倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

【聖書】マタイによる福音書21章12~17節 【説教】「私の家は祈りの家」 2021/2/28 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年02月28日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書21章12~17節
【説教】「私の家は祈りの家」

13: そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

主の御名を讃美いたします。

 主イエスがエルサレムに子ロバに乗って入城され、十字架に向 かっての 一週間が始まりました。そのような時のエルサレムの人々はど のような信仰生活を送っていたのでしょうか?
 まず神殿での礼拝のあり方が問われています。この時代の神殿 は、あのベツレヘム周辺の幼児を殺したヘロデ大王によって大改 修されており、そこには今までになかった「異邦人の庭」がありました。そこは、異邦人が来て礼拝をささげるところであったのに、そこ が、両替などがなされて<商売>するところとなっていたのでした。

 柔和のしるしとしての子ろばに乗って、平和の王としてエルサレ ム入城された主イエスは、ここでは、怒り、「両替人 ども の 屋台 を・・・ ガ ラ ガ ラ 蹴倒(け り た お)し た」(東北の ケ セ ン語訳)
そうして『わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである』と言わ れた。これは、旧約聖書のイザヤ書からの引用であり、本文を引用 すると「わ た し は 彼 ら を、わ た し の 聖な る 山 に 連れ て行き、わ た し の 祈 り の 家で 彼 ら を 楽し ま せ る。彼 ら の 全焼 の い け に え や そ の 他 の い け に え は、わ た し の 祭壇の 上で 受 け 入れ ら れ る。わ た し の 家は、 す べ て の 民の 祈り の 家と 呼 ば れ る か ら だ。」(56 章7 節 新改訳)

 ここに、<すべての民の>とある。私たちが、求める信仰生活の あり方がしめされているのではないでしょうか。 このエルサレム神殿は滅びしまいますが、主イエスは、すべての民の 救いのために「全焼のいけにえ」となってくださったのが主の十字架なので、すべての民への招きであるのです。ここでマタイが強調しているのは、 当時差別されていた人たち、また軽んじられていた子どもたちが共 に、喜び、祈り、賛美することである。そう伝えたかったのではと思います。

テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【聖書】マタイによる福音書21章1~11節 【説教】「「メシヤとしてのエルサレム入城」 2021/2/21

2021年02月21日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書21章1~11節
【説教】「「メシヤとしてのエルサレム入城」

9: そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。

主の御名を讃美いたします。

 ある青年がキリスト信仰をもって間もない時に、教会学校で話しをしました。主イエスが子ロバに乗って、エルサレムに入られた場面で「主イエスのエルサレム<入場>」と書いたそうです。すると、年配の女性の伝道師が後で次のように教えてくれたそうです。「<入城>というのは、王様が城に入ることを意味する言葉です。私共のような庶民がお城に入っても入城とは言いません。入城とは王様が城に入ること。それによって、城の主人が変わる。それが入城です・・・」と。
 主イエスがエルサレム「子ロバ」に乗って<入城>されたのは、旧約聖書の約束の実現で、主イエスが「柔和の王」であられることが明らかにされたのです。
「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」(ゼカリヤ 9:9 後半)

「戦車」ではなく、また「軍馬」でもないのです。
この時、エルサレムは「過ぎ越しの祭り」の時で、「およそ200万人の人々がエルサレムに集まっていたであろう。」と推察されます。人々はどのように主イエスは迎えたのでしょうか?

 戸惑いと混乱がありましたが、その中で、主イエスを「王」として迎える人々がいました。まず、「自分たちの上着を道に敷き、王であられるメシヤを迎えました。そうして「ダビデの子に、ホサナ」と叫んで主イエスをお迎えしたのです。ホサナとは、「今救い給え」という意味です。この詩篇118篇25節からの引用で、王としてのメシヤ預言です。

 最初に紹介した青年は、現在牧師となっておられます。キリスト信仰を持つとは主イエスを私たちの王としてのキリストを迎え入れて生活することではないでしょうか。

テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【聖書】マタイによる福音書20章20~28節 【説教】「十字架なしの冠なし」 2021/2/14 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年02月14日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書20章20~28節
【説教】「十字架なしの冠なし」

16: このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

主の御名を讃美いたします。
 
 主イエスがガリラヤでの宣教からエルサレムへの旅路の出来事の3回目で、今日は「十字架なし冠なし」という説教題でのメッセージです。

 まず主イエスは十字架への予告をはっきりとされておられます。ユダヤの最高議会に引き渡され、 死刑の判決を受け、<十字架につけられる>と具体的に話されました。「その時」、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)の母が登場しています。
「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」「右大臣、左大臣」してください」という願いのようです。「教育ママ」というか「出しゃばりママ」という感じでしょうか。このような、ランキングづけとうか、格付けをしたがるのはこのお母さん(サロメと推察されます)だけではないでしょう。
これを聞いた他の弟子たちも「十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。」とあります。

 テレビの「プレバト」という番組の中で、芸能人が歌う(詠う))俳句に、「名人とか、有段者、才能なし」とかランキングづけされています。これはこれで面白いのですが、ここでランクづけする夏井いつきさんのエッセイを読んだことがあります。「夫はクリスチャンで、夫の両親の葬儀に出席し、キリスト信仰での葬儀に感銘を受けました」ということが書かれてありました。葬儀でも歌われる賛美歌は、「十字架を通じての冠」を歌い賛美するもので、ランキングの対象ではありません。
「あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない。」(マルコ20章27節)

「仕えるしもべ」としてのイエス・キリストの生き方が、十字架を前にして示されているのです。


テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【聖書】マタイによる福音書20章1~16節 【説教】「神が与える恵みの報酬」 2021/2/7 倉敷ホーリネスチャーチ

2021年02月07日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書20章1~16節
【説教】「神が与える恵みの報酬」

16: このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。

主の御名を讃美いたします。

 主イエスが、ガリラヤでの宣教を終えて、エルサレムへの旅路の中での出来事の続きです。

 主イエスの弟子たちは、「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。と質問しました。天国での報酬というか、報いを願っているのです。そうして、主のために従う者にこの地上の祝福と永遠の生命を約束されたのです。その後で「なぞ」のことばを発せられたのです。
「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」(マタイ 19 章30 節)

 神が与える報酬は、人間が考えるものとは違うのです。まさに「常識はずれ」ものであると表現できるかもしれません。それが、今日の聖書箇所のマタイ 20 章で、「ぶどう園の労働者のたとえ」です。このたとえでぶどう園の主人は、朝早く雇われた者、9時頃雇、12時頃、3時頃、そして最後の夕方の5時頃雇われた者にも一日分の報酬1 タラントを与えたのです。

 最初人から順番に「ご苦労さん」と言って渡していたら問題なかったでしょう。しかし、最後に働いた人から、報酬を配ったのでした。朝から働いた人は、「ほとんど働かなかった人が 1 タラントもらったか、自分はもっともらえるかな」と思ったのです。そうして主人に文句をいったのです。その時にぶどう園の主人は「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」と答えます。マタイ 20 章 15 節

この「気前がいい」ということばは、他の所では「良い、優良な、幸福な、善い」ということばです。
これが主イエスを通じて私たちにも与えられている「祝福・恵みの報酬」なのです。


テケテケ

※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする