【聖書】マタイによる福音書21章12~17節
【説教】「私の家は祈りの家」
13: そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
主の御名を讃美いたします。
主イエスがエルサレムに子ロバに乗って入城され、十字架に向 かっての 一週間が始まりました。そのような時のエルサレムの人々はど のような信仰生活を送っていたのでしょうか?
まず神殿での礼拝のあり方が問われています。この時代の神殿 は、あのベツレヘム周辺の幼児を殺したヘロデ大王によって大改 修されており、そこには今までになかった「異邦人の庭」がありました。そこは、異邦人が来て礼拝をささげるところであったのに、そこ が、両替などがなされて<商売>するところとなっていたのでした。
柔和のしるしとしての子ろばに乗って、平和の王としてエルサレ ム入城された主イエスは、ここでは、怒り、「両替人 ども の 屋台 を・・・ ガ ラ ガ ラ 蹴倒(け り た お)し た」(東北の ケ セ ン語訳)
そうして『わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである』と言わ れた。これは、旧約聖書のイザヤ書からの引用であり、本文を引用 すると「わ た し は 彼 ら を、わ た し の 聖な る 山 に 連れ て行き、わ た し の 祈 り の 家で 彼 ら を 楽し ま せ る。彼 ら の 全焼 の い け に え や そ の 他 の い け に え は、わ た し の 祭壇の 上で 受 け 入れ ら れ る。わ た し の 家は、 す べ て の 民の 祈り の 家と 呼 ば れ る か ら だ。」(56 章7 節 新改訳)
ここに、<すべての民の>とある。私たちが、求める信仰生活の あり方がしめされているのではないでしょうか。 このエルサレム神殿は滅びしまいますが、主イエスは、すべての民の 救いのために「全焼のいけにえ」となってくださったのが主の十字架なので、すべての民への招きであるのです。ここでマタイが強調しているのは、 当時差別されていた人たち、また軽んじられていた子どもたちが共 に、喜び、祈り、賛美することである。そう伝えたかったのではと思います。
テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
【説教】「私の家は祈りの家」
13: そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
主の御名を讃美いたします。
主イエスがエルサレムに子ロバに乗って入城され、十字架に向 かっての 一週間が始まりました。そのような時のエルサレムの人々はど のような信仰生活を送っていたのでしょうか?
まず神殿での礼拝のあり方が問われています。この時代の神殿 は、あのベツレヘム周辺の幼児を殺したヘロデ大王によって大改 修されており、そこには今までになかった「異邦人の庭」がありました。そこは、異邦人が来て礼拝をささげるところであったのに、そこ が、両替などがなされて<商売>するところとなっていたのでした。
柔和のしるしとしての子ろばに乗って、平和の王としてエルサレ ム入城された主イエスは、ここでは、怒り、「両替人 ども の 屋台 を・・・ ガ ラ ガ ラ 蹴倒(け り た お)し た」(東北の ケ セ ン語訳)
そうして『わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである』と言わ れた。これは、旧約聖書のイザヤ書からの引用であり、本文を引用 すると「わ た し は 彼 ら を、わ た し の 聖な る 山 に 連れ て行き、わ た し の 祈 り の 家で 彼 ら を 楽し ま せ る。彼 ら の 全焼 の い け に え や そ の 他 の い け に え は、わ た し の 祭壇の 上で 受 け 入れ ら れ る。わ た し の 家は、 す べ て の 民の 祈り の 家と 呼 ば れ る か ら だ。」(56 章7 節 新改訳)
ここに、<すべての民の>とある。私たちが、求める信仰生活の あり方がしめされているのではないでしょうか。 このエルサレム神殿は滅びしまいますが、主イエスは、すべての民の 救いのために「全焼のいけにえ」となってくださったのが主の十字架なので、すべての民への招きであるのです。ここでマタイが強調しているのは、 当時差別されていた人たち、また軽んじられていた子どもたちが共 に、喜び、祈り、賛美することである。そう伝えたかったのではと思います。
テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。