちと別れを告げる。駅の待合室には、今日行った「茂荊堡」などが描かれた絵が架けられていた。1時28分発の福州行きの新幹線に乗車した。約1日間の尤渓滞在だった。