彦四郎の中国生活

中国滞在記

福建省三明市尤渓県にて「土堡(どほ)」(トゥ・バオ)を見る❷—「茂荊堡」という名の由来

2017-06-16 14:49:32 | 滞在記

 

 「土堡」内部の中心に一族の「祠」(ほこら)が置かれている。最も重要な場所だ。特にこの祠がある建物は、木彫りの飾りなど装飾に工夫がされていた。柱の礎石にも、石の彫刻(象など)が施されていた。白い紙に書かれた「ここを共同で当番制で管理している人の名前」は全て「陳」という姓の人だったから、この「土堡」(どほ)は陳という姓の一族なのだろう。一族の末裔の一人のおじいさんが、ここについていろいろと熱心に説明し案内してくれた。

 「土堡」内部の上階に上がる。景色がよく見える。中階部分に「生活に必要な水」を貯めておく場所があった。雨水や山からの水を少しづつここに貯めておくようだ。ここのとなりは台所。土で作られたかまどがある。このような台所の部屋が3つあった。ここには100人ほどの規模の一族が住んでいたのだろうか。一族内のそれぞれの家族が寝る小さな部屋がかなりの数作られていた。

 薄暗い部屋に1家族5〜6人が寝泊まりしていたのだろうか。部屋の壁には「毛主席万歳!」の標語が書かれたものや「毛沢東と林彪」の文化大革命当時の写真が当時のまま貼られていた。おそらく、林彪が中国共産党NO.2だった1970年ころの写真だろう。他にも、「陳○○同志 党員証明書」も貼られていた。中国の伝統服を来た女性の絵写真も貼られていた。当時、このような服装は「反革命的」と批判もされていたように聞くが、やはり 伝統的なものの良さも分かっていた人だったのだろう。(文化大革命が中止された1976年以降に貼られたのかもしれない)  ここは、少なくても1980年ころまでは、一族が暮らしていた「土堡」のようだ。

 案内の陳さんが、当時の農機具が置かれている場所に案内し、その使い方を教えてくれた。日本の昔の農機具とほぼ同じようなものだった。この場所を襲ってきた族(敵)に対して、鉄砲を打ち込むための穴(狭間・はざま)が 建物の外壁にはいたるところに設けられていた。この「茂荊堡」(もけいほ)は、清時代の1882年(光緒8年)に造られたと説明石碑に記されていた。当時、世情は乱れ この福建省までは 弱体化した清国の治安も行き届かない時代で、盗賊集団が 中国全土に跋扈(ばっこ)していた時代でもあった。

 「土楼(どろう)トゥ・ロウ」にしても「土堡(どほ)トゥ・バオ」にしても、中国の中原(中国中部)から戦乱や粛清を逃れた人々が、一族を率いてこの福建省にたどり着いた「客家」と呼ばれる人たちが造ったものだと言われている。この「茂荊堡」という名前の「荊(けい)」は、昔 「魏呉蜀」の3国時代の「呉」の国の別名だ。(荊州といわれ、現在の浙江省杭州から蘇州・南京一帯あたりで、中国の水郷地帯) 「荊州が茂る堡」と、懐かしい荊州の地を偲ぶためにつけられた可能性もあるかと思った。門の前で(防衛のため門はこの1箇所しかない) 村の陳さん2人との写真を撮ってもらった。

 土堡を出て、向かいの小高い丘の上に登って全景を見る。なかなか立派な「土堡塁」だ。全景をバックに林さんと友人の写真を撮る。ここから、麓の「村」が見えた。

 麓の村に戻り、陳さんたちに別れを告げた。麓の村は、今では この「茂荊堡」に住んでいた一族がたくさん住んでいる村のようだった。午後11時前頃、また1時間ほどかけて尤渓の町に戻ることになった。途中から車の中で眠ったようで、目覚めたら町に着いていた。時刻は12時前。町の食堂で昼食となった。12時半頃、荷物のカバンが置いてあるホテルに行ってもらう。1時ころ新幹線の「尤渓駅」(尤渓火車駅)に着き、林さんたちと別れを告げる。駅の待合室には、今日行った「茂荊堡」などが描かれた絵が架けられていた。1時28分発の福州行きの新幹線に乗車した。約1日間の尤渓滞在だった。

 

 

 

 

 

 

 


福建省三明市尤渓県にて「土堡」(トゥ・バオ)を見る❶—日本語がまったく通じない中での付き合い

2017-06-16 11:42:14 | 滞在記

 6月14日(水)の午後2:40分発の新幹線に乗るために、12時半頃にアパートを出る。アパート近くでタクシーをつかまえて福州北駅に向かう。30分間ほどで駅に着く。料金は34元(約540円)。予約していたチケットを受け取って駅2階の巨大な待合室へ。「吸煙室」(喫煙室)に入ったり出たりしながら待ち時間を過ごす。煙を浄化する空気清浄機が設置されていないので、部屋が煙で充満し霞んで見える。1日4箱の愛煙家の私でも、ちょっと入るのに躊躇(ちゅうちょ)してしまいそうな喫煙室だ。部屋の壁は、タバコのヤニのためか黄色い土色に変色している。

 タバコを吸う男性の人口比率が各段に高い中国。特に地方や田舎に行ったら、タバコを吸うのが当たり前で、「喫煙」が一種の人間関係を作ったり維持する重要な役割を果たしている。(最近は、若い人[10代・20代前半]の喫煙率は減ってきているようだ。女性のほとんどはタバコを吸わない。吸う女性は不良女性として蔑視されるようだ。30代以上の男性での喫煙率は80%を越えるかと思われる。タバコ大国の中国社会だ。)

 最近、中国の伝統服や伝統服の要素を取り入れた衣服を身にまとう女性が少しずつだが増えてきているように感じる。若い人のそのような姿を見かけることがよくあるのだ。待合室のコマーシャルテレビの画面を見ていたら、「榴连蛋糕(リュリエン・ダンガオ)」が紹介されていた。あの 臭い靴下のにおいのような臭いがする「ドリアン」のケーキだ。臭いのでバスや電車への持ち込みが禁止されているドリアンのケーキか。どんなニオイや味がするんだろう。

 14:40分発の新幹線。発車20分前から乗車する人が並び始める。平日の午後だが、たくさんの人が行列を作る。発車10分前ごろからようやく改札が始まる中国の新幹線。長い列なので、大勢の人が改札を通るのに時間がかかる。発車2〜3分ほど前にようやく始発列車に乗り込める。1時間ほどで、三明市尤渓駅に到着。料金は45元(約720円)、中国の公共交通機関は料金が安いので、日本への中国人観光客は「日本の交通機関料金」の高さにびっくりする。

 立命館大学の大学院に留学している林さんのお父さんが尤渓駅で出迎えてくれた。バスに乗り、林さんの店(中古車などの販売店)に着く。隣は、「百姓酒楼」という名の小さなホテル。今日は、ここで宿泊となった。ここのホテルの料理の名物は「驢馬(ろば)」の肉らしい。「天上龍肉 地上驢肉」と書かれた看板があった。

 昨年の9月に宿泊してて以来、久しぶりの尤渓だった。(昨年11月に、日本に留学中の林さんから「二胡を日本に運んでほしい」との依頼のため、尤渓駅で父親から「二胡」を受け取り、30分後に再び福州に戻る新幹線に乗ったことはあったが)

 尤渓に行ったら日本語が片言でもできる人は誰もいない。全て中国語の世界なので、必死になって 私も片言(かたこと)の中国語を駆使してコミュニケーションをとらなければならなくなる。そのようにして滞在する1日〜2日間を過ごすわけだが、なかなか苦労する。まだ、ほとんど中国語が聞き取れないのだ。ときどき、筆談を織り交ぜながら中国語での意思疎通をする。助けの鍵は、「煙草・酒コミュニケーション」となる。林さんの父や母の親戚や友達がたくさん(15人ほど)集まって、夕食の宴となった。驢馬の肉というものを初めて食べた。

 宴席は9時頃にお開きとなり、1階のカラオケルームで酒とカラオケをして深夜まで盛り上がった。ホテルの高校3年生の息子もカラオケに来た。最近、中国の大学入試「高考」を受験したようで、「福建師範大学が第一志望です」と話していた。けつこう学力が高いのだろう。ちなみに、中国では、「お酒とタバコは20才になってから」というような法律はないと、大学での授業の時に学生たちから聞いた。日本のカラオケ曲も少しあるようで、みんなが日本の曲を勝手に選んでくれて、突然 歌うように催促される。3曲〜4曲かけられたが、全て全然聞いたこともない 日本の若い歌手の歌だった。適当に音程を合わせて歌ったしだいだが少々苦労する。そんなことなら、自分で選べばよかったのだが、まさかこんな地方の田舎の町のカラオケに日本の歌(日本語)があったとは思いもよらなかった。

  翌日の午前6時ころに目が覚める。先日の「白酒(バイジュウ)」やビールのためか、少し二日酔いで頭が痛重い。とにかく眠い。シャワーを浴び、眠気を少しでも覚ます。林さん(立命館大学大学院留学生)のお母さんが、お粥の朝ご飯を作ってくれた。9時ころ、林さんのお父さんの友達が車で迎えに来てくれた。ここからけっこう遠方の三明市尤渓県台渓鎮盖竹村にあるらしい「土堡」に向かった。

 尤渓の町の中心から、地方道の田舎道を いくつもの峠を越え、いくつかの村を通過して1時間ほどで、盖竹村に着いた。かなり二日酔いが治まっていた。知り合いらしい村の人に声をかけて、この村の山の上にある「土堡」の管理人の二人に同行してもらい案内してもらうことになったようだ。少し怖ろしい、車が転落しそうな細い山道を車で登る。最近できた超狭い道路(?)のようだ。車を駐車する。「土堡」の小さな案内看板が見える。この車がようやく通れる道ができるまで使われていた、「石畳」の山道がここまで続いていた。ここから少し山道を登ると「土堡」が見えてきた。なかなかいい「土堡」の建物だ。まさに、かって たくさんの一族郎党が住んでいた「村の要塞(砦)」だ。三明市に隣接する福建省の南西部の龍岩市や樟州市にある世界遺産にも指定されている「土楼」とは建物の外観や内部構造は大きく違うが、その使用目的は同じだ。外敵から一族を守るための建物だ。

 ここ数日間の雨のため、地面がかなりぬかるんでいる。蓮の水田のそばを歩いていたら、つるんと滑って、よろよろしながら、なんとか踏みとどまったが 泥にはまってしまった。膝より下のズボンは泥だらけになったが、全身泥だらけにならなくてよかった。

 鉄の門を管理人に開けてもらう。ここは普段は閉じられて中に入れないようだ。2010年に、若い日本人がここに来たことがあるようだ。(ブログの写真記事を見た。尤渓市内からタクシーをチャーターしてここまで来たようだ。当時、ここまでの車道がなかったので、麓の村から あの石畳の山道を歩いたようだ。門は閉じられていて、中には入れなかったと書かれていた。)

 鉄の扉には、銃弾が撃ち込まれた跡の穴が開いていた。門の上には、侵入者(敵)に向けて、上から「熱湯」を浴びせかけるための小さな穴があった。「土堡」の内部に入る。一つの部屋の中に、この「土堡」の夜の星空の写真がおかれていた。外には、小さな棚田も見える。

◆次号に続く